相武山 妙法院のブログです。
新年明けましておめでとうございます
妙法院有縁の皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。新たな年もご縁の有る方々と倶に人生の貴重さと尊さを学ぶ一年でありたいと願っています。
多くの方々同様、私は物心がつくころから、心が揺すぶられるような人物や出来事に感動を覚えるようになり、やがて「感動することが人生では大切」と思い、「感動するべきものを知識し、そのような人物・事象に巡り会いたい」と想うようになって今日に至っています。
それは只単純に感情が高まるという意味ではなく、「すばらしい人、尊敬できる人、尊いおこない、高い見識、優れた人間性、人生はこのようにありたいもの・・・」などに心からうなずき、それらとふれあったことにより、自らの意識や見識が高まって、より良く生きるエネルギーになると考えるからです。
感動とは心が揺さぶられること。感性が鈍ければ心が揺さぶられることはありませんし、何に感動するかは各人各様さまざまで、そこには各自の価値観・人生観が反映されています。感動は人間の本能とも呼ぶべきすばらしい心のはたらきですが、その感動が人生の真のエネルギーとなるためには、自らの価値観を磨き高めて行かねばなりません。終生学びが必要なゆえんです。
感動するというとその対象は特別な人であったり事象だと思いがちですが、私はそうではないと思っています。対象は特別な能力や資質に恵まれた方々ばかりでなく、平凡な資質であっても障害をお持ちの方でもその対象であり、事象(できごと)も特別である必要はまったくありません。日々のささやかな生活の中でも感動の種はたくさんあるのです。ただその感動の対象に自分自身が気づくかどうかが問題です。ここが個々の価値観・人生観が問われるところです。感動の対象は外部にあるものかもしれませんが、心が揺すぶられなければ感動を味わうことはできないのですから、感動を受け止める心が養われていなければならないのです。
誰も見ていないところで社会を支えている人。災害に遭遇しながら心を折らずに前を向く人。恵まれない環境であっても投げやりにならずに人生を歩む人。事故や病気に遭遇しても志を失うことのない人。自分の利害ばかりに執着するのではなく他者のために想いを馳せることができる人等々。その存在を知れば、心を揺すぶられる人や事象が身近にたくさんあります。春を伝えるスイセンや一輪の梅にも感動のこころは生じてきます。感動は幸せに通じているのですから、自身の知性や感性を磨いて行きたいものです。
去る、12月6日(土)午後8時から NHK総合の「新プロジェクトX」で、『75万人の命救った用水路~医師・中村哲 希望のアフガニスタン~』が放映されました。中村医師はすでに著名でその功績を称えられている方です。私も彼がペシャワール会現地代表として優れた活動をしていることを知っていたので、感動して日曜法話会などでご紹介したことがあります。
中村医師は、アフガニスタンとパキスタンで長年、医療支援と農業・水資源開発(用水路建設など)に取り組み、干ばつで苦しむ人々の生活を支え、砂漠化した大地に緑を蘇らせました。
医師としても多くの患者の治療に努めましたが、深刻な干ばつを経験した後、独学で土木技術を学び、井戸を掘り、全長25.5kmにも及ぶ用水路(マルワリード用水路など)を建設。水路によって農地を回復させ人々の食料自給と生活の安定に貢献。2019年12月4日、アフガニスタンのジャララーバードで銃撃され亡くなりましたが、その功績は高く評価されています。
優れた活動を展開され多くの方々に深い感動を与えた中村医師。その人格からにじみ出ることばには心が揺さぶられます。彼は自然体で『道で倒れている人がいたら手を差し伸べる――それは普通のことです。』と語り、NHKの報道の結びには『世界がどうだとか、国際貢献がどうだとかという問題に煩わされてはいけない。それよりも自分の身の回り、出会った人、出会った出来事の中で人としての最善を尽くすことではないか』と述べています。
このような言葉の基には、中村医師が座右の銘とされていた伝教大師最澄の「一隅を照らす(今いる場所で最善を尽くすこと)」があるといわれており、中村医師の心の奥底に崇高な志のあることがわかります。
「人生は歩みながら自らの存在を確認し(真理の探究)、その人格の完成を目指す道(真理の実践)である」と仏教では説かれています。そのような姿勢の基礎には発心や志という意志が存在しているために、仏道では心を発す「発心」や志を立てる「立志」が重要。発心や志がなければ基礎を打たずに建物を立てるようなもので極めて不安定です。中村医師には一隅を照らすという志が確固として存在していたのです。
妙法院に集う私たちは日蓮の門弟ですが、日蓮大聖人は雪中の佐渡で開目抄を著され、その中で三大誓願を表白しておられます。『詮ずるところは、天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。 ー中略ー 大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ゐじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず』と。
末法下種の法主としてのまことに力強い求道と弘通の志です。
令和8年の年頭にあたり、貴重で有限な人生において仏縁を結ぶことができたことに感謝し、有縁信徒の方々と倶に信行増進して、自他の人間性が深められる一年でありたいと願っています。
相武山 山主
2026年01月01日
初春を迎えるために30日(火)、玄関前に門松を飾りました。当山では毎年晦日までに手作りでお飾りするのを常としていますが、数年前から阿部さんたちにもご協力頂いています。事前に興厳房が青竹やコモ、若松や荒縄などを用意。午後1時から1時間半ほどをかけて作り上げました。素人の仕事ですから出来具合はその年によってバラバラですが、初春を迎える心意気が伝われば幸いです。
新春の初勤行会を迎えるためには、御本尊様へのお供え餅、お屠蘇や昆布の用意も欠かせません。29日には小原さんのご協力を頂いて興厳房が手作りのお供え餅を作りました。コロナ禍以来、お屠蘇も容器に入れてお渡しするようになりましたので、気ぜわしい歳末に用事が一つ増えた感じですが、竹村さんの協力を頂いて30日にはすべて準備完了。
残すところは相武山だよりの制作だけとなりました。
相武山 山主
2025年12月30日
年の瀬も押し迫った27日(土)9時半頃より、玄関、ロビー、本堂、三師塔、寺務所、墓所、境内、参道など妙法院と周囲の大掃除を行いました。初冬らしい少し寒さを覚える中での大掃除。ご協力頂いた皆さんも歳末でご自宅での用事もあったことと思いますが、お陰様で堂宇境内が浄められ、清々しく新春を迎えることができます。
ご協力まことにありがとうございました。
大掃除は11時半頃には終了。初勤行会に参詣される方々への御供物やカレンダーなどの袋入れもご協力頂きました。久保さん、安西さん(2)、熊木さん、梶山さん、佐藤さん、森さん、竹村さん、重吉さん、小原さん(2)、柴さん、芦川さん(3)、新倉さん、落合さん(2)。皆さんのご協力に感謝を申し上げます。
相武山 山主
2025年12月28日
おさめ御講の後には客殿で懇親会を開催。25名ほどの方に参集頂きました。コロナ禍の前に比すると参加者は半分ほどでしたが、おさめ御講から引き続いて懇談の場を楽しみました。お弁当をメインにして例年どおり私が前日から仕込んだ特製豚汁を味わって頂き、芦川さんのポテトサラダ、竹村さんの柚子大根、新倉さんからはチーズケーキの差し入れなどもありました。
懇親会は信仰を機縁として妙法院に集われた方々が歳末のひと時親睦を深める機会です。新しい方にもご参加頂きましたが、お寺で顔なじみとなった方々がそこかしこでお弁当を頂きながら談笑され、和やかな空間が広がりました。
お寺や講中も一つのコミュニティといえるでしょう。コミュニティは元々地域社会を指す言葉だったようですが、現在では「共通の目的を持つ様々な人々の集まり」という意味でも使われています。妙法院には大乗仏教や法華経、日蓮大聖人の教えにご縁の有る方々が集われ、信仰を共有する人同士の豊かな交流があります。ここでは仏縁や信仰などを中心としての関わりとなりますが、「仏教に親しむ、仏道を学ぶ、仏道を修行する、人生を考える・・・」などの共通の目的があります。良識を前提として、誰にも忖度や遠慮をすることなく、安心して自らの信仰や思想と向き合うことができる空間です。
そこにはさらに信仰を同じくする人々からのさまざまな学びを得ることも可能です。飾ることなく、自然体での交わりから人生のおもしろさに気づく機会が得られるならば、妙法院の存在価値の一つになるものと思います。
歳末の懇親会もコミュニティとしての一つの有り様かと思います。一緒に食事を楽しみ、たわいない話に花を咲かせ、語り合うことは心の健康にも資するのではないでしょうか。懇親会の結びには今年も小原さんが登場。小原さんはボランティアとして高齢者施設などで余興を行い多くの方々に喜びを与えています。本人も十分に高齢者なのですが、そのそぶりも見せず、今年も手品で懇親会を盛り上げてくださいました。
楽しい懇親会も1時間20分ほどでお開き。
皆さん一年間ご苦労様でした。
相武山 山主
2025年12月27日
12月14日のおさめ御講の法話では、「法華経の心を伝えるために妙法蓮華経方便品第二の末文」、「日蓮大聖人の求道と弘通の覚悟を学ぶために開目抄」を準備しました。方便品の末文は短い御経ですが、奥が深く法華信仰者の励みとなる内容です。現代社会に生きる私たちにとってどのように受容するべきかとの所見をお話ししていると法話の時間が一杯になってしまい、開目抄に述べられた宗祖の御心についてはまたの機会とさせて頂きました。
方便品末文の原文は前回にお示ししました。
法話ではできるだけ身近な話題に引き寄せて、『五つの濁りが満ちあふれているこの悪世において、ただ多くの欲望だけに強く執着する者たちは、ついぞ仏に成る道を求めようとはしない』こと。
『未来の世の悪人は、仏が一仏乗の教えを説かれるのを聞いても、迷いの心を起こしてしまい、それを信受せず、かえってその法を誹謗して、悪道に堕ちてしまうだろう』こと。
しかし『その罪を恥じて身心が清らかになり、仏に成る道を求める者があるならば、そのような人たちのために、広く一仏乗の教えを讃嘆するのである』ことを解説。
その上で、釈尊が『舎利弗よ、必ず知れ。仏たちは、このように数えきれない多くの巧みな教化の手段を用いて、それぞれの人びとにふさわしいように法を説かれる。それを学び習わない者は、ついにその手段の意味を、理解することはできない』と述べたことを説明。
その後に『そなたたちは、すでに多くの世間の指導者である仏たちの、この巧みな教化の手段がいかなるものか、知っている。それゆえ、多くの疑惑を持たず、心に大いなる歓喜が生ずれば、必ずや仏に成ることができるに違いない、と知れ』と説かれていることを解説。
日蓮大聖人の教えを信受し、妙法院のおさめ御講に参詣される方々はまさに『多くの疑惑を持たず、心に大いなる歓喜を持つ仏弟子』であり、仏道精進を怠らなければ成仏という揺るぎないまことの安らぎを得ることができるとお伝えしました。
《詳細は相武山だよりのウェブ動画をご覧ください》
相武山 山主
2025年12月27日
12月14日(日)午前11時から今年最後の日蓮大聖人御報恩講(おさめ御講)を奉修。例月は午後1時からの御講ですが、おさめ御講の後に懇親会を予定しているので12月は午前11時からの法要。横浜は久しぶりに前夜からの小雨が午前中まで残っていました。今年の関東は11月から12月にかけてあまり雨が降らず、乾燥注意報が出されるばかりでしたから、参詣の方の足下が悪くなるのは気の毒でしたが、有り難い慈雨のめぐみの中で、令和7年最後の御報恩講を執り行いました。
おさめ御講にはご信心の篤い約30名ほどの方々が参詣。参詣者の唱題の裡に献膳を申し上げ、法華経要品読誦、献香、唱題と如法に報恩行をお勤めいたしました。法要後は法華経方便品の末文を拝読しての法話。
「妙法蓮華経方便品第二」
『五濁の悪世には、ただ、諸欲に楽著するをもって、かくのごとき等の衆生は、終に仏道を求めず。当来世の悪人は、仏説の一乗を聞いて迷惑して信受せず。法を破して悪道に堕せん。
慚愧すること清浄にして、仏道を志求する者あらば、まさにかくのごとき等のために、広く一乗の道を讃むべし。
舎利弗、まさに知るべし。諸仏の法もかくのごとし。万億の方便をもって、宜しきに随って法を説きたもう。その習学せざる者は、これを暁了することあたわじ。汝等はすでに、諸仏の世の師の随宜方便の事を知りぬ。また、諸の疑惑なく、心に大歓喜を生じて、自らまさに作仏すべしと知れ」と』。
との経文について詳説。
「おさめ御講」の法話といたしました。
相武山 山主
2025年12月26日
12月6日(土)、ときおり陽が差す冬の曇り空のもと、有志の方々と一緒に古都鎌倉を散策しました。案内は、例年通り鎌倉の歴史と文化に造詣の深い酒井俊克さん。今年は鎌倉駅から長谷駅まで紅葉を楽しみながら史跡と大聖人さま縁の地を巡りました。
午前9時半に鎌倉駅西口に集合し、参加者は案内役の酒井さんを含めて9人。はじめに御成小学校へと向かい、鎌倉幕府問注所跡では当時の裁判制度について説明を受けました。裁判で無罪となった者が通ることを許された裁許橋や有罪の者が連れて行かれた刑場跡、六地藏についての解説をおもしろくうかがいました。
その後、南へ進み線路を越えて初代侍所別当の和田義盛が北条義時との合戦に敗れた後、和田一族を葬ったと伝えられる和田塚を見学。続いて笹目の塔の辻に移動し、由比の長者といわれた染屋時忠の伝説についても説明して頂きました。
次に主馬盛久頸座、吉屋信子旧居と巡り、北条政子が源頼朝の菩提を弔うために建立した長楽寺跡と鎌倉文学館へと移動。鎌倉文学館は昭和11年旧加賀藩前田家第16代当主前田利為氏が建築したもので、現在は大規模修復中で、再開館は令和11年とのことでした。中には入れずに残念でしたが、道沿いに咲く椿を眺めながら文学館をあとにしました。
続いて先ほど説明のあった染屋時忠の屋敷跡やカフェとして活用されている旧加賀谷邸、文豪の川端康成邸を巡りながら荒縄神社へ。鎌倉最古とも云われる荒縄神社は、行基が創建し染屋忠時が建立したと云われます。また、この地は安達盛長の旧跡とも伝えられ、境内には北条時宗の産湯といわれる「北条時宗公産湯の井」があります。
その後、宿屋光則の屋敷跡と伝える光則寺に向かいました。時の執権北条時頼へ立正安国論を奏上する際、大聖人様はこの宿谷光則を介して奏上され、また十一通御書にも縁のある方です。光則寺の境内裏手には日朗師などが入牢されたと伝えられる土牢跡も残されています。酒井さんからは「五人土籠御書」や土牢について解説を伺い、土牢前で皆さんと記念撮影。
最後に四条金吾の屋敷跡といわれる収玄寺を見学し鎌倉散策は終了。長谷駅から江ノ電で鎌倉駅へ向かい散会となりました。散策時間はおよそ3時間ほどで、大変楽しく意義ある古都の歴史散策でした。ご案内頂いた酒井さんには感謝を申し上げます。
相武山 執事
2025年12月25日
令和7年も残すところひと月となりました。いつもの師走同様に『もう12月だ・・・』と自然に声が出てしまいます。年の瀬を迎えて過ぎた一年をじっくり振り返り、新年を迎える準備をしなければならないと思うのですが、俊敏さに欠ける怠惰な身としては時の流れの慌ただしさの中についついながされてしまい、毎年、気がつけば新たな年を迎えてしまいます。
これまで自らに語り、多くの方にも『何ごとも遅いということはありません・・・』とお伝えしてきましたので、このテーマにも有言実行。より良い人生のためにも、今まで満足にできなかったからと行って放り投げずに、一年のむすびには少し立ち止まって、自らの心と振る舞いを静かに省みる時間をもとうと思案しています。
同信の方々からは『自省というなら、仏教徒には朝夕の勤行というすばらしい時間があるじゃないですか・・・』といわれそうです。
そのとおり。仏教徒には一日に二度、朝夕のお勤めという信仰の基本があり、御本尊様の前に端座合掌。そこで沈思黙考することとなり、多くの方々はその厳かな時を自省の時間としているのかもしれません。私の場合はほとんど無心で法華経の要品読経・南無妙法蓮華経の唱題を勤めていますので、勤行中に自省はできませんが、その後、静かな時間をもってさまざまなことに思いを巡らし、その中で己の思考や言動を省みるようにしています。
勤行といえば、ご信徒の方からはよく『時間がなくて思うように朝夕の勤行ができません・・・』という声を聞きます。現役から離れた方々以外、思うように時間を自由に使えるという方は多くありませんから、そのとおり正直な声だと思います。まして、朝は床を離れて出かけるまで誰もが余裕がありません。朝の勤行がつとめにくい理由となります。しかし、思うように勤行を勤めることができなくても、仏教徒にとって朝夕御本尊の前に座し合掌することは信仰の証しです。
勤行に至らずとも朝と夕べに南無妙法蓮華経のお題目を三唱するだけで、仏法を尊重讃歎するという確かな仏道の功徳を積み、心の平安と活力を得ることができるのですから、とてもすばらしい振る舞いです。当然のこと、御本尊と日蓮大聖人を意識して、わずかな時間であっても自省の時間に通じることとなるでしょう。
我が国では「何らかの信仰を持っている・・・」という自覚のある方は強弱はありますが約3割ほどといわれています。信仰の有無や強弱は時代や地域によって異なりますが、現代社会では信仰を大切にして、その教えを人生に活かしている方は少数派といえるでしょう。
『皆と同じ・・・』が好まれ、『他者と異なることを心配する・・・』といわれる我が国の国民性からは、多数派を好まれる人が多いようです。しかし、百人百様、一人ひとり、姿形もちがえば性格や思考、感性も異なるのが事実。皆と同じというだけで安心するというのも一つの考えかもしれませんが、ものごとの多少にこだわることなく、自らの信念や見識を磨き信じて、自分らしい選択で人生を歩むのが佳いのではないかと私は考えます。
日蓮大聖人は自ら末法の法華経の行者は「爪の上の土」と仰せられ、少数派を自負されて仏道を切り拓かれました。
『妙法比丘尼御返事』には
「涅槃経には仏説き給はく、末法に入りて法華経を謗じて地獄に堕つる者は大地微塵よりも多く、信じて仏になる者は爪の上の土よりも少し、と説かれたり。」
現代語訳では
「仏は涅槃経に、「末法に入れば、法華経を誹謗して地獄に堕ちる者は、大地を砕いた微塵よりも多く、法華経を信じて仏になる者は、爪の上の土よりも少ない」と説かれました。」とご教示です。
妙法院では今年も年中行事予定に準じてさまざまな法要行事を執り行い、仏道の護持伝承に勤めてまいりました。12月14日の「おさめ御講(日蓮大聖人御報恩講)」では、新たな年を無事に迎えるためにも、同信の方々と倶に、一年の仏祖三宝尊のご加護に報恩感謝申し上げ、我が身の信行を省みる時にしたいと思います。
相武山 山主
2025年12月01日
11月16日(日)午後1時から目師会(かぶ御講)を奉修。日目上人は法華宗日興門流の第三祖。宗祖日蓮大聖人、開祖日興上人の末法相応の正法を承継されました。大石寺門流では日目上人の御講を古来「かぶ御講」と称し、法会の御宝前には「かぶ」をお供えするのが習い。当日の御宝前にもかぶをお供えし、約二十名ほどのご信徒と倶に法華経要品読経・献香・南無妙法蓮華経の唱題を如法に勤め真心より御報恩を申し上げました。法要後には「日目上人の御生涯」を略述しての法話。参詣者と倶にご鴻恩に感謝を申し上げました。
引き続いて午後2時からは約2時間、秋季法門研修会を開催。前月、(宗)正信会教師講習会で私が述べた「正信覚醒運動の現実と未来」についての講義。内容は正信覚醒運動に参画された信徒と運動を継承する次代の僧侶に、運動の現実と未来についての私の所見です。
現実をしっかりとみつめなければ未来を切り拓くことはできません。歴史と現実を直視して熟考。運動充実の鍵は各自が覚醒運動の理念である「祖道の恢復」を実践することにあることをお伝えしました。
この日は午前からの日曜法話会に引き続いての目師会と秋季法門研修会でした。参加・参詣の皆さま終日ご苦労様でした。
相武山 山主
2025年11月28日
世相に学ぶの第三話は「NHK党立花代表逮捕」。
11月18日、NHK党の立花孝志代表が名誉毀損の疑いで逮捕されました。
逮捕の主な理由は名誉毀損(刑法第230条)の疑い。兵庫県知事をめぐる問題の調査特別委員会(百条委員会)の委員を務め、その後、辞職し亡くなった元兵庫県議会議員竹内英明さんの名誉を傷つけたという容疑です。
立花代表が演説やSNSなどで、亡くなった元県議に関する虚偽の情報や、元県議に犯罪の嫌疑が掛けられているといった内容を繰り返し発信したことによるもので、亡くなった元県議の妻が、内容が虚偽であるとして刑事告訴していました。
兵庫県警は立花代表が情報を虚偽だと認識していた疑いがあること、また、証拠品の隠滅や、情報提供者らとの口裏合わせをする恐れがあることなどを考慮して逮捕に踏み切ったと報じられています。最新の情報では、立花代表は容疑を一部認める方針に転じ、「真実相当性があった」との主張を取り下げたとも報じられているこを紹介。
★立花代表ヘの疑問
はじめに立花代表はなぜ兵庫県知事選でデマや中傷を繰り返して斎藤知事の味方をしたか?の説明。
①注目を集めるための戦略。
立花代表の行動の大きな動機の一つとして、注目度と話題性を最大化するという戦略。『立花代表は自身の選挙活動や所属する党の認知度向上を最優先することが多く、そのために過激な発言や炎上を厭わない手法をとることで知られている。立花代表は自身が当選を目指すのではなく、「斎藤知事を支援する」という異例の立場をとることで、選挙戦における自身の存在感を高め、メディアや有権者の関心を引きつけようとしたとみられる』
②批判者への攻撃と反撃。
逮捕のきっかけとなった亡くなった竹内元県議は、斎藤知事をめぐる問題(公文書の流出など)を追及する側の中心人物。
『立花代表が元県議を中傷するような発言繰り返したのは、結果的に斎藤知事への批判を弱め、知事の立場を擁護する形になった。これは、斎藤氏に批判的な勢力への反撃、あるいは斎藤知事側の支援として機能した。立花代表は自身が発信した情報について「真実相当性がある」などと主張し、自身の行動が正当なものであるとの認識を示していた(後に主張を一部変更)』。
③個人的な関係性の有無。
斎藤知事と立花代表との間に選挙協力以外の直接的な関係があったかについては知事本人は否定。
斎藤知事は立花代表のSNS上の発言について「行政の長として個別の投稿や発言を評価することは避けてきた」と述べ、あくまで「行政」としての距離感を強調する姿勢を崩していない。
以上のことなどから、立花代表の行動は「自身の政治的戦略」と「斎藤知事への批判勢力に対する対立構造」という二つの側面から捉えることができることを解説。
★ユーチューブ発信の利益と目的。
『立花代表はYouTubeからの発信を通じて利益を得ているとされている。立花代表は自身のブログなどで、過去にYouTubeによる収入の詳細を公開したことがあり、動画の再生回数に応じて数千万円単位の収入を得ていたことを公表している。YouTubeチャンネルは、立花代表自身の知名度向上だけでなく、NHK党の活動や政治資金を集める上でも重要な役割を果たしている。彼の発信力は寄付や党員獲得の促進にも繋がっている』ことを紹介。
また、立花代表がYouTubeを積極的に利用する目的は、単なる収益だけでなく、テレビや新聞などの既存メディアを介さず、自身の主張や党の政策を支持者や有権者に直接伝えるための主要なツールとして活用。過激な言動や他者への追及を動画にすることで、社会的な注目(炎上も含む)を集め、党名と自身の認知度を向上させる戦略があると指摘する意見を紹介。立花代表にとってYouTubeは、政治活動のプラットフォームであると同 時に収益源の一つでもあるらしい。
★近年、SNSなどを利用してのデマや中傷がなぜ横行するのか?
今月の世相第三話の学びは、『今回の立花代表の問題ばかりでなく、SNSの普及以降、他者をおとしめるようなデマや中傷が、以前よりもはるかに平然と、そして大規模に行われる世相になったことをどのように考えるかということ』。
このような背景には、「インターネットとSNSの技術的な特性」と「現代社会の心理的な変化」という主に二つの要因があると想定されることを説明。
・インターネットとSNSの技術的な特性
デマや中傷が平然と行われ、拡散される最大の土壌は、SNSというプラットフォームの構造自体にあります。
① 匿名性と責任感の欠如(心理的ハードルの低下と非対面性)。
多くのSNSでは本名を明かさずに投稿できるため、「バレない」「何を言っても大丈夫」という認識が生まれ、現実世界であれば控えるような過激な発言や中傷を容易にしてしまいます。画面越しのコミュニケーションでは、相手の表情や反応が見えないため、相手が深く傷ついているという想像力が働きにくくなります。
②拡散力と即時性の高さ(連鎖的な攻撃とアルゴリズムの作用)。
投稿が「いいね」や「リツイート」で瞬時に拡散されるため、誰かが批判的な投稿をすると、それに便乗するユーザーが集まり、集団的・連鎖的な攻撃(炎上)へと発展しやすくなります。SNSのアルゴリズムは、ユーザーの怒りや恐怖を煽るような感情的な投稿や極端な意見の方が「エンゲージメント(注目)」を集めやすいと判断し、優先的に表示・拡散させることがある。これにより、過激な言動が「稼げる」または「目立てる」手段となってしまいます。
・現代社会の心理的な変化
SNSの特性に加え、現代社会のストレスや人々の心理状態が、中傷行為の増加に拍車をかけています。
①社会的ストレスと「悪者探し」(不安の発散と叩くことの快感)。
コロナ禍や経済的な不安、社会の不確実性が高まる中で、多くの人々がストレスや不満を抱えており、その不満や鬱憤をSNSで発散しようとする傾向が見られます。不安や不満を解消するために、誰か「悪者」を見つけて批判することで、一時的な安心感や快楽物質(ドーパミン)が得られるようです。
②「自分が正義だ」という思い込み(エコーチェンバー現象)。
SNSでは、自分と似た意見を持つ人が集まりやすく、また、自分が見たい情報ばかりが表示される「エコーチェンバー現象(反響室)」や「フィルターバブル」が起こる。これらにより自分の意見が世の中の「絶対的な正義」であると錯覚し、異なる意見や反対者を徹底的に排除し、おとしめることが正当な行為であると思い込んでしまうケースが増加しています。
★小結
他者をおとしめる言動が平気で行われるようになった背景には、「匿名で簡単に」「瞬時に拡散されやすい」というSNSの特性と、「不満を抱え」「自分の正しさを疑わなくなった」現代人の心理状態が複合的に影響していると考えられます。
・人間としての知性・理性が劣化してきたのか?
(現代社会における非常に重要な問いかけ)。
人間の知性や理性が「劣化している」と断言できる明確な科学的証拠はないが、「使い方」や「機能のさせ方」が変化している、あるいは特定の思考能力が低下しているという指摘は多く存在。特にデマや中傷が平然と行われる世相は、「理性」よりも「感情」が優位になる環境によって生み出されていると考えられます。
・知性・理性の「機能不全」を招く要因
知性や理性の能力そのものが生物学的に低下しているというよりも、現代の環境、特にSNSやデジタル技術が、理性的な思考を妨げているという見方が有力。
①思考の表層化と短期化
スマートフォンが提供するコンテンツやサービスは、ユーザーに「思考させない」ように設計されていることが多く、瞬間的な動画や広告に没頭することで、深く考える機会が減少しています。
SNSでは、深い考察よりも瞬間的な注目(バズ)を浴びる快感(デジタル・ドーパミン)が短期的な報酬として脳に作用します。これにより、脳が「次はもっと目立つ投稿を」と求め、思考が表層的になる悪循環が生じます。
② 感情の優位と理性の後退
SNSでの対立や口論に慣れると、感情を司る扁桃体が過剰に活性化し、理性や自制を担う前頭前皮質の機能が低下するという指摘があります。そのため衝動的な反応に脳が最適化され、共感や思慮深さが後退しやすくなります。
SNSは自分と同じ意見を持つ人や情報ばかりが表示されるエコーチェンバー現象を引き起こし、自分の考えが「絶対的な正義」だと錯覚し、異なる意見を冷静に分析する論理的な思考力や読解力が育ちにくくなります。
③「便利さ」による思考の停止
現代社会の技術的な進歩は生活を非常に便利にしたが、同時に「自分で考える」機会を奪っています。例えば移動の最短ルートや必要な情報がAIやアプリによって瞬時に提供されるため、課題解決のために複数の情報を組み合わせて論理的に考える機会が減少しています。SNSやチャットでは雰囲気頼りの絵文字やスタンプ、略語が多用され、複雑な思考や背景、前提が抜け落ちた「まとまりのない言葉」に触れる機会が増え、言語を通じた精密な思考能力の発達を阻害する可能性があるとの指摘を解説。
世相第三話の学びとして『人間の知性(知識を処理する力)や理性(論理や道徳に従う力)は、訓練をしなければ衰える筋肉のようなもの。現代社会の環境は、その訓練の機会を奪い、感情的な反応を促す方向に働いているかもしれません』とお伝えしました。
世の中の事物事象という世相はすべてが学びの対象です。11月の法話会では最近の出来事から三つの話題をピックアップしました。
連日、さまざまな世相が報じられますが、大切なことはそれらの出来事に対して、報道や評論家の意見ではなく、「自分はいかなる意見を持っているか」ということだと思います。報道や評論家と同調できるときもあれば、できないときもあります。時には即断できないこともあると思いますが、一人ひとりが「自分はこう思う、こう考える」と考えることが大切だと思います。というのも自分の意見は、人生で積み重ねてきた見識や自らの価値観に基づいて思考され、その反映とみることができるからです。
仏教では人生を歩むということは、自分の価値観を磨き、人格の向上をはかることと考えます。今の自分が如何なる価値観に立っているかを自覚することは大切なことと申し上げて今年最後の法話会を終了。
※詳細は相武山だよりのウエブ動画をご参照ください。
相武山 山主
2025年11月27日