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相武山 妙法寺 ブログ

思うにならぬを愉しむ

日本の春はやはりサクラでしょうか。全国のいたるところに名所と呼ばれる場所があり、身近な川辺や里山、寺社や住宅にまでサクラが花開き、それぞれ春を愛でる人々が集い、早朝に照り輝く頃から陽の落ちた夜ザクラまでその風情を楽しんでいます。

今春のサクラ(ソメイヨシノ)の開花はかなり早く、温暖化への懸念を抱かせますが、里山のような環境にいるとサクラばかりでなく植物全体の開花が年々早まっている気がします。地球温暖化の警鐘が鳴らされて久しく、自然科学者など有識者ばかりでなく、各国、各地域で現状と未来に対しての思索と検討がなされています。最終的にはこの地球に生命を頂戴した一人ひとりの認識と対応が問われていることになると思いますが、事態を憂うる人は、自分にできるささやかなところから行動を起こしているようです。

私たちの日本仏教では「恩を知り、恩に報いる」ことが説かれています。私たちは多くの人々から有形無形の支えや助力を受けている存在であり、また、天地自然の霊妙な運行の恵みを享受して人生を歩んでいます。当然、温暖化にも注意を配りその改善に努める役割があるのです。より多くの方がサクラを愛でると倶にその開花の早さから温暖化への想いを深めてほしいと願う春です。

妙法院と市民の森のサクラはお彼岸の前半までは順調に開花して行きました。しかし、彼岸の後半から数日は雨天に寒さが加わり、すっきりとした青空の花見とはならず、今一気分が乗りません。やはり天気の影響は大きいなと改めて感じた次第。その反面、4月に入るまで長く風情を楽しむことができたことと、自分の勝手な気分ばかりが先行してものを見ていることにふと気がついて、雨にうたれるサクラをじっとみていると、そこには氷雨とサクラというアンバランスに捉えられがちな光景にも意味があるように思えて、曰く言いがたい感慨を覚えました。

さて、何ごとにもいえることですが、ものごとはすべて表と裏、陰と陽、正と負、得と失、利と害、勝と負、遅と早、喜と怒、苦と楽、若と老、健と病、成功と失敗、など、およそ相反する二つの表現によって一つのすがた(相)が示されます。一つの相には二つの相反するものが内在しているのですが、私たちは単純に一つの相しか認識しないことが多いので本当の相を見失いがちです。

内在しているものの存在に気がつけば、相反するように見えるものは実は一つの存在の両面であることがわかります。そしてそれらは固定されたものではなく、限定された時空における一側面であることを知るのです。

前述の今春のサクラのように、雨天や冷気によって思うような花見ができなければ花を長く愉しむことができますが、春陽が続いて花見を満喫すれば花が舞うのは早いものです。どちらが正解とか好みの問題というのではなく、所詮、天気は思うにまかせぬのですから、自然の摂理のあるがままを愉しむことがおもしろいのではないかと思うのです。

誰もが思うようにならなければ、おもしろくなく不愉快にもなって、落胆したり希望を失ったりするものですが、相反するものが一つの相を示しているだけであり、それも限定された時空によるものと知れば、それほど失意に陥ることはありません。失敗をしてこそ成功の喜びがあり、苦労を味わってこそまことの悦びを得ることができるのです。病に冒されてこそ健康に感謝することができ、死をみつめることによって人生の貴重さがわかります。人生では失ってこそ得るものがあると思うのです。
氷雨に濡れるサクラを見ながら「思うにならぬを愉しむ」ような心のゆとりは、人生の妙味ではないかと思った次第です。

相武山 山主

2023年04月01日

春のお彼岸を奉修

3月14日、気象庁は東京の今年のサクラ(ソミヨシノ)の開花を発表。昨年より6日、平年よりも10日ほど早い開花で、1953年に統計を取り始めてから、2020年、2021年と並んで最も早いということでした。
ちなみに、東京のサクラの開花は1990年までの30年間の平年値では「3月29日」、2020年までの30年間の平年値では「3月24日」と、5日も早くなっています。これも温暖化の影響でしょうか。

横浜は東京よりも2~3日遅れで開花。18日の春のお彼岸の入りにはあちらこちらで開花が見られました。当山には本堂前と西側の雑木林に三本のサクラがありますが同様の開花でした。
お彼岸の前半は天気に恵まれ、参詣のご信徒には三分咲きから四分咲き程度の当山のサクラと、15年ほど前に植樹した境内の西に広がる追分市民の森のサクラの遠景を楽しんで頂きました。今年のお彼岸は19日からの前半が天気に恵まれ、後半からは雨天、曇天でした。

横浜はお彼岸まで温かい日が続いていたのですが、お彼岸の入りになる18日はあいにくの雨でした。当山では春秋の彼岸の入りには永代供養墓の樹木葬墓地と久遠廟で追善法要を営んでいます。しかしこのところ、なぜか雨天でのお参りが多いように思えます。当日は執事の興厳師が樹木葬墓地と久遠廟に参詣。お塔婆を建て香華を供えて法華経の要品読誦、南無妙法蓮華経のお題目を唱えて、埋葬の諸精霊に追善御回向を申し上げました。

今年の春の彼岸会(法要)は19日の日曜日と21日のお中日に執り行いました。コロナ禍のために参詣が少ない法要が続いていましたが、この3月13日にはマスクの着用も個人の判断となり、5月からは感染症も5類となるようで、昨年、一昨年に比べると参詣者も少し増えてきました。
法要は献膳、読経、焼香、唱題と如法に奉修。参詣者は厳かに読経がながれる中、お塔婆が建立されている精霊壇に進み、ご先祖、有縁精霊に追善のお焼香をささげました。

法要後の法話は「窪尼御前御返事」を拝読。
参詣者には事前に御書と現代語訳のプリントを配布済みですので、私の拝読を眼で追って頂きました。御書の内容は3月の宗祖の月例御講で丁寧に説明しましたので、此処ではそのポイントとお彼岸のいわれについての法話となりました。

お彼岸のいわれについては仏縁の長い方はすでにご存じのことですが、お寺には常に初信の方が居られるので、お彼岸の意義については折々にお伝えしています。お彼岸はそもそも仏道修行という意味です。私たち未熟で煩悩に覆われた凡夫の住む苦悩の絶え間ない世界を此岸(此の岸)として、仏さまの居られる清く安らかな世界を彼岸(彼の岸)と呼ぶところにそのゆえんがあります。両岸を隔てる川は激しく逆巻く煩悩の川であり、此の煩悩の川を渡ることを仏道修行に見立てているのです。

「彼岸」とは得がたい仏縁を結び、その教えに導かれて仏道に精進(四諦、八正道、六波羅蜜・・・)することを意味しているのですが、その修行は厳格で特別なものばかりでなく、「菩提寺への参詣、自宅仏壇の清掃、仏壇へのお供え、わずかな読経・唱題、先祖有縁精霊のお塔婆を建てる、墓所に詣でて清掃し香華を手向ける・・・」と、仏道にかなうささやかな行いはすべて煩悩の川をわたる善行となるのです。

法話では「彼岸」は仏教用語ながら、インドや中国では見られない日本仏教独自の行事であること。日本の仏教はインドの仏教思想を中国的に受容展開した中国仏教に、日本古来の自然崇拝や祖先信仰が融合したものであり、インドや中国などの仏教とは異なりがあることをお伝えしました。
続いて、拝読御書のポイントして、対告衆となる窪尼のご家族の絆とそのご信心。仏さまに砂の餅を戯れに供えたことが善縁となり、後に阿育大王として果報を得た徳勝童子の功徳。さらに、仏さまは法華経より生ずる「法前仏後」の教えから、法華経を受持して仏道を成就することが大切であることをお伝えしました。
《詳細は相武山だよりのウエブ動画をご覧ください》

相武山 山主

2023年03月30日

忘れてはならぬこと

3月度の日曜法話会は3月12日の開催。
世相のテーマは「忘れてはならぬこと」、『東日本大震災から12年』でした。
はじめに「仏教は現実直視であり神秘主義や不思議世界には浮遊しない。あらゆる事物、事象は私たちの生活や人生と無縁なるものではない。大乗仏教の精華『法華経』では諸法は実相と説いている。起こる事象はすべて学びの対象である」ことから、法話会では世相を仏教の視点から述べていることを説明。

テーマを「忘れてはならぬこと」として、3月11日が東日本大震災から12年となることから、原子力発電所事故を中心に所見をお伝えしました。
誰もが知る概要ですが未曾有の大災害として「2011年(平成23年)3月11日14時46分頃、M9.0の東日本大震災が発生。東北地方から関東におよぶ12都道府県で地震と火災、大津波によって甚大な被害。死者行方不明者22,212名。社会、経済、生活に甚大な被害。深刻な原子力発電所事故が発生」を解説。

また、「大災害は自然災害と人的災害の両面におよんだ。人類は災害から多くのことを学んできた。復旧、復興の問題点も時間と倶に露わになったこと」も補足説明。
さらに、今年が仏教的には物故者の13回忌法要が営まれることから、連日、メディアではさまざまな視点(鎮魂の日、被災状況の記録と記憶、被災者の苦悩と心理、地域や社会、行政や経済、復旧と復興、自然災害か人的災害か、未来への展望・・・)からの報道を紹介しました。

今回の法話会のメインテーマとなる「原子力発電所事故」について、概要から現況まで限られた時間ではありましたがNHKなどの資料を参考に説明。
学ぶべきこととして「原発事故の深刻さを忘れてはならない。地球(宇宙)も一つの生命体。そのはたらきは人智を超えている。自然災害は享受せざるを得ないが人災は避けなければならない。近視眼的な解決ばかりに走らない。災禍を学びにする覚悟と智慧が大切。予想される災禍(首都直下型地震、東南海トラフ地震、富士山の噴火等々)に備えよう。」をお伝えしました。

二部の「仏教に親しむ」では春のお彼岸の前なので「お彼岸のいわれ」について。
お彼岸「春分・秋分を中日として,その前後おのおの3日にわたる1週間を〈お彼岸〉と称し,この期間に寺院では彼岸会という法会を行い,信者は寺に参詣し,説法を聴聞,また墓参などをする。このような習俗はインド,中国にもみられず日本にしかない。」を紹介。その歴史は「日本後紀」から大同元年(806)三月を初見とすることを説明。
お彼岸は仏道にふれて功徳を修めるときであることをお伝えしました。
今号では紙面の都合で簡略な報道となりました。
《詳細はウエブ動画をご覧ください》

相武山 山主

2023年03月29日

樹木葬墓地のさくら

昨年、樹木葬墓地の奥に陽光桜の苗木を植えました。弟子の純興師に頂いたものですが、2月下旬にはつぼみがふくらんできたので開花を楽しみにしていたら、3月8日頃、ピンクの可愛らしい花が咲きました。お彼岸までもてばお参りの方々がきっと喜ばれるだろうなと思っていました。盛りは過ぎましたがお此岸の中日までは無事に咲いていてくれました。樹木葬墓地にやすんで居られる諸精霊もさぞ喜ばれていると思います。明年は樹勢もつよくなって、もう少し立派なかたちとなるでしょうから、やすまれている方々にも参詣の方々にも倶に喜んで頂けることを期待しています。

相武山 山主

2023年03月27日

一切皆苦の教え

2月の法話会「災禍を生きる」の二部「仏教に親しむ」では『一切皆苦 現実を認識する』について述べました。一部「世相に想う」では『災禍を生きる』とのテーマで2月6日に発生したトルコ・シリアの大地震を中心に、「人生ではさまざまな災禍に遭遇する」ことを解説。人生は現実をしっかりと認識して歩まねばならないことをお伝えしました。

はじめに仏教では「一切皆苦」が説かれていることを紹介。
釈尊の悟られた仏教の基本思想である「四法印」(諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静)を概説しました。法印とは仏教の旗印のことであり、仏教と称するためにはこの四つの真理が説かれていなければなりません。また、この四つの真理は個別に在るものではなく、相互に連関し合うものです。

すなわち、「諸行(あらゆる存在)は常に変化して止まないものであり、諸法(あらゆる存在)はさまざまな因縁がより集まって相を顕したものであって、存在そのものに不変の実態があるわけではない。あらゆる存在は無常であり、無我であることによって、思うようにはならない。そのために煩悩に覆われた凡夫は人生に苦悩を覚える。しかし、苦悩の源が煩悩にあることに気がつき、発心し志を立てて仏道を歩むならば、やがて煩悩を克服して静謐な涅槃の安らぎが得られる」という内容であることを解説。

人生において常に夢や希望を持つことは大切なことですが、人生と社会の現実をしっかりと見つめる時、真理に基づく「一切皆苦」という認識をもつことも大切であることを理解しなければなりません。仏教では生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦を加えて「四苦八苦」が説かれていることを説明しました。

大乗仏教の精華である法華経には「譬喩品第三」に
『三界に安きことなし。なお火宅のごとし。衆苦は充満して、はなはだ 怖畏すべし。常に生・老と病・死の憂患あり。かくのごとき等の火は、 熾然として息まず。如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然として閑居し、林野に安処せり』
「随喜功徳品第十八」に
『世は皆、牢固ならざること、水沫泡焔のごとし。汝等、ことごとくまさに疾く厭離の心を生ずべし』と説かれていることを紹介。

日蓮聖人の言葉として
重須殿女房御返事」に
『抑、地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候』とあり、
「四条金吾殿御消息」に
『日蓮が難にあう所ごとに仏土なるべきか。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬、片瀬の中には竜口に、日蓮が命をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土ともいうべきか。神力品に云く「若於林中 若於園中 若山谷曠野 是中乃至而般涅槃」とは是れか』と述べられていることをお伝えしました。

むすびに「学ぶべきこと」として
『現実を認識することは人生をあゆむ智慧。現実を理解できないことが不安と恐れを生む。地球(宇宙)も一つの生命体、そのはたらきは人智を超えている。人生は災禍に遭遇することが多いと認識する。人生は一切皆苦、思うようにはならないということを識る。災禍と倶に生きなければならないのが人生と覚悟する。健康をはじめ、当たり前に存在するものなどは一つもない。すべての存在は有り難いと知り感謝の心で穏やかに人生をあゆむ。災禍を学びにする覚悟と智慧が大切。予想される災禍に備えはできているか?他者と倶に生きる菩薩道の実践(思いから具体的行動へ)を心がけよう』と所感をお伝えして2月度の法話会を終了しました。
《詳細は相武山だよりのウエブ動画をご覧ください。》

相武山 山主

2023年03月26日

春のお彼岸と仏塔供養

弥生三月を迎えます。境内雑木林の河津桜が満開となって青空に映え、足下では蕗のとうが次々に顔を出しています。寒さも緩んでもう春の訪れです。コロナ禍の3年、世界中が大きな影響をうけ私たちも緊張の日々が続きましたが、ようやく感染が落ち着き、各種のイベントも再開されはじめました。今月13日からは我が国でも「マスクの着用は個々の判断」となります。もちろん油断はできませんが一つの転換点を迎えたようです。コロナ禍からも多くのことを学びました。思いも新たに次のステージに立ちたいものです。
日本の仏教では三月は春のお彼岸。この時季にはソメイヨシノの開花に世相は華やぎますが、心静かに故人をしのび、ご先祖有縁精霊に思いをいたし、自身をみつめる仏教徒もいます。すっかり日本の伝統行事、習俗となっている春秋のお彼岸ですが、実は仏教徒が修行をおさめて積んだ功徳を縁者に回向する大切な行事です。

彼岸とは文字どおり彼の岸のことであり仏教用語の一つです。語源はサンスクリット語(古代インド語)でパーラミター(波羅蜜多)のこと。パーラミターとは「完成する」、「成就する」などの意味がありますが、煩悩による苦悩にあえぐこの世界を此岸として、苦悩から解放された仏の世界に至ることを意味する言葉です。漢訳では「到彼岸」とされます。煩悩の世界である「此岸」から悟りの世界「彼岸」に到着するためには、川を渡る仏道修行が求められ、その修行がすなわちお彼岸のいわれです。
お彼岸は日本独自のものといわれ、その歴史は聖徳太子の飛鳥の時代までさかのぼるといわれています。平安時代には朝廷の年中行事となり、源氏物語や蜻蛉日記にも登場しています。
仏教信仰が薄くなってきた現代ですが、お彼岸には故人やご先祖の供養のために菩提寺に参詣したり、仏壇に供物を供えたり、お墓参りをする人は少なくありません。読経や唱題、供物をそなえること、香華をささげること、菩提寺や墓所に足を運ぶことなど、そのすべては広義において仏道の修行といえるでしょう。

《仏塔の供養》
当山では彼岸会に塔婆を建てて追善供養される方が多数居られます。故人や先祖の供養のためになるとの信仰から建立しておられるのですが、教学的にも法華経と仏塔はゆかりが深いものです。塔婆はインドのサンスクリット語の「ストゥーパ」の訳で仏塔を表しています。その原型といわれているのは、釈尊が入滅の地クシナガラで荼毘に付された後に遺骨を納めたストゥーパ(仏舎利塔)で、さまざまな形に変化しながら仏教を信奉するアジア各地に伝わりました。
仏塔は仏徳を賛嘆するために土や石や木でつくられ、インドではアショーカ王の石塔が有名ですが、中国や日本では三重塔や五重塔、多宝塔、宝篋印塔や五輪塔がつくられました。

中国ではストゥーパに「卒塔婆」という漢字があてられましたが、卒塔婆と塔婆に違いはありません。インドから中国、そして日本に伝来した卒塔婆は時代とともに少しずつ変化してシンプルになり簡素化が進みました。やがて、現在のように木の板に五輪(地・水・火・風・空)を刻むようになったのです。同時に仏徳賛嘆から故人や先祖への供養のためにも塔婆が建立されるようになりました。塔婆を建てて供養することが仏道の善行とされ、故人の命日や法事、春秋の彼岸やお盆などで建立されているのです。
大乗仏教では仏塔への信仰がよく説かれていますが、ことに法華経では方便品や神力品など数章にわたって説かれ、見宝塔品第十一には多宝如来の大宝塔が出現しています。法華経信仰者に塔婆供養の実践者が多いゆえんです。

《われはこれ塔建つるもの》
法華経の信仰者として著名な宮沢賢治は法華経の一文一句を人生の燈としました。彼が病の中で書いた『疾中より』という詩群には「手は熱く足はなゆれど われはこれ塔建つるもの 滑り来し時間の軸の をちこちに美ゆくも成りて 燦々と暗をてらせる その塔のすがたかしこし」という詩があります。「病気になって身体は衰えたが、自分は塔を建てる者だ。塔が光を放って闇を照らす姿は尊い」というのです。
もちろん、病魔に冒されているのですから、この詩群にはもだえ苦しむ賢治の正直な心中も吐露されていますが、哲学者で宮沢賢治の研究者である谷川徹三は「病臥中の詩は暗い気分が支配的なのに、これは例外中の例外の自己肯定の詩」と述べています。
前述したように法華経と仏塔信仰は深い関係性をもっていますが、この宮沢賢治の言葉からは「法華経の信仰者は塔を建てる者であれ」との生死を超えた法華信仰の志と情熱が伝わってきます。

生老病死の四苦をはじめ人生は苦悩に満ちているといっても過言ではありませんが、「すべてをあるがままに受容して自らの尊厳を求めて生きる」という法華経の教えは大きな光明となります。日蓮大聖人は信仰の篤い佐渡の檀越阿仏房に「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房・・・七宝を以てかざりたる宝塔なり」と述べたと伝わります。春のお彼岸、追善の仏塔を建立すると倶に自身も仏塔たらんとささやかな信行を磨きたいものです。

相武山 山主

2023年03月01日

災禍を生きる

当山の雑木林には2本の河津さくらがあり、例年他のサクラに先駆けて2月中旬から咲き始めます。今年は少し遅い感じでしたが19日の日曜法話会にはピンクの可愛い花が開きました。19日は午前11時から2月度の日曜法話会。あいにく小雨が舞うような天候でしたが、約30名ほどの方が参加聴聞され久しぶりに本堂がにぎやかな感じでした。

今月のテーマは2月6日に発生したトルコ・シリア大地震をうけて「災禍を生きる」仏教の基本思想である一切皆苦にふれながら現実を認識する大切さを述べました。初めて参加の方も居られましたから、レジメの上段に示している法話会の趣旨をお伝えし、続いて世相を仏教的視点(大乗仏教)から所見を述べる理由を説明しました。配布した資料は法話内容のレジメとトルコ・シリア大地震の地図と被災状況の画像、さらに参考として地震のメカニズムである「日本列島のプレート状況」です。

初めに人生ではさまざまな災禍に遭遇することから、人生は「災禍を生きる」ことといえることをお伝えしました。そもそも災禍ですが「災も禍も共にわざわいのこと」です。天災や事故によって受けるわざわい。思いがけない災難。災害のことで、「災は自然によるもの、禍は人の世の不幸を意味するもの」といわれています。ちなみに3年前からの新型コロナウイルス感染拡大による災禍は「コロナ禍・・・」と説明。
中国の『戦国策』には「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」と述べ、「ふりかかってきた災難の見方を変え、幸福への糸口にするのが徳の高い人の振る舞いである」とあります。戦国策とは、周の安王 (前 402即位) から秦の始皇帝にいたるまでの約 250年間における戦国時代の遊説の士の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に分類し編集した書物(全33篇)のこと。ここには避けられぬ災禍への心構えが説かれています。

《トルコ・シリア大地震》
「2023年2月6日(月)4:17トルコ南東部(シリアとの国境付近)でM7.5の大地震が発生。同日13:24にも近くでM7.5の大地震が連続発生。トルコとシリアの両国で甚大な被害。18日現在、両国の死者数は45,000人以上と報道されているが被害の実態は不明」というトルコ・シリア大地震の概要を説明。
次にトルコとシリア両国をめぐる地域社会状況は実に複雑であり、「民族、宗教、文化、歴史等に起因するさまざまな問題。ながく続くシリアの内戦。イスラム原理主義者ISの活動。国を持たない最大の民族クルド人(2500万人~3000万人)問題・・・など」混乱の渦中にある地域であることを解説。

『予備知識として』
トルコ共和国(通称トルコ)が、「東ヨーロッパと西アジアにまたがる国。古代ギリシャ、ペルシャ帝国、古代ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国との文化的な結びつきがある。国土面積 783,600 km²。人口:8478万 (2021年)。西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる。
北は黒海とマルマラ海、西と南は地中海(西はエーゲ海)に面する。陸上国境は、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)と最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト、フリュギア、リディア、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)など様々な民族・文明が栄えた地。」
と説明。その歴史についても略述しました(ここでは割愛)。

《世界有数の地震国と最新情報》
今回の大地震について
「トルコ周辺には複数のプレート(岩盤)が存在し、それぞれの活動によって平時から地下に複雑な力が加わっている。纐纈(こうけつ)一起・慶応大特任教授(応用地震学)によると、6日に発生したマグニチュード(M)7・8の地震はトルコの国土の大半がのったアナトリアプレートと、その南東側にあるアラビアプレートの境界部の東アナトリア断層で発生したと考えられる」を紹介。

最新情報としては時事通信社による
「トルコ地震の死者4.5万人超に=発生11日後に3人救出」
『トルコのソイル内相は17日、同国南部で6日に起きた大地震による死者が3万9600人以上になったと明らかにした。アナトリア通信が伝えた。隣国シリアと合わせた犠牲者数は4万5000人を超えた。トルコでは地震発生から11日たった17日も、倒壊した建物のがれきに閉じ込められた人の捜索が続いた。地元メディアによると、南部ハタイ県では新たに男性の生存者が278時間ぶりに発見され、この日だけで3人が救出された。』を紹介。

また、TBS NEWS DIG Powered by JNNによる「トルコ・シリア地震 死者4万5000人超今も救出続く」
『トルコとシリアを襲った大地震による死者は、合わせて4万5000人を超えました。
発生から12日目となりますが、今も救助される人が出ています。地元メディアによりますと17日、トルコ南部のハタイ県で45歳の男性が地震発生からおよそ278時間ぶりに救出されました。発生から12日目となりますが、今も救助される人が後を絶ちません。
懸命な救助活動が続く一方、両国で死者は増え続け、トルコでは3万9000人を上回り、シリアでは5800人以上となっていて、合わせて4万5000人を超えました。トルコ政府は17日、地震によって倒壊したか、今後、倒壊するおそれがあり、緊急に撤去すべき建物が8万4000以上あると発表しました。
警察当局は倒壊した建物の中には耐震基準に達していないものが少なくなかったとみて責任追及を進めていて、これまでに83人を逮捕しています。』を紹介。今回の大震災被害ではこの地域の建物の耐震が脆弱で、人的災害として厳しく指摘されていることもお伝えしました。

《東日本大震災から12年》
2011年(平成23年)3月11日14時46分頃に発生したM9.0の東日本大震災から今年は12年。日本仏教では第13回忌の追善法要が営まれます。この大地震では東北地方を中心に12都道府県で地震と火災、大津波によって2万2312名の死者・行方不明者が出ました。
未だ生々しい記憶ですが、すでに「首都直下型地震。東南海トラフ地震。富士山の噴火。・・・」と次の大地震や噴火などの自然災害が予想され、専門家ばかりでなく行政からも注意喚起がなされていることを紹介。

《災禍は疫病・戦禍・犯罪におよぶ》
続いて災禍は自然災害ばかりでなく、疫病の流行や戦争、事故や犯罪など人的災害、環境破壊などからももたらされることを説明。
『コロナ禍』
「コロナ禍は3年におよび、その感染禍によって世界中に多数の死傷者が出た。大小に関わらず経済的損失を多くの人が蒙った。社会環境などにも変化をもたらした。家族や就業、生活環境に影響を受けた人も少なくない。」ことを略述。
『悲惨な戦禍』
ロシア軍ウクライナ侵攻から1年
「昨年2月24日、ロシア軍がウクライナに武力侵攻して1年。ウクライナでは深刻な戦争被害(多数の死傷者と多くの難民)。停戦が見えない壮絶な戦争。ロシア・プーチン大統領の強欲な野望。ウクライナは徹底抗戦を標榜・・・」を略述。
『突然の人的事故や凶悪犯罪』
「人生に絶対に安全などということはなく、いつ・どこで・どのような事故に遭遇するかはわからない。身近な家庭などでも思いも掛けない事故が起きる。」
凶悪な犯罪に巻き込まれることもある。
直近の強盗殺人事件「暗躍する犯罪集団と闇バイト」から「フィリピンを拠点とするニセ電話詐欺事件で、窃盗容疑で逮捕状が出ていた渡辺優樹容疑者(38)ら4人全員が強制送還。今後。詐欺や広域強盗事件の捜査が本格化する」を紹介。
「いつの世もさまざまな理由による犯罪が発生している。犯罪者の心理は容易には理解できない。誰もが犯罪者になる可能性と誰もが被害者になる可能性がある・・・。」と説明。日本は安心安全の国といわれているが果たしてそうだろうか?

現代日本は礼儀正しく穏やかな国民性、道徳心と見識の高さなどから極めて治安が良い国となっているが、今後は予断を許さない・・・。精神の寛容を怠り、利己主義が蔓延すれば、いつ危険な国となるかはわからない」と述べました。
以上のような現実から、人生は「災禍を生きる」という覚悟をもって歩まねばならないとの所見をお伝えしました。
※法話会の詳細は相武山だよりのウェブ動画を御覧下さい。

相武山 山主

2023年02月27日

冬季法門研修会

興師会に引き続いて冬季法門研修会を開催。現在、妙法院では年に4回法門研修会を開催しています。各法要行事で法話を聴聞して御法門を学ぶことはできますが、まとまった時間をとって本宗の教えと信仰をじっくりと学ぶことも大切だと考えての企画です。昨年は法華経の概要と法華経要品の現代語訳を読み進めましたが、今回は興師会に続いての研修会なので日興上人の身延離山を中心に上代日興門流の歴史を学びました。テキストは御書システム辞書「日興上人身延離山」です。

初めに日蓮諸門流ではそれぞれに正統意識が強く、ためにいらぬ混乱が見うけられることを説明。日蓮大聖人の教えと信仰を正しく学ぶためには、その教えを学問的に研鑽すると倶に、門流教学についても学問的批判に耐えられる説明が必要であることを解説しました。
日興門流も正嫡意識については他門に負けることはなく唯我独尊のレベルにあるといっても過言ではありませんが、やはり、学問的な裏付けがなければむなしいものです。盲信と迷信、一方的な確信だけでは説得力に欠け、現代社会では通用しないものとなり、ひいては日蓮大聖人や日興上人にも傷をつけることになりかねません。これが近年、富士日興門流で正信覚醒運動が興起したゆえんでもあります。妙法院では学問的裏付けも大切にしながら宗開両祖の教えと信仰を継承して行きたいと願っています。

《日興上人の身延在住とご離山》
宗祖滅後、その百箇日忌(弘安6年(1283)正月)を期して『墓所可守番帳事』が定められましたが、ほぼ一年程で崩壊した模様で、日興上人の『美作房御返事』によれば、翌年10月の宗祖三回忌も直弟子諸師は身延の御廟に参詣せずにそれぞれの地で奉修したようです。それには宗祖入滅の混乱や、「鎌倉法難」と呼ばれる為政者による迫害なども関係したのでしょう。
いずれにせよ、そのような中で、同年暮から弘安8年正月にかけて日興上人の身延住山と民部日向師の学頭就任が老僧達の了解を得て決定・開始されたようです。しかし、日向師の教導の下に地頭・波木井実長が一体仏を造立、三島神社に参詣し神馬を寄進、福士の塔供養等の謗法を犯したために、日興上人は正応元年(1288)12月初旬に離山を決意されたようです。

上人の離山の意志を知った波木井実長の子息清長は同月5日に『誓状』を日興上人に送りました。そこには「もし、身延沢を御出候へばとて、心変をもつかまつらず候。おろ(おろか)にも思い進らせず候。又、仰せの候御法門を一ぶんも違へ進せ候はば、本尊ならびに御聖人の御影の憎まれを清長が身に厚く深く被るべく候」とあります。
この清長誓状に対して日興上人は同月16日、『原殿御返事』を送っています。そこには身延を離山するに至る詳しい経緯と自らの心情が述べられています。
ことに後段に述べられた
「身延沢を罷り出で候事・面目なさ本意なさ・申し尽くし難く候えども、打ち還し・打ち還し・案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ、日興一人・本師の正義を存じて・本懐を遂げ奉り候べき仁に相当つて覚え候えば、本意忘るること無く候」
とのお言葉は、富士日興門流の原点であり正信覚醒運動の道しるべとなるものです。

また、波木井実長の謗法三箇を列挙した後に、「此の事共は入道殿の御失にては渡らせ玉ひ候はず。偏ヘに諂曲したる法師の過にて候へ」とあり、民部日向師の邪義に離山の原因のあることが明記されています。
翌2年1月21日の波木井日円消息『与越前公御房書』では、日興上人がまだ身延沢に滞在していることを波木井実長が喜んでいる様子が見えますが、その後、上人は多くの弟子と共に大井を経由して富士に赴かれました。
後に、「五一の相対」と称される日興上人と他の五老僧との対立も身延離山のきっかけとなっています。大石寺第六世日時師の『日興上人御伝草案』には、五老僧が申状に「天台沙門」と記したのに対して日興上人が「日蓮聖人弟子」と書いた結果対立し、それに波木井氏が五人方に同意して身延離山となった旨が記されています。

《日興上人の身延離山について》
堀日亨師の『富士日興上人詳伝』には、京都・本国寺に宗祖遺文『善無畏抄』の日興上人書写本があり、その紙背に身延離山関係の消息数通が存在する旨を記していることを紹介。また、日朗『身延離山書』、日親『伝燈抄』、日眼『五人所破抄見聞』、日教『百五十箇条』には日向師以外の五人一同の身延離山を記しているが、現在の日蓮教学の研鑽によって(興風談所・池田令道論文)、五人離山説が右述の「悪口の状」と通称される日円消息に対する解釈の誤りから発生したと指摘されていることを紹介。文献考証の難しさを学びました。
富士門流の要法寺開山日尊師の『尊師実録』から「尊仰せに云く、日興・日向の対論は和光利物の一偏なり。没後の今においては既に三代に及ぶ。二聖は同一浄土帰寂にして曾て鬱憤を残し給うべからざるなり」を紹介。
続いて望月歓厚氏の『日蓮宗学説史』には、「興師離山の問題は祖山継承問題を中心として、波木井氏の不用意なる社参等について寛容派と厳粛派との異見を生ぜしなるべし。…尚、五一の異見、之が副因となりしは又明らかなり」とあることを解説しました。

《法礎を築く》
前述のとおり、上人は同2年(1289)春に駿州河合を経由して富士郡上野の南条時光の領地に赴き住坊を創建(後の大石寺)されました。翌3年10月13日に通称「譲座本尊」を弟子日目に授与し法を内付したとされます。その後、重須地頭・石河能忠妙源の懇望により同地に移り、永仁6年(1298)2月15日には御影堂・垂迹堂を建立して重須本門寺の寺基を築き、その後36年この地で門下の育成等に従事されました。
御書システムでは「この時、日興上人の年齢が宗祖が身延に入山した時と同じく53歳であったことは注意すべきであろう。また、同年に『弟子分本尊目録』(同121)〔50890〕を作成し、それまでの弟子・檀越の信謗の境目を明示している」と解説しています。

その後、正安2年(1300)に民部日向師の門より寂仙日澄師が日興上人に帰伏。重須談所の初代学頭となりました。正応2年(1289)正月・嘉暦2年(1327)8月・元徳2年(1329)3月等と数度公家武家に諫状を進め、また門下の日目、日順、日代、日妙等を奏聞代官として天奏を遂行せしめていることを紹介。
この間、『五人所破事』『富士一跡門徒存知事』において五老僧との異目を明示し、更に本門寺建立や曼荼羅本尊義等を教示されていること。また、『安国論問答』や『諸宗要文』等の著作・記録、総計60余篇にも上る宗祖御書の書写、90通以上の自筆消息、さらに300幅以上もの自筆書写本尊の現存格護が特記されることを紹介。
正慶2年(1333)正月、末代門徒のために条目『日興遺誡置文二十六箇条』を定められ、2月7日、重須本門寺大坊にて入寂されたことを説明。『日興上人御遷化次第』が現存することを紹介しました。

その後の重須本門寺は上人の外戚の甥と伝えられる日代が坊職を委ねられましたが、上人滅後一年目に惹起した「方便品読不問答」での本迹迷乱等が原因で日代は西山へ退出、その後の重須は日妙によって管領されたことを解説。
講義の途中に小憩をはさみながら午後4時20分に冬季法門研修会は終了。参加聴講の皆さまにはご苦労様でした。これからも倶どもに御法門を学んでまいりましょう。

相武山 山主

2023年02月26日

興師会を奉修

2月7日は富士門流開祖日興上人の祥月の御命日。富士門流では「興師会・芹御講」として親しまれている法要です。当山では三師塔裏手の白梅もようやくほころび始めた2月5日(日)午後1時から興師会を奉修しました。御宝前に上人が好まれたと伝わる芹をお供えし、参詣者と倶に法華経要品を読誦、南無妙法蓮華経の唱題をおつとめして懇ろに報恩謝徳申し上げた次第です。コロナ禍も落ち着いてきたこと、興師会の後には冬季法門研修会も予定していたために17名のご信徒が参詣されました。

法要後の法話では、「日興上人は日蓮大聖人が選定された六老僧のお一人。伯耆房と号し、白蓮阿闍梨と称されました。上人は寛元4年(1246)3月8日、甲州鰍沢に誕生と伝えられ、大聖人の弟子となられたのは正嘉年中とも文永初年の頃ともいわれています。青年期に宗祖の厚い薫陶をうけながら修行に精励。
文永8年(1271)の宗祖佐渡配流に随従して2年半に渡る流罪中に常随給仕。またその間に佐渡の道俗の教化に努めて後世の佐渡国法華講衆の基礎を築かれました。
宗祖は佐渡流罪赦免の後に身延山に入山されますが、その入山の機縁に日興上人の存在があったことは想像に難くありません。また、甲斐と駿河に教宣を張られた上人が身延在住の宗祖の外護に勤められたことも自明です。
宗祖晩年に惹起した熱原法難では、宗祖の導きのもと門弟僧俗を激励して大きく仏道の貢献をしています。ことに宗祖の佐渡期から身延期に日々近侍され、その教えと信仰の核心を会得されたことは容易に想像されます。

宗祖の入滅後は甲駿地域の弘通に励まれるとともに身延の御廟所をお護りされ、後に身延に在住されることになります。しかし、民部日向師と地頭波木井実長の謗法により身延を離山。
正応2年(1289)春に駿州河合を経由して富士郡上野の南条時光の領地に赴き住坊を創建(後の大石寺)。さらに重須石川氏の懇請をうけて永仁6年(1298)2月15日重須に談所を開き、その後36年この地で門下を育成され妙法流布の礎を築かれました。
正慶2年(1333)正月、末代門徒のために『日興遺誡置文二十六箇条』を定め、2月7日重須本門寺大坊にて示寂。世寿八十八歳。」と日興上人の御生涯を略述いたしました。
午後2時からの冬季法門研修会では日興上人の身延御離山などを中心に富士門流上代の歴史を学ぶことを案内して興師会を終了。

相武山 山主

 

2023年02月25日

節分会

2月3日(金)午後1時から当山でも節分会を執り行いました。春を呼ぶ節分は「福は内・鬼は外」という豆まきの声が印象的ですが、現代では季節の話題として寺社仏閣での豆まきが報じられる程度で、私の子ども頃のように夕方になるとあちらこちらの家から聞こえてくるようなことはないようです。もちろん玄関先の「柊にいわし」もほとんど見かけることはなくなりました。
それでも節分は2月の風物詩。節分は本来「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日のことで、季節を分ける節目の日ということですが、なぜか今では立春の前日の節分だけが2月の伝統となっています。

節分の鬼払いの由来は、その昔、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられており、中国の鬼払いの風習などが伝わったものといわれています。平安時代の追儺、鬼遣と呼ばれた宮中行事が時代と共に社会に広まったようです。また、我が国には「厄年」という風習もありますから、この邪鬼はらいから厄年のお払いを意識される方も少なくありません。当山でも毎年、節分とその前後には数名の御信徒が厄年の御祈念を願われて参詣されます。

当然、節分は仏教の教えに直接かかわる行事ではありません。しかし、仏教徒も除災招福を願うのは同じですから、日本の伝統習俗を仏教にも取りいれ、仏道の修行によって功徳を積み除災招福を願っているのです。釈尊創始の仏教は広くアジア全域に伝播しましたが、仏教思想を中心としながらもその地域や国の信仰や習俗と融合しながら広がったことは事実。その一端を節分の行事に見ることもできます。

当山の節分会では御宝前にお供物と福豆をお供えし、参詣のご信徒と倶に法華経要品を読誦、南無妙法蓮華経のお題目を唱えて、参詣信徒の仏道精進と除災招福を祈念申し上げました。寿量品読誦の折には住職が「福はうち」と祈念して御宝前に豆をまき、続いて執事の興厳房が本堂と客殿などに「福はうち」と豆をまきました。今年はたくさんの福豆を用意しましたので、一日の御経日から五日の興師会&冬季法門研修会まで厄年祈念や法事の参詣者の方にも福豆を振る舞いました。

相武山 山主

2023年02月24日