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相武山 妙法寺 ブログ

有り難いを知る(感謝のなかみ)

今月の日曜法話会は11日。前日まで台風14号の影響が心配されましたが、当日の関東上陸は避けられ伊豆諸島の方に南下したために青空も広がる天気になりました。当初は雨の予報でしたから参加者も少ないと思っていましたが、二十数名ほどの方に参加聴聞頂きました。法話会のテーマは「有り難いを知る」。サブタイトルは「幸せを感じる人生(仏教的な幸せとは)」でした。
私たちは今ある状況が好ましいと思えば幸せを感じ、好ましくない、つらい、苦しいと思えば不幸を感じます。いつも自分の思うようになるならば、誰もが幸せを感じられるのでしょうが、ほとんどの人が理解しているように、人生はさほど自分の思うようにはなりません。しかし、たとえ思うようにならない人生であっても日々幸せを感じながら歩みたいと私たちは願っています。


幸せを感じながら人生を歩むためには「すべてに感謝をすること」とは一般常識のように語られています。さまざまな宗教や信仰の世界、自己啓発のために語られる言葉にも最も多く多用されているのは「感謝のこころを持つ」であり、ビジネス書にさえ「感謝の心が道を切り拓き、あなたを成功へと導く」とあります。感謝とは「ありがたいと思う気持ち」のこと。ありがたいという気持ちが起こることによって私たちは幸せを感じることができるのは自明の理なのです。
今月の法話会ではこの感謝の心のなかみを求めて、私たちの存在にかかわるすべてのものごとが有り難いことであることを学びました。はじめに「幸せとは?」との問いです。一般的には熟慮することなくイメージが先行していて、置かれている環境や一時的条件などをもって遇・不遇を幸・不幸と誤解しやすいことを指摘。
一般的に「これがあれば、あれがあれば、こうなれば、こうだったら・・・」という「たら・れば」がよく語られますが、幸せと思われる環境や条件だけを語っても意味はありません。その例として、「お金があっても幸せではない人がいる。健康でも幸せではない人がいる。家族がいても幸せではない人がいる。学歴が高くても幸せではない人がいる。会社で出世しても幸せではない人がいる。容姿端麗でも幸せではない人がいる。事業が成功しても幸せではない人がいる。社会的地位があっても幸せではない人がいる。・・・」のが事実。同じ環境や条件であっても、ある人は幸せと考え、ある人は不幸と感じているのです。

幸せを感じるというのは感性そのものであり、それも刹那的・一時的・流動的なものではあまりに儚く、環境や条件などに左右されない普遍的価値に裏打ちされた感性でなければ残念です。また、幸せを得るためには正しい知見が必要(現実直視の仏教)であり、自分自身を知る(人間の心と身体についての知識、自身の資質や性格など)こと。置かれている環境を知る(いかなる出自、いかなる家族、いかなる時代、いかなる社会に生きているか等々)こと。人生と社会を知る(限りある人生と変遷してやまない社会)ことなどが大切であることをお伝えしました。
幸せとはゆるぎない安らぎと満足を意味しており、不幸とは不安と恐れ、不平と不満とみることができます。幸せが安らぎと満足ならば、そこには必然的に「今、貴重な有り難いことが現出しているという認識と感謝の思い」が存在しています。この認識と思いが幸せの基盤となっているのです。

次に有り難い(何ごともそのようにある〈状態〉ことは難しいのに、今、その状態にあるということ)を理解するために「人間存在の不思議と奇跡」について解説。
◆人間は超有機体
「人間はヒトの細胞と細菌から成る「超有機体」であり、人体を構成する細胞の数は約37兆程度。体内に生息する細菌の細胞数は100兆を超える。体内微生物が免疫系など人体の仕組みと密接な相互作用をしている。人間とはヒトの細胞と微生物とが高度に絡み合った集合的有機体である」
◆人間の細胞は入れ替わる
「人間の細胞は入れ替わる(入れ替わらない細胞もあるが…)。組織によって細胞の入れ替わる年数が違う。入れ替わる周期(赤血球120日、骨細胞90日、肌細胞28日、胃の細胞5日、小腸の細 胞2日等々)。細胞は儚く私たちが自覚できないうちに絶えず生まれては死んでいく。ただし、生まれ変わる周期は一時ではなく、見た目には分からないレベルで総入れ替えするのが約6~7年ほど。」
◆細胞が入れ替わるのになぜ病気は治らない?
病気の人でも細胞は新しく生まれ変わるが、病気が治らないのは遺伝子そのものが損傷しているから。遺伝子が損傷していると細胞に情報がきちんと伝わらない。未完成の細胞ができてしまう。そのためにうまく修復できなくなり病気が治らない。

レジメに沿って私たちの人体が極めて複雑精緻にできている事を説明し、「人間の身体は実に不思議で壮大なもの。複雑多岐にわたる人間の身体に、それを円滑に動かす脳や神経などのソフトが精緻に作用して人間が存在している。そのうちの一つでも障害を起こせば健康な生活はたちどころに失われてしまう。人間の生命存在そのものが実に貴重で有り難いものとの認識が大切。」であることをお伝えしました。
有り難いと理解して感謝の対象とするのは自身の身体ばかりではありません。この世に生命を与えてくれた両親はじめ数えきれぬ祖先たち。人生にとってかけがえのない存在である家族や友人たち。人生を歩むためにさまざまなことを教えてくれた教師や先達。そのどれもが有り難い存在なのです。
また、すべてを自分だけでまかない誰にもお世話になっていないという人は存在しません。生きるための衣食住の環境すべては他者による提供なのです。皆多くの人々のお世話になっているのですから、すべての人々への感謝を忘れてはいけないのです。

家族がいること、友人がいること、知人がいること、学べること、働くことができること、いずれも当たり前のことではありません。実に有り難いことなのです。
また、天地自然の恵みによって私たち一人ひとりは生かされています。地球のめぐみばかりでなく、月のめぐみ、太陽のめぐみ、宇宙のめぐみ、さらにはそれらのすべてが円滑にはこぶ妙法のはたらきによって生かされているのです。天地自然の運行や宇宙の営みが円滑さを失えば私たちの生命ははかなく絶えざるを得ないのです。そのように思いをはせることができれば一日一日の命がいかに貴重なものであるかがわかります。
むすびには釈尊のことば
「『われらはこの世において死ぬはずのものである』と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知れば争いはしずまる」[ダンマパダ]
日蓮聖人のことば
「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり」[可延定業御書]を紹介し、10月度の日曜法話会は終了。
11月15日は今年最後の日曜法話会です。
皆さまのご参加をお待ちしています。

相武山 山主

 

2020年10月29日

9月の日曜法話会

9月13日(日)は日曜法話会。法話会はコロナ禍のために4月から3ヶ月間中止して7月からの再開でしたが、7月・8月の参加者は以前の半数以下でした。9月はコロナ禍にもいい意味でなじんできたのか、旧に復してきたように思います。

今月の法話会のテーマは「お彼岸について」。サブタイトルは「心静かに人生を見つめ仏の道を実践するとき」でした。すっかり我が国の習俗となっている春秋のお彼岸ですが、秋の彼岸会を迎えるにあたってその意義について聴聞の皆さまと考えてみました。

毎回法話会のはじめにはその趣旨をお伝えしていますが、今月は初めての方はいらっしゃらなかったので割愛してレジュメに沿ってお話を始めました。

彼岸について
「現在の我が国の祝日の意義によれば、春のお彼岸は『自然をたたえ、生物をいつくしむ祝日』。秋分の日は『祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ祝日』とされていますが、春秋ともに多くの人々が寺院に参詣して先祖や精霊に供養をささげ、墓所などにお参りするのが一般的になっています。

仏教の行事のように思われていますが、このような習俗はインドや中国にはみられず、日本独特のものです。その歴史は古く、春秋の2月、8月(陰暦)に7日間の仏事を行うことは、806年(大同1)を最初とし、平安時代初期には恒例となっていたことが日本後紀や延喜式にみえます。
この仏事が彼岸会とよばれていたかどうかは不明ですが、宇津保物語や源氏物語などに彼岸の語がみえるので,平安中期には彼岸や彼岸の仏事が定着していたことがわかります。

彼岸の語源はサンスクリット語のパーラミター「波羅蜜多」の訳で、元来は仏の悟りの世界である向こう岸に渡るという意味です。此岸を迷いの凡夫の世界に喩え、川の向こう岸の彼岸を仏の世界に喩えたものです。此岸から彼岸へ渡ること(仏道成就)を求め願うのが仏教の姿勢です。
また、彼岸には『仏の世界』という意味と『自らに与えられた環境で仏道に励む時にはその世界が彼岸である』という二通りの意味があります。ことに大乗仏教では僧院に入らずに生活を営みながらでも、仏とその教え信じて信行に励む者の世界はそのまま仏土であると説かれています。

大切なことは私たちが此岸(煩悩に覆われた迷いの世界)に生きているという認識に立つこと。現実の世界ではその時代の環境、その時代の価値観、その時代のシステムなどの制約のなかで生活しています。人間はおよそ未成熟であり未完成なる存在です。生活のために凡夫は眼前刹那の利害損得に陥りやすく、迷惑の根源をしっかりとみつめようとしない。また好きや嫌いという自身の一時の感情にも流されやすい存在なのです。

釈尊はバラモンの教えを超克し、解脱して仏教を創始されましたが、その基本思想は『人間が苦悩するのは本来具えている燃えさかるような貪欲・瞋恚・愚癡などの三毒を中心とする煩悩に由来し、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という縁起の真理に迷うことにある』というものです。
原始仏教や小乗仏教では資質と環境に恵まれた一部の者が煩悩の断尽による覚りを求めましたが、大乗仏教では煩悩を断じた覚者となることは上根上機の限られた者であり、永遠の仏の存在とその教えを深く信ずることによって救済されると説かれました。

仏の道を歩むということは、自らの愚かさを認め、仏の教えを信じ学び行じて、己の人間性を終生磨き高めて行くこと。お彼岸が休日となっているのですから、みんなで心静かに人生を見つめ仏の道を実践するときとしたい」
と申し上げて9月度の法話としました。

相武山 山主

2020年09月28日

平和に思う(日曜法話会から)

妙法院では「仏教に親しむ」をテーマとして10年前から毎月1回日曜法話会を開催しています。今年はコロナ禍のために4月から6月まで開催を中止しましたが7月から再開。
8月は16日(日)午前11時からの開催でした。コロナ禍に連日の猛暑ですから参加聴講はわずかな方と想定していましたが思いのほかにご参加頂きました。
8月法話会のテーマは「平和に思う」。前日が75回目の終戦記念日であり、当山でも執り行った戦没者追善法要の意義を深めて、参加者の皆さまと前の大戦を概観し平和について考えてみたいとのテーマです。戦争と平和、民主主義と基本的人権などについて所見を述べ、釈尊と日蓮大聖人の遺された言葉から教訓を頂きました。

【戦争の事実を直視】
夏8月を迎えると各メディアは一斉に「広島・長崎への原爆投下・・・」「太平洋戦争の惨劇・・・」「戦時中の苦悩にあえぐ世相と国民の困窮生活・・・」等々について報道するのを常としています。これは極めて当然のことで、前の大戦は国民を苦悩のどん底に陥れ、国土を大きく荒廃させました。また、我が国ばかりでなく太平洋一円の国や国民に計り知れない甚大な被害を与えたのです。

二度と同じ過ちを犯さないためにも私たちは前の戦争の真実を知らなければなりません。何ごとにおいても「いつ・どこで・だれが・何のために・何をしたのか・そしてその結果は」という事実を検証し整理することが大切なように。
凡人の集まりであるこの世の中、政治でも社会でも都合の悪いことには目をつむったり、耳を塞いで、批難が通り過ぎるまでしのごうという姿勢は古今東西に見受けられことですが、それでは失敗を活かして同じような過ちを断つことができません。より良い解決のためにはやはり事実の検証が必要なのです。

我が国の健全な未来にとって太平洋戦争の真実は真摯に探求されるべき歴史的課題であるとともに、基本的人権が保証された民主主義国家の確立とその維持に不可欠のテーマといえるでしょう。前の敗戦についてはさまざまな視点から反省がなされたり、戦没者への慰霊や遺族への補償も実施されました。また、非戦・反戦・自衛など平和に関する議論も今に行われています。しかし、国としてのたしかな総括が行われたという認識は乏しいように思えます。そのために戦争被害をこうむったアジアの国々とのあつれきが解消されていないのではないかと思うのです。

法話会ではレジュメと一緒に『第2次世界大戦死者数』『戦没者の過半数は餓死』『安全保障の焦点は国家から人々の安全保障へ』などのプリントをお渡しました。その上で前述のように「太平洋戦争の確かな検証」が大切ということと、「敗戦によってもたらされた民主主義」「天皇主権から国民主権へ大転換」「すべての国民に基本的人権の保障」について所見を解説しました。

【人権と民主主義の価値を確認】
昭和20年8月15日、天皇の終戦宣言による敗戦受諾から一夜にしてダイナミックな価値観の転換が促されたのです。現人神(あらひとがみ)として日本国の主権を握る天皇が人間宣言をし、臣民(しんみん)であった国民が主権者となったのですから、まさに青天の霹靂。急には理解できない話です。さらに、一人ひとりの国民には差別なく基本的人権が保証され、天皇や貴族、軍部や財閥などの特権階級による政治ではなく、主権者たる国民の意志によって政治社会が運営されるというのです。

戦後の時代しかしらない現代の私たちには、基本的人権、主権在民、民主主義は当たり前の概念ですが、戦前の思想と教育のもとに生活していた人々にとっては、戦後しばらくその受容に意識して取り組まねば理解できないものでした。

基本的人権によって得られた自由と権利、民主主義によって得られた主権在民というシステムは、我が国においては敗戦受諾で突然天から降ってきたようなものといっても過言ではないでしょう。しかし、欧米では自由と権利・民主主義のために長い間、血涙の歴史がありましたから、自由や権利、民主主義については現在でもとても敏感です。したがってその権利を守るためには労をいといませんし、政治についても我がこととして意識している人が多いように思えます。

我が国では人権や民主主義をあまりにも当然として、そのすばらしい価値を見失っているのではと思えることが散見されます。これはとても残念なことで、終戦記念日には戦争と平和について考えるとともに、是非、人権と民主主義を考える好機としてほしいと願っています。また、平和は何らの努力もせずに得られるものではなく、平和な世界は強い意志と絶え間ない努力によって維持されることも認識しなければなりません。

【平和を求めて】
続いて「現代社会の平和を脅かす人権軽視と覇権主義」「一党独裁国家の専横」「世界中の差別主義」などについて言及し、結びは「仏典に学ぶ平和」でした。

原始仏典 ダンマパダ (中村元 現代語訳)から
☆「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みのやむことがない。堪え忍ぶことによって、怨みはやむ。これは永遠の真理である」
☆「その報いはわたしには来ないであろうとおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである」

日蓮大聖人の立正安国論から
『汝須く一身の安堵を思はば先づ四表の静謐を祈るべきものか。就中 人の世に在るや各後生を恐る。是れを以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も、而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇めんや。ー 略 ー
汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし』
を紹介。

今月の学ぶべきこととして
「平和は意識しなければ崩れやすい。前の戦争をけっして忘れてはならない。常に戦争の検証を怠らず、民主主義のルールのもと、権力者の言動に注意しなければならない。平和の基本は人々の心の平安から。平和は基本的人権の尊重による。
一人ひとりが現代の平和の語り部となろう。」
とお伝えしました。
来月の法話会は9月13日(日)午前11時からの開催です。

相武山 山主

2020年08月30日

日曜法話会を再開

当山では檀信徒の皆さまに3月下旬から参詣の自粛をお願いしてきましたが、7月からは三密の対策を講じながら法要・行事への参詣を再開。12日の日曜日には4月から中止していた日曜法話会を開催しました。法話会は「仏教に親しみ、その教えと信仰について正しく理解願いたい。法華経と日蓮大聖人の教えにふれる」を趣旨に平成23年3月から開始し今年で10年目を迎えました。

毎年1月から11月まで11回にわたって開く法話会には檀信徒の皆さまばかりでなく、地域タウン紙の広報により一般の方々も参加聴聞されています。今年の梅雨は雨の降らない日はないという横浜ですが12日は幸いにも曇り空。久々の法話会にも15名の方お出でになりました。

いつものようにレジュメに沿っての法話。はじめに法話会では世相をテーマとする理由を「仏教は現実直視」「あらゆる事物事象は私たちと無縁ではない」「自分が現象をどのように観ているかが大切」「起こる現象はすべて学びの対象」と解説。

次に今月のテーマである「今を生きる」について。コロナ禍によって我が国ばかりでなく世界中が不安と混乱のなかにありますが、多くの人が静かな自省の時間が得られたことも事実。このような時にこそ自らの存在の有様をみつめ、与えられた今をどのように認識すべきかを考える事が必要。「今を生きるとは自らに与えられた環境を受容し、そこを基盤に自分らしい人生を歩むことである」と説明。

『人は皆、過去からやって来て、今を生き、未来へと歩みを進める存在。今の自分の在りようが過去をおさめ、未来の果報を定める』『過去ばかりにこだわる人、未来ばかりを夢見る人がいる。それぞれ自由だが「今を直視する」ことなくして真の安らぎはない。』ことをお伝えしました。

世の中には啓発本があふれていますが、より佳い今を歩むためには仏教の叡智を学ぶことも有益。素朴な原始仏典から以下ダンマパダの数節を紹介しました。
☆「まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実に達する」
☆「一つの岩の塊りが風に揺がないように、賢者は非難と称讃とに動じない」
☆「たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである」
☆「善をなすのを急げ。悪を心から退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ」
☆「沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない」
☆「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない」
☆「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」
☆「みずから自分を励ませ」
☆「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ」
等々。

また、末法の法華経の行者である日蓮大聖人の教えを以下の御書から紹介。
☆『一切の事は時による事に候か。春は花、秋は月と申す事も時なり』(上野殿御返事)
☆『夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし。ー 略 ー 彼の 時鳥は春ををくり、鶏鳥は暁をまつ。畜生すらなをもかくのごとし。何に況や、仏法を修行せんに時を糾さざるべしや』(撰時抄)
☆『仏法には賢げなる様なる人なれども、時に依り機に依り国に依り先 後の弘通に依る事を弁へざれば、身心を苦しめて修行すれども験なき事なり』(下山御消息)
等々

最後に「あらゆる現象は縁起によって生起し変化してやむことはない。変化をおそれることなく可能性を信じて前向きに生きる。コロナ禍からも多くの学びを得よう」とお伝えして法話を結びました。
来月の法話会は16日(日)午前11時からの開催を予定しています。

相武山 山主

2020年07月25日

7月の盂蘭盆会

横浜や東京などでは7月にお盆の法要が執り行われます。月遅れで8月にされる方もおられますから、当山では7月と8月の2回、盂蘭盆法要を営むことになります。去る13日(日)は午前11時の日曜法話会に続いて午後1時より月例の宗祖ご報恩講を執り行い、併せて盂蘭盆の法要も行いました。

今年7回目となる日曜法話のテーマは「仏事の意義」でした。お寺で執り行われる仏事と個人や家庭で執り行われる仏事、それぞれのかたちと内容についての法話です。さまざまな仏事にふれることはもちろん、自ら仏事を営むこともある人生、その意義が理解されてこそ、仏事に臨む悦びや愉しみが得られ、心をこめて執り行うこともできるというものです。知っているようでよくわかっていない仏事についてのお話でした。テーマに入る前の「今月の世相」では野々村元兵庫県会議員の政務調査費などの不正事件をとりあげ、「号泣会見など笑える事件との一面もあるが、古今東西、すべての人々の思考や行動には品性や品格といわれるものが現れている。どのような人生を歩んできたのか、どのような人生を歩んでいるのか、それらはその人の品性・品格として現れ、その人となりを明らかにする。野々村元議員を他山の石として、自らの品格を高めて行きたい」と意見を申し上げた。

テーマの仏事の意義については、「仏事とは仏教の儀式や行事や作法のこと。寺院の荘厳やお給仕、執り行われる日々の勤行や年中行事と法会を中心に、個人や家庭での仏壇の飾り方やお給仕とその作法、朝夕のお勤めや法事や葬儀式、そして初参りや七五三参り等に及ぶ。寺院は教えを護り伝えるために、信仰者は教えを確認しそこに自らの信仰を明らかにするために仏事が作(な)されている。心はかたちを求め、かたちは心を調えるという相乗作用により、荘厳や儀式作法のすべてに仏教の教えと、信仰者の思いが込められている。仏事は仏さまの道を敬い教えを現わすものである」と解説いたしました。最後に仏事でありながら、すでに我が国の習俗とも伝統とも文化ともなっている「お盆」のいわれを、日蓮大聖人の盂蘭盆御書を拝読して説明。仏事の意義を理解して仏の道を大切にされることをお勧めしました。

50分ほどの昼食タイムをはさんで午後1時からは宗祖ご報恩講と盂蘭盆会を執り行いました。はじめに御宝前にて仏祖三宝尊への献膳を申し上げ、参詣者の申し込まれたお塔婆が建立されている精霊壇にもお膳を供えて供養の志をささげました。その後、参詣の方々と読経・焼香・唱題とお勤めをいたし、宗祖への御報恩を申し上げると倶に、盂蘭盆会にあたってご先祖と有縁精霊への追善供養を申し上げました。

法要後の法話では、初心者の方々も居られることから盂蘭盆御書を拝読し、お盆のいわれを説明し、「目連尊者の親を思う心と慈悲心、青提女の貪ぼりとエゴイズムを他者のものとせず、自身に引き当てて考えることこそ、お盆の意義を深めることになる」と申し上げました。

法話の後には、各自建立ご回向されたお塔婆をもって墓所に向かわれました。当山の墓苑に墓所をお持ちの方も塔婆を建立し香華を手向けておられました。ご先祖や有縁精霊に追善供養の思いを捧げられた皆さまの志に敬意を表する次第です。
相武山 山主

 

2014年07月20日

この時季の恵み

6月の22日(日)は第6回日曜法話会でした。

梅雨時らしい空模様のなかでの法話会のテーマは「仏教とは その3」(仏の道を歩む)でした。これは今年の1月の法話会が「仏教とはその1」として仏教の多様性についてお話させていただき、3月の法話会では「仏教とはその2」として仏教の多様性の核となる基本思想についてお話ししたのに続いて、仏教にとって大切なことは、その道を歩むことですので、仏さまの道を歩むことに話を絞っての法話会でした。

世相は「中東イラクの内戦」でした。2003年3月のイラク戦争開戦から2011年12月米軍撤退、オバマ大統領の終結宣言までの流れを振り返り、現在起こっているイスラム過激派ISIS(イラク・シリアのイスラム国)の台頭による内戦情況について説明。
世界の現実として「貧困や飢餓、争乱や人権抑圧、病や災害にあえぐ民衆」「法による統治、生命の安全や基本的人権が無視される多数の国や地域。その原因は民族・宗教・歴史・文化など多種多様」それらを原因としてテロ事件が頻発、戦乱はそこかしこに展開されていることをお伝えしました。
その上で、「現代はグローバルな世界となり、国や地域の閉鎖はできず互いに影響し合う」ことを理解。世界の現実を知って、恵まれている国「日本」を認識しよう。また、平和と救済を祈り自らにできる支援を考えようと意見を述べました。

続いて、テーマである「仏の道を歩む」について、はじめに「仏法」と「仏教」と「仏道」の違いについて、仏法というのは仏さまが覚られた永遠普遍の真理(妙法)であり、仏教とは仏の覚られた真理を一切衆生に教えることであり、仏道とは仏の歩まれた道、仏と成るために開かれた道、歩めば仏と成る道であることを解説。
妙法は真理として存在しているものであり、教えは因縁や比喩などを交えて説かれており、肝心なことはその道を歩むこと、実践ということです。人生は何かと忙しく、目先の利害や損得ばかりを追いやすく、好きや嫌いといった感情に振り回されたり、楽しい趣味や遊びに時間も心もうばわれがちです。それはある面当然なことですから、仏さまの教えや信仰にふれることも稀なことかもしれません。また、たとえふれたとしても、発心して仏の道に志を立てる方は、さらに稀有(けう)な存在といえるでしょう。しかし、仏の道ではその発菩提心(ほつぼだいしん)が尊いこと、信を起こすことが大切なことを、華厳経(けごんぎょう)や法華経、聖徳太子の勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)などを引いて説明しました。

古来、仏の教えを仏道とも称していたことは、仏教が単なる学術宗教ではなく、観念論やおまじないや祈祷でもなく、仏縁を結んだ者が仏の歩まれた道を自らも歩むことによって、真(まこと)の人生を得ることを意味しています。その功徳については「無知と不安と嘆きを越えて、安らぎと喜びと生きがいを得ること。世俗的な利害や感情を越えて、仏の知恵を人生に活かすこと。人生折々の苦楽に仏の教えを照らしてみること」ということになります。

結びに仏の道を歩むという姿を当山の信仰をもって具体的に示すならば、「仏さまを自宅に安置し日々に御仏(みほとけ)の教えを意識する。仏法僧の三宝(さんぽう)への給仕を心がけ、朝夕に法華経読誦・唱題に勤める。仏の教えを学ぶ機会を大切にする。自らと家族の幸せを祈り他者の幸せも祈る。一言でも二言でも仏道の尊さを語れるように努力する」となることをお伝えして6月度の法話としました。
この時季の恵みでしょうか、本堂の外では時折雨が強く降っていましたが、雨のお陰で法話会に参加聴聞の方々の集中力が切れることはありませんでした。つたない法話でしたが皆さんの心の中にしみいったようで有り難く思いました。

相武山 山主

2014年07月05日

伊豆のご難会

10日ほど前から当山南西の田んぼで田おこしが始まりました。田おこしの前からカエルの声が聞こえ始めましたが、昨年より少し遅いような感じです。これから田んぼに水が引かれると蛙の声がいっそう賑やかになってゆきます。
さわやかな五月の風がわたる今日この頃、新緑に抱かれたような里山の風情を楽しみに多くの方が当山周辺の市民の森を散策しています。時折当山にもお入りになり、本堂の前や三師塔の前で手を合わせていらっしゃる方もおります。その姿からはあらゆる人々に信仰心が具わっていることがわかります。

11日(日)はご案内のとおり今年5回目の日曜法話会でした。4月の法話会のテーマ「釈尊という人」の続編です。はじめにいつものように法話会開催の趣旨をお伝えし、その後の今月の世相は「韓国フェリー セウォル号海難事故」について。
犠牲者300人以上となった韓国の海難事故について、まず事故原因については①進路の変更ポイントで急な方向転換(未だ原因究明中、未熟な操船と船長の無責任さ)。②不適切な改造と過積載の常態化(船会社と関係者の責任)。③海難事故への訓練がなされていない(加害者である海運会社と旅行を計画した学校関係者)。④犠牲者の判断の誤り(高校生を責めることはできないが、的確な事態認識が必要だった。自らが自らを護る、受けて良い指示、護って良いルールか否か)。の4点を上げて完全な人災と指摘しました。
その上で、船長と操船者及び乗組員の責任(避難指示も出さずに避難)、事故への油断(安全は危険を認識してこそ確保される)を考え、学ばなければならないこととして、①いつ何が起きても不思議ではない世界に生きている。②非常事態には非常事態なりの対応が必要。③他者に判断を委ねるのではなく、自らを信じて生きるのが人生。と意見を述べさせて頂きました。

法話のテーマ「続。釈尊という人」のサブタイトルは(釈尊の人生とその求めたもの)でした。釈尊の人生を学ぶのは、○仏教を正しく知るため。○覚者としての仏陀ではなく人間釈尊を知る(史実と伝説の相違)。○釈尊を敬うことはその求めた道を敬うことであることをお伝えしました。
簡略に先月のおさらいをした後、ガヤーでの「降魔成道とその内容について」のお話は「悪魔の武器」についてです。人間の恐れるもの、欲しいもの、喜ぶもの、悲しむもの、嫌がるもの、ありとあらゆる手段を講じて悪魔は釈尊の成道を妨げようとしましたが、釈尊はそれらのすべてを降して成道をとげました。その後の伝道と救済についても、広いインドとその時代を思い浮かべながら、クシーナガルでの入涅槃までを説明させて頂きました。最後に釈尊の求めたものは、「解脱であり涅槃の寂静、永遠普遍の真理であり真の安らぎの境地、迷惑する人々を救い倶に安心を得る」であることをお伝えし法話会を終了。
次回は6月22日(日)午前11時からの開催です。

同日、午後1時からは伊豆御流罪法難会を執り行いました。法話会に参加聴聞された檀信徒の方々が昼食を摂られ引き続いて法会に臨まれました。皆さん五月の好季に半日、行学に励まれたことになります。自らの時間を何に用いるかは、その人の価値観が表れるものですから、参詣の皆さんの信仰心に深く敬意を表するしだいです。

伊豆の御難会は弘長元年5月12日、時の為政者から罪科に問われた宗祖が、鎌倉から伊豆に流罪となられた法難を報恩謝徳申し上げる法会です。この法難は法華経の宗旨を弘通した事により、宗祖が初めて公的に罪科を問われた法難です。
参詣者の皆さんと倶に読経・唱題を申し上げ、その後、船守彌三郎御書を拝読しての法話。伊豆御難会についての解説とその意義についてお話をしました。
その後の世話人会まで出席頂いた皆さん、本当にご苦労様でした。

相武山 山主

2014年05月22日

新緑の季節を迎えて

華やかな桜の風情を楽しんでいると、木々の枝から新芽が吹き出してきました。当山の周囲ばかりでなく其処もかしこも新緑の季節を迎えました。やわらかな若芽が暖かさに引かれてぐんぐんと伸びています。まるで大地の力が淡い緑の葉を通して伝わってくるようです。

4月の「日曜法話会」は13日でした。うららかな春の陽気にも恵まれ、檀信徒や友の会の方など、いつもより少し多い約40名ほどの参加聴聞を頂きました。初めての方も3名、一般の方にも6名聴聞を頂き、「仏教に親しんで頂きたい」という開催趣旨が、少しづつ広がってゆくようでとてもうれしく思いました。
今月のテーマは「釈尊という人」サブタイトルは「釈尊の人生とその求めたもの」でした。4月8日は釈尊の誕生の日として、古来『仏生日』として親しまれてきました。多くの仏教寺院ではその誕生を祝福して降誕会などが奉修されています。富士門流上代の記述にも仏生日との表現がみられしっかりと意識されていたことがわかります。

始めに世相では「4/10、沼津市で起こった交通事故」についてお話をしました。新たな勤務地に長距離通勤し始めた中学校教諭が起こした朝の事故、小学生二人が被害を受け10才の男の子が尊い命を失いました。事故原因の究明や責任については警察などで調査され今後の事故防止に活かされることでしょうが、被害に遭われた子どもとそのご家族の悲嘆はあまりにも深いものがあります。どのような慰めの言葉もご家族の心に受け入れられることはないでしょう。
この事故について一人ひとり思うこと、考えることは異なることでしょう。もちろん正解と断定できることなどありません。しかし、不幸なこと、理不尽なこと、不条理なことを何かのせいにしたり、カルト宗教的に罰が当たった的な解釈などの意見はあまりに愚かです。もしそのような意見を聞くことがあれば正されなければならないと思いますので、私からは、「思議を超えた理不尽な事故。(なぜ、どうして)」「被害者と加害者、その家族の思いに寄り添おう」、その上で、私たちは「いつ何が起きても不思議ではない世界を生きていることを自覚しよう」と意見を申し上げ今回の世相のまとめとさせて頂きました。

テーマの「釈尊という人」については、仏教を正しく知るためには釈尊の人生を学ばなければならないこと。それも覚者としての仏陀ではなく人間釈尊を知ることが大切で、史実と伝説の相違をわきまえようと説明しました。さらに「釈尊を敬うことはその求めた道を敬うこと」という視点についてもお話をさせて頂きました。
その上で、釈尊の人生について、「誕生~その環境と生活~人生への懐疑~出家~求道」までを現代仏教学をベースに解説し法話としました。タイムオーバーとなりましたので、「成道~ 伝道と救済~入涅槃」のクライマックスについては5月(11日)の日曜法話会にお話いたします。4月の法話会は、今までで最も多くの参加聴聞を頂いたのではないでしょうか。法話会ではその趣旨である「仏教に親しむ」をテーマとして、不信の時代に少しでも仏縁を結ぶ機会となるよう努力してまいりますので、同心の方々にはご家族友人誘い合わせてこれからもご参加頂きたいと思います。

法話会の後には午後1時から毎月恒例の日蓮大聖人御報恩講を執り行いました。はじめに仏祖三宝尊に献膳を申し上げ、参詣者の方々と心をこめて読経・唱題、ご報恩のまことをささげました。その後、興厳房が「持妙法華問答抄」を拝読して法話をさせて頂きました。法話会から宗祖の御講をお勤めして、一人でも二人でも仏教への信仰心を発され、その志を持続せられて真の安心(あんじん)を得られるよう祈り上げた次第です。

相武山 山主

2014年04月20日

春のお彼岸から

暑さ寒さも彼岸までといわれるように、春の暖かさに誘われて野原や畑のいろいろな草花が花を開かせ、日も長くなってきたな~と思っているともう春のお彼岸。当山では3月21日(金)と23日(日)の両日、午後1時からお彼岸の法要を執り行いました。今年は3連休となりましたから、東名高速の横浜町田インターから車で5分の当山周辺は、横浜の南北を縦貫する保土ヶ谷バイパス(現在日本一の交通量といわれています)と、横浜市北部を東西に走る幹線道路の中原街道が交差する下川井インターが大渋滞。予定の時間では法要に間に合わなかった方も居られたようです。
保土ヶ谷バイパスは年間を通して渋滞で知られる道路ですが、行楽のシーズンや連休の時期は近くに日本有数の規模を誇る動物園「ズーラシア」もあって、いっそう渋滞がひどくなります。当山の各行事や法要に参詣される檀信徒や友の会の皆さんには、今までも渋滞でシンドイ思いをされた方が多いのではないでしょうか。
東名横浜町田インター付近の国道16号線の高架化が進められたり、東名高速の海老名から南北に圏央道が間もなくつながるようですから、保土ヶ谷バイパスの混雑も少しは緩和されるかもしれませんが、第三京浜の港北インターから東名の横浜青葉インターに抜ける首都高速の支線ができるまでは渋滞が続くことが予想されます。日曜法話会や各種の行事法要に参詣される皆さんには、時間に余裕を持ってお出でくださるようお願いいたします。備えあれば憂い無し、心のゆとりが事故を遠ざけます。

お彼岸の中日にあたる21日には、仏祖(ぶっそ)三宝尊(さんぽうそん)と御歴代正師へ献膳(けんぜん)を申し上げ、お塔婆(とうば)が建てられた精霊壇(しょうりょうだん)にもお膳をお供えして、参詣された檀信徒の皆さんと読経・唱題を申し上げました。先師先達への報恩(ほうおん)感謝と先祖有縁精霊への追善供養の思いは、ご本尊様への参詣と法華経読誦・お題目の声となって如法(にょほう)に現わされました。心の中の思いはかたちになって初めて伝わって行くものですから、参詣の修行と読経・唱題の響きがことのほか有り難いと感じた次第です。

その後の法話では『崇峻(すしゅん)天皇御書』の末文「仏法と申すは是れにて候ぞ。一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品(ふきょうほん)にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐(ほんかい)は人の振舞ひにて候ひけるぞ。穴賢穴賢。賢(かしこ)きを人と云ひ、はかなきを畜(ちく)という」とのご文を拝読。
「釈尊一代の要となる教えは法華経であり、その法華経の修行の要は不軽品に説かれる不軽菩薩の振る舞いにあります。不軽菩薩はあらゆる人々の心の中に有る、仏と成るべき仏性(ぶっしょう)を敬って但行礼拝(たんぎょうらいはい)に努められましたが、この不軽菩薩というのは釈尊の修行の姿を説かれたものです。
釈尊がこの世にお出ましになり、教えを説かれた本意は『人としての振る舞いを示される』ことにありました。仏教の教えは広く深いものですが、『限りある貴重な人生を如何に生きるべきか、人としての振る舞いは如何にあるべきか』ということがその中心テーマで在り、釈尊は人としての最上の振る舞いを出世の本懐とされ、お弟子たちにもそれを望まれました。
釈尊のそのような教えの根本には『仏性を尊び・人を敬う』という心があります。人は人間といわれるように、人と人との関係性の中からその徳性が磨かれるのですから、好きな人や嫌いな人、信じられる人や信じられない人、愛すべき人や憎らしい人、尊敬できる人や軽蔑すべき人、温かい人や冷たい人、優しい人や厳しい人、等々人生に織りなされるさまざまな人間関係を、あるがままに受け止めて、心豊かに自らの人生に活かすことが求められています。
とはいえ、感情の動物といわれる私たちにとって、好き嫌いや愛憎を離れて悠然たる境地に心を置くことは容易なことではありません。それでも仏さまが『法華経に縁を結びその教えを信ずる者は、あらゆる人々の仏性を認めることが、最も大切な心得である』と教えられているのですから、そのお言葉を正直に受持・信解して仏道を一歩一歩あゆんで行きたいものです。

『賢(かしこ)きを人といい、はかなきを畜(畜生)という』とは、人間は何もしないで黙って放っておいても人となるわけではありません。環境や教育、志や生き方によって一人ひとりの人生が異なるように、人としての教育を受け、心を耕(たがや)し教養を身につけて人となって行くのです。仏道では理性や心性を磨くこともなく、放埒(ほうらつ)な心のままでは畜生と何ら変わることがないと戒(いまし)めています。人は学ぶことによって、また教えを活(い)かすことによって、自心を振り返ることによって、人となって行くことを知らなければなりません。
お彼岸にあたって法華経の御宝前に参詣し、ご先祖や有縁の精霊に供養を捧げるということは、人を敬うということの実践に通じる営みです。お寺ではさまざまな法会や行事が執り行われますが、それらを仏道信行の機会と心得て大切にして頂きたい」等々と申し上げお彼岸の法話といたしました。

けっして長くはない宗祖のお言葉ですが、心を澄まして拝読すれば、その意味はどこまでも広がり、その奥行きも汲めどもつきぬ深みのあることがわかります。仏道の功徳は教えを学び、その修行をおさめることによって積むことができるものです。仏縁があってもそのままでは宝の持ち腐れとなってしまいますから、お互いにじっくりと信行学に努めたいものです。

法話の後には三師塔(さんしとう)に参詣、有志の方々と読経・唱題、お線香を捧げて仏祖三宝尊へ報恩感謝を申し上げました。続いて永久納骨堂「久遠廟(くおんびょう)」に参詣、同じく読経・唱題、有縁精霊にお線香をお供えして追善の供養を申し上げました。

23日は午前11時から今年3回目の日曜法話会でした。テーマは「仏教とは(二)」でした。1月の法話会「仏教とは(一)」では仏教の現実とその多様性についてお話をしましたが、今回は仏教諸宗派に通じているその基本思想についてのお話。
注目の世相は2つの話題「聴力を失ったという作曲家佐村河内守(さむらごうちまもる)事件、理研研究員小保方晴子さん等によるSTAP細胞の件」から、スーパーマンやヒーロー・ヒロインを安易に求める愚。優れた人や尊敬すべき人はいるが、完璧な人や全能なる人は存在しないことについて意見をのべました。また、レスリング女子金メダリスト吉田沙保里選手の父吉田栄勝さんの急逝からは、諸行は無常、あらゆる事物・事象は縁起の法によって存在しており、いつ何なることが起きるかわからないとの認識が大切と意見を述べました。
法話会に参加された方の多くは、客殿で昼食を摂られて午後1時からの彼岸会に参詣されました。4月の日曜法話会は13日(日)午前11時から。テーマは4月が釈尊の誕生月であるところから「釈尊という人」です。同日は宗祖の月例ご報恩講が午後1時から執り行われます。皆さんの参加聴聞をお待ちしています。

相武山 山主

2014年04月08日

記録的な大雪のなかで

日曜法話会と宗祖誕生会
先週8日の大雪の衝撃もさめやらない14日早朝からの降雪。予報を上回る降雪は前回をしのぐ記録的な大雪となりました。関東甲信地方では前回同様多数の死傷者が出たばかりか、孤立地域が出て自衛隊に出動要請が行われたり、農業をはじめ各産業に大きな被害がでました。被害を蒙った方々にはお見舞いを申し上げます。
今回当山周囲では、雪は吹きだまりでは約70センチくらい、吹きさらしで20センチくらいの積雪でした。いつもながら横浜でも多い積雪だったのではないでしょうか。また、雨が降ったからでしょうか、前回より2割から3割雪が重いような気がしました。

雪の後には雨という予報でしたから、雨で少しは雪が溶けるのかと淡い期待をもちましたが、15日朝、望みはあっさり退けられ、湿り気を増した雪を午前2時間、休憩を入れて午後2時間半、興厳房と家内と一緒にかくこととなりました。
翌16日には「日曜法話会」と「宗祖誕生会」を予定して居りましたから、参加者がお出でになろうとなるまいとせっせと雪かきです。
まず境内の道を確保し、次第に周囲に道を広げて行きました。当山の周りだけ歩ければ良いというわけにはいきませんから、北側や東側の一般道につながるまでの雪かきとなりました。駐車場もかいておきたかったのですが、4台から5台分の広さを確保したところで翌日にすることにしました。

16日は宗祖ご誕生の日、風は強いものの青空が広がりました。午前11時からは日曜法話会、午後1時からは宗祖誕生会を執り行いました。法話会の前に開催を確認する一般の方からの電話がありましたが、今回は先月始めてお見えになったご婦人がお二人、檀信徒が15人の参加を頂いての法話会となりました。風の強いなか雪を踏みしめての参加聴聞には仏教を学ぼうという熱意を感じました。
今月のテーマは宗祖のご誕生にちなんで「日蓮という人」。末法の法華経の行者を仏と拝する富士門流で宗祖を「人」などとお呼びすると、「けしからん、謗法だ」とまでいわれそうですが、一般の方々が聴衆の法話会であり、世間的には毀誉褒貶・好き嫌いの大きく分かれる宗祖ですから、まずそのご生涯と人柄、その願いと精神を理解して頂くために、通常の表現を用いた次第。

今回の「世相」は『冬期オリンピック ソチ大会』と『記録的大雪』についての意見です。初めにオリンピックと開催地ソチにふれた後、「各競技選手は恵まれた才能の上にさらに懸命な努力をしている。結果は技術と精神力、そして時の運にも左右される。結果は大切だがすべてではない。選手と観賞者双方に楽しみと学びがある」など私の観じた意見をお話しました。

もう一つの「世相」の話題は『記録的大雪』。2/8と2/14の二度の大雪の模様をお伝えし、「天気予報がより正確になってきた。大雪は低気圧と寒気の関係から。想像を超える事態(交通機関のマヒ、積雪による事故、ライフラインの障害等々)、事象に学ぶ(自然の営みの大きさを学ぶ)」など私の観じた意見をお話しました。

その後、テーマ 「日蓮という人」サブタイトル ー日蓮の誕生にちなんでー として法話を申し上げました。
その内容は、「① 知っているようでもよく知らない日蓮という人。② 日蓮を尊敬し信仰する人々。③ 誕生から求道へ。・ご誕生・出家・諸国遊学・日蓮の疑問と求道。④ 日蓮の願いと実践。・立教開宗へ・法華経の身読・衆生救済への思い。・忍難弘教・法難を法悦に享受した日蓮。⑤ 妙法流布への礎。・身延入山(国諫三度・順縁広布から逆縁広布へ)・弟子の育成・檀越信徒への教化・出世の本懐(熱原の法難)。⑥ 入滅と六老僧の選定。
時間の都合上、宗祖の大きな聖跡を駆け足で概観するだけでしたが、日蓮大聖人の教えを信仰する当山ですから、機会を新たにしてじっくりと解説したいと思います。

法話会が終わり小憩の後、午後1時からは宗祖のご誕生会(たんじょうえ)を執り行いました。20名ほどの参詣信徒の唱題の中、赤飯を盛った献膳を御宝前にお供えいたし、皆さんと倶に懇ろに読経・焼香・唱題を申し上げ、如法(にょほう)に宗祖の誕生に報恩謝徳申し上げました。この法会の意義は宗祖が我が国に誕生され、さまざまな法難を乗り越えて、仏教の根本である法華経の教えを私たちのために説かれたことへの感謝を捧げるものです。
その後の法話では、日興門流に伝わる「産湯相承事」を拝読し、宗祖ご誕生にちなむお話を申し上げ、大雪の残る中参詣された皆さまと宗祖をお偲びしました。

相武山 山主

2014年02月26日