相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

病によりて道心は起こり候(中)

~道心はいずこから~

太古の昔、人類はさまざまな意味で弱くもろい存在でしたから、自然に自らを支え育む存在に敬意を払い、怖れ敬って来ました。それが宗教の原型といってもよいでしょう。その後の人類の歩みにも宗教は功罪両面にわたって大きな足跡を残して現在に至っています。他方、現代では文化文明の発展や科学の進歩、政治システムや生活スタイルの変遷、宗教教団の堕落や魅力の欠如などによって、宗教が軽視されたり疎んぜられることも多くなってきました。

我が国は歴史や文化の上から大乗仏教ゆかりの国です。しかし、仏事や儀式、習俗や慣習となってさまざまな仏教由来の文化や思想は存在していますが、人々の日々の生活に溶け込んでいるとは言い難い様相です。したがって、仏教徒という自覚をもち、信仰生活を大切にしている方は少数派といっても過言ではありません。
また、冠婚葬祭やクリスマスなどの姿を見ても、仏教やキリスト教を中心とした宗教や信仰を用いることはあっても、その時だけ、形だけというのが実態で、その教えや信仰を肯定して敬うようなことは少なく、逆にカルト宗教や新興宗教などの愚かな言動やトラブルを見て、宗教そのものを忌避したり偏見を抱くことの方が多いように思えるのは残念な世相です。このような姿は宗教本来の崇高で尊い世界を伝え切れていない私たち日本の仏教信仰者の無力さを示してもいます。発憤して精進を重ねて行きたいものです。

《支え育んでいる存在を識る》
私たちは誰一人、「自分だけで生きている」ということはいえませんし在り得ません。自分という存在は両親の生命を継いだものであり、人生を歩むためには、数え切れないほどの人々のお世話になっています。また、天地自然の恵みと運行に支えられ育まれている存在なのです。
人間は自らの限界や有限性を識ることによって初めて生命や人生、社会や自然に謙虚な心を持つことができます。他方、何でも思い通りにできる、やれると考えている人、それが幸せだと思いこんでいる人、我が身の言動や振る舞いを反省しないような人が謙虚な心を持つことは難しいものです。
謙虚の押し売りをするつもりはありませんし、謙虚な生き方を貫くことで傲岸不遜な方などから軽んじられることがあるかもしれませんが、それでも冷静に人生や社会、環境や自然の営みに眼をこらせば謙虚にならざるを得ないのが事実です。また、謙虚な心は穏やかな人生、楽しい人生、たしかな人生、そして生死を超えた世界への安らぎももたらしてくれます。

前述のように人類の誕生と倶に原始的な宗教性は存在していたようですが、人類が歴史を積み重ねるうちに世界中に多くの宗教が誕生し展開され今日に至っています。宗教にはそれぞれに教えや価値観がありますが、通底しているのは「自分自身を支え育んでいる存在がある」という認識ではないでしょうか。その存在をキリスト教やイスラム教などでは神と称して敬愛し、仏教では法(ダルマ)もしくは仏・菩薩と称して尊崇します。その他の宗教でも同様に信仰の対象として敬っています。
「自分の力だけで生きている。己の智慧才覚で生きている。頼るべき確かなものなどない。信仰など心の弱い人がするものだ・・・」などと傲慢な心には仏神への信仰などが芽生えようがありません。

しかし、誰もが生老病死は免れませんし、自然災害や人的災害、事故や戦乱もいつ我が身に降りかかって来るかもわかりません。現実に被らなければ実感として考えられないというのは当然ですがやはり想像力が大切です。善につけ悪につけ、想像力は人生の智慧であり大きな力となるものです。
想像力の最たるものは自分自身を支え育んでいる存在を識ることではないでしょうか。私たちが人としての生命を頂戴したのには両親の存在があります。また、その両親にも両親がいて、遡れば人類の誕生や地球の誕生、宇宙の誕生までたどることができます。さらにその生命の誕生と維持継続には無量無辺のはかることのできないものが存在しています。宗教はその根本的存在を指し示している教えといえるでしょう。

前に述べた、仏法(仏の覚られたダルマ)や仏・菩薩、キリスト教やイスラム教などの神は、眼で見てわかる、ふれてみてわかるというものではなく、信じなければ観ることも感じることもできない存在です。これは仏像などを崇拝する仏教よりもキリスト教やイスラム教などの方が顕著といえるでしょう。
昔から俗に困った時などには「南無三(三宝尊、仏宝・法宝・僧宝に帰依します)」と唱えたり、「助けてください仏さま、神さま」と闇雲に言葉が出ることがあります。その姿に顕れているように、私たちが謙虚になり、信仰心を発す時は困った時や自分の有限性に気づいた時が多いものです。稀に信仰心や向学心から仏教に目覚める方を見かけることはありますが、一般的には悩みや苦しみを契機として、貧困や病気、事故や災害などに直面して信仰心を発すことが多いように思います。それはとても自然なことで、日蓮大聖人の「病によりて道心は起こり候」とのご教示の本意もそこにあると思うのです。

また、仏道への志(道心)は今世と来世、二世に安らぎと悦びをもたらすものです。道心のように謙虚で敬虔な心がなければ、人生や世相を「苦楽、喜怒、悲喜、好悪、利害、得失、損得、功罪、吉凶、栄枯、盛衰、明暗、晴雨、可否、強弱、・・・」などと対立的に観るばかりで、対比するものの根源にある絶対一元の世界の豊かさとおもしろさに気づくことはできません。
日蓮大聖人の『立正安国論』には「汝、信仰の寸心を改めて実乗の一善に帰せよ・・・」という言葉がありますが、どのような事態も心の持ち方一つで大きく様変わりするものです。あらゆる事物事象は変化して止まないのですから、けっして一時の事態を断定して落ちこむことのないように注意したいものです。私たち仏教徒は自身の有限性と諸行の無常を謙虚にみつめ、我慢・傲慢の心を調えて道心を起こし、日々の生活に仏法(仏の覚られた心身を支え育む存在)の智慧と功徳を味わって行きましょう。

相武山 山主

2023年10月28日

法華経の行者として生きる(下)

○不軽菩薩の振る舞い
この末法の法華経の行者としての振る舞いについては、釈尊の過去世の菩薩行を説いた法華経『常不軽菩薩品第二十』に、不軽菩薩の故事をもって明かされています。
そのあらすじは、遙か昔、威音王仏の滅後像法時代に一人の修行者が出現し、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)の人たちを行き会うたびに合掌礼拝して、「我れ深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」との二十四字を口に唱え讃歎する但行礼拝を行じます。

この菩薩は経典読誦等の通常の修行者が行う修行をせずに、ただ礼拝のみを行じたわけです。しかし、増上慢の四衆はその礼拝を受けて逆に怒ります。そもそも授記は仏のみ行うことが出来ますから、礼拝のみの修行しかしないこの無智な菩薩の虚妄の授記に侮辱されたと怒ったわけです。 そして四衆は悪口罵詈さらには杖木で打って瓦石を投げるという暴挙に至ります。これに対して菩薩は決して怒らず、迫害にあっては遠く逃げ去り、先ほどの二十四字を唱えながら礼拝を行じたので、四衆はこの菩薩を「常不軽」(バカの一つ覚えのように「私は常に軽んじません」と言い、礼拝しか出来ない能の無い奴)と軽蔑の意味を込めた名を付けたわけです。

この四衆から迫害を受けながらも但行礼拝行を続けた不軽菩薩は、命終する時に空中から威音王仏の『法華経』の偈を聞いて信受し六根清浄を得て、その結果延びた寿命の間に広く『法華経』を説きます。そして自分を迫害した四衆をも救ったと故事は終わります。最後にこの不軽菩薩が過去世の釈尊自身の姿であり、成仏の因行であると明かされるのです。
この不軽菩薩の二十四字には、一切衆生には仏性が備わり、敬うべき対象である。また差別無く全ての人々が菩薩の修行を実践すれば必ず仏となることができると述べられています。ですから但行礼拝行は法華経の平等思想たる一仏乗の教えと実践を表しているわけです。

中国天台宗の祖、天台大師智顗は『法華文句』において不軽菩薩は心に「一切衆生の仏性がある」ことを信じ、身にあらゆる人への礼拝行なして、口には「我れ深く汝等を敬う」との言葉を唱え、身口意の三業相応して、不軽の礼拝行をなしたと述べられています。
不軽菩薩はこの但行礼拝行のみを行って、法華経を聞いたり、説いたわけではありませんが、命終の際に法華経の偈が聞こえてきたと言うことは、不軽菩薩の振る舞いそのものが法華経の精神に適っていて、自然に法華経の教えを自得したことを意味しています。ですから不軽菩薩の振る舞いそのものが法華経の行者の振る舞いといえるのです。

○不軽菩薩と大聖人
大聖人様は不軽菩薩の唱えた二十四字が妙法蓮華経の五字と同義であり、但行礼拝行は折伏行と同行であって、不軽菩薩と大聖人様は共に法華経の行者であると仰せです。そして『聖人知三世事』に「我が弟子等之れを存知せよ。日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」と仰せになられているように、末法の濁悪な時代に、法難迫害を忍受しながらも、逆縁毒鼓の折伏行をもって妙法の五字を一切衆生に下種結縁すべく法華経の行者として、不軽菩薩の跡を継いでいるのだと理解するよう、大聖人様は私たちに仰せなのであります。

○法華経の行者の生き方
これまで法華経の行者について種々申し上げてきましたが、大聖人様は『崇峻天皇御書』にて「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞ひにて候ひけるぞ。」と仰せです。
不軽菩薩の但行礼拝の振る舞いこそが法華経の行者の実践すべき修行というわけです。つまり絶対平等の下、あらゆる人間を尊重し、自他共に成仏の境界に至れるよう精進することで、それが人の振る舞いであり、法華経の行者の振る舞いであると仰せなのです。

世間を広く見てみますと、現在ジャニーズ事務所の人権問題や、今年のノーベル平和賞を受賞し、今なお投獄中のイランのナルゲス・モハンマディ氏の人権問題、また昨年から続くウクライナ戦争や現在戦火が広がるイスラエルのガザ地区など、人の生命や人権、それらを侵害、蔑ろにするニュースが連日報道されています。
現代に生きる私たちは日蓮大聖人様の弟子檀越として、法華経に説かれる平等な世界、つまり人には皆違いがありますが、その違いを互いに尊重しながら、誰もが自分らしく尊厳をもって生きることが出来る社会を目指して、どのような働きかけが出来るのかを考えなければならないと思うのです。
この尊重をするということは相手の全てを認めるということではありません。失敗をしたり過ちを犯した人、その行為に対しては、やはり物事の是否を問うことは大事です。ですが、その根底には必ずあらゆる人の人権を認め、尊重するというお題目の精神がなければならないと思うのです。

私たちは末法の荒凡夫ですから、他者を好き嫌いや都合で判断し、相手を軽んじたり、蔑ろにしてしまうこともあるでしょう。ですが、自分を尊重してほしいのであれば、相手も尊重されるのが道理です。自分がされて嬉しいことを相手にして、自分がされて嫌なことは相手にしない。それが人の振る舞いであると私は思います。ですから、いじめやパワハラなどのハラスメントをしてはいけないわけです。

人は感情の動物で、心に善悪の両面あるのが私たちです。自分の思い通りにならない感情・心ですが、悪い感情に振り回されないよう唱題行に励み、自身の身口意の三業をより良い方向へ整え、普段から自分の周りの人を尊重して、法華経の行者たらんと法華経の教え、お題目の精神を実践して参りましょう。
そして法華経の行者としてお題目の精神を実践する場は、信仰の場はもちろんのこと、それぞれの与えられた環境である学校や職場、家庭等の普段の日常生活の場です。一般に信仰をするというと信仰の場のみを想像しますが、いわば信仰の場は練習として、日常生活の場が本番である言っても過言ではないと思います。

三業の説明の時に申し上げましたが、私たちの信心は御本尊様の前に座る時や寺院参詣等の信仰の場だけではなく、普段の生活に生かされていなければ、信仰をしていない人と何ら変わらない振る舞いとなってしまいます。さらにその振る舞いが法華経に背くものであっては、大聖人様の門弟とはいえないと思うのです。
ですから、いかに普段の生活の中で実践できるかということです。だからといって練習を疎かにしてはいけません。練習していなければ本番で力が発揮出来ないように、信仰の場でしっかりと唱題に励み、寺院参詣して仏法を聴聞し、大聖人様の教えを学んで、一歩一歩信心を深めていくことによって、実生活の中で、人生で法華経の教え、お題目の精神を実践できるようになるのです。

そして現代は信教の自由が保障されていますから国家権力から法難迫害を受けることはまずありませんが、人生は一切皆苦、辛いこと苦しいこと様々な壁が常に立ち塞がり、思い通りにならないのが人生です。私たち大聖人様の門弟は、そのときに いかに法華経の教えを胸に、お題目の力を頂きながらその問題を超克できるかが試されているのです。

○法華経の行者たる想いを胸に
最後になりますが、ここ数年は新型コロナウィルスの感染拡大のため、全国の寺院・布教所では様々な活動が自粛をよぎなくされました。今なお払拭できたとは言えませんし、コロナ禍前とかなり状況が変わってしまいましたが、本日の御会式を契機として志しを新たにして法華信仰を深めていって頂きたいと思います。

大聖人様は『諌暁八幡抄』に「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。」と仰せであります。門弟である我われは大聖人様の激励の言葉に応えるべく、法華経の行者たらんとの誓願を胸に、上求菩提・下化衆生を掲げる菩薩道を歩み、お題目の精神を自分の人生に。そして社会に。実践して参りましょう。
本日は日蓮大聖人様御会式御正当法要にあたり、「法華経の行者として生きる」と題して法話を述べさせて頂きました。ご清聴、誠にありがとうございました。

相武山 執事

2023年10月26日

法華経の行者として生きる(上)

本日は日蓮大聖人様御会式御正当法要、誠におめでとうございます。
まだまだ若輩者ではございますが、本日の御会式にあたり「法華経の行者として生きる」と題して少々法話を述べさせて頂きます。どうぞ楽な姿勢でご聴聞下さい。

○御会式の意義について
皆様すでに御存知と思いますが、御会式は、弘安五年(1282年)十月十三日武州池上の地で御遷化遊ばされた日蓮大聖人様の、そのご命日忌に報恩謝徳の真心で奉修する法要です。殊に富士日興門流では末法の法華経の行者である大聖人様を「末法下種の仏」と仰ぎ、「滅・不滅、常住此説法」の深い意義を込めて奉修致します。

○法華経の行者
さて私たちは日蓮大聖人様を末法の法華経の行者と拝するわけですが、この「法華経の行者」とは法華経に説かれる教えをそのままに修行し、実践して成仏をめざす人を指します。
大聖人様は『撰時抄』にて「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」と仰せられ『開目鈔』や『土木殿御返事』等、様々な御書に自身が法華経の行者で有ることを自覚し、宣言をされています。法華経には「この経を仏滅後護持弘通する者は法難迫害に遭う」と説かれていますが、実際に様々な法難迫害に耐え、一切衆生救済のため妙法を下種された大聖人様は、まさに末法の法華経の行者としての御生涯を歩まれたのです。

また大聖人様はご自身だけでなく、竜口法難の際に宗祖と共に腹を切らんと覚悟された四条金吾や佐渡流罪中の宗祖を鎌倉から訪ねられた日妙聖人、そして熱原の法華講衆等の弟子檀越へ、「あなたも法華経の行者である」とその信仰心を讃嘆されています。
大聖人様の弟子檀越はそれぞれ置かれた環境、立場は様々ですが、『十章鈔』には「南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候はんずらん。」(全集1275)と仰せになり、賢者愚者、貴賤差別関係無く、お題目を唱えることで法華経の行者となることが出来ると仰せになっております。
私たちが法華経の教え、お題目を信仰するということは、大聖人様や先達の弟子檀越のように「法華経の行者」の境界へと至り、成仏を目指すためなのです。

○身口意(しんくい)の三業(さんごう)
この法華経の行者について「南無妙法蓮華経と申す人」と仰せですが、これは身口意の三業にわたってお題目を受持するという意味です。身口意の三業とは、人間の一切の行為を身体と口と心に分類したもので、身体的な行動、言葉を発すること、心であれこれと思う心の働きです。この三つの働きは別々にあるのではなく、互いに関係し繋がっています。また、三業には善悪があり、苦楽の結果をもたらします。

では、お題目を身口意の三業でお唱えするとはどういうことかと申しますと、身をもって法華経の教えを実践すること、生き方・振る舞いが法華経の教えに適っていること、お題目を一心に唱えること、そして法華経の教えを心から信じるということです。この三業が互いに背かず一致することを三業相応といい、この状態がお題目を受持するということになるわけです。
また、三業は互いに影響し合いますから唱題によって信心が深められたり、また順番があるわけではありませんから、信心から唱題を始める人もいれば、お題目を勧められて信心を始める人もいるでしょう。どちらにしても、いずれは三業相応してお題目を受持することが大事なのです。

この三業が常に相応し、お題目を受持できれば法華経の行者であると名乗れるわけですが、私たちは末法の荒凡夫ですからその状態をなかなか維持できません。時にはどれかが欠け、三業が一致しないこともあるのが私たちの存在です。そもそも、自分の心や身体、口を完全に理解し、コントロール出来ていないから、私たちは悩み苦しむわけです。そのような存在の我々が法華経の行者の境地にいたる為には、お題目を信じて唱題に励み、振る舞いを正して精進していくことが肝要となるのです。

この身口意の三業の中で、心の働きというものは目には見えません。心は見えませんから、私たちは自分が思っていることや伝えたいことは、言葉と行為・振舞をもって相手に伝えます。反対にその人がどのような人なのか何を考えているかを判断するためにはその人の発言・行為をみて判断していくわけです。
一般的に「人を判断するとき、その人の行動を重視しなさい。」といわれます。口から発せられた言葉は大変大事です。しかし、簡単にデタラメや嘘を言うことも出来るのが口です。では、行動や振る舞いはどうでしょう。口を動かすことと比べれば嘘をつきにくい、本心が出やすいのが行動です。例えば美辞麗句を並べたところで粗野な振る舞いを続けたり、親が子を大事と言いながらも虐待を加えたり、無関心であればどうでしょう。どちらが本心だと思いますか?信心も同様です。如何に法華経のお題目を唱えていようとも、暴力的で他者を差別するような法華経の精神とかけ離れた振る舞いをして、果たしてお題目の信仰をしていると言えるでしょうか。

大聖人様は法華経を口に唱え、心に堅く信ずることは勿論のこと、法華経の教えを実践する「色読(身読)」を重視されています。私たちは唱題に励み信心を深めると同時に法華経の教え、お題目の精神を自らの人生に活かし、実践していくことが肝要だと思うのです。

○末法の法華経の行者とは地涌の菩薩
それでは実践するべき法華経の教えについて申し上げますと、法華経に一貫して説かれる教えとは平等思想たる一仏乗の教えであり、それは菩薩の教えとなります。だれもが法華経を信じて発心し、上求菩提・下化衆生の誓願を立てれば菩薩となり、そして菩薩道を行ずれば平等に成仏が叶うと説きますから、法華経の修行者とは菩薩行を実践する人といえるわけです。法華経の『如来寿量品第十六』には「我本行菩薩道」(我れ本菩薩の道を行じて)と説かれており、釈尊も久遠の過去世に菩薩の道を行じて成仏したと仰せです。
また釈尊は滅後この法華経を弘通する者を募られますが、付嘱が授けられたのは上行菩薩を上首とする地涌の菩薩であります。広義では法華経を受持する者を法華経の行者といいましたが、末法という時代に於て法華経の行者とは地涌の菩薩の流類なのであります。

相武山 執事

2023年10月25日

令和5年度御会式を奉修

《御宝前お飾り》
令和5年度の日蓮大聖人御会式を10月14日(土)、15日(日)の両日にわたって奉修しました。9月から檀信徒有志の方々と御宝前荘厳のサクラの花をつくり、10月1日には境内堂宇を有志の皆さまと浄めて当日の御会式を迎えた次第です。お飾りとお供えの餅はここ数年のように、かつて和菓子職人であった小原さんと執事の興厳房の手作り。11日(水)、半日かけて小原さんと興厳房がお餅をつき仕上げました。小原さんのご指導宜しく興厳房も腕を上げているようですが未だまだ向上の余地も残しているようで、今後の充実が楽しみです。

無事にお供え餅と飾り餅もできあがり、果物や杉の葉などの準備をして御宝前のお飾りです。近年は御逮夜法要の前にお飾りをして、小憩後にお手伝い頂いた檀信徒の方々を中心に御逮夜法要を執り行っています。
午後1時からのお飾りは事前に御宝前前机の両側に飾り台を設え、台座に胴藁の支柱を立てて置きました。はじめに胴藁に竿餅と飾り棒を法輪をかたどった胴帯で締め、その上部に、柿とみかんを置き、三角餅、手餅、あられ餅、などを飾ります、上部の周囲には杉の葉とシキミを入れ、最上部に皆さん手作りの桜の花を立てて荘厳。最後に台座の周囲を山折り半紙でかこみ、約1時間でお飾りは完成しました。

《御逮夜法要》
14日(土)午後3時から御会式の前夜祭となる御逮夜法要を奉修。以前は夕闇のせまる午後6時頃からの開式でしたが、近年はお飾り後、引き続いての開式としています。これは現在の妙法院では参詣者がバス停からの夜道(徒歩3分ほど)に不安を覚えるのではないかと懸念してのことです。
少し早めの御逮夜法要には約30名の檀信徒が参詣。コロナ禍で参詣者が少なかった昨年までよりは多くの方に参詣頂きうれしく思いました。今年はご案内のハガキをお届けしたこともありますが、やはり新型コロナが感染症5類に変更されたことによるものと思います。
法要は荘厳された御宝前に参詣されたご信徒を迎えて定刻に開式。如法(仏の教法にかなっていること)に法華経要品(方便品、寿量品長行)を読誦、献香(仏祖三宝尊に香を献ずること)、自我偈の前で磬一打、まず、執事の興厳房が第九世日有上人の申状を奉読。続いて住職が『立正安国論』を奉読。自我偈の読経は訓読。勤行時のように音読ではありませんが、妙法院では折々に自我偈を訓読していることもあり、皆さんあまり戸惑う様子はなく朗々とお読みになっていました。その後、法華本門のお題目をお唱えし、報恩感謝の誠をささげました。

法要後の住職挨拶では、御会式が日蓮の門弟にとって重要な意義を持っていること。また、日蓮大聖人の教えが大乗仏教の根本精神である「現実世界を直視して仏道の修行に励み、まことの幸いを味わうこと」にあると解説。御会式を好機に日蓮が弟子との自覚に立って倶に精進しようとのべられました。

《御正当法要》
御会式の法筵を浄めるかのような降雨も朝方には上がり、静かで穏やかな気配の中で御正当法要を迎えました。今年は4年ぶりに教区の僧侶もご臨席。法会には約40名の檀信徒が参詣。開式10分前には司会進行の阿部一博さんによる「御会式の意義について」。参詣者一同、式次第の裏にプリントされている御会式の解説文を確認しました。
法要は司会のことばで定刻に開式。参詣者唱題の裡に住職が御宝前に進み、仏祖三宝尊への献膳。続いて法華経要品の読誦、参列僧侶の献香、教区僧侶による御先師の申状奉読、住職による『立正安国論』の奉読がなされ、自我偈は御逮夜法要同様に訓読でなされました。

法要後の講演は当山執事の興厳房。講題は「法華経の行者として生きる」でした。
はじめに御会式の意義について略述し、次に『撰時抄』や『土木殿御返事』を引いて日蓮大聖人が末法の法華経の行者であることを解説。その御自覚と振る舞いは「身・口・意の三業にわたってお題目を唱える」ものであり、私たち門弟はその道しるべをしっかりと見据えて仏道を歩んで行こうと講演。
その内容としては「末法の法華経の行者とは地涌の菩薩。修行の相は不軽菩薩がお手本。不軽菩薩と日蓮大聖人。法華経の行者としての生き方」を解説。最後に『諌暁八幡抄』の「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」を拝読し講演を結ばれました。
(詳細は相武山だより11月号をご覧ください)

講演後には新倉昇三さんが講頭挨拶。「愚かな凡夫の身としては、身・口・意の三業にわたってお題目を唱えることは難しいが、少しでも大聖人様の御心に近づけるよう精進したい。菩提寺である妙法院を仏道の依所としてしっかりと外護して行こう」と述べました。
住職挨拶では「日蓮の門弟は法華信仰を人生に活かして行かねばなりません。仏法を学び修めて如何に活かすかは各自の生涯の課題。法華経や日蓮大聖人の教えには人生の宝となる教えが豊かに説かれている。仏法信仰にご縁を結ばなければ三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)に流され侵されたような人生に陥りやすい、仏法信仰は三毒をコントロールするもの。あらゆる価値は心から生ずるが、その心は善悪の外縁に振り回されやすい、宗祖は『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とご教示。心を修めるためには、仏法の真理を顕す御本尊を拝し、仏法の智慧であるお題目を唱えて我が心を磨き上げることが肝要」と述べました。

法要の時間が長くなりましたが最後は「お花くずし」。太鼓に合わせて参詣者がお題目を唱和するなか、御宝前のお供物が下げられ、荘厳のさくらの花がくずされます。下げられたお供物(らくがん、りんご、かき、みかん、餅など)は帰路につく参詣者に、さくらの花と一緒に振る舞われました。
※落雁は鹿児島市の上行院さまからのお供えでした。
コロナ禍前に比すると参詣者が少ない気もしますが、時間外に参詣されたご信徒もおられるなど、いつもながらに檀信徒の皆さんのまじめなご信心にふれることのできた御会式でした。今年も無事厳かに執り行うことができたことを住職として心より感謝しています。

相武山 山主

2023年10月22日