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相武山 妙法寺 ブログ

病によりて道心はおこり候(上)

~ 驕りを知る ~
私ことながら秋の彼岸会を執り行って間もなく脊柱管狭窄症の手術のために入院し、11日間ほど妙法院を離れました。当然のこと事前に法務や管理については種々準備し、執事の興厳房も法務の遂行に問題はありませんから安心して入院治療させて頂きました。

周知のように人生には病気や怪我や事故はつきものでまったく特別なことではありません。周囲を見ても身体的、精神的な障害を抱えながら厳しい人生を歩んでいる方は大勢おられます。しかし、若い頃より健康に恵まれていた私にとっては、72年の人生で初めての入院と手術でしたから、手術の決断と入院生活はそのすべてが学びであり、日蓮大聖人が「病によりて道心はおこり候」と仰せられた言葉を味読することとなりました。
(※「道心」とは仏道を求める志のこと)

手術を決断するまではなんとか手術をしないで治療する方法はないものかとあれこれ考えていたので多少の不安もありましたが、当山の御本尊に祈りをささげて手術を決めた後は私も仏弟子の一分、すべてを御仏大聖人様にお任せして不安を覚えることはありませんでした。術後が良ければまさに幸いであり、思うようにならずとも歩行不全のような状態からは少しは増しになるでしょうし、さらに厳しい状態になったとしても、それはそれで私にとって何かしらの意味があることだと覚悟したからです。仏教では如何なる状況におかれようともそこには必ず何らかの意味があると教えています。その教えを信じられるか否かが私にも問われました。

手術に至る下肢の不全と診療の経緯などは、以前に日曜法話会などでお伝えしましたが、
「数年前から下肢に不快感と痛みなどを覚えたために、3~4年ほど前、近くの病院二カ所で受診しましたが『加齢でしょうか・・・』という程度の診察で適切な治療を講じることなくいたずらに日を送り、昨年末から今春にかけて、痛みが増して歩行に支障を来すようになりました。その日によっては歩行も不安定になり、しだいに間欠性跛行となったので、素人ながら私の見たては『脊柱管狭窄症』。
最近の医療ミスなどの報道などから、医療と医師への意識を変えて、『医師は選ばなければならない』と意を決し、以前にも増して脊柱管狭窄症の解説書と治療書を読みこみ、次は適切な診察と治療を委ねる医師と病院を探しました。かかりつけの内科医や友人などから数名の医師を紹介され、その中から二人の医師に診察を受け、服薬やリハビリ、運動療法などを数ヶ月重ねました。しかし、狭窄が厳しくその範囲も腰椎の1番の下から5番の上までと広いため、最終的には除圧手術をすることを決断。診察を受ける過程で信頼できる医師に手術をお願いした。」
ということです。

【すべては縁起に因る】
仏教ではあらゆる存在は「縁起によって存在している」と説いています。この縁起こそ釈尊の基本的覚りとされるものであり、この真理から「諸行は無常(あらゆる存在は変化してやまない)」、「諸法は無我(あらゆる存在に固定化したものはない)」へと展開して行きます。この縁起論は仏教の基本的な思想ですが真理そのものですから、仏教で明らかにされようがされまいが厳然とした法理ということになります。仏教宗派ではさまざまに教えが説かれますが、この縁起の教えをはずしては仏教とはいえません。それほど縁起の思想は仏教にとって大切な教えであり、この真理と教えは人生の智慧となるものです。

仏教の四苦八苦を示すまでもなく、病はいつ誰のもとに訪れるかわかりません。老衰も病のうちに収めるならば病は人生の必然といってよいでしょう。私の病も医師の診察によれば特別なことではなく、今までの生活の有り様からもたらされたものだと納得しました。
私は仏教の縁起思想を得心し、あらゆる事物事象は縁起によって成り立っていると観ています。健康であることも健康であるすべての要素が調って健康であるに過ぎません。その条件(因縁)がほんのわずかでも損なわれるならば、健康を害し、病や障害を得ることになるというのが縁起の示す真理です。

世間一般では『突然に病気になった』と言ったり、『突然怪我をした』などと言いますが、仏教では「いつ病気になってもおかしくない存在が、稀に諸条件が調って今この瞬間健康でいるに過ぎない」と考え、「いつ怪我や事故に遭遇してもおかしくないのに、たまたま遭遇しなかったために、今は健常であるに過ぎない」と考えることを教えています。
幼くして仏門に入った私は幸いにも若い頃からその道理は耳目にふれていました。したがって知識としては理解していますから、法話や個人の相談などでもよく縁者の方にお伝えしてきました。きっとご信徒の方は幾たびも聞かれたことがあると思います。しかし、読んで理解している、聞いてわかっている、ということと、我がこととして意識の底にしっかりと落ちているということは別物のようですから、やはり揺るぎない認識をもたなければなりません。

健康に恵まれていると健康であることが当たり前に思えて、その貴重さに気づきにくいものです。しかし、熟く考えると健康ばかりでなく、人生には当たり前などということが一つもないことは誰もが気づくことでしょう。ただ、残念なことはその気づきは恵みを失ってからとなることが多いのです。誰もが「病気になって初めて健康の有り難さを知る」と言われます。また、「孝行したいときに親はなし」とのことばもよく聞かれます。親子、家族、友人、仕事、学校、会社、地域、自然・・・・・、すべて当たり前に存在しているのではりません。そのすべてが実は有り難いことなのです。

現在、有り難いとは感謝の言葉として用いられていますが、本来、「そのように有ることが難しいこと」を意味することばです。すなわち、「めったにないこと、稀にしかないことが、今、もたらされている」と実感したときに語られる言葉なのです。そこには悦びと敬愛の想いがこめられています。
前述したように仏教では「あらゆる存在はさまざまな縁起(諸条件が複雑に連関する)によって、今そこに存在している」と説いています。表現をかえれば「我々のすべては有ること難い存在なのです。当たり前などいうことは一つもありません」となるのではないでしょうか。

【健康の驕り】
原始仏典のダンマパダ(法句経)には直訳ではありませんが、「三つの驕り」が説かれています。そこには釈尊が出家前の自身を回想し、自分には「若さのおごり、健康のおごり、生存のおごり」があったと内省が示されています。
若さのおごりとは、若いがゆえに自分は老いや死と無縁であるかのように思い込むこと。健康のおごりとは、健康であるがゆえに自分は病や怪我などとは無縁であるかのように思い込むこと。生存のおごりとは、生命が有限であるにもかかわらず永遠であるかのように思い込むことです。
「若さ、健康、いのち」の対語は「老い、病い、死」となります。多くの人々が求めるのは前者であり、忌避しても必ず迎えなければならないのが後者です。諸法の実相(あらゆる存在のまことのすがた)を求めて仏道を歩まれた釈尊は、この厳しい真理を覚られ、仏道以前の自身の驕りを反省されたというのです。

仏典には以下のように説かれています。
「若い時から老いるまで、健康な時から病気になるまで、生きていた時から死ぬまで、すべてのものは変化する」と。
すなわち、「すべてのものは変化するものであり、永遠なるものものはないこと。このことから、若さ、健康、生命も、いずれは変化し、失われてしまうものであると解釈できる」したがって、「若さ、健康、生命の驕りとは、これらのものが永遠に続くものであると思い込むことである」と解釈することができます。

驕りという自覚はなくても、それらの存在が不変であると誤解することは愚かなことだと教えられているのです。このような思考は私たちが仏教の教えを理解する上で重要なポイントとなります。驕りを自覚し誤った思考と感覚を解放することで、私たちは苦悩から解き放たれ真の幸福へと近づくことができるのです。
日蓮大聖人の「病によりて道心は起こり候」とのご教示は、実に示唆に富んだ言葉で、くみ取り方一つでいかようにも思索が広く深く展開されます。私自身、人生初の入院と手術に向きあって改めて健康の驕りに気づくことができたのもその一端だと思います。
(つづく)

相武山 山主

2023年09月30日

秋のお彼岸

我が国では『暑さ寒さも彼岸まで』といわれますが、今年は秋の彼岸を迎えてもまだ暑さが続きました。国連事務総長が「地球沸騰の時代・・・」というほどで、令和5年(2023)は世界中が猛暑に襲われました。きっと酷暑の年と記憶されることでしょう。それでも朝夕は少し涼風が流れるようになりましたから自然の営みはたしかなようです。

秋のお彼岸は7月と8月にお盆の供養を勤める家庭が多く、一般的には春のお彼岸に比して菩提寺や墓所への参詣は少ないようですが、当山ではまじめな檀信徒の方々が多く、春も秋もあまり変わりなく彼岸中には朝から夕べまでお参りの姿が境内にありました。

秋の彼岸の入りは20日(水)。午前10時40分、執事の興厳房が三師塔に参詣。香華をささげ、懇ろに読経・唱題、御三師に彼岸会の御報恩を申し上げました。興厳房は引き続いて永代供養墓「久遠廟」に参詣。お塔婆を建立し、お参りに見えていた柴さんと一緒に香華を手向けて読経唱題。久遠廟納骨の諸精霊に追善の供養を申し上げました。その後、樹木葬墓地に向かい、お塔婆を建立し、香華を手向けて読経唱題。樹木葬墓地埋葬の諸精霊に追善の供養を申し上げました。

彼岸の法要は23日(土)、24日(日)の両日、午後1時から執り行いました。法要は唱題裡に仏祖三宝尊への献膳、ご先祖有縁精霊へ霊供膳、そして、法華経要品を読誦。参詣者は読経中にお塔婆が建立された精霊壇に進み、懇ろに追善のお焼香をささげました。
法要後の法話には『土籠御書』
「日蓮は明日佐渡国へまかるなり。今夜のさむきに付ても、ろうのうちのありさま、思やられていたはしくこそ候へ。あわれ殿は、法華経一部色心二法共にあそはしたる御身なれは、父母六親一切衆生をもたすけ給へき御身也。法華経を余人のよみ候は、口はかりことははかりはよめとも心はよます。心はよめとも身によます。色心二法共にあそはされたるこそ貴く候へ」
《現代語訳》
「日蓮は明日、佐渡国へ赴くことになった。今夜の寒さに付けても、牢の中の苦しさを思い、気の毒で仕様がありません。貴殿はみごとに法華経一部を身と心で読まれたので、父母・兄弟等の六親を始め、一切衆生をもお救いなされる身である。
およそ法華経を読む人は、口で言葉ばかりを読んで、心では読まない。たとえ心で読んでも、身で読むことはない。それを身でも心でも読まれたのだから、まことに貴い限りであります」
を拝読。

はじめに春秋の彼岸法要は仏教に基づく仏道修行の時であり、仏教徒は煩悩におおわれた娑婆世界の此岸(此の岸)から、清浄で安らぎに満ちた仏の世界の彼岸(彼の岸)に向かうことを願って執り行われていることを解説。
「仏教徒は此岸に生きていることを自覚して彼岸を目指すことが大切」。さらに「大乗仏教・法華経では、この世界を、自分の人生そのものを、仏法信仰によって彼岸として生きることを教えている」。日蓮の門弟は「法華経と日蓮大聖人の教えを燈明とし、鏡として自らを磨きながら人生を歩むこと。その相がそのまま、来世の安らぎに通じる」とお伝えしました。

拝読御書については、龍ノ口法難に由来し、宗祖の真筆が遺る「五人土籠御書」を脚色したもののようであるが、宗祖の教えに違背する内容ではなく、門弟僧俗の信行に資するようご教示として拝読したことを説明。宗祖が「身・口・意の三業(さんごう)に南無妙法蓮華経の唱題をなすことの功徳を賞嘆し、その信行が末法の成道であること」を述べ、彼岸会の法話としました。
法話を聴聞し功徳を積まれた参詣者は各自建立のお塔婆を受け取り、境内内外の墓地や久遠廟、樹木葬墓地に香華を手向けるため帰路につかれました。

相武山 山主

2023年09月24日

変化を識る(仏教の叡智に学ぶ)

9月の日曜法話会は10日(日)午前11時からの開催。
8月がお休みでしたので、2ヶ月ぶりの法話会でした。冒頭は恒例の法話会の趣旨「仏教に親しみ、その教えと信仰について正しい理解を。法華経の教えや日蓮聖人の教えにふれる。」について説明。また、「何ごとも継続が肝要。仏道は求める姿勢が基本であり、仏教のおしえを地道に積み重ね人生に活かしてほしい」とお伝えしました。
お寺の役割(僧俗修行の場、信仰を磨く場、仏教を学ぶ場、心を浄め癒す場、仏教や伝統や文化を護り伝える役割等々)と法話会が2部構成(「世相に想う」世相を仏教の視点から観る。「仏教に親しむ」仏教の教えと信仰を学ぶ)であることも説明。

今月は1部の世相に想うと2部の仏教に親しむ共通のテーマ「変化を識るー仏教の叡智に学ぶー」でした。
はじめに「仏教の基本思想の一つである『諸行無常(あらゆる存在は変化してやまない)』は、人生をより良く生きるための智慧。『あらゆる存在は変化してやまない』ということは否定することのできない真理であり、説明をじっくりときけば誰もがうなずかざるを得ません。バラモン教(ヒンドゥー教)のような神秘主義や不思議主義に与しなかった釈尊は、その教えの中心に『真理・道理』を据えたのです。仏教は真理を尊ぶ教えであり、真理を求める教え」であることを解説。
普遍の真理や道理は、時代や社会、人によって受容されるか否かで変わるということはなく、「変化を識る」ということは真理であると共に人生を歩むための智慧であり、自身の安らぎのためにもよく理解し、佳き変化を楽しむような日々であってほしいとお伝えしました。

レジメにそって、まず仏教について「仏教の教えは真理を伝えるもの(真理は仏法もしくは妙法)。仏教は釈尊の覚られた真理を経典によって伝えてきた(仏教で経典を大切にする理由)。アジア全域に伝播した釈尊の仏教は各地で受容されたがそこには変遷と興廃が存在している。」ことを説明。
次に「教えを大切にする仏教」。日本の仏教は当初鎮護国家のための仏教であったが、やがて学問仏教から総合仏教と変遷し、平安中末より専修(せんじゅ)仏教が中心となって現代に至っていること。専修とは「座禅によって禅定を専ら修め成仏を求める禅宗」であり、「阿弥陀仏への絶対帰依である南無阿弥陀仏の念仏行を専らにして、極楽往生を願う浄土宗や浄土真宗」であり、「専ら南無妙法蓮華経のお題目を唱えて法華経(妙法)への信を決定し成仏を願う日蓮法華宗」の教義と信仰を略述。しかし、いずれの仏教宗派でも「仏教の教えを学び伝え人生に活かす」ことが求められていると解説。

続いて釈尊の誓願について。
「仏教がすべての人々の現実の生活に活かされることが大切。儀式や法要、歴史や文化、観光や癒やしも仏教が担うべき役割だが、仏教を創始された釈尊の願いは、その教えを人生の燈とし、日々の生活に活かされることにある。仏教徒はその教えを己の人生に体現することが求められている。現代に正しく仏教を信行する者は、この時代とこの社会に理解されるように努力しなければならない。仏教の教えを現代の人々と社会に活かすことがこの時代に生きる仏教徒の使命」であることをお伝えしました。

続いて仏教では「諸行は無常。すべては変化して止まない存在。すべての存在は縁起所生の存在であり、因縁を条件として生じているにすぎない。因縁が変わればすべての存在は変化する」と説いているように、すべての存在は一瞬たりとも同じ状態ではなく、常に変化しているのが真理。感情では理解しにくくても理性をもって受容し、理解を深めて心の安らぎを得ることが肝要です。

変化の諸相について
変化にも善と悪があり、「社会制度や生活環境、教育や道徳、さまざまな価値観・・・」があることを識ることが大切。変化の多面性をレジメでは以下のように示しました。
①時代の変化(旧石器、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、 室町、戦国、江戸、明示、大正、昭和、戦前、戦後、平成、令和)
②社会の変化(社会制度、身分制度、政治、産業、文化、信仰・・・)
③生活の変化(衣・食・住、家庭、職業、交通、通信・・・)
④環境の変化(自然環境、生活環境、国家や世界の環境・・・)
⑤医療の変化(医学、薬学、死生観・・・)
⑥価値観の変化(家庭、教育、思想、宗教、文化、習俗、道徳、・・・)
⑦自らの変化(誕生、幼少期、青年期、壮年期、熟年期、老年期、)
⑧その他(家父長制の変化、葬儀やお墓などの儀式や習俗・・・)

また重ねて「善悪共に変化を識ることが大切」として、
「変化(諸行は無常)は真理であり、己の感情によって左右されない。変化を認識することは理性であり、受諾するか否かは個人の見識。変化を認識することは、自らの判断の基礎となり、次の展望が開ける機縁となる。変化したという事実の多くは後になってわかる。しかし、その前に気づくことが大切。変化の兆しに気づくことができれば、その後の対応にも活かせる」を説明しました。

ここで、今、話題の「原発処理水」問題。
原発処理水問題を正しく理解するためにも、「NHKの原発処理水Q&A」と「日本における原子力利用のこれまでとこれから(経済産業省 資源エネルギー庁)」を参考資料として提示、改めて日本における原子力利用の変化を識ることの大事さをお伝えしました。

小結の1として
「時代や社会の変化は客観的に理解しやすい。それでも意識を欠くと見失い、気づかない場合がある。できるだけ自分の身の上に置いて考えてみることが大事。己の変化に気づくことは少し難しい。人生を歩む心身は気がつかないほどの微妙な変化の連続。幼子は身近な者が気がつかないほどの変化の連続で成長している。高齢者は気がつかないほどの微妙な変化の連続で、老いと病と死に向かっている。変化が連続していることを理解することが大切」。
小結の2として
「連関している環境(時代と社会)と自己。人生は出会いと選択の連続。時代や社会に大きな影響を受けて変化する自己。他方、一人ひとりの変化が時代や社会を変化させてもいる。自己と環境や社会は互いに影響し合っているのが真実」と私見を述べました。

学ぶべきこととしては
「変化を識ることによって、より良い人生、より良い社会の構築を願うことができる。変化にも善悪があり、それを受容するか否かは自身の見識による。変化に対応するためにも自らの見識を高めなければならない。変化を怖れるのではなく、楽しむような心の持ち方を涵養したい。人生はそのすべてが学びであることを知る」。
をお伝えして9月度の日曜法話会は終了。
(詳細は相武山だよりのウエブ動画をご覧ください)

相武山 山主

2023年09月22日

龍ノ口法難会

9月10日(日)午後1時から龍ノ口法難会を執り行いました。午前中の日曜法話会から引き続いての法要には約20名ほどの檀信徒が参詣。御宝前に供物をお供えし、参詣者と倶に読経・唱題、真心からの御報恩謝徳を申し上げました。

日蓮大聖人は文永8年9月12日、生涯最大の法難であり、仏道のクライマックスとなった「龍ノ口法難」を迎えました。御年50歳のことです。宗祖は建長5年、32歳の立教開宗から18年間、身命を賭して法華最勝、唱題成仏を弘通されました。しかし、その結果が世相を争乱させる悪党としての断罪されたのが龍ノ口法難です。
釈尊は末法の法華経の行者には三障四魔が競い起こると予証されましたが、宗祖は大難四カ度、小難数知れずと法難重畳の人生でした。その中でも斬首という最も厳しい法難が「龍ノ口法難」だったのです。古来、龍ノ口法難の折りに信徒がぼた餅をささげたという伝説があり、法難会は別名を「ぼた餅御講」とも称されています。

法要後の法話は執事の興厳房が担当。
寺泊御書
「或人日蓮を難じて云く、『機を知らずして麁(あらき)義を立て難に値ふ』と。或人云く、『勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違す』と。或人云く、『我も此の義を存すれども言はず』と云云。或人云く、『唯教門計りなり。理具は我之れを存す』と。・・(略)・・『悪口して顰蹙し、数数擯出せられん』。数数とは度々なり。日蓮擯出衆度、流罪は二度なり。法華経は三世の説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来は不軽品為るべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為るべし」を拝読。

はじめに御書システムの「解題」から、当該御書が「現在千葉県中山の法華経寺に現存していること。佐渡配流途上、寺泊で船待ちの寸暇をもって土木殿に宛てた書状であること。冒頭十月十日依智を出立し、寺泊までの十二日間の行程と、佐渡への渡航の機を待つ御心境、すなわち大難は『法華経』『涅槃経』の予言通りであって本より存知のことである」と、その梗概を解説。

拝読御書について
「『或人難云』と、宗祖への批判を取り上げられ、『勧持品』・『不軽品』の色読が強調されていることを説明。『勧持品』と『不軽品』は根底において通底しており、法華弘通のゆえに大難を受ける日蓮はその両品を色読する者。日蓮は不軽菩薩であり、また勧持品の八十万億那由陀の菩薩の代官であるとの気概が示されている」と解説。
身命に及ぶ法難を超克して到達した宗祖の御心を想い量る法話でした。

相武山 山主

2023年09月20日