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相武山 妙法寺 ブログ

春季法門研修会を開催

4月16日(日)、午後1時から春季法門研修会を開催。
この研修会は春夏秋冬の四季に開催。法華宗日興門流のご法門をじっくりと学ぶための研修会です。当山の行事や法要ではそれぞれに必ず法話がなされますが、2時間から2時間半ほど基本をふまえ、整理した内容で丁寧に御法門を学ぶ機会としているものです。
午前中の日曜法話会に引き続いての研修会でしたが、コロナ禍の落ち着きを反映したのか18名の信徒が参加されました。はじめに方便品と自我偈の読経、唱題をつとめて行学の増進を祈念しての開催。

今回は日蓮大聖人の遺文御書の『顕仏未来記』を最初から最後まで拝読する研修会。4月度の宗祖御報恩講に顕仏未来記を拝読して法話(住職のウエブ動画を参照)を申し上げたのですが、許された時間が短く、ポイントしかお伝えできなかったため、ご信徒と一緒に丁寧に拝読したいと願っての企画です。

御書の拝読の前に御書システムの「解題」についての説明。御書システムは岡山興風談所の方々によって作成運営されているシステムで、日蓮教学を修学するためにインターネットで一般公開されているシステム。現在の御書研究では先端にあるとされているものです。解題の説明にあたって、日蓮遺文御書には真偽問題や真偽未決、偽撰御書などの問題があることを略述。遺文御書の研究が必要なこと、現在も着実に研究者によって研鑽が続けられていることなどをお伝えしました。
解題では該当御書の来歴や編纂目録などの経緯が解説され、さらに御書の概要まで説明されています。御書システムのなかでも重要な位置を占めるもので、この解題を手引きとして学ぶことは御書の修学に大いに貢献することでしょう。

顕仏未来記の解題では、御書の来歴から確かな遺文であることを述べ、
続いて、
「本書は冒頭に『薬王品』の「後五百歳中広宣流布」の文が掲げられ、一往は仏の滅後更に天台伝教にも値遇できぬ末法の世に生まれたことを悲しみ、しかしながら再往これを考えれば「後五百歳中広宣流布」との金言を実践できることは大いなる悦びであるとし、以下その確信と根拠が綴られている。

先ず後五百歳の文に当たるのは日蓮のみに限ることではないとの疑問に対し、後五百歳において正法を弘通することの困難なことを経釈を用いて説示され、しかるに不軽菩薩の如く、大謗法者の充満する逆縁の世にあって「後五百歳中広宣流布」の金言を実践するのは日蓮一人であり、日蓮無くば仏語は虚妄となるであろうと述べる。
更に日蓮が法華経の行者であることは認めるとしても、天竺漢土更に余の三州にそれに勝る法華経の行者がいるのではないかとの疑問に対し、妙楽の『文句記』、遵式の『天竺別集』により、天竺・漢土には既に仏法は滅尽しており、いわんや法華経の行者はいるはずがないと述べられる。

そして、自身の未来記として過去仏の出現に際し前代に超過する大瑞があったように、正嘉より今に至る大地震及び天変地異等はまさに仏の如き聖人の出現する大瑞であるとの確信が述べられる。
最後に伝教の『法華秀句』に示される法華経流布の担い手の系譜、釈尊→天台→伝教にならい、それに自身を加えられて「三国四師」とすると述べられている。「三国四師」の用語は本書をその嚆矢とする。
また、「後五百歳中広宣流布」が、不軽菩薩の逆縁の弘通になぞらえられていることは、一方に順縁広布の願望があったにせよ、現実的実践的問題として結果として法義の根幹をなすものであり、宗祖の法義理解の上で特筆すべきである。」
を紹介。

その後、顕仏未来記の原文を通して拝読。現代語訳を中心に丁寧に読み進め、「法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云。予一たびは歎きて云く・・・・・中略・・・・・答へて云く、汝日蓮を蔑如するの重罪又提婆達多に過ぎ、無垢論師にも超えたり。我が言は大慢に似たれども、仏記を扶け如来の実語を顕はさんが為なり。然りと雖も日本国中に、日蓮を除き去りては誰人を取り出だして法華経の行者と為さん。汝日蓮を謗らんとして仏記を虚妄にす。豈に大悪人に非ずや」までを講義。
続きは次回夏季法門研修会(8月27日)に修学することになり、充実した学びの時間を過ごした参加者は午後4時10分、帰路につきました。

相武山 山主

2023年04月30日

生活のすべてが仏道

日曜法話会の第二部、仏教に親しむでは「生活のすべてが仏道 ー法華経の教えー」がテーマ。
はじめに日本の仏教について「インド思想と中国思想の融合された中国仏教が基本。日本古来の自然崇拝、祖先信仰などと融合。飛鳥時代に伝来した当初から大乗仏教が主流。大乗仏教を日本的に発展させた仏教」と解説。

続いてその歴史は「小乗仏教(上座部仏教)を兼学。八宗兼学(南都六宗に天台宗と真言宗)。四宗兼学(円密禅戒)もしくは(天台、密教、念仏、禅)。貴族仏教から庶民仏教への展開。専修仏教(浄土宗、禅宗、法華宗)へ」と展開したことを説明。

その上で、法華経の教え『分別功徳品第十七』
「如来の滅後に、もしこの経を聞いて、毀呰せずして随喜の心を起こさば、まさに知るべし。すでに深信解の相と為すなり。いかにいわんや、これを読誦し、受持せん者をや。この人は、すなわちこれ如来を頂戴したてまつるなり。」
《現代語訳》
「如来が入滅した後に、もしも、この経典を聞いて傷つけたりそしったりすることなく、心から喜びを感ずるならば、心して知れ。すでにこれこそ深い信解の姿である。ましてや、経典を読誦し、受持する者の功徳はなおさらである。この人は、すなわちこれ如来を頂いている人である」を紹介。

次に日蓮大聖人の『災難対治抄』
「止観に云く『若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり』。弘決に云く『礼楽前に駆せて真道後に啓く』」。
《現代語訳》
天台大師の摩訶止観には「もし深く世間の道理を知ればそのままにして仏法の教えである」とあり、妙楽大師の止観弘決には「かの礼楽の思想が先駆けとなったので、真の教えである仏教が後に弘まった」を紹介。
続いて『観心本尊抄』
「天台云く『雨の猛きを見て竜の大なるを知り、花の盛んなるを見て池の深きを知る』等云云。妙楽云く『智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る』等云云。天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」。
《現代語訳》
天台大師の法華文句には「『雨が激しく降るのを見て、それを降らす竜の大きさを知り、蓮華の花が盛んに咲くのを見て、その池の深さを知ることができる』と述べ、妙楽大師は文句記に『智恵ある人は物事の起こる由来を知り、蛇だけが蛇の道を知っている』と記している。天が晴れれば大地が明るくなる道理と同じように、法華経の教えを深く知る者は、天変地夭などの世間の出来事の意味を知り得るのだろう」を紹介。

さらに『檀越某御返事』
「法華経を十二時に行ぜさせ給ふにては候らめ。あなかしこあなかしこ、御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』とは此れなり」。
《現代語訳》
「これまで通り、変わらずに出仕されることこそが、法華経を昼夜に修行なさることになると存じます。くれぐれも、主君に仕えることが、そのまま法華経の実践であるとお思いなされよ。天台大師の『あらゆる世間の生活と産業は、みな仏法の真実と相違しない』というお言葉は、そういう意味である」を紹介。

日蓮大聖人の教えの結びは『白米一俵御書』
「まことのみちは世間の事法にて候。金光明経には『若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり』ととかれ、涅槃経には『一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず』と仰せられて候も、妙楽大師法華経の第六の巻の『一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず』の経文に引き合はせて心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。
法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経々の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申す。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則ち草木なり。
爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず、月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。此れをもってしろしめせ。白米は白米にはあらず。すなはち命なり」。

《現代語訳》
「真実の仏の道というものは、世間の事法の中にこそあります。たとえば、金光明経には『もし深く世間の道理を知れば、そのままにして仏法の教えである』と説かれ、涅槃経には『世間に流布するすべての外道の経典はみな仏の教えであって、決して外道の考えそのものではない』と説かれていますが、妙楽大師はこの二つの経文と、法華経の第六巻の『世間のすべての家業や生業はみな実相と違背しない』という経文とを比較して、前の金光明経と涅槃経の二経は、一見すると深い心の教えのようであるが、法華経と比較した場合はまだ及ばない浅い教えなので、世間の法を仏法に事寄せて教えている。

一方、法華経はそうではなく、そのまま世間の法が仏法の全体であると教えている、と解釈されているのです。法華経以前の諸経では『すべての法は心から生じる。よって、心は大地のようなものであり、その上に生える草木はすべての法のようなものである』と教えます。片や法華経はそうではなく、『心はそのまま大地であり、大地はそのまま草木である』と教えます。また、法華経以前の諸経では『心の澄むのは月のようであり、心の清らかなことは花のようである』と教えますが、法華経はそうではなく、『月こそが心であり、花こそが心である』という教えなのです。以上のことから推し量られよ。このたび供養された白米はただの白米ではなく、命そのものです」を紹介。

大乗仏教の精華「法華経」では仏法信仰者の生活のすべてが仏道であると説かれ、日蓮大聖人は遺文御書に法華経の信仰者は現実生活の一つひとつが仏道の修行であると明示していることをお伝えして4月度の法話会は終了。
来月の日曜法話会は5月14日の開催。皆さまの参加をお待ちしています。
《詳細は相武山だよりのウエブ動画をご覧ください》

相武山 山主

2023年04月28日

芽吹きと初舞台

木々が一斉に芽吹き瑞々しい新緑に境内がおおわれた4月16日、24名のご参加を頂いて4月度の日曜法話会を開催。ご信徒と一般の方はそれぞれ半数ほどでした。今月は初めてという方は居られませんでしたが、法話会の趣旨と第一部の世相の解説から、プロローグとして日本仏教の歴史的な展開や現代の仏教学などを略述してスタート。

第一部世相のテーマは「芽吹きと初舞台 ー時を意識して志を立てるー」。春は芽吹きのとき、四季のある日本では春を迎えると自然環境が一変。すでに皆さんご承知のように、3月までの冬枯れから一斉に花々が開きはじめ木々が芽吹く情景から、桜の花が散り葉桜になる頃、新緑の世界が広がる現状を共感します。
また、芽吹きは大地の躍動を伝えています。人間も自然界の一部、自然の営みは我々の心身にも大きな影響を与えます。心と身体は互いに影響し合っていること。心と身体、両面の健康が大切であり、心身のしくみとそのはたらきを学びその調和(バランス)に配慮することが肝要であることを説明しました。

《時を意識する》
何ごとも「今は自分にとっていかなる時であるか」を知ることが大切。幼少年期、青年期、壮年期、熟年期、老年期・・・。より良い人生のためには、時代やその環境をよく識る必要があります。私たちは「今何をなすべきか」を考えて人生を歩まねばなりません。失敗などからは学ぶことも多く、再チャレンジは可能ですが、時(タイミング)をはずせば得ること成すことが難しいことを知ることも大事です。
日蓮大聖人の報恩抄「春は花さき秋は菓なる、夏はあたたかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。」《現代語訳》「春には花が咲き、秋には実が結び、夏は暖かく、冬は冷たい。これらはそれぞれの時節がなせる営みというものではないか」のお言葉をお伝えしました。

《新年度を迎える》
日本の新年度は4月1日。
「年度」は暦年とは異なる区分で定めた期間のこと。年度の期間で一般的なのは「4月1日 ~ 翌年3月31日」を1年間とした区切り方。国や地方自治体の会計年度はこの区分を採用。官公庁などが予算に沿って業務を行う期間は「会計年度」、学校の学年の切り替わりは「学校年度」と説明。会計年度が4月1日になったのは1886年(明治19年)からのこと。(アメリカでは政府や公共機関は10月から始まり翌年9月で終わる)

年度の変遷については、江戸時代の寺子屋や藩校、明治初期の学校では入学時期や進学時期について特定の決まりはなく、明治になって西洋式の教育制度が導入され一斉入学一斉進級を採用したこと。ドイツやイギリスの教育制度を参考にしたため入学時期は9月。4月入学になったのは国の「会計年度」に合わせたことによります。
学校は政府から運営資金を調達するため。また、軍隊の士官学校の入学時期が4月となったため。士官学校の入学時期が4月に変更となると、9月始まりだった一般の学校は「優秀な若者が士官学校に先取りされてしまうかもしれない」と考え、こぞって4月始まりへと変わったといわれ、大正時代の頃には学校年度は完全に4月始まりになったことを説明。

入社年度も学校年度が4月となったことで卒業が3月。企業への入社も4月となりました。世界では9月始まりが主流。入社の時期などはまちまちであることをお伝えしました。
(世界でも日本のように新年度を4月開始とする国は珍しく、グローバルスタンダードに合わせて我が国でも学校年度を9月とすることが検討されています)。

《初舞台に立つ》
どのような舞台(学校、会社、地域、サークル、グループ、初体験・ ・・)でも初舞台に立つときは皆少なからず緊張感と高揚感が在ります。性格が一人ひとり異なるため緊張感にも強弱はありますが、振り返ってみれば幼子が幼稚園や小学校に入園、入学する時はもちろん、受験を経ての中学、高校、大学への入学。「新規入社、初体験、初対面、転居、地域コミュニティ、趣味・・・」と初舞台で緊張しない人は稀でしょう。高齢者となっても初舞台に臨むことがありますから、そのような人には温かく接して応援して上げたいものです。

不安と恐れを越えるために「未知のことや未体験のことに不安や恐れがあるのは当然。失敗や間違いは誰にでもあること、失敗を極端に怖れない。少しの勇気を出すこと。周囲は温かく励ますこと。反省は大切だがいやなことは忘れることも必要、引きづらない。」という思考に向かうことが大切です。

心は調えられますし鍛えることも可能です。自らの心身を調えるために宗教や信仰を求める方も少なくありませんし、仏道で勤行や祈りが勧められる理由もそこにあります。また、真摯な人生には一つも無駄なことはありません。間違いや失敗は人生につきもので誰もが経験することで、成功よりも過ちや失敗によって気づくことの方が多いものです。まじめな心で取り組んだ行動は時間を越えて己の心身を利益することになり、成功体験は驕りや傲慢さに通じやすいものであることをお伝えしました。

結びに「芽生えと初舞台の時季」にあたり、「時を意識して志を立てよう。あるがままを認めて自他倶の幸いを祈るのが大乗仏教菩薩道の教え。初舞台に立つ人々は自分を信じて少しの勇気を出し、それらの人々にふれたら家族ではなくても大いに応援しよう」と所見を述べました。
《詳細は相武山だよりのウエブ動画をご覧ください》

相武山 山主

2023年04月27日

4月度の御経日とペット慰霊法要

当山では毎月「一日」に「御経日」を執り行っています。一日はその月のスタートとなる日ですから、信仰の有無を問わず月ごとのけじめを大切にする方にとっては意識する日といえるかもしれません。「今、この瞬間が大事」と意識することは大切なことですが、また、時間にけじめをつけるということも同じように大切なことだと思います。昨日が今日になっただけのことかもしれませんが、週や月、季節や年が変わったことを意識して、自身の有限性となすべきことを確認することになるからです。
仏教では事物事象のすべては因縁縁起によると説き、諸行は無常と観ますから、あらゆる事物事象は変化してやまないと考えます。したがって、いつ何がどのように変化しても不思議ではないとして、善悪、遇不遇、好悪、幸不幸、健病、等々、今の現状を「当たり前」などと考えることはなく、恵まれていることには感謝をして、恵まれていないことにはやがて善い変化が起きるように心のバランスをとることを教えています。

我が国の仏教寺院の多くでは「一日参り」が行われていますが、参詣の僧俗は月の初めに自身と家族、さらには社会の安寧を祈り、お参りする寺院の護持伝承を願って居られのでしょう。法華経の行者である日蓮大聖人も新年を迎える心得の大切さを説かれていますから、当然、月の変わり目も大切にしていたのではないでしょうか。日蓮法華宗の寺院でも毎月一日に月例の行事が行われているゆえんです。
法華宗日興門流では大石寺の開基檀那である南条時光殿の御命日が5月1日であることから、門下の寺院ではそのご報恩の意義も込めて一日に「御経日」が執り行われています。法華経と日蓮大聖人の教えを信仰する僧俗は知恩・報恩を旨としていますから、一日には大過去帳記載の永代供養の追善がなされ、有縁精霊や先祖精霊への塔婆などが建立され回向がなされます。

当山でもご信心の篤い方々が参詣になり、仏祖三宝尊へご報恩申し上げると倶にその月の仏道精進を誓願しておりますが、まことに仏法護持の上から実に尊いことと思います。
御経日では、法華経要品読誦、焼香、唱題と如法に勤められ、法要後には御書を拝読して法話がなされます。御書は妙風新聞の「御心を拝して」を拝読。一昨年よりは執事の興厳房が法話を担当しています。4月は都合で私が「新尼御前御返事」を拝読。宗祖のふるさと房州のご縁ふかいご信徒への手紙から、宗祖のふるさとへの想いとご両親への追慕の情、そしてご教導の振る舞いについてお伝えしました。

御経日の後は恒例のペット墓「慈愛」慰霊供養法要。
今年の慰霊法要は天候に恵まれ、名残のサクラを見上げながらの法要でした。御経日の法要で建立回向されたペット諸霊の塔婆はペット墓の横に供えられ、参詣者一同、自我偈を読誦、南無妙法蓮華経の唱題。読経中には参詣者が墓前に進みお線香をお供え、埋葬ペット諸霊に追善の供養をいたしました。
ペットへの概念は近年大きく変化し、昔のように畜生、家畜、番犬などという表現は不適切となっています。皆さん生活を共にした家族の一員としての認識ですから「うちの子」とよばれるような存在ということです。当然、慰霊追善の塔婆の書き方も不適切な表現は変化しています。
すべての生命を尊重する大乗仏教、その精華である法華経を信仰する私たちはペットの有無かかわらず、より多くの方々とともに動物愛護の精神を大切にしたいと願う慰霊法要でした。

相武山 山主

2023年04月26日

思うにならぬを愉しむ

日本の春はやはりサクラでしょうか。全国のいたるところに名所と呼ばれる場所があり、身近な川辺や里山、寺社や住宅にまでサクラが花開き、それぞれ春を愛でる人々が集い、早朝に照り輝く頃から陽の落ちた夜ザクラまでその風情を楽しんでいます。

今春のサクラ(ソメイヨシノ)の開花はかなり早く、温暖化への懸念を抱かせますが、里山のような環境にいるとサクラばかりでなく植物全体の開花が年々早まっている気がします。地球温暖化の警鐘が鳴らされて久しく、自然科学者など有識者ばかりでなく、各国、各地域で現状と未来に対しての思索と検討がなされています。最終的にはこの地球に生命を頂戴した一人ひとりの認識と対応が問われていることになると思いますが、事態を憂うる人は、自分にできるささやかなところから行動を起こしているようです。

私たちの日本仏教では「恩を知り、恩に報いる」ことが説かれています。私たちは多くの人々から有形無形の支えや助力を受けている存在であり、また、天地自然の霊妙な運行の恵みを享受して人生を歩んでいます。当然、温暖化にも注意を配りその改善に努める役割があるのです。より多くの方がサクラを愛でると倶にその開花の早さから温暖化への想いを深めてほしいと願う春です。

妙法院と市民の森のサクラはお彼岸の前半までは順調に開花して行きました。しかし、彼岸の後半から数日は雨天に寒さが加わり、すっきりとした青空の花見とはならず、今一気分が乗りません。やはり天気の影響は大きいなと改めて感じた次第。その反面、4月に入るまで長く風情を楽しむことができたことと、自分の勝手な気分ばかりが先行してものを見ていることにふと気がついて、雨にうたれるサクラをじっとみていると、そこには氷雨とサクラというアンバランスに捉えられがちな光景にも意味があるように思えて、曰く言いがたい感慨を覚えました。

さて、何ごとにもいえることですが、ものごとはすべて表と裏、陰と陽、正と負、得と失、利と害、勝と負、遅と早、喜と怒、苦と楽、若と老、健と病、成功と失敗、など、およそ相反する二つの表現によって一つのすがた(相)が示されます。一つの相には二つの相反するものが内在しているのですが、私たちは単純に一つの相しか認識しないことが多いので本当の相を見失いがちです。

内在しているものの存在に気がつけば、相反するように見えるものは実は一つの存在の両面であることがわかります。そしてそれらは固定されたものではなく、限定された時空における一側面であることを知るのです。

前述の今春のサクラのように、雨天や冷気によって思うような花見ができなければ花を長く愉しむことができますが、春陽が続いて花見を満喫すれば花が舞うのは早いものです。どちらが正解とか好みの問題というのではなく、所詮、天気は思うにまかせぬのですから、自然の摂理のあるがままを愉しむことがおもしろいのではないかと思うのです。

誰もが思うようにならなければ、おもしろくなく不愉快にもなって、落胆したり希望を失ったりするものですが、相反するものが一つの相を示しているだけであり、それも限定された時空によるものと知れば、それほど失意に陥ることはありません。失敗をしてこそ成功の喜びがあり、苦労を味わってこそまことの悦びを得ることができるのです。病に冒されてこそ健康に感謝することができ、死をみつめることによって人生の貴重さがわかります。人生では失ってこそ得るものがあると思うのです。
氷雨に濡れるサクラを見ながら「思うにならぬを愉しむ」ような心のゆとりは、人生の妙味ではないかと思った次第です。

相武山 山主

2023年04月01日