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相武山 妙法寺 ブログ

災禍を生きる

当山の雑木林には2本の河津さくらがあり、例年他のサクラに先駆けて2月中旬から咲き始めます。今年は少し遅い感じでしたが19日の日曜法話会にはピンクの可愛い花が開きました。19日は午前11時から2月度の日曜法話会。あいにく小雨が舞うような天候でしたが、約30名ほどの方が参加聴聞され久しぶりに本堂がにぎやかな感じでした。

今月のテーマは2月6日に発生したトルコ・シリア大地震をうけて「災禍を生きる」仏教の基本思想である一切皆苦にふれながら現実を認識する大切さを述べました。初めて参加の方も居られましたから、レジメの上段に示している法話会の趣旨をお伝えし、続いて世相を仏教的視点(大乗仏教)から所見を述べる理由を説明しました。配布した資料は法話内容のレジメとトルコ・シリア大地震の地図と被災状況の画像、さらに参考として地震のメカニズムである「日本列島のプレート状況」です。

初めに人生ではさまざまな災禍に遭遇することから、人生は「災禍を生きる」ことといえることをお伝えしました。そもそも災禍ですが「災も禍も共にわざわいのこと」です。天災や事故によって受けるわざわい。思いがけない災難。災害のことで、「災は自然によるもの、禍は人の世の不幸を意味するもの」といわれています。ちなみに3年前からの新型コロナウイルス感染拡大による災禍は「コロナ禍・・・」と説明。
中国の『戦国策』には「聖人の事を制するや、禍を転じて福と為し、敗に因りて功を為す」と述べ、「ふりかかってきた災難の見方を変え、幸福への糸口にするのが徳の高い人の振る舞いである」とあります。戦国策とは、周の安王 (前 402即位) から秦の始皇帝にいたるまでの約 250年間における戦国時代の遊説の士の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に分類し編集した書物(全33篇)のこと。ここには避けられぬ災禍への心構えが説かれています。

《トルコ・シリア大地震》
「2023年2月6日(月)4:17トルコ南東部(シリアとの国境付近)でM7.5の大地震が発生。同日13:24にも近くでM7.5の大地震が連続発生。トルコとシリアの両国で甚大な被害。18日現在、両国の死者数は45,000人以上と報道されているが被害の実態は不明」というトルコ・シリア大地震の概要を説明。
次にトルコとシリア両国をめぐる地域社会状況は実に複雑であり、「民族、宗教、文化、歴史等に起因するさまざまな問題。ながく続くシリアの内戦。イスラム原理主義者ISの活動。国を持たない最大の民族クルド人(2500万人~3000万人)問題・・・など」混乱の渦中にある地域であることを解説。

『予備知識として』
トルコ共和国(通称トルコ)が、「東ヨーロッパと西アジアにまたがる国。古代ギリシャ、ペルシャ帝国、古代ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国との文化的な結びつきがある。国土面積 783,600 km²。人口:8478万 (2021年)。西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる。
北は黒海とマルマラ海、西と南は地中海(西はエーゲ海)に面する。陸上国境は、西でブルガリア、ギリシャと、東でジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと接する。国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島(小アジア)と最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブールは、古代からヒッタイト、フリュギア、リディア、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)など様々な民族・文明が栄えた地。」
と説明。その歴史についても略述しました(ここでは割愛)。

《世界有数の地震国と最新情報》
今回の大地震について
「トルコ周辺には複数のプレート(岩盤)が存在し、それぞれの活動によって平時から地下に複雑な力が加わっている。纐纈(こうけつ)一起・慶応大特任教授(応用地震学)によると、6日に発生したマグニチュード(M)7・8の地震はトルコの国土の大半がのったアナトリアプレートと、その南東側にあるアラビアプレートの境界部の東アナトリア断層で発生したと考えられる」を紹介。

最新情報としては時事通信社による
「トルコ地震の死者4.5万人超に=発生11日後に3人救出」
『トルコのソイル内相は17日、同国南部で6日に起きた大地震による死者が3万9600人以上になったと明らかにした。アナトリア通信が伝えた。隣国シリアと合わせた犠牲者数は4万5000人を超えた。トルコでは地震発生から11日たった17日も、倒壊した建物のがれきに閉じ込められた人の捜索が続いた。地元メディアによると、南部ハタイ県では新たに男性の生存者が278時間ぶりに発見され、この日だけで3人が救出された。』を紹介。

また、TBS NEWS DIG Powered by JNNによる「トルコ・シリア地震 死者4万5000人超今も救出続く」
『トルコとシリアを襲った大地震による死者は、合わせて4万5000人を超えました。
発生から12日目となりますが、今も救助される人が出ています。地元メディアによりますと17日、トルコ南部のハタイ県で45歳の男性が地震発生からおよそ278時間ぶりに救出されました。発生から12日目となりますが、今も救助される人が後を絶ちません。
懸命な救助活動が続く一方、両国で死者は増え続け、トルコでは3万9000人を上回り、シリアでは5800人以上となっていて、合わせて4万5000人を超えました。トルコ政府は17日、地震によって倒壊したか、今後、倒壊するおそれがあり、緊急に撤去すべき建物が8万4000以上あると発表しました。
警察当局は倒壊した建物の中には耐震基準に達していないものが少なくなかったとみて責任追及を進めていて、これまでに83人を逮捕しています。』を紹介。今回の大震災被害ではこの地域の建物の耐震が脆弱で、人的災害として厳しく指摘されていることもお伝えしました。

《東日本大震災から12年》
2011年(平成23年)3月11日14時46分頃に発生したM9.0の東日本大震災から今年は12年。日本仏教では第13回忌の追善法要が営まれます。この大地震では東北地方を中心に12都道府県で地震と火災、大津波によって2万2312名の死者・行方不明者が出ました。
未だ生々しい記憶ですが、すでに「首都直下型地震。東南海トラフ地震。富士山の噴火。・・・」と次の大地震や噴火などの自然災害が予想され、専門家ばかりでなく行政からも注意喚起がなされていることを紹介。

《災禍は疫病・戦禍・犯罪におよぶ》
続いて災禍は自然災害ばかりでなく、疫病の流行や戦争、事故や犯罪など人的災害、環境破壊などからももたらされることを説明。
『コロナ禍』
「コロナ禍は3年におよび、その感染禍によって世界中に多数の死傷者が出た。大小に関わらず経済的損失を多くの人が蒙った。社会環境などにも変化をもたらした。家族や就業、生活環境に影響を受けた人も少なくない。」ことを略述。
『悲惨な戦禍』
ロシア軍ウクライナ侵攻から1年
「昨年2月24日、ロシア軍がウクライナに武力侵攻して1年。ウクライナでは深刻な戦争被害(多数の死傷者と多くの難民)。停戦が見えない壮絶な戦争。ロシア・プーチン大統領の強欲な野望。ウクライナは徹底抗戦を標榜・・・」を略述。
『突然の人的事故や凶悪犯罪』
「人生に絶対に安全などということはなく、いつ・どこで・どのような事故に遭遇するかはわからない。身近な家庭などでも思いも掛けない事故が起きる。」
凶悪な犯罪に巻き込まれることもある。
直近の強盗殺人事件「暗躍する犯罪集団と闇バイト」から「フィリピンを拠点とするニセ電話詐欺事件で、窃盗容疑で逮捕状が出ていた渡辺優樹容疑者(38)ら4人全員が強制送還。今後。詐欺や広域強盗事件の捜査が本格化する」を紹介。
「いつの世もさまざまな理由による犯罪が発生している。犯罪者の心理は容易には理解できない。誰もが犯罪者になる可能性と誰もが被害者になる可能性がある・・・。」と説明。日本は安心安全の国といわれているが果たしてそうだろうか?

現代日本は礼儀正しく穏やかな国民性、道徳心と見識の高さなどから極めて治安が良い国となっているが、今後は予断を許さない・・・。精神の寛容を怠り、利己主義が蔓延すれば、いつ危険な国となるかはわからない」と述べました。
以上のような現実から、人生は「災禍を生きる」という覚悟をもって歩まねばならないとの所見をお伝えしました。
※法話会の詳細は相武山だよりのウェブ動画を御覧下さい。

相武山 山主

2023年02月27日

冬季法門研修会

興師会に引き続いて冬季法門研修会を開催。現在、妙法院では年に4回法門研修会を開催しています。各法要行事で法話を聴聞して御法門を学ぶことはできますが、まとまった時間をとって本宗の教えと信仰をじっくりと学ぶことも大切だと考えての企画です。昨年は法華経の概要と法華経要品の現代語訳を読み進めましたが、今回は興師会に続いての研修会なので日興上人の身延離山を中心に上代日興門流の歴史を学びました。テキストは御書システム辞書「日興上人身延離山」です。

初めに日蓮諸門流ではそれぞれに正統意識が強く、ためにいらぬ混乱が見うけられることを説明。日蓮大聖人の教えと信仰を正しく学ぶためには、その教えを学問的に研鑽すると倶に、門流教学についても学問的批判に耐えられる説明が必要であることを解説しました。
日興門流も正嫡意識については他門に負けることはなく唯我独尊のレベルにあるといっても過言ではありませんが、やはり、学問的な裏付けがなければむなしいものです。盲信と迷信、一方的な確信だけでは説得力に欠け、現代社会では通用しないものとなり、ひいては日蓮大聖人や日興上人にも傷をつけることになりかねません。これが近年、富士日興門流で正信覚醒運動が興起したゆえんでもあります。妙法院では学問的裏付けも大切にしながら宗開両祖の教えと信仰を継承して行きたいと願っています。

《日興上人の身延在住とご離山》
宗祖滅後、その百箇日忌(弘安6年(1283)正月)を期して『墓所可守番帳事』が定められましたが、ほぼ一年程で崩壊した模様で、日興上人の『美作房御返事』によれば、翌年10月の宗祖三回忌も直弟子諸師は身延の御廟に参詣せずにそれぞれの地で奉修したようです。それには宗祖入滅の混乱や、「鎌倉法難」と呼ばれる為政者による迫害なども関係したのでしょう。
いずれにせよ、そのような中で、同年暮から弘安8年正月にかけて日興上人の身延住山と民部日向師の学頭就任が老僧達の了解を得て決定・開始されたようです。しかし、日向師の教導の下に地頭・波木井実長が一体仏を造立、三島神社に参詣し神馬を寄進、福士の塔供養等の謗法を犯したために、日興上人は正応元年(1288)12月初旬に離山を決意されたようです。

上人の離山の意志を知った波木井実長の子息清長は同月5日に『誓状』を日興上人に送りました。そこには「もし、身延沢を御出候へばとて、心変をもつかまつらず候。おろ(おろか)にも思い進らせず候。又、仰せの候御法門を一ぶんも違へ進せ候はば、本尊ならびに御聖人の御影の憎まれを清長が身に厚く深く被るべく候」とあります。
この清長誓状に対して日興上人は同月16日、『原殿御返事』を送っています。そこには身延を離山するに至る詳しい経緯と自らの心情が述べられています。
ことに後段に述べられた
「身延沢を罷り出で候事・面目なさ本意なさ・申し尽くし難く候えども、打ち還し・打ち還し・案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ、日興一人・本師の正義を存じて・本懐を遂げ奉り候べき仁に相当つて覚え候えば、本意忘るること無く候」
とのお言葉は、富士日興門流の原点であり正信覚醒運動の道しるべとなるものです。

また、波木井実長の謗法三箇を列挙した後に、「此の事共は入道殿の御失にては渡らせ玉ひ候はず。偏ヘに諂曲したる法師の過にて候へ」とあり、民部日向師の邪義に離山の原因のあることが明記されています。
翌2年1月21日の波木井日円消息『与越前公御房書』では、日興上人がまだ身延沢に滞在していることを波木井実長が喜んでいる様子が見えますが、その後、上人は多くの弟子と共に大井を経由して富士に赴かれました。
後に、「五一の相対」と称される日興上人と他の五老僧との対立も身延離山のきっかけとなっています。大石寺第六世日時師の『日興上人御伝草案』には、五老僧が申状に「天台沙門」と記したのに対して日興上人が「日蓮聖人弟子」と書いた結果対立し、それに波木井氏が五人方に同意して身延離山となった旨が記されています。

《日興上人の身延離山について》
堀日亨師の『富士日興上人詳伝』には、京都・本国寺に宗祖遺文『善無畏抄』の日興上人書写本があり、その紙背に身延離山関係の消息数通が存在する旨を記していることを紹介。また、日朗『身延離山書』、日親『伝燈抄』、日眼『五人所破抄見聞』、日教『百五十箇条』には日向師以外の五人一同の身延離山を記しているが、現在の日蓮教学の研鑽によって(興風談所・池田令道論文)、五人離山説が右述の「悪口の状」と通称される日円消息に対する解釈の誤りから発生したと指摘されていることを紹介。文献考証の難しさを学びました。
富士門流の要法寺開山日尊師の『尊師実録』から「尊仰せに云く、日興・日向の対論は和光利物の一偏なり。没後の今においては既に三代に及ぶ。二聖は同一浄土帰寂にして曾て鬱憤を残し給うべからざるなり」を紹介。
続いて望月歓厚氏の『日蓮宗学説史』には、「興師離山の問題は祖山継承問題を中心として、波木井氏の不用意なる社参等について寛容派と厳粛派との異見を生ぜしなるべし。…尚、五一の異見、之が副因となりしは又明らかなり」とあることを解説しました。

《法礎を築く》
前述のとおり、上人は同2年(1289)春に駿州河合を経由して富士郡上野の南条時光の領地に赴き住坊を創建(後の大石寺)されました。翌3年10月13日に通称「譲座本尊」を弟子日目に授与し法を内付したとされます。その後、重須地頭・石河能忠妙源の懇望により同地に移り、永仁6年(1298)2月15日には御影堂・垂迹堂を建立して重須本門寺の寺基を築き、その後36年この地で門下の育成等に従事されました。
御書システムでは「この時、日興上人の年齢が宗祖が身延に入山した時と同じく53歳であったことは注意すべきであろう。また、同年に『弟子分本尊目録』(同121)〔50890〕を作成し、それまでの弟子・檀越の信謗の境目を明示している」と解説しています。

その後、正安2年(1300)に民部日向師の門より寂仙日澄師が日興上人に帰伏。重須談所の初代学頭となりました。正応2年(1289)正月・嘉暦2年(1327)8月・元徳2年(1329)3月等と数度公家武家に諫状を進め、また門下の日目、日順、日代、日妙等を奏聞代官として天奏を遂行せしめていることを紹介。
この間、『五人所破事』『富士一跡門徒存知事』において五老僧との異目を明示し、更に本門寺建立や曼荼羅本尊義等を教示されていること。また、『安国論問答』や『諸宗要文』等の著作・記録、総計60余篇にも上る宗祖御書の書写、90通以上の自筆消息、さらに300幅以上もの自筆書写本尊の現存格護が特記されることを紹介。
正慶2年(1333)正月、末代門徒のために条目『日興遺誡置文二十六箇条』を定められ、2月7日、重須本門寺大坊にて入寂されたことを説明。『日興上人御遷化次第』が現存することを紹介しました。

その後の重須本門寺は上人の外戚の甥と伝えられる日代が坊職を委ねられましたが、上人滅後一年目に惹起した「方便品読不問答」での本迹迷乱等が原因で日代は西山へ退出、その後の重須は日妙によって管領されたことを解説。
講義の途中に小憩をはさみながら午後4時20分に冬季法門研修会は終了。参加聴講の皆さまにはご苦労様でした。これからも倶どもに御法門を学んでまいりましょう。

相武山 山主

2023年02月26日

興師会を奉修

2月7日は富士門流開祖日興上人の祥月の御命日。富士門流では「興師会・芹御講」として親しまれている法要です。当山では三師塔裏手の白梅もようやくほころび始めた2月5日(日)午後1時から興師会を奉修しました。御宝前に上人が好まれたと伝わる芹をお供えし、参詣者と倶に法華経要品を読誦、南無妙法蓮華経の唱題をおつとめして懇ろに報恩謝徳申し上げた次第です。コロナ禍も落ち着いてきたこと、興師会の後には冬季法門研修会も予定していたために17名のご信徒が参詣されました。

法要後の法話では、「日興上人は日蓮大聖人が選定された六老僧のお一人。伯耆房と号し、白蓮阿闍梨と称されました。上人は寛元4年(1246)3月8日、甲州鰍沢に誕生と伝えられ、大聖人の弟子となられたのは正嘉年中とも文永初年の頃ともいわれています。青年期に宗祖の厚い薫陶をうけながら修行に精励。
文永8年(1271)の宗祖佐渡配流に随従して2年半に渡る流罪中に常随給仕。またその間に佐渡の道俗の教化に努めて後世の佐渡国法華講衆の基礎を築かれました。
宗祖は佐渡流罪赦免の後に身延山に入山されますが、その入山の機縁に日興上人の存在があったことは想像に難くありません。また、甲斐と駿河に教宣を張られた上人が身延在住の宗祖の外護に勤められたことも自明です。
宗祖晩年に惹起した熱原法難では、宗祖の導きのもと門弟僧俗を激励して大きく仏道の貢献をしています。ことに宗祖の佐渡期から身延期に日々近侍され、その教えと信仰の核心を会得されたことは容易に想像されます。

宗祖の入滅後は甲駿地域の弘通に励まれるとともに身延の御廟所をお護りされ、後に身延に在住されることになります。しかし、民部日向師と地頭波木井実長の謗法により身延を離山。
正応2年(1289)春に駿州河合を経由して富士郡上野の南条時光の領地に赴き住坊を創建(後の大石寺)。さらに重須石川氏の懇請をうけて永仁6年(1298)2月15日重須に談所を開き、その後36年この地で門下を育成され妙法流布の礎を築かれました。
正慶2年(1333)正月、末代門徒のために『日興遺誡置文二十六箇条』を定め、2月7日重須本門寺大坊にて示寂。世寿八十八歳。」と日興上人の御生涯を略述いたしました。
午後2時からの冬季法門研修会では日興上人の身延御離山などを中心に富士門流上代の歴史を学ぶことを案内して興師会を終了。

相武山 山主

 

2023年02月25日

節分会

2月3日(金)午後1時から当山でも節分会を執り行いました。春を呼ぶ節分は「福は内・鬼は外」という豆まきの声が印象的ですが、現代では季節の話題として寺社仏閣での豆まきが報じられる程度で、私の子ども頃のように夕方になるとあちらこちらの家から聞こえてくるようなことはないようです。もちろん玄関先の「柊にいわし」もほとんど見かけることはなくなりました。
それでも節分は2月の風物詩。節分は本来「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日のことで、季節を分ける節目の日ということですが、なぜか今では立春の前日の節分だけが2月の伝統となっています。

節分の鬼払いの由来は、その昔、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられており、中国の鬼払いの風習などが伝わったものといわれています。平安時代の追儺、鬼遣と呼ばれた宮中行事が時代と共に社会に広まったようです。また、我が国には「厄年」という風習もありますから、この邪鬼はらいから厄年のお払いを意識される方も少なくありません。当山でも毎年、節分とその前後には数名の御信徒が厄年の御祈念を願われて参詣されます。

当然、節分は仏教の教えに直接かかわる行事ではありません。しかし、仏教徒も除災招福を願うのは同じですから、日本の伝統習俗を仏教にも取りいれ、仏道の修行によって功徳を積み除災招福を願っているのです。釈尊創始の仏教は広くアジア全域に伝播しましたが、仏教思想を中心としながらもその地域や国の信仰や習俗と融合しながら広がったことは事実。その一端を節分の行事に見ることもできます。

当山の節分会では御宝前にお供物と福豆をお供えし、参詣のご信徒と倶に法華経要品を読誦、南無妙法蓮華経のお題目を唱えて、参詣信徒の仏道精進と除災招福を祈念申し上げました。寿量品読誦の折には住職が「福はうち」と祈念して御宝前に豆をまき、続いて執事の興厳房が本堂と客殿などに「福はうち」と豆をまきました。今年はたくさんの福豆を用意しましたので、一日の御経日から五日の興師会&冬季法門研修会まで厄年祈念や法事の参詣者の方にも福豆を振る舞いました。

相武山 山主

2023年02月24日

私はちょっと古い人間

トヨタ自動車の豊田章男社長は1月26日、社長退任を表明しましたが、その理由について「私はちょっと古い人間。未来のモビリティーはどうあるべきかという新しい章に入ってもらうためには私自身が一歩引くことが今必要だと思う。意識的に引かないと、どうしても頼ってしまうと思うので」と述べていました。
私はこの中の「私はちょっと古い人間」という言葉になぜか惹かれました。それは世界的なトップ企業の経営をにない、産業界の大きな荒波を乗り切ってきた方の言葉だからというのではありません。ご本人にはその後の言葉に続くように、私などには気づかない意図がありその枕詞なのかもしれませんが、人としての道を求める仏者としては「己を冷静にみつめる」という姿勢に素直にうなずいたのです。

中国の老子は「人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり。」と教えています。すなわち、「他人のことが分かるのは智者といえるが、真の自分(己)を知る者こそ明智(明らかに智る)の人である」というのです。己を知ることを重んじた言葉といえるでしょう。
仏教では八正道が説かれますがその第一は正見です。正見とはものごとを正しく見るということで、仏道修行の基本であり目的でもあります。基本であり目的というのは仏道の基本でありながら会得することが難しいために目的とされているのです。この正見で一番難しいことは己を見るということです。

鎌倉時代の禅僧道元は正法眼蔵に「仏道をならうというは、自己をならうなり」と述べていますが実に至言といえます。仏教では私たち凡夫は煩悩に翻弄されて自己を見失ったものとみなし、本来の自己に目覚めることを目的としていることを教えているからです。
己を見つめるということは古今東西人生の大切な徳目とされてきました。人生の幸不幸を左右するほどの意味を持っています。何が起きても不思議ではない人生。何ごとにも柔軟に対応できることは心強いことです。そのためには己の弱さも強さも共によく知り「自分には何ができて、何ができないのか」という見極めが必要です。慢心から傲慢になることは愚かなことであり、また、失敗を怖れて臆病風に吹かれてしまうのも残念なことです。
己を知り、己の弱さや愚かさ、優れた面などの全てを受け入れた上で己をコントロールする。それができれば人生はもっと楽しく豊かに生きられることでしょう。

人生を真摯に歩まれた人にはそれぞれ含蓄のある言葉が残されますが、冒頭の豊田社長の「私はちょっと古い人間・・・」との発言は自身を客観視した言葉だと思います。まだまだ心身倶に壮健な感じの方ですが、自分自身と置かれている環境を冷静に見ていることがよくわかります。私はできるようでできないのがこの「自身を客観視する」ことではないかと思っています。己を見つめて客観視できるか否かで人生は大きく変わりますが、ことに壮年から老境への移行期、さらに、思うようにならない心身にいらだつこともある高齢期には、心のバランスをとるためにも自身を客観視することが大切です。

仏教は心がすべてを決めているという思想ですから、油断することなくその心を磨くことが求められます。また、移ろいやすい己の心を磨いて、より良い人生を歩むためには己の心を映す鏡をもたなければなりません。仏道で教義や本尊が大事にされるゆえんです。
日蓮大聖人は「こころの師とはなるとも心を師とせざれ」と述べられ、ころころと千変万化してやまない心を映す鏡こそが法華経であるとご教示。日蓮の門下は法華経の魂魄である妙法曼荼羅に己の心を映して末法相応の信行に努めてまいりましょう。

相武山 山主

 

2023年02月01日