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相武山 妙法寺 ブログ

日曜法話会を開催「年のはじめに」

1月15日午前11時から令和5年初めての日曜法話会を開催しました。現在の地ではじめて開催した法話会は東日本大震災直後の平成23年3月でしたから早くも13年目を迎えます。
年始には地域広報誌「タウンニュース」保土ケ谷区版、旭区版、瀬谷区版、大和市版の4地域に令和5年度の法話会日程を広報しました。年に一度の小さな広報ですから効果のほどは定かではありませんが、法話会の趣旨である「仏教に親しんで頂きたい」という妙法院の布教活動の一環です。

例年1月と2月には初めての方がお出でになりますが、今年も4名の新来の方がいらっしゃいました。お寺での法話会は意外に敷居が高いようで、境内で迷っているような姿を見かけることもあります。檀家制度などのなごりもあり、檀信徒でなければ気軽に門戸をたたけないのかもしれません。宗教離れや檀家制度の崩壊などによって、衰退が著しい仏教寺院ですから、多くの方に親しんで頂ける存在となるためには相当な努力が必要だと実感しています。

《日曜法話会の趣旨》
はじめに初めての参加者のための「日曜法話会の趣旨」を説明。
当山の法話会は「仏教に親しみ、その教えと信仰について正しく理解頂きたい」と願って開催しています。というのも仏教やその寺院については「仏教は冠婚葬祭のためのもの、仏教は僧侶が修めるもの、仏教は観光と歴史の対象、歴史の遺物、というような捉え方をされ、現実の人生を歩むための教えであり智慧であるということが理解されていない。」と一般的に見られていると思われるからです。妙法院では少しでも仏教の基本思想にふれて頂きその智慧を人生に活かしてほしいと願っています。

また、妙法院は「法華経と日蓮聖人の教えを護り伝える寺院」ですから、大乗仏教の精華である法華経や末法の愚鈍な者も差別なく救われる南無妙法蓮華経のお題目を唱導された日蓮大聖人の教えにふれて頂きたいと願っています。
仏教を学ぶにあたっては「継続が肝要、仏教のおしえを地道に積み重ね人生に活かす。仏道は求める姿勢が基本、生涯探究心を大切に。」とお伝えし、お寺の役割については「僧俗の修行の場、信仰を磨く場、仏教を学ぶ場、心を浄め癒す場、仏教や伝統や文化を護り伝える」等々があることを説明しました。

当山の法話会は、世相を仏教の視点から観る「世相に想う」と仏教の教えと信仰を学ぶ「仏教に親しむ」の2部構成であることを解説。なぜ世相についての所見を述べるかということについては「仏教は現実直視。神秘主義や不思議世界には浮遊しない。あらゆる事物・事象は私たちの生活や人生と無縁なるものではない。大乗仏教の精華『法華経』では諸法は実相と説く。起こる事象はすべて学びの対象。眼前の事物・事象を自分がどのように観ているかを認識し、自らの人生に活かそうとしているかが問われている。」ためであることを説明。

《お正月を祝う人々》
今月の法話会のテーマは「年のはじめに」。サブタイトルは「日本人の宗教と信仰」でした。我が国では約8割ほどの人がお正月に寺社仏閣、景勝地、パワースポットなどに足を運ぶといわれています。世界の国や地域に比して日本は無宗教者が多いと言われていますが、お正月の初詣や初参りをされる姿をみるととても無宗教の国とは思えません。見ようによっては世界最大級のお祭りともいえます。
そこには宗教や信仰に共通する「自分を支え育んでいる存在(妙法・真理・自然・仏・神・先祖・・・など)が在る」との意識の発露をみることができます。信じる宗教や信仰を持たないという方でも、年のはじめには特別な時の移ろう機会として、普段の生活では意識することのない本源的な感情(自身を支えている存在が在るという意識)が無意識に現れるのかもしれません。

信仰の有無はおいて、新年を祝うのは「旧年の無事に感謝し新年の幸いを願う。心を切り替え、新たな気持ちで新年を歩み始める」ためです。また、お正月を祝うのは我が国ばかりではありません。アジアでは旧暦でお正月を祝う中国の「春節」が有名ですが、台湾、ベトナム、韓国、シンガポールなどでもお正月をお祝いします。旧暦ですから今年は1月22日が元日となります。
イスラム教の国ではイスラム暦を使用していますが、「ラマダン明け」がお正月のようだといわれています。イスラム暦(1年が354日の太陰暦による)の9月に行われる断食です。この時期イスラム信仰者の健康な人は日の出から日没まで飲食を絶つ決まりとなっています。また、欧米では正月よりもクリスマスが大切にされています。

《なぜ初詣に出かけるのか?》
初詣や初参りのスタイルは歴史によって異なります。新年を祝う歴史は古く、中国では秦の始皇帝の前からとされ、日本では仏教の伝来前からといわれています。時代によって祝い方はさまざまですが前述のとおりその心は同じです。

では現代のように有名な寺社仏閣に大勢の人が参詣する初詣はいつからかと問えば、その歴史は浅く100年ほど前からのようです。京浜急行などの私鉄が初詣(川崎大師・成田山など)を啓蒙した結果といわれています。もちろん、それまでもゆかりの寺社に初詣でをしていたことは事実。現在のような初詣という但し書き付けです。

そもそも我が国では初詣や初参りを宗教的信仰的行為と理解していない人々も多く、習俗や伝統の一つと考えている人が多いようです。そのため何が祀られているのか知らずに参詣している人もいるほどです。しかし、初詣や初参りは「自らを支え育んでいる存在がある」ことを直感しているたしかな宗教的信仰的な行為なのです。他方、宗教的信仰的な意志を持って寺社などに参詣している人々も2割ほどはいるようですが、少数派といえるでしょう。これが我が国の信仰者数の実態ではないかと思います。

《宗教に無知といわれる日本人》
宗教や信仰は人類の歴史と共にある存在です。また、宗教や信仰は伝統や文化、風習(主に地域社会のならわしやしきたりのこと)や習俗(ある地域やある社会で昔から伝わっている風俗や習慣)の底流にながれている存在でもあります。
現代社会では信仰者も減少してその影響力は弱くなってきているといわれますが、まだまだ世界中の国や地域では日々の生活が宗教や信仰と深く結びついていて、生活や社会制度のベースにもなっています。当然、個々の人生観にも大きな影響力を持っていますから、宗教は歴史や社会と切り離すことはできない存在といえます。

そのような世界の状況に比して我が国は宗教に無知といわれます。そういえば家庭や学校、地域や社会で宗教や信仰について学ぶ機会が在った人は稀ではないでしょうか。日本の歴史から宗教や信仰の有り様を振り返れば、「仏教伝来以前の宗教(自然崇拝、シャーマン、先祖崇拝など)。鎮護国家、氏寺、氏神、檀家制度、国家神道・・・というながれが鮮明です。
明治時代に政府は「日本国民(臣民)は個人的にどのような宗教を信仰するかにかかわらず、すべからく『日本人』の一人として天皇への崇敬の念を持つべきであり、したがって天皇の祖先神などを祭り、国家的な祭祀と儀礼の場である神社を崇拝し、氏子としてそれに奉仕しなければならない。」と制定しました。「天皇が主権者、国民は臣下、神道は宗教宗派を超えた存在」と教えられたのです。

さらに戦後、民主主義の時代になると社会(共産)主義思想が台頭(1945~1975)。左派インテリ層から宗教や信仰は「非科学的、前時代の遺物」と指摘されました。さらに非常識な新興宗教の誕生とそのカルト化(戦後の淫祠邪教の諸宗教からオーム真理教・旧統一教会など)に対する批判と恐怖。宗教と聞いただけで偏見を生じやすい。
以上のような我が国の歴史とその経緯から、多くの人が宗教に無知であったり誤解や偏見を持ちやすいことを解説しました。

また、「横並び意識や同調意識が強い国民性。自我の発揮をはばかる傾向性。宗教や信仰を正しく学ぶ機会が乏しいこと」によって宗教や信仰への誤解や偏見が増長されます。我が国でも宗教や信仰を理性的に学ぶ機会を持つことが大切であることをお伝えしました。

学ぶべきこととしては、初詣や初参りは宗教性のある行為であり、自身に内在する敬虔な心の発露。年のはじめには「旧年を振り返り、新年の希望を明確にすることが大切」。人生は限りあるもの。二度と繰り替えることのできない一年であることを自覚しよう。」と所見を述べました。

2部の「仏教に親しむ」では
「よく仏教とは?と聞かれますが、簡単には回答できない質問です・・・」から、仏教が多様性に満ちていること(原始仏教から大乗仏教へ)。仏教の歴史(釈尊創唱の仏教は2500年の歴史)と、その伝播と展開(アジア全域に伝播した仏教)を学ばなければならい。また、仏教を知るためには仏教各宗各派が認める基本思想である縁起論、三法印、四法印、四聖諦、十二因縁、八正道等々を修学しなければならないことを解説しました。

結びに正月を愛でる日蓮大聖人の御心として『重須殿女房御返事」を紹介。正月をもてなす心は物事の基本や根本を大切にするこころに通じており、「徳もまさり、人からも敬愛される」ことになるとお伝えしました。
人生は喜怒哀楽そのすべてが学びの対象と仏教では教えていますが、それも自らの学ぼうとする意識が芽生えなければ気づくことができません。今年も皆さまの「学びのこころ」が継続され、豊かな人生が拓かれることを願っています。
2月の日曜法話会は19日の開催。皆さまの参加をお待ちしています。
(法話会の詳細は相武山だよりの「住職ウエブ動画」をご覧下さい)

相武山 山主

2023年01月31日

相鉄・東急直通線開通

妙法院の最寄り駅は相鉄の三ツ境駅です。相鉄とは相模鉄道のことで関東で最も短い大手私鉄です。本線は横浜駅から海老名駅、いずみ野線は横浜駅から湘南台駅を結んでいます。横浜駅から神奈川県央を結ぶ短い私鉄でしたが、東京方面への延伸計画はかなり前から進められており、2019年(令和元年)11月30日には相鉄新横浜線の西谷駅~羽沢横浜国大駅間が開業。相鉄・JR直通線として営業が開始され、相鉄線西谷駅より西側の駅からは東京方面(武蔵小杉、西大井、大崎、恵比寿、渋谷、新宿駅)が直通となりました。横浜駅から乗り換えることなく東京方面に行けるのですから利便性が向上したということです。

相鉄・JR直通線に続いて相模鉄道は2023年(令和5年)3月18日、東急との相互直通運転を開始します。2019年開業の相鉄新横浜線羽沢横浜国大駅から新横浜を経由し、東急東横線・目黒線日吉駅がつながるのです。
相鉄新横浜線・東急新横浜線の開業によって、神奈川県央部や横浜市西部と東京都心部が直結され、首都圏の広域的な鉄道ネットワークが形成されるとともに、東急線から新幹線(新横浜駅)へのアクセスも向上します。また、鉄道ネットワークの充実により、地域間の連携と活性化も図られ、各地域のさらなる発展に寄与するといわれています。

横浜市北西部に位置する相鉄三ツ境駅ですが、3月からは相鉄東急直通線の開通によってさらに利便性が高くなりそうです。当山檀信徒の皆さまにも良い便りだと思います。また、新たな仏縁が広がる機会となることを期待しています。

相武山 山主

2023年01月30日

初御講を奉修

1月13日(金)は今年初めての月例の日蓮大聖人御報恩講でした。13日は日蓮大聖人の御命日。日蓮門下の寺院布教所では毎月宗祖のご報恩のために御講が奉修され、秋には御会式が奉修されます。1月の御講は通称「初御講」と呼ばれて大切にされています。
御宝前には下種三宝尊への御報恩のために御膳を供え、参詣者の唱題の裡に献膳の儀を執り行いました。続いて僧俗同心して法華経要品の読誦、献香、唱題と如法に勤め、御報恩を申し上げた次第です。

法要後は住職の挨拶に引き続いて、執事の興厳房が法話を担当。
妙風新聞の「御心を拝して『上野殿御消息』」を拝読。はじめに御消息のいわれを解説。建治元年に身延山から上野郷の地頭、南条時光に送られた手紙であることを説明。その後、「儒教の四徳と仏教の四恩についての説明から、法華経を信行する者には自然に四徳が備わるだけでなく四恩を報じることができる」という内容について述べ、「女人成仏を説く法華経の受持こそがまことの報恩行である」と詳しく解説して初御講の法話としました。
参詣者の皆さまも興厳房と倶に上野殿御消息を学びながら日蓮大聖人の教えを深めるひと時になりました。日蓮の門下としては大聖人の御命日である13日を信仰の節目の日として大切にして行きたいと思います。

相武山 山主

2023年01月30日

七草粥を楽しみました

1月7日は御経日を執り行いました。御経日は毎月1日に行う当山の月例行事で、日興門流先師、大行尊霊、妙法院檀信徒諸霊への報恩と追善を申し上げる法要です。お正月は例年7日に行っています。
御宝前と精霊壇に供物と七草がゆをお供えし、参詣のご信徒と倶に読経・唱題を申し上げ、御報恩と追善の供養を申し上げました。法要後の法話はお正月に拝読した『重須殿女房ご返事』を最初から最後まで丁寧に解説いたしました。

その後、コロナ禍のために昨年、一昨年と遠慮していた「七草粥」を参詣の皆さまにふるまいました。コロナ禍について若干の躊躇はありましたが、私は間もなくウイズコロナとなると考えていますので、そろそろ注意しながらの会食があっても良いのではないかという判断です。
10年ほど前から1月7日の御経日には私が七草粥を作っています。春の七草は「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」のこと。ゴギョウはハハコグサ、ハコベラはハコベ、スズナはかぶ、スズシロは大根のことです。

七草をおかゆにして1月7日に食べる七草がゆの習慣は江戸時代に広まったといわれています。そのいわれは「お正月のおせちの食べ過ぎから胃腸を調えるため」とか、「七草は早春にいち早く芽吹くことから邪気を払うといわれ、一年の無病息災を祈るようになった」などといわれています。
七草はスーパーなどでセットで売っていますから求めるのは難しくありませんが、お米から炊くので火加減には油断ができません。それでも無事に七草がゆを炊き上げ、早速、御経日の御宝前にお供えしました。

法話の後には参詣者の皆さんに「小梅と塩昆布、刻みすぐきとしば漬け」を添えてお出ししました。手前味噌ながら、できは良かったと思っていましたので、皆さんに「美味しい」と言われて安心しました。
七草は新年の季語。新たな年のお参りに彩りを添えた七草粥でした。

相武山 山主

 

2023年01月29日

令和5年の初参り

令和5年横浜の新春は穏やかな青空の元で静かに幕を明けました。一日の早朝は日付が替わる午前零時から恒例の元朝勤行会をつとめました。また、一日から三ケ日は午前11時と午後2時の各日2回の初勤行会を執り行いました。それぞれ参詣者の皆さまと倶に厳かに法華経要品を読誦、南無妙法蓮華経のお題目をお唱えして、令和5年新春の誓願を下種三宝尊に申し上げました。

法要後には重須殿女房ご返事
「正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあいせられ候なり。
抑 地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。
さもやをぼへ候事は、我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は、地獄其の人の心の内に候。譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我等の心の内にをはします。譬へば石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし。
我等凡夫はまつげ(睫)のちかきと虚空のとをきとは見候事なし。我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ。・・・・・・・」
を拝読。

当山では開創以来年頭には重須殿女房御返事を拝読しています。この御返事は宗祖晩年の弘安四年一月五日に認められた御書で、初春に重須殿の女房から身延の大聖人様に御供養が届けられた返書です。新年に法華経の御宝前に御供養を供えられた重須殿女房のご信心を愛でられ、新年正月の一日を寿ぐ志はものごとの根本・基本を大切にすることに通じており、徳もまさり人にも敬愛を受けることになるとご教示。

さらに、法華経と日蓮大聖人の教えのエッセンスが説かれています。そのポイントは「仏の世界も地獄の世界も倶に一人ひとりの心に存在すること。法華経では誰もが仏となる性を具備していることを信じて仏道を修めること」など。さらに処世の在り方として「わざわいは口より出でて身を破り、幸いは心より出でて我をかざる」などが説かれおり、わかりやすい譬えと表現ながら法華経の基本的有り様が明示されています。
御返事は私が拝読しますが参詣者の皆さまにも各自プリントをお持ち頂き、一緒に眼で追って頂きました。さらにこの御書を仏壇の側に置かれて、年頭ばかりでなく年中の折々にひもといて頂くことをお勧めした次第です。

今年の初勤行会にはおよそ150名ほどの檀信徒が参詣されました。昨年よりも少し多いご参詣でしたがコロナ禍の前には約250名ほどが参詣しておられましたから、やはりコロナ禍の影響が続いているように思います。

拝読後の年頭の挨拶では、法華経と日蓮大聖人の教えを信行する私たちの新年を迎える志について所見を申し上げました。
我が国では日頃から無宗教・無信仰という方が多いものの、お正月には各地の寺社仏閣、自然景観に優れたところでの初日の出、世にいうパワースポットなどに国民の8割以上の人が足を運ぶといわれています。
日本人の信仰心が垣間見られる光景ですが、如何なるために如何なるところに参拝し、如何なる作法によって何を祈願するかが明確な方は少ないように思います。
しかし、共通しているのは新たな年を迎えて、信仰心がなければ観じることのない、「自分自身だけで生きているのではない、自身を支えている何かしら不思議で大きな存在(妙法・仏・神・自然など)がある。」という直感がはたらいたということです。
多くの人は新たな年を迎えて旧年の喜怒哀楽のすべてを洗い流し、新たな誓いと願いを立てて一年のスタートを切りますが、その意識の底流にはあらゆる人が持っている敬虔な心があることがわかります。

挨拶では続いて、私たち日蓮の門弟は年頭に自らの法華信仰を確認し、南無妙法蓮華経という妙法に生かされていることに感謝をささげていること。そして、法華経の行者としての自覚のもとに、仏法と世法それぞれに一年の誓願を立てるのが正月の初参りであることをお伝えしました。
さらに「宗教や信仰が軽んじられる時代であるからこそ爪上の土たらんと仏道精進しよう」。「宗祖ご教示のように逆縁毒鼓の不軽菩薩の跡に続く信行に励もう」。「法華経はあるがままの精進が大切」。「人生はそのすべてが学びの舞台であると認識して努めよう」。「学びを愉しみながら、苦楽倶に南無妙法蓮華経のお題目をお唱えしよう」と申し上げました。

法要と挨拶の後は、従来、お屠蘇を差し上げていましたが、今年もコロナ禍を考慮してお屠蘇と昆布はそれぞれ容器に入れて振る舞うことにしました。それでも参詣の皆さまと一言二言ことばを交わす機会となったことはうれしいひと時でした。
檀信徒皆さまの心身の健康と仏道増進を祈る初勤行会でした。
(詳細は相武山だよりの「住職ウエブ動画」をご覧下さい)

相武山 山主

 

2023年01月29日

人生は学びの舞台

令和5年明けましておめでとうございます。
妙法院檀信徒各位並びに有縁の皆さまには本年もよろしくお願い申し上げます。

《コロナ禍から新たな日常へ》
コロナ禍は未だ収束を見せていませんが、感染拡大から3年が過ぎ、「ウイズコロナ」という思考で世界は動きはじめています。私も感染を予防しながら新たな日常の構築を求めて行くことは道理ではないかと思う一人です。

コロナ禍によって人生が変化したという方は多いことでしょう。いえ、「まったく変化などないという方はほとんど居られない」といっても過言ではないと思います。コロナ禍はそれほどのインパクトを現代人に与えました。
しかし、よく考えてみればいつの時代でも想定外の事象が起こって、人々が混乱するのは世の常です。そして、人類はいつもその混乱に苦悩しながらも、なんとか危機を乗り越えて次の時代を切り拓いてきました。

コロナ禍も感染4年目に入り、国や地域によって対応は異なりますが、その混乱をようやく乗り越えて、ウイズコロナの体勢を築きはじめているように見えます。もちろん、今回のコロナ禍では短期間に夥しい罹患者が発生し、死者も多数に上り、経済をはじめ社会生活全般に深刻な影響を与えました。したがって、人類の疫病災害の一つとして、丁寧な検証を実施して未来の備えに活かすことは自明の理です。
人類の歴史は前述のようにさまざまな困難を契機に進化している面があり、私は世界中の多くの人々がこのコロナ禍から陰に陽に多くのことを学んだのではないかと思っています。

《人生は学びの舞台》
仏教では「諸行無常」として「あらゆるものは変化して止まない」と教えています。したがって私たちの人生も、その人生を支えている自然界や宇宙もすべては変化しながら存在しているのが真理です。
もちろん変化にも善悪はあるでしょうし、変化によって人生で培ってきた価値観も影響を受けますから変化を嫌う方も少なくありません。しかし、それでも諸行は無常なのです。

鎌倉時代の鴨長明は『方丈記』に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし」と述べています。
現代語訳すれば
「さらさらと流れゆく川の水は絶えることがありません。しかもよく見れば新しい水と常に入れ替わっています。勢いよく変化しています。流れが止まっている水面には、ぶくぶくと泡が浮かんできます。しかも大きな泡も、小さな泡も、生まれたかと思うと、すぐに消えていきます。いつまでもふくらんでいる泡などありません。人の一生も川の流れのように幸せも悲しみも時とともに過ぎ、水面の泡のように大切な財産も人の命も儚く消えていくのです」となりましょう。

『方丈記』は兼好法師の『徒然草』と清少納言の『枕草子』にならぶ古典日本三大随筆といわれていますからご存知の方も多いことと思います。此処で語られる諸行の無常を人生の儚(はかな)さと捉えるか、儚いからこそ無駄にしては行けないと捉えるかは各自の見識によるところです。
諸行の無常は仏教の常談ですが仏教ではけっして儚さばかりをを主張しているのではありません。あらゆる存在と事象が無常であることを認識して、この一瞬、刹那の時を真剣に真摯に生きることを説いているのです。

私たちは一人ひとり人生という有限で貴重な宝を頂戴し、資質や環境などにちがいはあっても自分の意志で人生を歩んでいます。各自の人生は喜怒哀楽に彩られ遇不遇もあれば幸不幸もあるのが現実です。その人生で大切なことは刹那に惹起する苦悩や喜悦を味わいながらも、それらにおぼれることなく、限りある人生であることを自覚して、自らの道をまっすぐに歩むことではないかと仏教では教えているのです。
「喜怒哀楽の人生を学びの舞台と認識して、刹那の心の有り様が永遠に通じていると覚悟し、精進を惜しまない」というのが大乗仏教の要諦です。

日蓮大聖人は重須殿女房ご返事に
「正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあいせられ候なり」と仰せです。

私は「新たな年の初めに正月をもてなす」ということを、「人としての道の源を大切にする心、基本・根本を尊ぶ心」と理解しています。また、「人生はそのすべてが学びの舞台」と覚悟することが、人生を真に愉しむ見識ではないかと考えています。

すべての人はそれぞれ自らの信じる価値観にしたがって人生を歩んでいます。法華経と日蓮大聖人の教えにご縁を結ぶことができた私たちは、人生に起こるすべての事象は自らの学びの対象と覚知し、より良い人生の糧として行かねばなりません。
その覚知を確かなものとするのは日蓮大聖人が教えられた「妙法曼荼羅御本尊に朝夕南無妙法蓮華経のお題目をお唱えする」ことなのです。お題目を唱えるということは信仰心がなければできないことです。初信の方はあれこれ考えずに「法華経と宗祖におまかせ」と思ってお題目をお唱えください。
妙法院では令和5年も志の篤い同信の皆さまと倶に法華経の修行と修学に努めて行きたいと誓願しています。

相武山 山主

2023年01月01日