相武山 妙法院のブログ

相武山 妙法院のブログです。

相武山 妙法院

  • HOME
  • 相武山 妙法院
  • お知らせ&行事案内
  • 道の心得
  • 法話会
  • 墓苑・永代供養墓
  • 自然に親しむ
  • 交通のご案内
  • ブログ
  • サイトマップ

045-442-7688

  • ご相談について

〒241-0806 横浜市旭区下川井町1590-1

相武山 妙法寺 ブログ

秋季法門研修会とお花作り

10月30日(日)午後1時から秋季法門研修会を開催。はじめに法華経の要品を読誦、南無妙法蓮華経の唱題を勤めて、研修会参加者15名の信・行・学の増進を祈念申し上げました。
妙法院では春夏秋冬に少し時間を集中して法華経と日蓮大聖人の教えを学ぶ研修会を開催しています。昨年からは正信会で宗祖御生誕800年を記念して出版した「妙法蓮華経要品現代語訳」を読み進めています。
法華経の梗概とその由来、大乗仏教の成立とその展開なども織り交ぜながらの解説です。前回の夏期研修会で法華経の教理の中心となる方便品を読了。通常の勤行では冒頭十如是までの拝読ですが、その後に説かれる「五千人退座、一大事因縁、四仏知見、開三顕一、二乗作佛、小善成仏・・・」の法門を現代語訳で学びました。

秋季研修会では方便品に続いて寿量品の現代語訳を読み進める予定でしたが、今一度、法華経の梗概とインド・中国・日本におけるその歴史、法華経を中心に中国仏教をまとめた天台大師の存在、さらに中国仏教の展開から日本天台宗のあゆみなどを概観。
その上で、日蓮大聖人の教えは当時の日本仏教界の通説となっていた天台大師の五時八教判を基礎としていること。また、宗祖御在世の日本仏教界が新興の念仏信仰や専修の禅、さらに旧来の真言密教の影響下にあることに警鐘をならされ、大乗仏教の精華である法華経を中心とした末法相応の仏教を主張されたことを解説。

法華宗日興門流では日興上人の置文「義道の落居無くして天台の学文すべからざる事。当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間あらば台家を聞くべき事」から、まず日蓮大聖人の教えを御書から学び信仰を固めてから天台を学ぶという姿勢であることを紹介。
ここでは宗祖選定の六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)の間に、五一の相対があったことを解説。富士日興門流では「信の決定」を持って成仏とするため、僧俗倶に「信心為本」としてきた歴史を説明。しかし、この間も「門流先師は法華経の思想と天台教学を学んで日蓮大聖人の教えを会得されてきた」こと、「現代では多くの人が高い修学の能力と豊富な知識を有するようになった」こともあり、「法華経の思想や天台教学にふれて日蓮大聖人の教えを深めることは大切である」とお伝えしました。

研修会は予定よりも早く80分で終了。その後は御会式のお花作り。コロナ禍もあって今年も、サクラのつぼみと花、大・小の葉っぱは各家庭に持ち帰っての作業でした。つぼみ・花・葉が揃ったので、この日は研修会参加者皆で200本の四尺の竹ひごにサクラのつぼみをつけました。

秋の一日、境内堂宇の清掃から法門研修会までご参加ありがとうございました。これからも信・行・学に精進して仏道の功徳を積んでまいりましょう。

相武山 山主

2022年10月31日

御会式を迎えるために

10月30日(日)、午前10時半から境内堂宇の大掃除。来る11月26日、27日の両日奉修の日蓮大聖人御会式を迎えるための清掃整備です。境内では三師塔から本堂前庭、参道はバス停から妙法院までの通路。堂宇内は参詣者玄関から受付、ロビー、客殿、トイレ、そして本堂窓ガラスと回廊。普段あまり清掃していないサッシや窓ガラスなども磨き上げられ、1時間半ほどで境内堂宇の清掃整備を行いました。
秋晴れの清涼な風がながれる中、気持ちの良い清掃作務でした。ご協力頂いた新倉さん、落合さん(2)、小原さん、阿部さん(3)、久保さん、重吉さん、森さん、安西さん、皆さんありがとうございました。

相武山 山主

2022年10月31日

信教の自由とその責任(下)

信教の自由とは、宗教を信じる自由のこと、信じない自由のことで、憲法20条1項前段において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定されています。その保障されている内容は以下の3点です。

①信仰の自由(20条+19条)
信仰の自由とは「内心において、ある特定の信仰を持つ自由」。「信仰を持たない自由」も含み、ある特定の宗教を信じている人だけが関係する条文なのではなく、宗教を信じていない人にとっても、「信じない」ということを保障する条文。
明治憲法の時代には神道を信仰をすることが臣民(国民)の義務だったが、現憲法下では許されない。「信仰告白の自由」も含まれ、国家が個人に対して、何の宗教を信仰しているかを強制的に表明させることはできない。江戸時代の「絵踏」のような間接的に宗教を表明させることも禁止。

②宗教的行為の自由(20条+21条)
宗教的行為の自由とは、宗教を布教したり、宗教教育を行ったり、宗教上の儀式・祭典の開催・参加の自由などが含まれる。宗教的な活動の自由が保障され、信教の自由が内心の自由にとどまらず、実を伴うものとなる。

③宗教的結社の自由(20条+21条)
第三に宗教的結社の自由が保障されている。宗教的結社の自由とは、宗教団体を設立し活動することや、設立した宗教団体への加入の自由が含まれる。これにより、新たに宗教団体をつくることができ、また、参加をすることが保障される。
『ネット「法学」』を参照。

続いて信教の自由にも限界が在ることを解説。
憲法第20条によって信教の自由は保障されていますがその保障にも限界があります。信仰の自由については内心の自由でありその限界はありません。内心において何を考えていようがその限界を定めることは不可能です。限界に関する問題は宗教的行為の自由及び宗教的結社の自由において生ずるものです。

信教の自由の限界については具体的な判例「加持祈祷事件。牧会活動事件。京都市古都保存協力税条例事件。オウム真理教解散命令事件など」を紹介。ここでは詳細を割愛しますが、最高裁による昭和38年5月15日「加持祈祷事件」の判決では、「信教は自由であっても他人の生命・身体に危害を及ぼすことまでをも保障したものではない」として、信教の自由にも限界のあることが明示されています。

結びに「信教の自由とその責任」から学ぶべきこと。
「宗教教団にもその存在と維持には経済的要素が確実に存在する。しかし、常識外れの高額であったり、強制的な寄付は不当であり、健全な教団や寺院教会ではあり得ない。一般常識からかけ離れた金員の布施やドネーション・修行料を求める教団は邪教と認識するべき。信教は自由であるがその責任についても正しく理解しなければならない。
自由は基本的人権の要であるが自由には責任が伴う。教団が個人の生活や家族の生活を脅かしてはならず、社会に不安と混乱をもたらしてはいけない。」と所見を述べました。
第二部の「仏教に親しむ」では「本来の仏教教団では布施や寄付の強制、信仰の強制もないので宗教二世の問題は存在しない。釈尊の教えの根本とその姿勢に照らしても「・仏教は仏道を勧めるが信仰を強制することはない。・三宝(仏・法・僧)帰依が基本。・僧は「サンガ」で仏教教団のこと。・教団は仏道のための存在。本来、利害と存否の対象ではない。・仏教者の基本姿勢は法灯明(妙法を燈とする)と自灯明(自らを燈とする)。・仏教には支配する者も支配される者も存在しない。」ことをお伝えしました。

最後に大乗仏教の精華「法華経」の説相から。
《五千人の退座》「妙法蓮華経 方便品第二」
法華経を説かれた釈尊はその会座から退出する五千人の弟子を引き留めることはしなかった。
(別紙参照)
《逆縁の教化》「妙法蓮華経 常不軽菩薩品第二十」
釈尊の前世修行時の不軽菩薩は、あらゆる人々の仏性を尊び、礼拝合掌の修行をなしたが、批難迫害する人々を責めることはなかった。不信者が批難迫害することが仏縁を結ぶことになるとの教え。(別紙参照)
順縁(すなおに仏法を信受すること)逆縁(仏道に逆らうことで縁を結ぶこと)を認める法華経では信仰を強制する必要はありません。法華経では妙法の弘通を奨励し信受を勧めますが、強引に押しつけたり強制することを説いてはいないのです。私たち法華経信仰者は上記の二つの説相から真実の大乗仏教の姿勢を学び、人生の灯明として行くことを述べました。
※詳細は相武山だより「不染」からウエブ動画をご覧下さい。

相武山 山主

2022年10月30日

信教の自由とその責任(上)

10月度の日曜法話会は23日(日)でした。妙法院の法話会は「仏教に親しみ、仏教を正しく理解願いたい」を趣旨として開催しています。そのため毎月の法話会の冒頭ではプロローグとして、仏教に対して一般的に見られる誤解や偏見についても、その誤りを指摘しています。

今月は「仏教寺院が冠婚葬祭のための存在、歴史や文化や観光の対象と一般的に思われていることについて」。仏教寺院においてそのような活動が実際に行われており、仏教の教えやその啓蒙にもつながっていることは事実。しかし、仏教寺院本来の役割は「仏教を護り伝える道場」であり、「限りある人生、いかに生きるか」を命題として、仏道を修行・修学し、己の心身を調えようと願う人々の心の拠り所であることをお伝えしました。

また、仏教寺院では当たり前のことですが、僧侶が仏道の修行と修学に勤め、檀信徒はもちろんのことご縁のある方々に仏教の教えを説く姿がなければなりません。深淵な仏教の教えが現実生活に追われる方々に直ちに受容されるとは思えませんが、少しでもわかりやすくお伝えすることは僧侶の大切な使命と言えるでしょう。
現代では葬式仏教と揶揄されたり、仏教や信仰が軽んじられることも多いのですが、これらはすべて私たち僧侶の力不足・努力不足であるとの所見をお伝えしました。

《信教の自由とその責任》
10月の法話会のテーマは「信教の自由とその責任」(旧統一教会問題から)でした。
7月の安倍元首相の暗殺事件以来、3ヶ月を経過した今日まで途切れることなく「旧統一教会」の問題が報じられ、さまざまな視点から問題が論じられています。しかし、意外にも関係性が深い宗教関係者からの批判や意見が出ていません。
もちろん、信教の自由という基本的人権にかかわる難しい問題にふれることなので、軽々には論じられないということなのでしょうが、その宗教の教義や信仰に入らなくても、一般常識の範囲内で批判や意見は述べることは可能だと私は思いますので、今月の法話会のテーマに置きました。

また、確かに信教の自由は認められていますが、その自由の裏にはしっかりと責任という二文字もついているのです。自由だけ主張して責任は放棄するなどということは許されないことです。法話会では時あたっての私見をお伝えしました。
旧統一教会の問題について実行犯の山上容疑者が語った『母親が多額の献金をするなどして、家庭生活がめちゃくちゃになった』。容疑者の親族によると『母親が平成3年に旧統一教会に入信。死亡した父親の保険金など合わせて1億円を献金した』という事実から。

「・旧統一教会の反社会的行為は当事者ばかりでなく、社会的な問題として追求されるべき問題。・個人に精神的救済と安らぎを与えるべき宗教団体が、マインドコントロールによって個人を支配し、その生活を混乱させるばかりか、その家庭を破壊して多くの人々を苦悩の世界に堕としている事実。・各自の宗教や信仰は「基本的人権」として憲法に保障された基本的自由である。しかし、自由には責任が伴う。・旧統一教会問題は私たちの現実社会に起こっている反社会的行為(社会の秩序や道徳から著しく逸脱しているさま)である。・宗教者としては宗教としての正邪と矛盾そのものを問うべきだが、そこは宗教的学問の世界での議論となる。今回の課題は宗教としての内容の矛盾と邪教性を問うものではなく、あくまでも反社会的な宗教行為が糾弾・是正され、不幸の連鎖を断ち切ることにある。」と所見を述べました。

問題点としての参考として南野森・九州大学教授が毎日新聞に寄せた
『旧統一教会は、宗教であることを隠して近づく手法や、家族や知人との接触を断ちきっての洗脳・教化、霊感商法や法外な金額の献金強要など多くの違法行為・不法行為が裁判で認定されており、他の宗教団体と決定的に異なる。』との発言を紹介。

続いて政権与党と旧統一教会の関係について「・与野党問わず宗教団体との関係性が問われている。・政治家は選挙のためにはカルト宗教と指摘されている悪徳教団とも関係を結ぶことがある。・教団は政治家との関係を教団信用に利用している。・教団と政治家が相互に利用し合う関係。・教団の意向が政策にも反映されていたのではないか?」を解説。

また、カルト教団については「・カルト団体は宗教ばかりではなく、ヨガやスピリチュアルの世界にも及ぶ。・信者を洗脳して、お布施・ドネーション・修行料と称して高額な金員を自主的に献金させている。・霊感商法とよばれる洗脳ビジネスは後を絶たない。」との実態を説明し、参考資料として東京新聞10月10日配信、識者2名の発言を紹介。

次に話題の「宗教2世の問題」。山上容疑者は旧統一教会への恨みを募らせた末に事件を引き起こしたが、容疑者のように特定の信仰を持つ親の子供「宗教2世」の存在が社会問題化している事を紹介。
宗教2世の問題は「宗教の継承」に直結していることから、「世界の宗教はその『歴史・文化・伝統・習俗・・・』と密接不可分。現代社会にも大きな影響力を持っている。・日本のすがたとしても「菩提寺と檀家制度、神社と氏子制度」がある。現行憲法の下、『信教の自由』『思想信条の自由』は保障されているので強制されることはないが、色濃く社会通念として存在している。」ことを解説。

家族と宗教は難しい問題であり、個人の基本的人権とコミュニテイ(共同体)の基本単位である家族の有り様はさまざまです。百人百様、各人各家庭が判断するものといえるでしょう。基本的には人権が尊重されることが重要であり、家族であっても他者に信仰を強制することはできないことを説明しました。 (つづく)

相武山 山主

2022年10月29日

妙法尼御前御返事を拝読

前述のとおり10月度の御報恩講の法話は下記「妙法尼御前御返事」を拝読。
《御書システムの現代語訳》
お手紙によれば、「殿は妙法蓮華経を夜も昼も唱えられ、いよいよ臨終が近くなってから二声も高らかに唱えられた」とあり、さらに死後も「生きていた時よりも顔色が白く、かたちも安らかで変わらなかった」とありました。

「法華経の方便品には『かくの如きの相、乃至、本末究竟等なり』とあり、また竜樹菩薩の大智度論には『臨終の時に身体の色が黒くなる人は地獄に堕ちる』とあります。
また守護国界経には『地獄に堕ちる人の悪相に十五種類、餓鬼道に堕ちる人には八種類、畜生道に堕ちる人には五種類』等と説かれています。さらに天台大師の摩訶止観には『身体が色が黒くなるのは地獄の五陰に譬える」と記されています。

日蓮は幼少の時から仏法を学んできたが、よくよく思えば、人の寿命は無常であって、出る息は入る息を待つこともなく、風に吹かれる露よりもはかないものです。賢い人も愚かな人も、老いも若きも、いつ死を迎えるか定めはありません。
それゆえ、まず何よりも臨終のことをよく習い、その後に他の事を考えなければなりません。
-中略-
仏説たる実語の中にもまた妄語と実語との区別があり、綺語や悪口も含まれているのです。
その中において、法華経だけは実語の中の実語、真実の中の真実の教えなのであります。真言・華厳・三論・法相・倶舎・成実・律・念仏・禅等の諸宗は、実語の中の妄語によって立てられた宗旨です。
それに対して法華宗は、一代聖教の中で最も真実たる法華経によって立てられた宗旨なので、諸宗とは比較にならないほど勝れる実語であります。
それのみならず、法華経は一代の中の妄語といわれる経々さえも、法華経の大海に入ったならば、法華経の開会の御力によって実語となるのです。ましてや法華経の題目が勝れていることはいうまでもありません。

白粉の力は漆を変じて雪のように白くし、須弥山に近づくものはみな金色となります。それと同じように、法華経のお題目を持つ人は、一生乃至は過去無量劫に作った漆のような黒悪業も変じて、白い大善となります。まして無限の過去の善根は、みな変じて金色となるのであります。
それゆえ、亡くなられた殿の聖霊は、最後臨終に南無妙法蓮華経と唱えられられたので、その功徳により一生乃至は無限の過去に作った悪業も変じて仏の種となります。これこそ煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏という法門なのであります。」
を拝読。

前述のとおり、臨終の大事をお伝えした後は御書に沿っての法話。
始めに御書システム(興風談所)の解題を説明。
御書システムの解題は当該御書の概要「御書の系年(いつ認められたか)、対告衆(御書の宛先)、真偽や存否、先師の書写や目録、体裁やその内容」を解説したものです。現代における日蓮大聖人御書研究の最新解説といえるものです。
妙法院ではかなり前から御書の拝読にあたっては、私も執事の興厳房もこの解題をお伝えしています。

妙法尼御前御返事の解読
「妙法尼より、夫が臨終に際し高声に題目を唱え、死相も色白く形もそこなうことがなかったとの報告を受けたことに対する返状である。
冒頭尼の書状を掲げ、臨終正念と死相のよいことは、諸経論釈に成仏の証として説かれているのであり、それ故日蓮は幼少の時より仏法を学すものとして、他事をさしおいて臨終について諸経論釈をひもとき究めたこと。

そしてしかる後諸宗諸人の臨終の相を見れば、誰が地獄に堕ち誰が人天に生じたかは一目瞭然であるのに、世間の人々が、念仏による師匠や親の臨終の悪しき様を偽って讃嘆することは、地獄の苦を増長する行為であると難じている。
しかるに、故聖霊は臨終に題目を唱え、臨終の相も整えられたのは、『法華経』の功力であり、須弥山に近づく衆が金色となるように、一生乃至無始以来の悪業は『法華経』の功力に染まって仏の種となるであろうとし、これこそが煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門であると述べられる。

そして、即身成仏をとげられた者と縁してその妻となったのであるから、妙法尼の女人成仏も疑いないものであると述べられている。」
とお伝えしました。
御書に沿って私の修学と体験から妙法受持の功徳と信行を申し上げた次第です。
※詳細は相武山だより「不染」からウエブ動画をご覧下さい。

相武山 山主

2022年10月28日

先づ臨終の事を習ひて

10月度の日蓮大聖人御報恩講は「妙法尼御前御返事」を拝読しての法話でした。
この御書に述べられた「かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ひて後に他事を習ふべし」とのお言葉は門下僧俗はもちろんのこと、識者の戒めともなっています。
御講の法話では度々拝読している御書ですが、この夏から初秋にかけて著名な方々の逝去が報じられていたこと、身近な高齢者が家族で新型コロナに感染して緊急入院したこと、などから改めて拝読した次第です。

著名な方の訃報としては、人気落語家の三遊亭円楽さんや元プロレスラーのアントニオ猪木さん、世界的歌手のオリビア・ニュートン・ジョンさん、経済界の稲盛和夫さん、服飾デザイナーの三宅一生さんや森英恵さん。そして、ソビエト連邦最後の指導者ゴルバチョフさんなど。皆さん斯界において大きな存在感のあった方々ですから、連日の訃報に接するとそれぞれの活躍に想いを馳せることになりますが、同時に死という厳粛な事実を意識することにもなります。

私たちは病気や怪我による突然の死、事故や事件による死、自然災害や人災などによる死などの悲報に接する時、誰もが「老少不定は世のならい・・・」と理解してそれを飲み込むことになります。そして、しばらくは人生のはかなさとして死を意識することでしょう。
しかし、時が過ぎればその意識も薄れて行きます。薄れて行くことも必要な精神作用ですが、厳粛な事実から学びを得ることも大切なことだと思うのです。学びとするためには悲報を自らに置き換えて考え、さらにいつか我が身に訪れるものではなく、直近に起こっても不思議ではないと認識することが大切です。

それはすべての人に必ず訪れる「老いと病と死」という厳粛な事実を見つめるということで、「如実に知見する」という仏教の基本的な姿勢でもあります。
「死」の存在を認めた時、対極の「生」の存在が明確となります。人としての生命を与えられた時から必ず死を迎えることは定まっているのですが、人生の忙しさに流されて見失いがちになります。多くの人が求める「悔いのない人生」というのは、「人生は限りの有るものであり、いつ失われておかしくはないほどに貴重なもの」という認識を持つことによって得られるものではないかと思います。
人生が貴重なものであることに気づかず、我欲の追求ばかりに走ったり、喜怒哀楽のちまたを彷徨ったり、眼前の出来事に一喜一憂して真実を求めることを忘れたり、酔生夢死のような生き方に流されることは実に残念です。

日蓮大聖人は「先づ臨終の事を習ひて後に他事を習ふべし」との覚悟で生涯仏道を歩まれました。この言葉の前後では仏道の本義を見誤った諸師の臨終の相に言及されていますが、習うとは「ならう、教わる、覚える、練習して身につけること」であり、より広く解釈することも可能です。
法華経に仏教の真髄を見いだされた日蓮大聖人は、たった一度の人生であるからこそ真実の探求を最優先するべきとの覚悟に立たれました。したがって、うち続く厳しい法難にも敢然として向き合われ、怖じることなく自らの信仰を決定されたのです。
法難の度ごとに臨終を意識された宗祖のお振る舞いは遺された御書から拝見することができ、宗祖御在世以来、私たち門弟の明鏡となっています。
法話では古今東西、人類と共にある宗教はそれぞれに現世の生き方と来世について語り、いずれの宗教も現世の信仰と行いによって来世の安穏が在ることを説いているとお伝えしました。

相武山 山主

2022年10月28日

御会式を迎えます

日蓮門下僧俗にとって秋は末法下種の教主日蓮大聖人の御会式。
御会式は弘安5年10月13日の宗祖御入滅を報恩申し上げる法要です。門下にとっては一年で最も大切な法要ですが、コロナ禍のために昨年、一昨年と自粛を余儀なくされました。今年こそはより多くの方々の参詣を得て、意義深く奉修したいと願っていましたが、コロナ禍第7波の影響もあって昨年同様のかたちで執り行うこととなり、教区僧侶の臨席もありません。

今年の当山の御会式は11月26日(土)に御宝前のお飾り、引き続いて御逮夜法要を執り行い、翌27日(日)に御正当法要を執り行います。感染防止に留意して厳粛に御報恩申し上げたいと思います。今月から来月にかけて御宝前荘厳のお花作りを行いますので、檀信徒皆さまのご協力をお願いいたします。

相武山 山主

2022年10月01日

みのりの秋に想う

秋十月を迎えて境内にはふくいくたる金木犀の香りが漂い、当山の西側に隣接する市民の森の田んぼでは9月末から稲刈りが始まりました。9月は台風の余波もあって雨の日も多く収穫を心配していましたが、家族総出の稲刈りを見ていると私にも収穫の喜びが伝わってくるようでとてもうれしく思います。これも里山に縁を結んだ果報かとありがたく感謝しています。

秋は収穫の季節ですが、我が国では台風の季節でもあり、私は毎年農作物に被害が出ないか勝手に心配しています。台風などの風水害は一年間丹精こめて育ててきた作物を一瞬にして奪い去ってしまい、大きな被害をもたらすからです。農家の方々にとって秋は収穫の喜びの時であると倶に自然の猛威を怖れる時ではないかと思います。

もちろん実りの秋は稲ばかりではありません。秋野菜はもとより、ブドウ、モモ、イチジク、梨、栗、柿、リンゴと多くの果物がみのりの時を迎えます。いずれも風水害に強くはありませんから、台風が上陸したり接近したりすると大きな被害を蒙ります。
農業をしている友人・知人もいますので、毎年実りの秋はうれしさとヒヤヒヤ感が同居しています。農業の繁盛は人類生存の基盤であり国家・社会の基礎でもあります。稲刈りを見ながら穏やかな秋を祈るばかりです。

秋のみのりをじっと見つめていると、みのりに至るまでの「土壌を整えたり、苗を植えたり、水や肥料を与えたり、病害虫を駆除したり、雑草を抜いたり・・・」というその道程にも想いが至ります。
作物をつくるということは、その作物についての正しい知識を学ばなければなりません。また、その知識を適切に活かして行く努力も不可欠です。当然、油断なく多方面から心をくばる必要もあります。さらに常にアクシデントは起こりますから、その対応も求められます。それらの労苦を乗り越えてはじめて実りを得ることができるのです。
まるで人生のあゆみそのものです。私たちが満足と感謝で人生の終焉を迎えるためには同様の道程が求められているのではないでしょうか。

中国の後漢書には「人生謹むるに在り、策めずんば何をか獲んや」とあります。その意味は『人生において重要なことは勤勉であることであり、自分から積極的に求めて行かなければ、何も得られることはない』というシンプルなものですが、勤め求める志を大切に実践してこそ、より良い人生とすることができることを教えています。

仏道を極めるために身命を惜しまれなかった日蓮大聖人は「命限りありついに願うべきは仏国なり」と述べたと伝わります。宗祖は自らの仏道を求めるばかりでなく、一切衆生の真の安心と幸いのために法華弘通の人生を歩まれました。仏縁を頂戴して法華経と宗祖の教えを信行する私たちは、その教えのとおり限りある人生であることを自覚して、自らに与えられた環境と資質を基に世出両道に日々精進したいものです。
農家の方々は稲穂を実らせるために心労を惜しみません。法華経の信徒である私たちも法華経と日蓮大聖人の教えを我が己心に満たすために心労を惜しんではならないと想う秋です。

相武山 山主

 

2022年10月01日