相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

秋季彼岸会を奉修

今年は9月20日が彼岸の入り。当山ではあいにくの雨模様でしたが、永代供養墓久遠廟と樹木葬墓地の彼岸供養会を11時から執り行いました。また、23日(金)と25日(日)にはそれぞれ午後1時から本堂で彼岸法要を奉修しました。
23日の横浜はあまり良い天気ではありませんでしたが、コロナ禍にもかかわらず、ひさしぶりに多数のご信徒が参詣されました。25日は気持ちの良い秋晴れ。家族での参詣もあり、子どもたちの元気な声が本堂や境内・墓苑にも響き秋のお彼岸らしい風情でした。

法要は献膳、読経、焼香、唱題と如法に執り行われ、懇ろに追善御回向を申し上げた次第です。参詣の檀信徒は厳かに法華経要品が読誦される中、塔婆の建立された精霊壇に進み、檀信徒各家先祖並びに有縁精霊にお焼香。追善供養のまことをささげました。
法要後の法話は報恩抄の冒頭
「夫れ老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや。されば古への賢者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり。いかにいわうや仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや。此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」を拝読。

報恩抄は日蓮大聖人が建治二年に逝去した師匠の道善房の訃報に接し、報恩の念いで認め、浄顕房・義浄房のもとへ送られた御書。その冒頭に仏教者は恩を知り恩に報いることの大切さが説かれています。報恩抄のいわれと日蓮大聖人の念い、仏教の思想と報恩について、その意義を述べました。

また、妙法蓮華経妙荘厳王本事品二十七
「仏は値いたてまつることは得難し。優曇波羅華のごとく、また一眼の亀が浮木の孔に値えるがごとし。しかるにわれらは宿福深厚にして、仏法に生まれ値えり」
から、仏とその教えに出会うことは稀であり、私たちは仏法に巡り会えた福徳に想いを馳せて、法華経信仰のまことの人生を歩もうとお伝えしました。
(詳細は相武山だより「不染」掲載のウエブ動画をご覧ください)

相武山 山主

2022年09月30日

三沢抄を拝読して

9月13日(火)は宗祖の月例御報恩講。
参詣の御信徒と倶に献膳・読経・唱題と懇ろに御報恩申し上げました。前日の9月12日は龍ノ口法難の日でしたが、当山では11日の日曜日、法話会に引き続いて龍口法難会を奉修。参詣の御信徒と倶に御報恩を申し上げました。当日法要後の法話は執事の興厳房が「下山御消息」を拝読。龍ノ口法難の概要と意義について語りました。
13日の宗祖御講の法話ではやはり龍ノ口法難にちなみ私が「三沢抄」を拝読。原文を拝読した後、御書システムの解題を丁寧に読み進めました。

始めに
「三沢殿より柑子等種々の供養と書状を送られたことに対する返状である。まず、成仏を遂げることは爪上の土のごとく希であるのは、三障四魔、中でも第六天の魔王がこの土が浄土に化すことを恐れて、あらゆる手段をもって妨害する故であることが示される。そして日蓮はそのことを身をもって体験し、それを乗り越えて不退の信を得て身延の地に住するのであると述べられる」について。

『仏教の目的は成仏にあること。また成仏の概念は仏教各宗各派によって異なりがあること。さらに成仏を得ることは「爪上の土」ともいわれるほど稀なこと。それは仏縁を得ることが難しく、仏縁を得たとしても三障四魔が惹起して、修行を成し遂げることが困難であること。法難重畳の人生を歩まれた宗祖はそれを実体験されたこと』を解説しました。

続いて「佐渡流罪以前の真言破折をしない法門はあたかも仏の爾前経のごとく心得べしと述べられ、文永八年の法難を契機として真言破折を強調されたことが示されている。また、真言宗は亡国の因であって、この度の他国侵逼に際し、真言による異国調伏をする故に、この国は滅びるであろうとされ、去年今年の疫病流行はその前兆であると歎かれている」について。
『佐渡流罪以前の日蓮の教えは釈尊の爾前経と同様、方便・権教の教えであり、真言宗の教えを破折された佐渡以後の日蓮の教えこそが実教であること。また、真言宗の加持祈祷や呪術は仏教の基本的有り様を否定するものであり、国を滅ぼす教えであること』を解説しました。

さらに「文中『うつぶさの尼ごぜん』が、氏神参りのついでに身延に参詣した際、宗祖が値わなかったことについて、所従の神と主君の『法華経』を顛倒してはならぬことを知らせる為の処置であったことが示されている」について。
三沢殿とうつぶさの尼御前が縁戚関係にあったことを紹介。また、神と仏の関係は所従と主君との関係であり、うつぶさの尼御前の信仰のあやまりを正された宗祖の御心をお伝えして御報恩の法話としました。

相武山 山主

2022年09月30日

一人ひとりの仏性を尊重する法華経

法話会の2部は「仏教に親しむ」。今月のテーマは「法華経に説かれる平等の思想」。平等思想が仏教の基本的思想であり、大乗仏教の精華である法華経では、「あらゆる衆生が等しく成仏を得られる」ことを解説。平等思想を理解し実践することは個人に安らぎをもたらし、社会に平安をもたらすことになります。法華経の教えを人生に活かして行くことが大切であることをお伝えしました。

始めに釈尊の教えとその展開「釈尊はカースト制度などさまざまな古代インド宗教の差別主義と権威主義を批判して仏教を創始。道を求める仏教徒はすべて平等であり、等しく真理に至ることができると説き平等の思想を教示した。原始の仏教では釈尊の神格化もなければ仏像などの偶像崇拝もない。釈尊は特別の存在として自らを崇めるよう求めることはなかった。ここにも平等の思想が現れている。釈尊は真理であるダルマ『法』を求めることに一切の差別はなく平等であると説いた。釈尊入寂のことば『法灯明、自灯明』の教え」について解説。

次に仏教の変遷と大乗仏教の興起について。
「釈尊滅後、インドの仏教教団は部派仏教として、学問化・権威化して行き、釈尊本来の普遍平等主義の精神を見失い差別主義に陥いる。仏教とヒンドゥー教の融合(元来、インドのバラモン教はカースト制度、差別主義が濃厚)。神秘主義、呪術主義、現世利益の祈祷などが仏教で行われるようになる。大乗仏教の興起(1世紀前後)は教団と僧侶の権威化と差別主義に対する批判といわれている。大乗仏教では本来の教えの復興、啓蒙、展開が求められた。大乗経典の創作と編纂が行われ教相判釈論も展開された。釈尊は対機説法であったが大乗仏教では教えの統一もはかられ、大乗仏教の精華である法華経では絶対の平等が説かれた」ことを簡略に解説。

★法華経は大乗仏教の精華
法華経では仏の教えは一仏乗であり、すべての衆生が等しく成仏できること(二乗の成仏、女人の成仏、悪人の成仏・・・)が説かれていることを紹介。
《一大事因縁・四仏知見》
妙法蓮華経方便品第二(現代語訳)には
「仏、舎利弗に告げたまわく、かくのごとき妙法は、諸仏如来が時にすなわちこれを説きたもう。優曇鉢華が時に一たび現ずるがごときのみ。舎利弗。汝等は、まさに信ずべし。仏の説く所の言は虚妄ならず。舎利弗。諸仏の随宜の説法の意趣は、解し難し。所以はいかん。われは、無数の方便と種種の因縁と譬喩と言辞とをもって、諸法を演説するに、この法は思量・分別のよく解する所に非ず。ただ諸仏のみ有りて、すなわちよくこれを知ろしめせり。
所以はいかん。諸仏世尊は、ただ一大事の因縁をもっての故に、世に出現したもう。舎利弗。云何なるを、諸仏世尊は、ただ一大事の因縁をもっての故に世に出現したもうと名づくるや。
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得しめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生に仏の知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏の知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏の知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
舎利弗。これを『諸仏は、ただ一大事の因縁をもっての故に、世に出現したもう』と為づく」と説かています。
この経文から「仏の出現が一大事の因縁(衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせること)」によることを解説。

同じく方便品(現代語訳)には
「仏、舎利弗に告げたまわく、諸仏如来は、ただ、菩薩を教化したもう。諸の作す所あるは、常に一事のためなり。ただ仏の知見をもって、衆生に示し悟らせたまわんとなり。
舎利弗。如来はただ、一仏乗をもっての故に、衆生のために法を説きたもう。余乗のもしは二、もしは三あることなし。舎利弗。一切十方の諸仏の法もまた、かくのごとし。
舎利弗。過去の諸仏も、無量無数の方便と種種の因縁と譬喩と言辞をもって、衆生のために諸法を演説したもう。この法も皆、一仏乗のための故なり」と説かれています。
この経文から、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗格別の教えと修行は方便であり、真実はすべてを差別なく悟らせる法華経の一仏乗に極まる(一乗真実 三乗方便)ことを解説。

続いて《三草二木の譬》
「三草」とは上草・中草・下草の三、「二木」は大樹・小樹で、さまざまな植物が、雨の恵みを等しく受けて成長するように、資質の異なる衆生が等しく仏の教えを受けて悟りをひらくことができる譬えを解説。
妙法蓮華経薬草喩品第五(現代語訳)には
「その時に世尊、摩訶迦葉および諸の大弟子に告げたまわく、「善いかな、善いかな、迦葉。善く如来の真実の功徳を説けり。誠に所言のごとし。如来にはまた、無量無辺阿僧祇の功徳あり。汝等が、もし無量億劫において説くとも、尽くすことあたわじ。
迦葉、まさに知るべし。如来はこれ諸法の王なり。もし説く所あらば、皆、虚しからず。一切の法において、智の方便をもって、これを演説す。その説く所の法は皆、ことごとく一切智地に到らしむ。如来は一切諸法の帰趣する所を観知し、また、一切衆生の深心の所行を知って、通達無礙なり。また、諸法において究尽明了にして、諸の衆生に一切の智恵を示す。
迦葉。譬えば、三千大千世界の山川・谿谷・土地に生いたる所の卉木・叢林および諸の薬草は、種類若干にして、名・色が各々異なる。密雲は弥布して、あまねく三千大千世界に覆い、一時に等しく(そそ)ぐ。
その沢は、あまねく卉木・叢林および諸の薬草の小根・小茎・小枝・小葉と、中根・中茎・中枝・中葉と、大根・大茎・大枝・大葉に洽う。諸樹の大小は上中下に随って、各々受くる所あり。一雲の雨す所は、その種性に称うて、しかも生長することを得て、華・果は敷け実る。一地に生ずる所、一雨の潤す所なりといえども、しかも諸の草木に各々差別あるがごとし」と説かれています。
この経文から仏の教えは法華経ただ一つ、すなわち雨は同じであるが、それを受けて育つ植物が種々あるように、衆生の資質そのままに法華経による平等の成仏が許されることを解説。

さらに、妙法蓮華経提婆達多品第十二には「悪人提婆達多の成仏、八歳の竜女の成仏」が説かれ、法華経の徹底した平等思想を説明。常不軽菩薩品第二十には「われは深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以はいかん。汝等は皆、菩薩の道を行じて、まさに作仏することを得べし」と説かれ、法華経が平等思想の精神と実践を重んじていることを解説しました。

結びに「自らの驕りと慢心を戒める。他者への敬意と尊敬を見失わない。人権を尊重し覇権を求めない」という法華経の平等思想に学び、その実践をとおして自らの人生を豊かにして行くことをお伝えし9月度の日曜法話会を終了。
来月の法話会は10月23日(日)午前11時からの開催です。

相武山 山主

2022年09月29日

道理が大切

9月の日曜法話会は11日。夏を謳歌していた蝉の声もようやく静かになり、宵のうちには虫の音が秋の訪れを伝えて、学びの好季を迎えました。
今月の法話会の世相のテーマは「道理が大切」《意見は自由、希求すべきは道理》。
国論を二分するかのような安倍氏国葬の議論から、「ものごとは整理し分析して解を導き出すこと。安倍氏の功罪が論じられることは健全なこと。各自の意見と主張を尊重。健全な社会と未来のためには道理の在るところを希求する。感情や損得からの意見主張ではなく道理に適うか否かが大切」そのためにも視座を高めることの大切さを学びました。

法話会ではプロローグとして開催の趣旨から『人生は幸不幸、遇不遇、すべてが学びの世界。仏教は人生いかに生きるべきかを問う教え。仏教寺院は一般的に冠婚葬祭などの仏事、文化財や庭園などの観光、歴史や仏教文化の対象と考えられているが、本来は僧俗の信行錬磨の場であり、仏教の教えを護り伝えて行くことがその存在の意義である』ことをお伝えしました。

続いて仏教を学ぶ姿勢について、『凡夫の人生は欲との二人三脚、幸も不幸も欲との向き合い方次第。釈尊は恵まれた資質と環境に溺れず、おおきな大欲を抱いて真理探究の道を歩まれ仏教を創始された。歴史をすなおに直視すればあらゆる存在は、過去からのつながりの上に展開されたものであり、仏教も突然に開花したわけではなく、それまでの人類の歩みや信仰から展開をみせたものである。現代日本の仏教もしかり、2500年の仏教の歴史とインドからアジア全域への伝播との関係、ことに中国の思想や宗教、文化や習俗とのつながりを見落としてはならない。何ごともその経緯を正しく学ぶことが大事である』ことを述べ、『仏教ではその教えを日々の人生に活かしているか否かが問われている』ことをお伝えしました。

世相のテーマは「道理が大切」。サブテーマは「意見は自由、希求すべきは道理」。ここ2ヶ月のメディアの報道が「安倍元首相の国葬問題とカルト教団旧統一教会の邪教性とその被害の実態」に集中していることから、国葬の問題をピックアップしました。

《安倍元首相暗殺事件に揺れる日本》
★国葬へのながれについて
「今回の国葬は、岸田首相が安倍氏の死亡から2日後の参院選投票日(7月10日)にはすでに意向を周辺に語っていたという。7月14日には 記者会見で国葬を行うと発表、22日に閣議決定する『即断即決』。その理由について『在任期間の長さ』『震災復興、経済再生などの功績』『選挙中の蛮行による死去』『国際的な評価』の4点を挙げた」ことを紹介。

★国葬について
「首相経験者の国葬は、連合軍の占領に終止符を打って独立を回復した吉田茂氏(1967年死去)以来、55年ぶり、戦後2人目。松野博一官房長官は国葬を行う事について、7月22日の閣議決定後の記者会見で、安倍氏が憲政史上最長の8年8カ月にわたって首相を務めたこと、国内外から幅広い哀悼・追悼の意が寄せられていることなどを挙げた。」
「葬儀委員長は岸田首相が務め、費用は政府が全額負担する。松野氏は『一般予備費の使用を想定しているが、詳細は今後検討していく。無宗教形式で、かつ簡素、厳粛に行う』と述べた。」
「戦前は国葬の実施を規定した『国葬令』(天皇の勅令)があり、1909年の伊藤博文(初代首相)をはじめ、山形有朋ら首相経験者の国葬が行われたほか、戦死した山本五十六連合艦隊司令長官のように、露骨な国威発揚のケースもあったが、1947年に失効。以後、国葬に関する法令はない。」
「政府は今回も総理府設置法に基づいて実施した吉田元首相のケースを踏襲し、『内閣府設置法』を根拠に内閣府の所掌事務とされる『国の儀式』として実施する」を紹介。

★国葬の説明
安倍晋三元首相の「国葬」をめぐる国会の閉会中審査が8日開催。岸田首相が出席。安倍元首相の国葬を9月27日に東京の日本武道館で行う閣議決定と、国葬の意義や費用などについて説明した。国葬の理由については「海外からあわせて1700を超える多くの追悼のメッセージをいただいたが、多くが日本国民全体に対する哀悼の意を表する趣旨であるということからも、葬儀を国の儀式として実施することで、日本国として海外からの多くの敬意や弔意に礼節をもって応える必要もあると考えた」と答弁。

◆安倍氏国葬に賛否両論
「各世論調査では安倍氏国葬への賛否はおよそ『反対、どちらかといえば反対』が賛成を上回っている。かねて安倍元首相の政治的評価は割れていた。国葬の是非でも国民の意見は割れ、新聞の論調も割れている。国葬を積極的に推す新聞もあるが国葬への疑問を報じる新聞も多い。安倍氏国葬の論点は大きく2つ。『そもそも国葬で行うべきか、また、国葬にするなら根拠の説明を含め国会で議論すべきではないか』の2点」との所見を述べました。

ここでは産経新聞と読売新聞、日経新聞、朝日新聞の各記事と主張の内容を紹介。併せて中央大学宮間純一教授の「議論と法整備欠く決定」から『岸田文雄首相は、安倍元首相の国葬を行うことで「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」と語った。だが、今回の国葬を巡る経緯は、二つの観点から、現代日本の民主主義に反している。一つ目は国葬がかつて言論・思想を抑圧する性質があったという歴史的経緯、二つ目は国葬の決定に際し、国民の意思を排除した過程の問題だ。』との意見を紹介しました
参考資料としても2022年08月02日、東京弁護士会会長伊井和彦による「安倍晋三元内閣総理大臣の『国葬』に反対し、撤回を求める会長声明」を紹介しました。

世相の結びは「学ぶべきこと」。
民主主義の国家においては基本的人権が尊重され、思想信条の自由、表現学問の自由は保障されています。したがって安倍氏の国葬についても賛否の意見は各自の自由。しかし、意見を論じ合った後に希求するのが道理でなければ残念。
「ものごとは整理し分析して解を導き出すこと。安倍氏の功罪が論じられることは健全なこと。各自の意見と主張は尊重しなければならない。健全な社会と未来のためには道理の在るところを希求する。みんなで視座を高める。権威や権力、ポピュリズムなどを排除し、感情や損得から離れた『それは道理』を希求すべき。その意見に普遍性はあるか否か。未来を担う子どもたちの理解が得られるか否か。比較対照して相違を知り、比較を超えてより良い結論を導きだそう」と私見をお伝えしました。

相武山 山主

2022年09月28日

中秋の名月

今年の中秋の名月は9月10日でした。横浜の里山にある妙法院からはとても美しい満月を愛でることができました。とばりが降りはじめる午後六時半頃、東の空から濃いオレンジ色をした大きな円いお月様がゆっくりと天空にかかって行きます。風が少し強かったこともあり雲がはらわれてしばらくみごとな観月を楽しむことができました。

古来、寺院などでは観月会(お月見の会)が催され、ささやかな供物をそなえて仏天の加護に感謝する読経・唱題がつとめられてきました。すべては妙法の営みであると考えるのが仏教。太陽と月は私たちの地球にとってかけがえのない存在。宇宙のシステムはよくわかりませんが、その円満な運行によって私たちの安寧があるのは確かなことです。
無機質な生活環境が広がり、何かと世事に追われるばかりの私たちですが、妙なる自然の営みに感謝する観月のひと時は優雅であるばかりか、自分自身をみつめる好機ともなります。

夜の妙法院は周囲にあまり光がないため、本堂に明かりを灯すと日中とは異なる佳い風情となります。コロナ禍などもあってしばらく夜の法要を執り行うことはできませんでしたが、コロナ禍が落ち着きましたら観月会など夜の法要も執り行いたい願っています。
夜の妙法院本堂と天空にかかる中秋の名月も撮影しました。

相武山 山主

2022年09月27日

四苦(生老病死)八苦への備え

9月1日は「防災の日」。全国各地で防災意識の確認が促されその訓練が広く行われます。防災の日は昭和35年に制定されたもので、大正12年9月1日に発生した関東大震災にちなんだものです。また、例年台風が多く来襲するという二百十日にあたり、「災害への備えを怠らないように」との戒めでもあります。

災害には自然災害と人為災害がありますが、いずれも物心両面にわたる被害を私たちにもたらします。災害に対する認識と対策は各人各様ですが、人類は太古の昔から災害と向き合ってきました。最近の我が国の自然災害ではなんといっても東日本大震災が鮮烈な印象ですが、阪神淡路大震災も決して忘れることはできない大災害でした。また近年、集中豪雨による水害は枚挙に暇がありません。日本は歴史書をひもとくまでもなく昔から自然災害が頻繁に起こる国です。とはいえ差異はあっても自然災害のない国や地域はありませんから、地球はいつどこで自然災害が発生しても不思議でないことは明らかです。

科学的にも地球そのものはひとつの生命体であり、さらに太陽系から宇宙全体も生命体であって常に変化してやまない存在なのです。大陸のプレートが重なり合い火山活動も活発な日本では、急峻な地形なども影響して他国よりも自然災害が発生しやすいように思えます。地震が起こらない地域もあって、そのような国や地域から日本に来た人は大地が揺れることに恐怖を覚えるといいます。多少の揺れでは平気な私たちとはかなり感覚が異なります。

防災の日によく語られるのは「備えあれば憂いなし」。その言葉どおりで災害に限らずどのようなことでも、普段から準備をしておけばいざというときに心配はないということです。とはいえ、心配がないとは言い過ぎで心配が少ないというのが妥当なところでしょうか。
首都直下型地震や東南海の大地震と大津波、富士山の大噴火など自然災害到来の警告はすでに長く報じられ、その発生も確実視されています。したがって多くの国民が災害への備えをそれなりにしていると考えたいものです。果たしていかがでしょうか。妙法院でも責任上それなりの緊急時の備えはしていますがとても十分とはいえません。私もこの文章をつづりながら冷や汗をかいています。

我が国の平和ボケといわれる認識は、ロシア軍のウクライナ侵攻や台湾有事などから変化を余儀なくされましたが、あの東日本大震災の悲惨な災害からまだ11年しか経っていないのに、必ずやってくる自然災害に油断している人も多いように思えます。私たちは幸か不幸かご縁があって災害多発の日本に生をうけそこで自分なりの人生をつむいでいます。災害のない国に渡って安全に生活しようと考えることもその人の自由ですが、この国と生死をともにすると定めた国民は、災害の到来を常に意識して自らの身を護り、他者の生命をいつくしむためにも防災への備えに努めなければならないと思います。

《四苦八苦への備え》
私たちは仏教信仰者として自然災害への備えと同様、自身の人生への備えもしっかりと見つめる必要があります。仏教では人生の四苦八苦(生・老・病・死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦)を超克して、寂静というまことの安らぎを得ることの大切さが説かれます。
この四苦八苦という言葉もその存在を認識できない人にはまったく意味がありません。『たった一度の人生、思うように面白おかしく生きればそれでいい。どうせ思うようにならない人生、あくせく努めるのはアホらしい。生まれたときから差別がある、どうあがいても恵まれていない者は仕方がない。人生はなるようになるからあまり深刻に考えずに気楽に生きよう。』という思考の方には四苦八苦の有り難い教えもお手上げです。諦めるわけではありませんが、仏教的には「縁なき衆生は度し難し」といったところでしょうか。

他方、人生を貴重なものと考える方には四苦八苦の教えは意義深いものです。「誰もが等しく諸行無常の真理に在り、生きることは思うようになるものではありません。若さを誇っていてもやがて必ず老いが迫ってきます。健康を自慢していても病にかからぬ保証はまったくありません。そして、誰もが差別なく死を迎えます」。
この四苦の現実を拒否することなく受容して自らの人生に活かすことこそ、仏教の基本的な考えであり、仏道の修行と信仰の功徳を積むことになるのです。

災害への備えと四苦への備えはほとんど同じです。災害の備えはその発生を想像できる人にしてはじめて講じることができ、人生の四苦を認識できる人にしてその備えはできるということです。
「存在するもののすべては変化してやまない。したがって人生は思うようにはならない。自身の貪りや怒り、愚痴に翻弄されないように生きよう。一日一日、誰もが老化しているのが現実。昨日できたことも今日できなくなることがある。老いることは当然と認めて、少しでも健全な老化であろうと努めよう。
誰もがいつ病にかかるかわからない。ひとしく病に冒される可能性があり、病にかからない人などいない。眼や耳、鼻や皮膚、手足など、身体の機能がいつも正常である保障はまったくない。いつ病気になっても不思議ではない。病気や障害のある人々の姿は明日の自分かもしれないと謙虚に自身をみつめよう。健康であれば今日一日の健康に感謝をしよう。
そして、結びは誰人にも等しく訪れる死。悔いのない人生をあゆんだと思える人は心安らかでしょう。今世とお別れをしても良いと思えるように最後まで自分を大切にして、終焉を迎える最後までより良い生活を心がけましょう。まことの安心はたしかな来世を信じられること。そこに法華経信仰の大切さがあります」

八苦は割愛させて頂きますが四苦を見つめて日々に己の備えを講じることはけっして難しくはありません。法華経と日蓮大聖人の教えを学び修めることは人生のたしかな備えとなるのです。

相武山 山主

2022年09月01日