相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

時ならぬ暑さの清掃作務

6月の境内清掃は25日(土)午前10時から。数日前から気温が上がりこの日も朝から猛暑でした。この日の境内清掃は駐車場、掲示板周囲と参道。参加者は汗を流しながら草取りに励みました。三師塔の汚れに気がついた中澤さんは三師塔の清掃です。6月とは思えない暑さのため清掃作務は1時間半ほどで終了。

終了後は本堂向拝の下で冷たい麦茶を頂きひと時談笑。「今年の梅雨はどこに行ったのでしょうか?」「この暑さは異常、地球温暖化でしょうかね」「コロナも油断できないけど熱中症にも気をつけなきゃ」などと語り合いながら散会。熊木さん、辻本さん、安西さん(2)、落合さん(2)中澤さん(2)、市川さん。ご協力有り難うございました。

相武山 山主

2022年06月30日

法華信仰のつどい(下)

《3年ぶりの法華講総会》
6月19日(日)午前の日曜法話会に引き続き午後1時より妙法院法華講総会を開催。コロナ禍の心配もあり開催を躊躇しましたが、令和2年、3年と中止したので啓蒙することなく少人数で開催することにしました。総会は3年ぶりです。はじめに参加者一同にて勤行・唱題。法華講の意義を確認し仏道精進を誓願しました。

司会進行は総会が急ごしらえだったため興厳房が担当。開会の言葉に続いて行学二道の御聖訓奉読。「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」と興厳房の先導するマイクに参加者が唱和。
はじめに講費会計報告。会計係の阿部純子さんが令和2年と3年の収支計算書を提示して詳細に報告。まとめとして講費は毎月1,000円で年間12,000円。納入は「妙法院への持参、書留郵便、郵便振替など」「できるだけ年始から前半に納入頂きたい」とご案内。支出内容として「相武山だより『不染』の制作費、妙風新聞や恵日の購読料、事務通信費、郵送費、地域広報費(法話会案内一部負担)、覚醒運動の講中分担金(全国大会&東海正信連合会)、主要行事のお供物、布教への助成(有縁の方々への資料送付)などに活用」を説明。結びに「講費は信心による任意の御供養ではなく、妙法院法華講として活動して行くために必要な経費。趣旨が異なるので混同しないようにご理解とご協力を願う」と報告しました。

次に落合美代子さんが会計監査報告。「監査の結果、報告どおり間違いありません」と監査を報告しました。
続いて新倉昇三さんが挨拶。新倉さんは午前に開催された日曜法話会をふまえ、「大聖人様の仏法を広く伝えて世の中の平安を祈って行こう。ウクライナの悲惨な戦争被害を黙することなく抗議しよう。わかりやすく仏法が説かれる法話会の輪を広げて行こう。皆で講中活動の活発化をはかろう」とうったえました。

住職挨拶では私から法華講の意義にふれながら、妙法院が正信覚醒運動という現代の仏教運動の展開から誕生したこと。その42年に及ぶ足跡のポイントを紹介。昭和56年春から昭和62年春までの保土ケ谷の時代。昭和62年春から平成6年初夏までの新横浜の時代。平成6年初夏から平成22年深秋の羽沢の時代。平成22年深秋からの下川井の時代とそれぞれの歩みを振り返りその間の活動を簡略に総括。併せて私の信仰観の変遷も解説しました。
法華講は宗祖の御在世より仏法護持の講衆という存在。しかし、時代の制約は誰もが無視することはできないもので、思想信仰の自由、人権の尊重、プライバシーの保護など「この時代にどのように法華講を構築するか」が私たちの課題であることをお伝えし住職挨拶としました。

その後、参加者全員が車座になっての座談会。正信会の活動方針「まなぼう法門、かたろう信心」の実践です。「日蓮大聖人の教えに出会ったきっかけ・・・」「信仰を人生の柱にできた安心感」「人生の悩みに翻弄されたとき・・・助けられた」「仏教や歴史を学べることが楽しい」「妙法院とのご縁・・・」「長くご縁を頂いているが昔はあまり参詣できなかった。今は思う存分学べることがうれしい」「信仰の仲間や住職と気楽に語れるのが楽しい」「迷ったとき、悩んだとき信仰とお寺が心の支えとなった」「遠慮なくいつでも気軽にお参りできるのが良い」「法華経や日蓮大聖人の教えに巡り会えたことが人生の悦び」「自分としては仏法を学ぶというよりも人としての教養を学んでいる感じ」等々。
20名の参加者全員が各自の信仰への思いと所感を遠慮なく闊達に語り合い、あっという間の40分でした。
来年の総会はもう少し賑やかになるよう各自が努めようと声を掛け合い散会しました。

相武山 山主

2022年06月30日

法華信仰のつどい(上)

《法華講とは》
妙法院では仏法護持のために講中組織「法華講」を結成しています。講というのは集まりという意味で、現代的にいえば「グループ」や「サークル」に近い感覚の言葉。法華講は法華経を信仰する講中という意味です。
講中という表現は我が国で古来から使われていましたが、現代では少しなじみの薄いものとなっています。ちなみに『日本大百科全書』には「地域社会をおもな母体として、信仰、経済、職業上の目的を達成するために結ばれた集団。構成員を講中とか講員という。本来は仏典を講説するための僧尼の会合やその団体を意味していた。現在でもそうした仏教関係の講は行われているが、講の内容は非常に多様化している。それらを大別すると、(1)信仰的講、(2)経済的講、(3)職業的講になる」とあります。

法華経と日蓮大聖人の教えを学び伝える当山では昭和56年、開創の年末に法華講を結成しました。結成の目的はさまざまな因縁によって妙法院に集った信徒が合力して菩提寺を護持し、日蓮大聖人・日興上人の教えを学び修めることにあります。
現在、妙法院には自ら日蓮大聖人の教えに帰依された方、ご家族や親族の導きでご縁を結ばれた方、墓所や永代供養墓、樹木葬などの仏事をご縁にされた方、日曜法話会や自然散策などでご縁を結ばれた方と多様な方々がお集まりです。

当然、仏道や信仰への想いも皆さん一様ではありませんし、信仰にもそれぞれ厚薄・浅深がみられます。仏教ではあらゆる存在は瞬間瞬間の刹那にのみ存在していると教えていますが、心のはたらきである信仰も例外ではありません。まして私たちは末法の荒凡夫ですから、ある時には信仰が深まったり、ある時には希薄になったりすることは不思議ではないのです。また、信仰心が希薄な方が何ごとかをきっかけに強信になったり、強信な方が突然に信仰から離れ遠ざかることも珍しいことではありません。さらにこのようなすがたには僧俗の別もないのです。

法華経には妙法受持が揺るぎないものになる時こそ仏道成就と説かれています。しかし、信心の決定は愚かな凡夫にとっては難しいことですから、刹那刹那に純粋な信仰心が大切ということになります。
上述のように仏縁を得て信仰を大切に人生を歩もうとしても、信仰を継続し磨き続けることは容易なことではありません。しかし、一人ひとりでは流されそうになりがちな信仰でも、同信の徒が互いに啓発し合う講中の存在があれば信仰の支えとなることは明らかです。そのようなことから宗祖の古えより「法華衆・法華講衆」との名称のもとに信仰の講中が存在して現在に至っているのです。

《順逆二縁を認める法華経》
妙法院は法華の道場として法華経と日蓮大聖人の教えを啓蒙しその啓発に努めている仏教寺院です。行事や法要での説法、葬儀や法事での法話、日曜法話会や折々のふれいを活かして仏教をお伝えしています。ご縁のある方々に相武山だより不染を送付しているのもその一環です。
啓蒙や啓発というと強制や押しつけと捉える方もいるようですが、啓蒙や啓発はけっして一方的な強制や押しつけを意味してはいません。啓蒙とは「正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと」であり、啓発は「人が気づかずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くこと」です。そこには道理に基づく合理性が在るのですから、受け手となる人の心に伝わらなければなりません。理解も得心もえられていないのに強引に合意を求めるような行動が強制や押しつけといわれるものです。

強引な宗教があるのも事実ですから、その語る内容をよく吟味し人となりを見極めて、礼儀やマナーにもとることがないかを見定めなければなりません。会話にならないような一方的な意見や、肯定や否定にかかわらず感情的な言動には注意が必要ということになります。
当山では日蓮大聖人の末流としての自覚のもとに法華経の啓蒙と啓発に努めていますが、強引といわれるような勧め方をすることは一切ありません。したがってご縁を結ばれた方々は皆さん自分の意志で仏道との関わりを適度に判断しているのが実状です。
積極的に大乗仏教・法華経を学ばれたり修める方もいますし、信仰を意識されて毎月月例の御経日や宗祖報恩講に参詣される方もいます。お正月や御会式、彼岸やお盆などの年中行事を中心に参詣する方、主に仏事を大切にされる方、気軽に墓参を中心に関わる方、年に一度の参詣や、時には数年に一度10年に一度という方も居られます。妙法院からはさまざまなご案内をしていますがまさに各自の自由意志のままにといったところです。

もちろん、仏教では一貫して懈怠を誡め精進が説かれていますし、仏道は求める志が基本ですから精進と継続が大切であることは改めてことわるまでもありません。しかし、信行するか否かは個々の認識と自覚によるのであり、強制されたり押しつけられるべきものでもないでしょう。

法華経では順逆二縁が説かれています。順縁とは「善事を縁として仏道に入ること、素直に仏縁を結ぶこと」。方便品では小善成仏が説かれています。逆縁とは「順縁に対する語、仏縁を拒否し悪事を仏教に入る縁とすること」。常不軽菩薩品では不軽軽毀の四衆の逆縁が説かれています。大乗仏教の精華であり一切衆生の成仏を認める法華経では、順縁・逆縁の二縁が共に仏道成就のすがたとして説かれているのです。
末法の法華経の行者日蓮大聖人も「不軽菩薩の跡を紹継」すると逆縁成仏を積極的に認められ、厳しい折伏行も逆縁成仏を確信して居られた証左といえるのです。
この順縁・逆縁も一度定まればそれで確定ではなく、私たち愚鈍な凡夫は一度仏縁を結んだとしても時に見失い、時に蘇ることもあり一様ではありません。法華信仰の人生の中でも信・不信が共に存在することを認め誡めたいものです。

相武山 山主

2022年06月29日

平等の思想

6月度の日曜法話会は19日。はじめに法話会趣旨の説明の上から、釈尊が仏教を創始される経緯について、インド古代のバラモン教との違いにふれ、仏教が極めて現実主義であることを「十四無記」という釈尊の姿勢から解説。
釈尊が問われても語ろうとしなかった姿勢(無記)は、「経験できないものについては語らない。形而上学的な問題については判断を示さず沈黙を守る。無用な論争の弊害からのがれ、苦悩からの解放という仏教本来の目的を見失わない」ためにとられた立場を説明。仏教ではこの釈尊の姿勢を基本的に踏襲し、摩訶不思議な現象をもてあそんだり、無意味な神秘主義に堕すことを誡めていることをお伝えしました。

《平等の思想》
今月の法話会のテーマは「世相」と「仏教に親しむ」の2部にわたって共通の「平等の思想 ー他者を尊重してより良く生きるー」でした。差別と平等は人権の根幹にかかわり人類の歴史と共にある課題。個人の生き方から国家の有り様にまで広がる大きなテーマです。抽象的すぎて自分の生活と何の関係があるのだろうかと思う方も多いでしょうが、その内容を理解するとしないとでは人生の歩み方がちがってきます。今月は差別と対峙する平等という単純な位置づけではなく、一つの視点として「他者を尊重してより良く生きる」に焦点をあてて考えてみました。

はじめに「差別という現実が存在するからこそ平等の思想が大切になる。平等は対象によってその定義が異なる。」と説明。次いで「平等」とは「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」であり、「思想」とは「①心に思い浮かべること。考えること。考え。②人生や社会についての一つのまとまった考え・意見。特に、政治的、社会的な見解をいうことが多い。③哲学で、考えることによって得られた、体系的にまとまっている意識の内容をいう。(デジタル大辞泉)」を解説。

その対象についても「いかなるものの下で平等なのか! 法のもとで。仏のもとで。神のもとで。人権のもとで・・・・・など。」との定義が求めらることを説明しフランス革命(1789年)による有名な「人権宣言」を紹介。人権宣言は法的、政治的、経済的、社会的概念として自由と平等をうったえているものです。
前文も宣言の内容を導く重要な意味を持っていることを説明。
第1条(自由・権利の平等)
人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。 社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。
第2条(政治的結合の目的と権利の種類)
すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。
第3条(国民主権)
すべての主権の淵源(=みなもと)は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。
以上から現代の多くの国と国民に尊重される人権という価値観の原型をみることができます。

《差別と平等 ハラスメント》
続いて「差別と平等」について「現実社会の分析と理解のために「差」と「別」という「ちがい」を認識することは必要。あらゆる存在に差別が存在する事実は否定できない。差別が存在することを認識することと差別を肯定することは同義ではない。ちがいを認めた上で平等の思想を活かす」と解説。基本的な差別を認識しながら他者を尊重し相互の調和と尊厳をはかることが大切であるとお伝えしました。

次に各種のハラスメント(他者への尊重を欠く言動)について。
ハラスメント(Harassment)とは「嫌がらせ」や「いじめ」と訳される言葉。言葉や行動によって他者に不利益を与えたり不愉快にさせたりすること。与えるダメージが身体的なものでも精神的なものでも同じ。行為者にどういう意図があったかは問題ではなく、相手が不快な感情を抱けばそれはハラスメントとなることを解説し、ハラスメントの諸相として「パワー、セクシュアル、セカンド、モラル、リモート・ジェンダー、アルコール、スモーク、マタニティ、テクノロジー、スメル、リストラ・・・。」があることを紹介。

《親ガチャ》
続いて平等の思想を活かせない発想として、最近耳にする「親ガチャ」について。
親ガチャ(おやガチャ)は、SNSの普及で他人の私生活の良い面が見えるようになったことで、羨望する他者との遺伝的要因(生まれ)と環境要因(育ち)の違いを「努力では挽回できない差」と“ガチャ”に例えた日本のインターネットスラング。「親ガチャ」という言葉はベースで人生の結果が決まるというニュアンスが強いために反感を持つ人もいます。

ネットからの軽い解説となりますが、『親ガチャは当たりではなく、はずれと思っている子ども側から語られがち。遺伝的要因(生まれ)と環境要因(育ち)の二種があるとされ、どちらも当たり、片方は当たり、どちらも外れ、がある。生まれた国家や国籍、父母の遺伝で生まれもった容姿や能力、家庭環境によって人生が大きく左右されるという認識に立ち、「生まれてくる子供は親を選べない」ことを、スマホゲームの「ガチャ」に例えている。特に子供側の観点から、自身の能力や環境に対する諦めや苛立ち、思い通りにうまくいかない原因を「ガチャに外れた」と例え、生まれた時点で「アタリかハズレは運次第である」という意味が込められている。
2017年12月時点で親ガチャという言葉はネット上で知名度があったが、2021年9月に若年層を中心に流行語となり、同年のユーキャン新語・流行語大賞のトップテンに選出され、同年の大辞泉が選ぶ新語大賞では大賞となっている。』を紹介。

ものごとにはすべて両面があることから、「各自の資質や環境には確かに「差」「別」は存在する。他面「平等」という観点も認識し、涵養しなければならない。他者の存在や意見を尊重するためにも「平等の思想」は大切。他者やその意見を一方的に軽蔑し、己の驕りや慢心に酔うことは愚かであり危険なこと。平等の思想が理解できないところに対立や争いが起こる」ことを説明。

《平等の思想の欠如》
プーチンロシア軍のウクライナ侵攻の愚行は「国家・地域の独立と主権の尊重を破棄した蛮行。プーチン大統領のゆがんだ歴史観と大国意識。ウクライナの独立と主権を認めない強権主義(他国を尊重しない反平等の思想)。」によるものであり、まさに平等の思想の欠如にその原因があります。
間もなく侵攻4ケ月。「悲惨な戦争と残虐な占領統治の実態(双方に夥しい戦争犠牲者)。停戦、休戦の想定ができない厳しい現実。穀物危機やエネルギー危機など世界中に深刻な影響を与えている」人権と平和を大切にする世界中の人々は速やかに戦火が止むことを祈るべきです。

名言に学ぶでは、
英国哲学者で自由主義の父と呼ばれるジョンロック(1632~1704)。
「すべての者が平等で独立している。何人もその生命、健康、自由、 財産において他者を害してはならない。」
世紀の科学者アルベルト・アインシュタイン。
「神の前において我々は平等に賢く、平等に等しく愚かである」
を紹介。
今月のテーマから学ぶべきこととして『「差」「別」の現実を直視して適切な平等観を養う。平等の思想は他者への尊重に通じる大切な見識。対立と争いは平等の思想(他者を尊重)の欠如から起こる。平等の思想は自身の慢心や驕りを正し人間性を高める。有史以来、さまざまな差別が存在し、その是非が論じられてきた。誰もが等しく尊重されるべきと考える平等の思想は世界の潮流。』と所見をお伝えしました。

《仏教に親しむ 釈尊のことば》
釈尊はカースト制度などさまざまな古代インド宗教の差別主義を批判。苦悩を除いて真理の安らぎを得ることを求めながら、対立と争いを鎮め人間性の向上をはかるために平等の思想を説かれました。
『原始仏典 スッタニパータから』
「自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、──かれを賤しい人であると知れ」
「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる」
「何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない」
「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」と。

今月は少し難しいテーマでしたが仏教を信受する者はより良い人生のためにも「他者を尊重」する平等主義に立つべきであることを参加者と学びました。来月の法話会も大乗仏教、法華経、日蓮大聖人の教えなどから継続して平等思想を学ぶ予定です。

相武山 山主

2022年06月28日

飛び交うホタルを観て

《里山の田植え》
横浜市は大きな都市ですが市域が広いこともあり郊外では農業も思いのほか盛んです。野菜の栽培が主ですが一部では稲作も行われています。数年前、横浜市の農家の世帯数は約4200戸ほど。田んぼを所有して稲作をしている世帯数は約500戸ほどと聞いたことがあります。稲作には水が欠かせませんから横浜市には河川や用水路がある程度存在していることになります。

横浜市の北西から横浜港にながれる帷子川は当山にほど近い旭区の若葉台付近が源流といわれています。また、当山の南西側に広がる追分市民の森と矢指市民の森には帷子川の支流である矢指川の源流もあります。当山は横浜市旭区の下川井町に在りますが、近隣に上川井町、川井本町などの地名があるように昔から水に恵まれていた地域のようで、戦後の高度成長期による都市化まではあちらこちらで稲作が行われていました。

5月下旬、里山の風情をのこす市民の森の田んぼでは代掻きが行われました。代掻きは田んぼに水を入れ土を砕いて均平にしていく農作業。田植えの前に行われる準備です。代掻きが終わってしばらくしたら田植えでした。その様子は日本の原風景などといわれますがゆったりと趣があり、なぜか心が落ち着きます。

《ほのかにうち光りてゆく》
田んぼに水が引かれる前からカエルが鳴き始め、その合唱は宵のうちから夜遅くまで続きます。田植えと梅雨の前ぶれのようにも聞こえるカエルの鳴き声ですが、この時季はホタルの季節でもあります。今年は5月25日頃からホテルが舞い始めました。当山周辺の市民の森のホタルは地域の人々や横浜市の緑政局などがその環境維持に努めているようです。しかし、養殖したり観賞用に積極的管理をしているわけではありませんから自然の営みの一環そのものです。

ホタルについては古来さまざまな形容がなされています。
平安時代中期、清少納言の『枕草子』には
「夏は、夜。月のころは、さらなり。闇もなほ。螢のおほく飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。」とあります。
現代語訳すれば
「夏は、夜(がいい)。月の(明るい=満月の)ころは、言うまでもない。闇(の月がないとき)もやはり(またいい)。蛍が多く乱れ飛んでいるのや、また、(たくさん飛び交ってはいなくても)ほんの一匹二匹と、ほのかに光って飛んでいるのも、趣がある。雨が降っているときも、趣がある」となります。

陰暦陽暦によって多少の時季のずれはありますが夏の初めの趣にホタルを愛でています。
今年は興厳房と月末の午後8時過ぎに観賞に行きました。地域の方にうかがえば『数は少なくなったけど昔から良く飛んでいた』そうです。現在は生息数がそう多くはありませんから乱舞というほどの光景ではありませんでしたが、それでもこの時季街灯もほとんどない闇の中、里山の幻想的な風情を味わうことができました。

ホタルが生息する環境は「流れが緩やかできれいな川や水田などの草むら」「水温は15度~20度がよく、餌になるカワニナがいること」です。一般的にホタル狩りは「風がなくどんより曇った蒸し暑い夜(目安は20度以上)。川や水田の草むらなどで日没後1~2時間をピークに活動するので20時台が最適。雨や風の強い日、気温が低い日、月の明るい日はあまり活動しない」と案内されています。来年は有縁の方々にもお報せしてご一緒に楽しみたいと思っています。
《存在は環境に影響される》
市民の森を飛ぶホタルの営みも生存の環境があってこそ。里山の風情を大切に想い、常日頃から環境の維持につとめる人々の努力の賜物といっても過言ではありません。市民の森に囲まれる当山では、日頃から地域の方々が森の整備に汗を流している姿を見ています。かなり広い地域ですから隅々までとはいかないかもしれませんが、その姿からは里山としての環境をまもり維持して行こうという想いが伝わってきます。

里山とホタルの関係ばかりでなく、少し思いを巡らせれば、自然界や社会システム、人間関係にいたるまで、私たちの知識する存在にはすべて存在する理由があり、存在をまもり支えるはたらきがあることがわかります。行き交うホタルのあかりを観るとき、その生存には適切な環境が不可欠だろうと誰もが思い至ることでしょう。

ここで環境について述べる余裕はありませんが、「人間は環境の動物」ともいわれていますから、私たちの人生にとって環境は最優先されるべきものです。環境は与えられたものもあれば、選択すべきものもあり、また護り維持すべきものもあれば創造するものもあります。一般的に環境の定義は「広義においては人、生物を取り巻く家庭・社会・自然などの外的な事物・事象の総体。狭義としてはその中で人や生物に何らかの影響を与えるものを指したり、人間を中心とする生物を取り巻く環境のこと」といわれています。

自分に当てはめて考えると「広い意味での環境とは自分以外の周囲の存在すべてのこと。たとえば自分をとりまく自然環境(微生物から宇宙のいとなみまで)だけでなく、家庭や学校、会社や社会システム、その時代さえ広義の環境に含まれます。狭い意味での環境とは自分以外の周囲の存在で直接自分が影響をうけるもの」ということができます。

宗教や信仰、歴史や伝統、文化や習俗なども主体的自己の存在からすれば環境の一つに位置づけられます。それらの環境との遠近によってその知識や理解が異なり、価値観や人生観にまで及ぶのですから環境としての大きさがわかります。

世界には人種や民族、宗教や信仰、思想や信条、国家や地域などさまざまに差異があるのが事実。時代の進展と倶に対立や争いから多様性の尊重という流れは確かですが、それも置かれている環境によって理解に浅深があります。

《法華信仰の要として》
前述のように宗教や信仰、歴史や伝統、文化や習俗なども環境の一つであれば、仏教寺院も例外ではありません。仏教の信仰者にとっては寺院は貴重な精神環境の一つです。とはいえ、日本の仏教信仰も長い歴史の波に洗われ、徳川時代の檀家制度も失われて、唯物思想や神秘主義、スピリチュアルなどが流行する現代、仏教寺院の存在も危うくなっているのが事実。それは全国に約75,000前後の寺院があるといわれていますが、住職のいない無住のお寺も多く、荒廃して存在が難しいと思われる寺院も少なくないことからもわかります。

仏教寺院荒廃の理由は「徳川幕藩体制に組み込まれた寺院の数が多すぎた。檀家制度にあぐらをかいていた。葬式仏教に陥って信徒教化を怠っていた。都市への人口流出と地方の過疎化。現代人の意識やライフスタイルの変化に対応できていない。仏教の魅力を伝えきれていない。・・・」等さまざまありますが、要は存在意義が希薄になったということでしょう。

このような事態は仏教信仰者全体の課題ですが、他宗他門はともかく私たち日蓮の末弟は大乗仏教の精華である法華経と日蓮大聖人の教えを信仰しているのですから、課題をしっかりと見据えてその教えを護り伝える使命に覚醒しなければならないと思います。
日蓮大聖人は立正安国論に
「予少量たりと雖も忝くも大乗を学す。蒼蝿驥尾に附して万里を渡り、碧蘿松頭に懸かりて千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて諸経の王に事ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや」と仰せです。
現代語訳すれば
「私は身分もなく智恵も少ないが、かたじけなくも大乗教を学ぶ者である。例えば、青蝿でさえ駿馬の尾にしがみつけば万里をわたり、蔦も松の大木にからみつけば千尋の高さにまで伸びる。それと同じく大乗に心を寄せれば、きっと仏意を究めることができる。私のような者でも仏の子と生まれて、諸経の王たる法華経に仕える身である。どうして正法が衰えていくのを見て、哀惜の念を起こさずにいられようか。」
となります。

飛び交うホタルを観ながら環境の大切さに想いをいたし、併せて相武山妙法院が現代法華信仰の要であることを改めて自覚した次第です。当山を菩提寺とされる方々、また、ご縁を結んで頂いた方々の精神環境の拠り所となれるよう、これからも同志の方々と倶に精進して行きたいと思います。

相武山 山主

2022年06月01日