相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

境内を浄めました

梅雨入り前の夏日となった5月28日(土)、午前10時から正午までの2時間、今年初めての境内清掃を行いました。バス通りへのフェンス際、駐車場からの参道、三師塔の前や墓苑内などの草取りと清掃で境内と周囲を浄めました。

午前中とはいえ初夏の少し強い日差しの中での作務でしたから、皆さん汗を流しながらの作業となりました。梅雨に入ると思うように草取りも清掃もできませんから、貴重な境内清掃の機会でした。妙法院は大きな寺院ではありませんから普段は寺内の者でそれなりの清掃管理は可能ですが、それでも十分なものではありません。折々にご信徒有縁の方々にご協力頂いての清掃整備は有り難いことです。

当日、菩提寺妙法院の清掃作務に参加頂いたのは、新倉さん、小原さん、熊木さん、森さん、久保さん、安西さん、落合さん、辻本さん、芦川さん、中澤さんの14名。皆さんご協力ありがとうございました。
来月も25日(土)午前10時~12時まで境内清掃整備を予定しています。雨天中止ですがご協力頂ける方にはよろしくお願いいたします。

相武山 山主

2022年05月31日

伊豆御流罪法難会

5月15日(日)午後1時から伊豆御流罪法難会を執り行いました。法難会には午前に開催された日曜法話会から引き続いて参詣される方を中心に15名ほど。未だまだコロナ禍自粛が浸透しています。
参詣僧俗一同に法華経要品を読誦、南無妙法蓮華経のお題目をお唱えして日蓮大聖人の伊豆御流罪(弘長元年 1261)の御報恩を申し上げました。
私からは法難会の意義について挨拶。引き続いての法話は興厳房が担当。年始に今年の年中行事の法話は興厳房の担当と決めていたのでその実行です。

興厳房は下山御消息(現代語訳)
「立正安国論一巻を著わし、文応元年(一二六〇)七月に亡き最明寺時頼入道殿に上呈しました。それに対して幕府からは何のお尋ねもなく、それを採用するという動きもありませんでしたが、逆に国主が用いない法師であるから、たとえ殺しても罪にもなるまいと思ったのでしょうか。念仏者やその檀那等に幕府の者たちも同意したということですが、夜中に数千人の人々が日蓮の草庵へ押し寄せ、殺害しようとしました。

しかし、どうしたことか、不思議にもその夜の危害は逃れることができました。しかるに、襲撃した者は幕府の者たちと同意の上でしたので何の咎めもなく、反対に大事な政道を批判した日蓮が生きているのは不都合であるとして伊豆国へ配流したのです。

人というものは他人を憎むあまり、自分が滅ぶべき罪をも顧みないようです。それゆえに式目の決まりも破られてしまいました。貞永式目の起請文を見ますと、梵天・帝釈天・四天・天照大神・正八幡宮等の名前を書きつらねた誓約が厳然としてあるのです。

もし、日蓮があまりにも意外な法門を言い出したため、詳しく理解することができないということであれば、幕府の帰依する僧と召し合わせ、それでも解決できなければ中国やインドの学僧にも尋ねられるべきなのです。それでもまだ不審があると言うのならば、日蓮の申し立てにも何か理由があるのだろうと、しばらく時を待たれるのが道理というものです。

それを、詳しい事情も知らない人々が、自分の身が滅びるのをそのままにしておいて、大事な式目の起請文を破られたのはとんでもないことです。」
を拝読。

興厳房は始めに宗祖の伊豆流罪の背景と状況について解説。続いて拝読の下山御消息の御文を詳述して末法の法華経の行者である宗祖のご意思と振る舞いを説明。身命を賭して法華弘通に精励された宗祖の慈悲心が私たち門弟の信心の要であると述べて法話を結びました。参詣者は伊豆御流罪の宗祖の御心に想いを馳せました。

相武山 山主

2022年05月31日

愚かさの自覚

5月の日曜法話会は15日(日)でした。
法話会のテーマは「愚かさの自覚 ー 愚行・蛮行から己をみつめる ー」でした。はじめに日曜法話会開催の趣旨をお伝えしてからテーマについての説明。前触れとしてより佳い人生を歩むためには「己と社会を冷静に見つめること。未熟で未完成な己の愚かさをみとめ、慢心と油断を排除すること」が大切であると大乗仏教で教えていることをお伝えしました。

今月は「愚かさの自覚」を「世相」と「仏教に親しむ」共通のテーマとしましたが、それはを北海道知床の観光船事故とプーチンロシア軍のウクライナ侵攻という事件を目の当たりにしていることによります。
「愚かさ」とは辞書によれば「頭の働きが鈍いさま。考えが足りないさま。ばかげているさま。未熟なさま」と説明されています。愚かさの自覚ということは「古今東西、賢人は人間の有限性を知り、愚かさを自覚して人格の涵養を勧めている。人間は未熟で未完成(愚かさの自覚)であるという自覚を失えば、油断したり、慢心をおこしたり、傲慢になりがち。さまざまな意味で自信はもたなければいけないが同時に謙虚さも大切。心のバランスを保つことが肝要で、常に己を見つめることが大切」であり、仏教信仰者の心得であることを述べました。

レジメにそった法話では愚かさの事例として「知床観光船海難事故」を提示。
まず、その概要として「2022年(令和4年)4月23日、知床遊覧船『KAZU I(カズ ワン)』が北海道知床半島西海岸沖のオホーツク海域で消息を絶ち沈没した海難事故。(有)知床遊覧船が所有運行する観光船『KAZU I』は斜里町のウトロ漁港から知床岬へ向かい、引き返してウトロへ帰港する『知床岬コース』で所要時間は3時間程度を予定。

・事故当日は(有)知床遊覧船の当季の運航を始めた初日。競合他社はゴールデンウィーク初日の4月29日ごろから運航を開始する予定だった。同日は同社の遊覧船だけが運航。
・事故当日の天候と波。斜里町には午前3時9分に強風注意報、午前9時42分に波浪注意報が発令。そのため午後に運行される予定だった観光船は運行中止となっていた。
・KAZU Iはトロ漁港を10時に出港。観光船には子ども2人を含む乗客24人と船長・甲板員を含む合計26人が乗船。」を解説。

次に参考資料として毎日新聞5月13日の記事「知床観光船、ずさんな安全管理 教訓生かさず、国交省文書で指摘」を紹介。
そこには「国土交通省は13日、過去に事故を起こした際の指導文書などを公開した。同社は定点連絡を日常的に怠るなど安全管理の不備が指摘されているが、文書からはこうした問題点が以前から指摘されていたことが明らかになった。 ー略ー 今回の沈没事故では、運航管理者の桂田社長は外出し、代行するはずの補助者も安全管理規定上で明確になっていなかった。事務所と船上をつなぐ通信設備としての携帯電話も不安定だったうえ、安全管理規定で決められた定点連絡を日常的に怠っていた疑いも浮上している」とありました。

現状(5月14日現在)「乗員乗客26名中14名が発見(死亡)。遭難者の捜索続行中、事故の全容解明はこれから。自然災害ではなく人災ではないかとの疑い。経営会社のずさんな運行管理が指摘されている」ことを説明し、この海難事故から経営者の愚かさを知るとして「海洋観光は安全性が第一。人命を預かっている認識と責任が欠如。日頃からのずさんな運行管理の結果か。経営者が大切なものは何であるかを理解していない。経営者の愚かな思考と経営によって人命が失われた。人命を預かる責任者は確かな見識をもたねばならない」を指摘しました。

続いてプーチン・ロシア軍のウクライナ侵攻80日について。
「悲惨な戦火と残虐な占領実態。リアルタイムで事実が報道される現代。アナログ時代では逃げられた罪過が逃げられない現代。世界各国の対応は一様ではない。今後の世界情勢(政治、経済、軍事、社会・・)の転機となる」とをお伝えしました。

プーチンロシアの野望と現実について「大ロシア帝国という夢想。当初のもくろみは破綻。長期独裁者プーチンの驕りと愚かさを露呈。自縄自縛による窮地。自由と平等、民主主義を尊重する国々を敵とした。プーチンの対陣は遠くない」と解説。
ウクライナ国民の意思と覚悟について「多大な犠牲を承知してなぜ抵抗するのか。停戦しても悲劇が終わらない。国家民族としての尊厳と自由と民主独立を守る。抵抗しないことがさらなる悲劇を招く」と解説。

名言に学ぶは
・「愚者は己を賢いと思うが、賢者は己が愚かなことを知っている」(シェイクスピア)
・「賢い者は他人の失敗に学ぶ。愚かな者は自分の失敗にも学ぼうとしない」(ベンジャミン・フランクリン)
・「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(ドイツ宰相 ビスマルク)を紹介。

学ぶべきこととしては「・愚かな事件や判断から大切なものは何かを見失った姿をみる。・愚かさの自覚とは『人間は未熟で未完成な存在』を認識すること。・慢心と油断と驕りに注意すること。・大事なことにあたるときは「慎重に、準備を怠らず、確認すること。・大切なことは何か常に確認して人生を歩むこと。・己れ自信を見つめることが大切(自らを見つめる時間と空間を持つこと)。・愚かな人には親近せず、賢者と親しむことを望む人生」をお伝えしました。

結びの「仏教に親しむ」では
・釈尊のことば(法句経 ダンマパダ)から「己れの愚かさを知るものは、既に智者である」「愚者でありながら、自ら智者と称するは、愚中の愚である」を紹介。釈尊は人間の愚かさをみつめその苦悩を解放するために仏教を創始されたこと。苦悩の源である煩悩を断じて解脱を求めた初期仏教と人間の愚かさを認めてその救済を願う大乗仏教の相違を述べました。

日蓮大聖人の『観心本尊抄』(現代語訳)からは「しかし、改めて八品全体の真意を考えてみると、その目標は二乗や菩薩ではなく凡夫にある。それも釈尊滅後の正・像・末の三時の凡夫を救済することが目標であり、さらに正・像・末の三時の中では、末法の始めの凡夫こそが救済対象の中心となっている」を紹介。法華経が愚人救済の教えであることをお伝えして法話会を終了。

相武山 山主

2022年05月30日

令和4年5月の月例御講

5月13日(金)は梅雨の走りのような雨天の中、5月度の宗祖ご報恩講を執り行いました。古来、宗祖の月例報恩講は「御講」と通称され、毎月13日(近年、寺院によっては日曜日に執り行う寺院もあります)、日蓮大聖人の御命日に営まれます。御講は日蓮大聖人の教えを法燈として人生を歩む私たち門弟の報恩行ですが、ややもすれば薄弱となりやすい自らの信仰を誡め、宗祖の教えを確認する法会となっています。

御講は毎月一日の御経日(一日参り)と倶に月の信行精進の要です。妙法院でも開創以来大切に営んできました。かつては40~50名ほどの参詣がありましたが、近年はご信徒の高齢化と啓蒙教化の努力が至らず参詣者は20名前後という様相です。ことにコロナ禍ではさらに厳しい状況です。他方、当山では毎月日曜法話会を開催し、年中行事や四季の法門研修会など行事も多いので、志さえあればいつでも教えを学び信仰を深めることができます。まじめな信仰心を持続されている方が多い当山では各自で信行の機会を選択しているようです。時代はウイズコロナの世相へと向かっていますが、妙法院では少しでも御講の伝統を護り充実をはかって行きたいと願っています。

御講では御宝前にて下種三宝尊に献膳を申し上げ、法華経要品を読誦、南無妙法蓮華経の唱題を勤めて参詣者の皆さまと報恩感謝の誠をささげました。法要後の法話では先月に引き続いて始聞仏乗義を拝読。(ここでは現代語訳を掲載)
「問うその詳しい意味はどうか。
答う、この釈文の中に「生死」とあるのは、我われが過去世において作した業が原因となって、今世でその苦しみの報いとして受けたこの身と心をいう。また、この身心は五陰・十二入・十八界から成ると説明される。
「煩悩」とは苦しみの身が持つ迷いの心で、見思・塵沙・無明の三惑をいう。「結業」とは煩悩によって起こす所作であり、具体的には五逆・十悪・四重などの罪業をいう。
法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来のことであり、我われ衆生は、その始めを知ることができない遠い過去から煩悩・業・苦の三道を具えているが、幸いにもこのたび法華経に値って、迷いの三道がそのままにして法身・般若・解脱の三徳となると説明されている。

難じていう、火から水は生じないし、石に草が生えることもない。仏教の因果論では、悪い原因は悪い結果を呼び、善い原因は善い果報を招くということは定まっている。
今、我われの生命の根源を尋ねてみれば、父母の精血の赤白二渧が和合して生まれてきた身である。よって、それは悪の根本であり、不浄の源である。たとえ大海の水をすべて傾けて洗ったとしても、けっして清浄になるとは思えない。
また、我われの身は苦しみの果報としてもたらされたものであるが、その果報の原因は貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩にある。
この煩悩と苦しみの果報の二つが結びついてさまざまな業を作り、この業道が我われを三界六道の苦界にしばりつけるのである。 ちょうど籠の中に入れられた鳥と同じである。どうしてこのような煩悩・業・苦の三道をそのまま仏の法身・般若・解脱の三徳の因などということができようか。たとえば、いくら糞を集めて栴檀の香木のように造っても、決して良い香りがしないようなものである。

答う、そなたの疑難は非常に道理であり、私もそれに答える術を持たない。ただし、釈尊より第十三代の付法蔵で、天台大師が高祖と尊崇した竜樹菩薩は、妙法の妙の一字を解釈して「ちょうど名医が毒を薬として用いるようなものである」と述べられている。
「毒」とは何であろうか。それは我われの煩悩・業・苦の三道のことである。「薬」とは何であろうか。法身・般若・解脱の三徳である。「毒を薬として用いる」とは何であろうか。三道を変化させて三徳とすることである。
天台大師は法華玄義に「妙法蓮華経の妙とは、言語や思慮が及ばないことの名称である」と述べ、また摩訶止観には「我われの一心には三千の諸法が具わっている。乃至、我われの心は思慮を絶する境地であるという意味はここにある」と述べている。これはまた即身成仏という法門である。
近ごろの華厳宗や真言宗などは、この法華経の即身成仏の法門を盗み取って、公然とわが物としている。天下の大盗賊というべきである。」

始めに4月の御講の復習。「始聞仏乗義は信徒の富木殿が悲母の三回忌の供養の為に銭七結を送られたことに対し、返礼の意を込めて法門を書き送られたもの」を振り返りました。
続いてその内容は「末代凡夫の修行、それによって得る成仏のあり方に就類種開会の成仏と相対種開会の成仏とがあることが示される。就類種とは爾前迹門の成仏論であり、煩悩多き凡夫の中に見られる小善・類善を開発し、仏種を覚知し三因仏性により成仏することをいい、相対種とは凡夫の煩悩・業・苦の三道が、即法身・般若・解脱の三徳であると覚知することで、これを『大論』には「変毒為薬」といい、天台は一念三千即身成仏と説かれるのであるとしていること」

「また、華厳宗・真言宗はこの相対種開会の即身成仏論を盗み取る大偸盗の者であると断ぜられ、我等末代の凡夫は、『法華経』の真意である三道即三徳の法門を信受すれば、自身即身成仏するのみならず、父母も即身成仏する」との宗祖の教えをお伝えしました。

日蓮大聖人の教えは遺された御書から誰もが等しく学ぶことができます。門下僧俗は仏縁を結ばせて頂いた功徳に想いをいたし、求めて御書に親み信仰を深めることが肝要だと思います。5月の御講では私たち凡夫は「煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳に転じるために、事の一念三千の法門を収めた南無妙法蓮華経のお題目を身・口・意の三業にわたってお唱えすること」を学びました。これからも皆で御講を大切にして行きたいと思っています。

相武山 山主

2022年05月28日

新緑の立宗会と御虫払法要

穏やかに朝のお勤めをして回廊から境内と市民の森を眺めるとまさに新緑の世界です。時季を得て一斉に芽吹く若葉は濃淡さまざまですが、瑞々しいという言葉のとおりほんとうに眼にやさしいみどりです。朝日にきらきらと輝くみどりですが、雨の日でも曇りの日でも見ていてまったく飽きません。心のにごりも洗いながされそうです。

《四季の恵み》
日本の国は四季それぞれに趣があり私はいつも「佳い国に生まれたものだ・・・」と感謝しています。もちろん常夏の国や厳寒の国にもその地らしいおもしろさとすばらしさがあり、そこで生活される人々は大いに満足しておられることでしょう。
我が国も北から南、東から西にかなり広範な地勢ですから、四季の移ろいにも違いはありますが、関東はどちらかといえば四季がはっきりしている地域だと思います。ついこの間まで淋しい冬枯れの風情からサクラの春を迎えて一変。野山には花々が次々に咲き乱れ、今はしたたるような新緑の初夏を楽しむことができます。といってもコンクリートに覆われたような街中では難しく少し自然に親しむ必要があります。
それにしても四季を愛でて楽しむことができるのはこの国に縁を結んだすべての人々に等しく与えられた恵みではないかと思っています。

《お寺の役割》
当山では4月29日(金)午後11時から立宗会と御虫払法要を執り行いました。コロナ禍が収まったわけではありませんが、去年や一昨年のような緊張した環境ではなく、曇り空から降雨との予報の中、檀信徒の方々の参詣を得て落ち着いた法要となりました。

一般的に我が国の仏教寺院は、旧い仏像や伽藍、僧侶の修行道場、冠婚葬祭や法事、歴史や庭園の観光というイメージのようです。しかし、そのようなイメージは間違っていないかもしれませんが、少し偏ったものではないかとも思えます。当山の日曜法話会では「お寺の役割」として「僧俗修行の場、信仰を磨く場、仏教を学ぶ場、心を浄め癒す場、仏教や伝統や文化を護り伝える役割等々」とお伝えしています。

ご縁を頂戴して幼い頃から仏門に入った私にとって、お寺の役割の基本はやはり「仏の教えを護り伝える」ということに尽きるのではないかと思っています。仏教寺院において仏の教えが護り伝えられていないとするならば、どんなに歴史があっても、伽藍が立派であっても、そこで冠婚葬祭がなされていても、本来の仏教寺院とはいえないと思うのです。仏教寺院はそこに仏の教えと信仰があってこその存在といえるでしょう。

寺院では年中や月例の行事、各種法要が執り行われます。寺内の者以外すべての行事法要に参画・参加する方はいませんが、一般の方ばかりでなく檀信徒の方からも『お寺は行事や法要が多いですね・・・』といわれることがあります。
お寺の儀式や行事・法要には仏道の教えと教化がこめられています。一年通して寺院の行事や法要に臨めば、その寺院の教えや信仰がよく理解できます。儀式や行事・法要を行うということはその教えと信仰を具現化していることなのです。

以心伝心という言葉があることは確かですが、基本的に心の思いを他者に伝えるためには「言葉に出して思いを伝え振る舞うこと」が求められます。古今東西、行儀やマナーが大切にされるゆえんです。仏さまの教えとその信仰も言葉や振る舞いによって伝えられます。それが儀式・行事・法要なのです。そこには仏道の教えを護り伝えようという誓願が存在しています。
当山は大乗仏教の精華である法華経と末法の教主日蓮大聖人を信仰し、その教えを学び護り伝える法華の寺院です。仏縁を結ばれている方々にはすべての行事法要の目的がそこにあることを認識され大切にして頂きたいと願っています。

《宗祖の立教開宗》
日蓮大聖人は建長5年4月28日に立教開宗を宣言されました。立教とは教えを立てること、開宗とは宗旨を開かれることです。宗祖は釈尊の真意を法華経に見い出され末法の凡夫成道は南無妙法蓮華経の唱題行であることを明らかにされました。その第一声が建長5年4月28日と伝えられています。

宗祖の遺された御書には数カ所に立教開宗にかかる文章が存在していますが、『清澄寺大衆中』には「此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。或は所を追ひ出だされ、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を、今は見る日蓮が刀剣に当たる事を。」と述懐されています。
現代語訳(御書システム)では
『これを言い出せば、必ず日蓮の生命にかかわることになるだろうと思っていましたが、虚空蔵菩薩の御恩に報いようとして、建長五年(一二五三)の四月二十八日、安房の国の東条郷の清澄寺にある道善房の持仏堂の南面で、浄円房と申す者をはじめ、数人の清澄寺の人たちに対して、浄土宗や禅宗の誤りを申し始め、それから二十余年の間、退転せず法華経の信仰を申してきました。その結果、あるいは居場所を追い出され、あるいは流罪となりました。むかし不軽菩薩が受けた杖木等の難が今、日蓮が受ける刀剣の難となって現れたのです』となります。
日蓮門下では宗祖が法難重畳となることを覚悟しながら立教開宗されたことは、末法の一切衆生を救済する慈悲の心と拝して報恩謝徳の法要を執り行います。

《御虫払法要を奉修》
今年も4月29日(金)午前11時から立宗会と御虫払法要を併せて執り行いました。曇り空から小雨が降るというあいにくの天気でしたが26名の御信徒が参詣。
当日までに内陣には御先師の曼荼羅本尊と宗開両祖の御影画、宗祖(弘安4年)の曼荼羅と、水鏡の御影画(浄光院所蔵重要文化財)の複製を奉掲。長机には宗祖の注法華経と伝教大師の墨跡の複製を展示しました。御虫払法要は寺院に所蔵される大切な宝物に風を入れ、虫を払うという法要ですが、そこには仏道を護り伝えようという思いがこめられています。

法要の開始にあたり私から立宗会と御虫払会の意義について解説。また、奉掲の御本尊と御影画の説明。さらに展示の注法華経が宗祖の教えにとって重要な典籍であり、昨年、伝教大師入滅1200年の遠忌であったことから、伝教大師の墨跡とその画伝(昭和12年作)を展示したことを説明しました。

その後、参詣者と倶に法華経要品を読誦、献香の後に自我偈を訓読。続いて唱題がはじまると参詣者は順次内陣に進んで親しく内拝されました。合掌しながら眼をこらして拝観した曼荼羅本尊や複製とはいえ宗祖や伝教大師の墨跡にふれ、各自の信仰もきっと深まったことでしょう。
ちなみに注法華経は日蓮大聖人が所持されていた春日版の法華経の経間や裏面に注釈書を書き入れたもの。御書システム辞書には「宗祖注釈の『注法華経』十巻で、真蹟は三島市の妙法華寺蔵。本書は経文の一文一句に注釈を加えたものではなく、宗祖が自ら所持していた『法華経』1部八巻と開結二経の合計十巻の余白に、諸経論釈の要文を集録注記したもの。」とあります。

現代の果報としか思えないのは、複製とはいえ宗祖や伝教大師の墨跡を親しく拝見できることであり、徳川や明治の時代の曼荼羅本尊を直に拝見できることです。ことに修復のすがたが残る御先師の直筆曼荼羅からは、私たちの先達が真摯に仏道に励んだ心意気が伝わってきます。

法要の結びには住職の挨拶。『現在まで仏法が伝わっているということは、誰かが仏法の尊貴に気づき、護り伝えようと努力してきた果報です。そこに僧俗の別などありません。人生は歩むだけでも困難がつきまといますから、その人生で仏道を護る伝えるということは大変なことです。現代に仏道の功徳を積む私たちは先師先達の信仰を継承し、護持に努めて次代に法灯をつなげましょう』と申し上げました。
コロナ禍によってお寺の行事法要も自粛を余儀なくされて3年目となります。儀式や行事、法要が仏さまの教えを護り伝えるものであるなら、信仰心が希薄となった現代、仏教の衰退をうながすきっかけとなるやもしれません。妙法院では仏道の貴さを識る方々と危機意識を共有して、今後とも着実に行事や法要を遂行してまいります。

相武山 山主

 

2022年05月01日