相武山 妙法院のブログ

相武山 妙法院のブログです。

相武山 妙法院

  • HOME
  • 相武山 妙法院
  • お知らせ&行事案内
  • 道の心得
  • 法話会
  • 墓苑・永代供養墓
  • 自然に親しむ
  • 交通のご案内
  • ブログ
  • サイトマップ

045-442-7688

  • ご相談について

〒241-0806 横浜市旭区下川井町1590-1

相武山 妙法寺 ブログ

春季法門研修会

4月10日(日)午前の日曜法話会に引き続いて午後1時から春季法門研修会を開催しました。春夏秋冬の四季折々に時間をかけてじっくりと御法門を研修しようという企画です。開会にあたり参加者と倶に勤行唱題。行学の研鑽を御本尊さまに誓願しました。
今回の研修会では昨年より継続している法華経要品(現代語訳)を読み進めながら、大乗仏教や法華経、日蓮大聖人の教えを学びました。

はじめに仏典の成立から大乗仏教の興起と展開を略述。次に大乗仏教の精華である法華経が仏・菩薩の統一、教えの統一を開示したこと。宗祖の教えが末法思想の受容の上に成り立ち、末法の荒凡夫を妙法受持の一行で救済されたことなどを解説。
その後、前回の続き(現代語訳要品40ページ)から拝読。
「多くの仏が入滅されて、その遺骨を供養する者は、万億という種類の塔を建て、金・銀・水晶・シャコ貝・メノウ・赤美石・瑠璃珠でもって、清浄に広く飾り立て、多くの塔を立派に造りあげ、あるいは石の霊廟を建て、栴檀や沈香、白檀に似た木樒やその他の材料を用い、また瓦を敷いたり、泥で霊廟を作る者もいる。あるいは広大な野原の中で、土を積みあげて仏の霊廟を造り、さらには、子どもが戯れに、沙を集めて仏塔を作ったりする。このような人びとは、みなすでに仏に成る道を成就している」などストゥーパ信仰や供養信仰などのさまざまな仏縁がすべて仏となる道であると説く「小善成仏」を、仏教遺跡や石窟、仏画や彫像などの図版を示して詳述しました。
中身の凝縮した研修会は午後3時40分に終了。次回は7月24日(日)、夏季研修会を予定しています。

相武山 山主

 

2022年04月30日

時代を生きる

4月の日曜法話会は10日(日)でした。世相に想うのテーマは「時代を生きる」(ー過去に学び・現代を生き・未来を信ずるー)。仏教に親しむのテーマは「続々・三毒をみつめて」(ー己れの心を涵養し穏やかに生きる)でした。
プロローグとして釈尊創始の仏教は「インド・バラモン教の神秘主義や奇跡現象を否定し、現実を直視した上で、与えられた人生を如何に生きるか」を命題としていることをお伝えしました。

世相に想うのテーマは「時代を生きる」。私たちは過去に学び、現代を生き、未来を信ずることが大切であることを述べました。
はじめに人間はその時代に生きる存在であることを確認し、「人生は環境に大きな影響をうけている」ことを解説。
自らの生活環境(自然、地勢、地域、家庭、人間関係、社会、文化、学業、 仕事、芸術、娯楽、・・・・・)を確認し、その環境を整理して比較分析することが大切。生活環境を比較することによってその差異を知り、自らの現状を確認することができるからです。
現代という時代は突然現出したものではないので、現代を知るためには過去の時代を識る必要があります。また、自分の生きている時代の概要を識ることによって自分らしい人生を歩むことができるのです。人権・自由・民主主義の権利を持つ私たち市民は、時代に影響される存在ではありますが時代を創造する権利を持っていることにも気づかなければなりません。

「この時代に生きる、この時代を生きる」という自覚をもって人生の最後まで学びを疎かにせず己を磨き上げること。時代の変化を楽しめる心を涵養すること。そのような姿勢が終焉を安らかに迎えるポイントであることをお伝えしました。
次に確実に時代が変化していることを理解頂くために4方向からの視点で解説。
①社会システムの変化としては「支配者と被支配者、身分制度、階級制度、天皇主権と国民主権など」。②時代により変遷する価値観としては「宗教と信仰、主従関係、家父長制、人間関係、男女の役割と有り様、学問と教養の位置づけ、固定化された価値観から多様性の価値観へ、伝統や文化への評価など」。③ライフスタイルの変化としては「衣(和服~洋服~民族服~個性的・・・)など。食(粗食~和食、中華、洋食、アジア食やアフリカ食・・・。栄養価を考慮、日々の食生活から外食まで・・・)など。住(どのような住居であったのか・・・。所有と賃貸、戸建てとマンション、都市と地方・・・)など。④情報の変化としては「情報の有無と多寡(歴史的に情報は力の源泉)。情報の真偽(フェイクか否か、発信者の意図による)。情報の媒体(回覧、広報、新聞、テレビ、広告、書籍、ネット・・・)。情報の発信主体(限定された者からすべての者に)。人類とともにこれからも発達して行く情報関連。

続いて駆け足で近現代を振り返ってみました。「徳川幕藩体制から明治新政府、鎖国から帝国主義へ、植民地支配から太平洋戦争へ、敗戦から民主主義国家へ、戦争の荒廃から復興へ、朝鮮戦争をきっかけに高度成長期へ、高度成長期の都市化、昭和から平成へ、平成から令和へ」です。
結びには「その時代なりに常に課題があり、課題となる意味がある。課題を克服してこそ社会と個人の成長がある。人間は時代に影響される存在だが時代を招来する存在でもある。時代と自身との関係をみつめて人生をあゆむことが大切」と私見を述べました。

学ぶべきこととしては「社会と個人の成長のために変化があることを理解する。変化を楽しむ心の余裕を持つことが大切。変化を活かすには知識を豊かにして精神力は磨く必要がある。あらゆるものは変化すると知識すれば変化を怖れることはない。時代は変化して止まないが不変の真理が存在していることも認識する。」とお伝えしました。

仏教に親しむのテーマは「続々・三毒をみつめて」。先々月からの積み残しを整理させて頂きました。復習として煩悩の基本は貪,瞋,痴(無知)の三つであることから「三毒」といわれ,われわれの心を汚し毒する三大煩悩のこと。自分の好むものをむさぼり求める貪欲,自分の思うようにならぬことに怒りを覚える瞋恚,ものごとに的確な理解と判断ができずに迷い惑う愚痴の3つを略述。
三毒に翻弄されず乗り越えるためには、仏教で説かれる「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静」を正しく学び理解することとお伝えしました。

続いて三毒にかかる日蓮聖人のことばを紹介。
『観心本尊抄』には端的に「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡かは畜生」と説かれています。
『減劫御書』《現代語訳(御書システムより)》
「減劫といいますのは、人の心の内にある人間の貪欲・瞋恚・愚痴という三つの毒が次第に盛んになり、それにつれて人間の寿命も縮まり、背丈も小さくなっていくことを言います。 ー略ー 法華経の法師功徳品には『仏が説かれた法は、みな実相と違背しない』と説かれ、それを天台大師が法華玄義に釈して『世間のすべての家業や生業はみな実相と違背しない』と釈しています。 智者というものは、世間の法と関わりなく仏法を実践することはありません。政治や経済等の世間の法に即して、よくよくそれらを心得ながら仏法を実践するのが智者であります。」を説明。

『始聞仏乗義』《現代語訳(御書システムより)》
「我われの身は苦しみの果報としてもたらされたものであるが、その果報の原因は貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩にある。この煩悩と苦しみの果報の二つが結びついてさまざまな業を作り、この業道が我われを三界六道の苦界にしばりつけるのである。ちょうど籠の中に入れられた鳥と同じである。どうしてこのような煩悩・業・苦の三道をそのまま仏の法身・般若・解脱の三徳の因などということができようか。たとえば、いくら糞を集めて栴檀の香木のように造っても、決して良い香りがしないようなものである。
答う、そなたの疑難は非常に道理であり、私もそれに答える術を持たない。ただし、釈尊より第十三代の付法蔵で、天台大師が高祖と尊崇した竜樹菩薩は、妙法の妙の一字を解釈して『ちょうど名医が毒を薬として用いるようなものである』と述べられている。
「毒」とは何であろうか。それは我われの煩悩・業・苦の三道のことである。「薬」とは何であろうか。法身・般若・解脱の三徳である。『毒を薬として用いる』とは何であろうか。三道を変化させて三徳とすることである。
天台大師は法華玄義に「妙法蓮華経の妙とは、言語や思慮が及ばないことの名称である」と述べ、また摩訶止観には「我われの一心には三千の諸法が具わっている。乃至、我われの心は思慮を絶する境地であるという意味はここにある」と述べている。これはまた即身成仏という法門である。」を解説。
自身に備わる三毒の存在をよく知悉し、仏道を修めて人生を歩む大切さを述べて4月度の法話会は終了。

相武山 山主

2022年04月29日

91歳、スマホでライン

昨春、樹木葬墓地を求められたTさんご夫妻が当山でご主人のお母さまの第一周忌法要を営まれました。法要前の挨拶のことです。久しぶりでしたので近況などをうかがっている裡に、奥さまから『施設に入居している私の母はほとんど毎日ラインで連絡してくるんですよ。それも結構長文なんです・・・。私はまだお勤めをしているので返信が大変なんです・・・』とのことば。
私はつい『お母さまおいくつですか?』と尋ねました。すると、『91歳です。数年前からスマートフォンを使うようになって、今はラインを自由に使っています・・・』ということでした。

「80代後半からスマホを操りラインでコミュニケーションする」というのですから、私はびっくり。高齢者でもスマホを自由に使いこなし、いろいろなアプリを愉しんでいる方は居られますが、けっして多数派ではありません。それよりも高齢者の多くがデジタル化に怖じて腰が引けている姿を見かけます。文明の利器を使ってこそ現代をおもしろく生活できるのですから、ささいな失敗など笑い話にして楽しんでほしいものです。
当山では昨春から私の法話をユーチューブで配信(限定ですが)し、DVDでも配信していますが、利用できないご信徒も居られるようで残念に思っていました。そんな折りTさんのお母さんのように「91歳、スマホでライン」というとても前向きな精神をお持ちの方の存在を知ってとてもうれしく思った次第です。

ちなみにデジタル化とは、「ITの進化により様々なヒト・モノ・コトの情報がつながることで、競争優位性の高い新たなサービスやビジネスモデルを実現すること、プロセスの高度化を実現すること」と定義され、デジタル技術によって今まで人間が行っていた業務などが効率化されたり、新しい付加価値をつけた製品が生み出されるということです。

そういえば過日、80歳を過ぎた女性の方がアイフォーンのアプリ「hinadan他のサイトへ」を開発したという報道がありました。80代の現役プログラマーというのですから私にとっては驚愕でした。その女性は若宮正子さん(1935年生まれ)。若宮さんは、高齢者向けの教材やアプリがないことに物足りなさを感じて、シニア女性の趣味である手芸やパッチワークをヒントに、エクセルの塗りつぶし機能を使って模様を作る「エクセルアート」を自ら開発したのです。

なんと82歳でプログラミングを学び、2017年に「hinadan」をアップルストアで配信。日本の伝統行事、ひな祭りを題材にしたシンプルなゲームアプリは米アップル社のティム・クック最高経営者(CEO)の目に留まり、その年の世界開発者会議(WWDC)でクック氏が若宮さんのことを紹介。「最高齢プログラマー」として一躍有名になりました。
若宮さんは「少子高齢化が進むこの時代、高齢者こそデジタルリテラシーが必要」と訴えます。また、「学ぶのに遅すぎることは決してない」と語り、「創造性こそ、AIにも動物にもできない最も人間的な活動だと思う。だからこそ私は、常に創造的でありたい」と述べています。若宮さんは資質の優れた方だと思いますが、その心意気は凡才の私たちも学ぶべきではないでしょうか。
「91歳、スマホでライン」のお話をうかがっての余録でした。

相武山 山主

2022年04月28日

ペットと愛好者のよすがに

4月の1日(金)、午後1時からの月例御経日に引き続いて当山のペット供養墓「慈愛」で慰霊供養祭を執り行いました。前日に清掃された供養墓慈愛では塔婆を建立して香華を手向け、参列者の皆さまと寿量品自我偈を読誦、南無妙法蓮華経のお題目を唱えてペット諸霊の慰霊としました。

ペットの供養墓はかねてご信徒から要望があったもので、平成26年5月に開眼されました。すでに25霊ほどのペットが埋葬。春夏秋冬折々に供養がなされ、毎年4月1日には慰霊祭が行われています。
ペットの存在は時代とともに変化しました。かつては一般的に番犬とか飼い猫という認識でしたが、昭和の時代の終わり頃からは「うちの子は・・・」という表現がすっかり定着し家族の一員となっています。
家族の一員ですから当然のこと待遇も家族そのものです。常日頃から食事や健康、生活にも気を配り病気や怪我などにも配慮が必要です。ペットの虐待も許されませんし、ペットの飼育にも責任が伴うようになっています。現代ではペットに対して冗談でも畜生などという言葉は使えません。

また、ペットの存在は飼育する方々によって異なるでしょうが、人生の潤いであり癒やしであるといわれます。中には生きがいとまで仰る方もいます。その存在は当事者が判断するものですから第三者が入り込み余地はありません。ただ一点注意しなければならないのはペットロスです。可愛いペットであっても病気もすれば老いも来ます。そして終焉を迎えることは自明の理です。しかし、愛情が過ぎると道理も見失いがち。わずかな脱走でも大騒ぎなら病気になったり死を迎えると深刻に思える人も少なくありません。

家族の一員なのですからその気持ちは当然理解できますが、時に悲嘆が過ぎてペットロスという症状を来す人もいるようですから注意が必要です。ペットロスとは「ペットを失う事」によって生じる一種の精神疾患。ペットと過ごす事によって得られていた愛情がペットの死や行方不明などによって行き場を失い悲嘆に陥ることです。愛情の対象を喪失することで起きる悲嘆は常に見られることで不思議ではありませんが、病理的悲嘆が強く慢性的に経験されるなら精神疾患が疑われるのです。

必ずやってくるペットとの別離。日頃から愛情のコントロールも必要でしょうし、愛情を注いだペットが安らかに永眠できる配慮も大切です。ペット愛好家の信徒による希望で設けられた供養墓「慈愛」が、ペットと愛好者のよすがとなれば幸いです。

相武山 山主

2022年04月27日

サクラの春に想う

コロナ禍も三年目の春を迎えました。この間、妙法院も法要や行事の自粛を余儀なくされてきましたが、仏縁を大切にされる檀信徒の方々と倶に仏道をお護りできていることに深く感謝しています。さて、かねて当山では季節の花などで参詣の方々を迎えたいと意識してきたので、境内はもちろん玄関やロビーなどでもそのように心配りをしていますが、冬の時季はいつも参詣者をもてなす花が少なく、正月の前後をのぞいてはお迎えの花に難儀します。
この冬もいつものようにシンビジュームやシクラメンに助けられました。ロビーのシンビジュームは遠方の御信徒から歳末に届けられ、お彼岸まで参詣者をロビーで迎えてくれます。シクラメンは年末に2~3鉢求めますが楽しめる時間が長いのでとても感謝しています。ということもあって当山では春の到来は花の到来、うれしい限りです。

【春はサクラ】
春四月を迎えて当山境内のサクラ(ソメイヨシノ)も当山に対面する市民の森のサクラも今が盛りです。この冬は少し寒さが厳しかったのか、境内の梅や河津桜、ツバキやモクレンなどの開花は例年よりも一月遅れ。花桃とサクラも例年よりも少し遅れてお彼岸頃からほころび始め月替わりに満開となりました。間もなく花吹雪となって葉桜に様変わりです。

当山のサクラは元々市民の森の入り口に植樹されていたものです。地域整備の一環によって移植されることになり、地域の方々の好意によって15年前(平成19年)境内にお迎えしました。当時お世話になった飯田さんや萩野さんはすでに逝去されていますが、サクラを観る度に妙法院を当地に温かく迎えてくださったお二人の優しいお顔が浮かんできます。
サクラは本堂の前に一本と墓苑の雑木林に二本頂きました。移植時からある程度の大きさでしたが、今ではみごとな大木となっています。本堂前のサクラは2年前に枝が伸びすぎていたために剪定したので少し淋しい感じですが、雑木林のサクラは気持ちの良いほど枝を伸ばしてお参りの方々に喜ばれています。

当山対面に在る市民の森のサクラはソメイヨシノ。18年ほど前にある団体が苗木を植樹したものです。当初は頼りない風情でしたが数年前からは見違えるほどに成長し森に春の訪れを告げる存在となっています。時の積み重ねの大きさがよく分かります。
今年は市民の森を散策する人々の目を意識して散策道から当山を眺めてみました。咲き誇るサクラの向こうに見える妙法院もなかなかの存在です。時には参詣の折りに市民の森を散策されることもお勧めです。

自然の営みによってサクラは毎年開花しますが、毎年まったく同じ花が咲くわけではありません。この春のサクラは昨年のサクラとはちがいますし、明年咲くであろうサクラも今年と同じではないのです。この春のサクラは二度と目にすることができない貴重なサクラだと知ることは大切な認識。人生に同じ時が存在しないことと同様に、ひとつの生命体というべき自然界も常に変化してやまない存在なのです。春のサクラを愛でながらここにも学びがあることを識ります。

【移ろいに学ぶ】
四季の移ろいを伝えるモミジは諸行無常の教えを譬えるとされ、仏教寺院には好んで植樹されています。モミジはやわらかな新芽から日々にその色を濃くして、梅雨時にはみどりが一層深まります。夏には昆虫などに木陰を提供して生命を助け、やがて秋には黄紅葉となって散り、冬はまったく葉が残らずにまさに冬枯れの風情です。しかし、その冬枯れの中で次の生命の営みを続けているのですから、私たちの思議を超える自然の力用には驚くばかり。

モミジは諸行無常の譬えに用いられると述べましたが、実は自然の存在すべてにいえることです。じっくりと観察してみるとありとあらゆるものが常に変化してやまない存在であることがわかります。変化するということは事態が変わるということですから、気持ちが落ち着かないと思われる方もおられるでしょう。しかし、「諸行無常(あらゆるものは変化してやまない)」は思議を超えた真理なのです。

真理というと難しく思うかもしれませんが「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理」と解釈されるように、老若男女だれが聞いてもうなずかずにはいられない道理のことです。仏教を開創された釈尊はヒンドゥー教などの神秘主義や不思議現象などをきらって真理を求められました。したがって仏教は真理を求める宗教ということがいえます。ちなみに日蓮大聖人は「仏法と申すは道理なり」と語っています。
「変化することは当たり前」というのは真理なので、だれもが「知っている、理解している」と思いがち。しかし、常に意識していなければ見失いがちなものであり、大事な時の判断に迷惑する原因ともなります。また反面、その認識が確かなものとなれば、変化は変化として受け入れ、変化を怖れることなく眼前の問題に適切な対応をとることができるようになります。真理を大切にする人は真理によって護られるともいえるでしょう。

前にモミジを無常のたとえとしましたがサクラも負けてはいません。寒さの中につぼみがふくらみ、花が徐々に開いて満開となり、春風に吹かれて舞い散り、新芽が葉桜となって新緑を迎えます。やがて大きく葉を広げて猛暑をやわらげ、秋には紅葉して落葉しますから諸行無常そのものです。これから舞い散った花びらの片付けと紅色の萼の掃除がまっていますが、しばらく春を楽しませてもらった御礼につつしんで勤めたいと思っています。

【くりかえせない人生】
当然私たちの人生も無常です。赤子が寝返りをうてるようになり、よちよち歩きから走り回るようになります。自分の意志を伝えるようにぐずれば言葉も覚えて生意気を言うようにもなります。そして無邪気な少年少女に成長し、瑞々しく多感な青年期を楽しんだら、責任のある壮年期を迎えて人生の荒波を泳ぎ切らねばなりません。年を重ねて責任を果たせば熟年・老年を迎えます。この間、誰もが思いもよらぬ病気にかかったり怪我をすることもあるでしょう。また、不慮の事故や事件に翻弄されることもあります。人生の先輩達は皆経験されているようにそれが人生なのです。

また、人生は変化の連続であるばかりか、残念ながらくりかえすことができません。もう一度昨日をやり直したいと思っても叶わないのです。私たちには今この瞬間・この瞬間を営むことしか許されていません。とはいえ、過ちや失敗など後悔することが許されないというわけではないのです。私たちは凡夫ですから生涯にかけて未熟で未完成な存在です。したがって過ちや失敗はつきものといえるでしょう。

釈尊は「一切皆苦(思うようにならぬのが人生)」と説かれました。稀に何ごともパーフェクトと自慢する方もいますが、それは置いて、過ちや失敗も内省して次に活かされるならば大いに意味があるのです。否、過ちや失敗を怖れて取り組むべき課題から目を背けるよりも、意志と準備を調えてチャレンジすることが大切であり、人生を真摯に歩む人には薬となる失敗はあっても、まったくの無駄という失敗はないと思うのです。

また、時をさかのぼって修正することはできなくても、未来は現在の自分の意志いかんで、どのようにも切り拓くことが可能なのですから、何歳になっても発心を忘れることなく前向きな生き方が肝要だと思います。わが国のサクラの季節は卒業や退職、入学や入社など別れと出会いの時。多くの人が新たな舞台に立ちます。周りを見渡せば老若問わずピカピカの一年生がいます。子どもたちや青年ばかりが新しい世界に立つのではありません。壮年や熟年、高齢者でも新しい舞台に立つ方は少なくないのです。

私はいつもこの時季、新人の方々の勝手な応援団です。自分も緊張しがちな性格ですから、新たな世界に足を踏み入れる時の緊張感はよく理解できます。道すがら新入生・新入社員のような方を見かけると心の中で「ガンバレヨ~」と自然に声援を送っています。
同時に、二度とくりかえすことができない人生だからこそ、「志を立てて自らの希望に向かってチャレンジしてほしい。わずかな失敗や変化を怖れずチャレンジしてほしい」と、これまた勝手に祈っています。サクラを愉しみながらの雑感でした。

相武山 山主

2022年04月01日