相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

萩が涼風にそよぎ金木犀が香る秋彼岸

 妙法院では中秋の名月(9月21日)を楽しむことができました。横浜市北西部の里山にある当山では周囲に街灯があまりないため、大都市としてはめずらしくかなり闇が深くなります。前日も煌々と輝く月を見上げましたが当日もすばらしい観月を楽しみました。天空にかかる月を観るだけですが、なぜか想いが深くなり小さな自分も広大な宇宙の一部であることに気づきます。
富士日興門流の寺院でも秋に観月会を執り行うお寺がありますから、当山でも準備ができたら観月会を執り行いたいと思っています。夜の妙法院もとても趣がありますので楽しみにしていてください。

秋のお彼岸は20日(月)が入りで、23日(木)がお中日、26日(日)が明けでした。妙法院ではそれぞれ午後1時から法要を執り行いました。9月初旬からコロナ禍が少しずつ落ち着いてきたこともあり、青空に涼風がわたる中、7月・8月のお盆よりも多くの方々がお参りにみえました。

入りの20日には午前中に永代供養墓の久遠廟と樹木葬墓地に参詣。三日間の各法要では参詣の皆さまと一緒に法華経要品を読誦、南無妙法蓮華経のお題目をお唱えして、門流先師への御報恩、ご先祖有縁精霊への追善供養を申し上げました。法要後の法話は「法華初心成仏抄」を拝読。末法の成仏道は南無妙法蓮華経の唱題行にあることをお伝えいたしました。
 萩が涼風にそよぎ金木犀の香りが境内にながれる秋らしい風情のなか、弟子の坂上純興師(四日市市慧光院住職)にもお手伝いを頂き、コロナ禍の沈静化を祈りながらの穏やかなお彼岸でした。

相武山 山主

 

2021年09月30日

龍口法難会を奉修

9月12日(日)午後1時から龍口法難会を執り行い、参詣の皆さまと倶に勤行・唱題、御報恩謝徳を申し上げました。文永8年9月12日の龍口法難は法難重畳のご生涯であった日蓮大聖人にとっても、時の為政者によって斬首されようとした最大の法難です。この法難は末法の法華経の行者を自任される宗祖にとって、崇高な宗教的体験であり、末法下種の地涌の菩薩、上首上行菩薩との自覚に至る貴重な法難でした。

 宗祖はこの法難について後に遺された御書においてさまざまに述懐されています。門弟である私たちはその御書を拝読して宗祖の胸中を推し量りますが、この法難は宗祖が末法の法華経の行者であることを明示し、法華経と宗祖が一体となったことを証明していることを知るのです。
法難の後、宗祖は佐渡に流罪されますが、佐渡では開目抄、観心本尊抄等の重要法門を著述され、さらに末法の衆生のために妙法曼荼羅本尊を図顕されます。龍口法難から佐渡流罪の時代は宗祖にとって大きな宗教的転換点でありました。

法要後には三沢抄を拝読しての法話。
「法門の事は、さど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。ー 略 ー 而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光、巧匠の後に拙きを知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて、但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候。各々はかかる法門にちぎり有る人なれば、たのもしとをぼすべし」を拝読。

 始めに三沢抄について「御書システムの解題」からの解説。御書の解題とは当該御書についての説明で、宗祖の直筆が残っているか否か、真書か偽書か真偽未決の書か、いつどこでだれに宛てた御書かなどが解説されています。
その後、龍口法難から佐渡流罪について略述し、拝読本文についての解説。「法門の事は、さど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」という宗祖のお言葉の重要性をお伝えしました。
また、富士日興門流では龍口法難を宗祖の発迹顕本と拝していることを併せてお伝えしました。

相武山 山主

2021年09月30日

法華経は現当二世の安らぎ

法話会は世相に思うからメインテーマ「秋のお彼岸 ー法華経は現当二世の安らぎ-」へ。
【お彼岸について】
お彼岸はすでに年中の行事となって久しいために、改めて聞かれると説明に戸惑うこともある日本の仏教的習俗です。秋のお彼岸の前なので今回の法話会のテーマとしました。お彼岸の法要は春秋の二度、春分の日、秋分の日を中日とした前後3日間、計7日間ずつを期間として執り行われます。

お彼岸の中日にあたる春分の日、秋分の日は国民の祝日。昭和23年に公布された「国民の祝日に関する法律」の第2条にある祝日の主旨によれば、春分の日(春分日)は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」祝日、秋分の日(秋分日)は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」祝日とされています。
お彼岸には菩提寺や墓所に参詣してご先祖や有縁精霊に供養をささげることが常とされますが、古来、日本人にとって自然や動植物は、ともに生き倶に生かされている存在。お彼岸では先祖のみならず、自然や動植物に対しても感謝と敬意、慈しみのこころを確認したいものです。

【仏教における彼岸の意味】
彼岸というのはサンスクリット 語pāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳です。彼岸(此岸に対する言葉)は「かなたのきし」ということで川の対岸をさす言葉。
仏教ではこの彼岸を仏さまの悟りの世界に喩え、私たち凡夫が住む「こちらのきし」すなわち此岸を迷いの世界に喩えます。仏道では迷いと苦しみからの解放を求め、偽りのない安らぎの世界に生きることを説くところから、彼岸とは自らが川を渡って理想の世界に到る行為をあらわしたものです。

仏道では自分が此の岸に居るという自覚が大切だと教えています。自我の真実存在を見つめる者にしてはじめて彼岸を求めるからです。自我はおよそ五欲を追求するもので、5つの感覚器官に対する5つの対象,すなわち形体のある物質 (色)、音声 (声)、香り (香)、味、触れてわかるもの (触) をいい、これらは,欲望を引起す原因となるものです。また、財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲を五欲という場合もあります。
仏道は彼の岸(仏の世界)をめざすものであり、道心を発すとは、欲望と感情の世界(此岸)を離れて真実の幸福(彼岸)を求める心であり、人生の遇不遇(幸不幸)の意味を探り、普遍の真理を尋ねるものです。仏道では人生は有限であるからこそ意義深く歩むべきだと教えています。

仏道では此岸から彼岸に行くため河を渡らなければなりません。この渡河することこそ仏道修行の実践です。その実践は「・布施波羅蜜(布施を実践すること)・持戒波羅蜜(戒律を守ること)・忍辱波羅蜜(修行を堪え忍ぶこと)・精進波羅蜜(努力を惜しまないこと)・禅定波羅蜜(精神の統一をはかること)・般若波羅蜜(真実の智慧を得ること)」の六種の修行「六波羅蜜」です。
お彼岸は「先祖や有縁精霊への報恩感謝と追善供養、静かに自己の人生を考えて省みるとき、来世に思いを馳せ仏道に心を寄せる・・・」そのすべてが仏道の功徳を積む行為といえます。
以上を述べて仏教的な彼岸の解説としました。

【法華経は現当二世の安らぎ】
最後に大乗仏教の精華である法華経では、此岸対彼岸という二元的な思考を越えて、娑婆即寂光という一元的な思想を説き、現当二世(現在と未来)の安らぎを得ることをお伝えしました。
すなわち、輪廻思想を主張するヒンドゥー教の影響もあって、出家者や特定の修行者を中心とする初期仏教では、カルマからの解脱によって輪廻を断ち切り、迷いと苦悩に覆われたこの世に再生しないことが望まれました。しかし、大乗仏教では現実の娑婆世界で生活しながら仏道を求める人々を肯定し、一切衆生の救済こそ仏教思想の根幹であり目的であると説いて、輪廻思想を捉え直し、願って現世・悪世に生じ、現世を菩薩道を実践する世界と観たのです。

 ことに法華経では娑婆世界での菩薩道実践が説かれ、末法に南無妙法蓮華経のお題目を下種された日蓮大聖人は、「此岸に在りながら彼岸を感得する仏国土建設を求められ、その菩薩道の実践こそが、そのまま来世の安心を得る道であると教えている」ことをお伝えしました。

秋のお彼岸を迎えるにあたり「法華信仰者・日蓮が門弟としての心得」をお伝えした次第です。来月の日曜法話会は10月10日(日)午前11時からの開催です。

相武山 山主

2021年09月29日

パラリンピック大会の開催

9月12日(日)は9月度の日曜法話会。
法話会のテーマは「秋のお彼岸 ー法華経は現当二世の安らぎー」でしたが、世相に思うのテーマは「東京2020パラリンピック大会開催」。オリンピックに引き続いて8月24日から9月5日まで開催されたパラリンピックについて皆さんと一緒に考えました。

 期間中、障害をものともせずに力強く競技されるアスリートの躍動がメディアを通じて連日報じられました。心身の障害を乗り越えてチャレンジする姿にはふれた方のすべてが感動を覚えたことでしょう。私もその一人です。オリンピックの躍動のすばらしさとはひと味違う感動でした。各アスリートの背景や努力を知るとさらに感動が深まります。

法話会でははじめに日本パラリンピック委員会の公式HPを参照してパラリンピックを解説。そこでは「パラリンピックが重視する4つの価値」として、《勇気》マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力。《強い意志》困難があっても、諦めず限界を突破しようとする力。《インスピレーション》人の心を揺さぶり、駆り立てる力。《公平》多様性を認め、創意工夫をすれば誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力
。を紹介しました。

大会開催の意義についても「さまざまな障がいのあるアスリートたちが創意工夫を凝らして限界に挑むパラリンピックは、多様性を認め、誰もが個性や能力を発揮し活躍できる公正な機会が与えられている場です。すなわち、共生社会を具現化するための重要なヒントが詰まっている大会です。また、社会の中にあるバリアを減らしていくことの必要性や、発想の転換が必要であることにも気づかせてくれます。」と紹介しました。

パラリンピックからの学びについては「障害者とは?」との問いから、障害には身体障害、知的障害、精神障害の三種あることを学び、次に、障害を正しく理解するためには「もし自分が突然目が見えなくなったら・・・。もし自分が突然耳が聞こえなくなったら・・・。もし突然自分の手足が自由に動かなくなったら・・・。もし突然自分の精神が不安定になったら・・・。」と自分の身の上に置き換えて考えることが大切であることをお伝えしました。

続いて「すばらしいチャレンジ精神」と「多様性を認める社会の実現に努めよう」と述べ、結びに仏教では「あらゆるものは縁起として在る」と観ることを教えていることから、「障害者も縁起の理法によって障害者となっている。縁起によれば今日の健常者も明日健常者であることはまったく保証されていない。すべての人は障害者予備軍といえる。今健常者であるといっておごる心を持つことは実に愚か。明日は我が身と心得て障害者の方々に慈愛の心で接する」ことが大切と申し上げました。

相武山 山主

2021年09月28日

現代語の法華経要品を拝読(下)

妙法蓮華経要品「現代語訳」の拝読は前回拝読(3頁~19頁)の続きです。
「三昧から出られた釈尊が声聞衆の代表である舎利弗を相手に語り出します。『諸仏の智慧は甚深無量にして、其の智慧の門は解しがたく入りがたし。一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり。 ー略ー  われ、成仏してより已来、種種の因縁、種種の譬喩をもって広く言教を演べ、無数の方便をもって衆生を引導して、諸の著を離れしむ。 ー略ー 唯だ仏と仏のみ乃ち能く諸法の実相を究尽す』と述べ、十如是が説かれます。舎利弗は三度釈尊に説法を請い、釈尊が応えようとしたところ、五千人の増上慢の者が退座してしまいます。」を確認。

 此処では仏の広大深遠な智慧を「四無量心・四無礙弁(四無礙智・四無礙解ともいう)・十力・無所畏・禅定・解脱・三昧」と明らかにし、諸法の実相として示された十如是が説かれます。この十如是は法華経の梵本には「五つの間接疑問文」として存在しますが、鳩摩羅什は仏のみが覚られるという諸法の実相を大智度論を参考として十如是に表現されたといわれています。

それは「是くの如き相、是くの如き性、是くの如き体、是くの如き力、是くの如き作、是くの如き因、是くの如き縁、是かくの如き果、是くの如き報、是くの如き本末究竟等なり」です。しかし、その内容については詳細に語られてはいません。そのため、天台大師はこの法華経の「仏の覚られた諸法の実相」を円融三諦説や一念三千説として表現されたことをお伝えしました。

【一大事因縁のゆえに出現】
夏季研修会の拝読は『法華経要品現代語訳』の20頁から。「未だ得ざるを得たりと謂(おも)い、未だ証せざるを証せりと謂う」。増上慢の五千人が退座し、釈尊はいよいよ仏がこの世に出現した目的「一大事因縁」について語られます。その目的とは「四仏知見(開仏知見、示仏知見、悟仏知見、入仏知見)」です。
方便品では「諸仏世尊は、ただ一大事の因縁をもっての故に、世に出現したもう ー 略ー 諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得しめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生に仏の知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏の知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏の知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。」と説かれます。

この経文はとても大切な言葉です。釈尊は「稀にしか仏の体得した妙法を説くことはない」とことわり、仏は唯一の大事な仕事である「衆生に仏知見を開き、示し、悟らせ、入らせる」ためにこの世に出現されたことを表明されたのです。
釈尊はここで「仏はすべての衆生を成仏させるためにこの世に出現した」ことを明らかにされました。法華経が出世の本懐といわれるゆえんです。

【開三顕一】
法華経の中心思想は方便品にあるといわれますが、それは仏の一大事の因縁が「すべての衆生に成仏への道を開くこと」であり、声聞や縁覚、菩薩としての教えと修行、さらにはその果得を説いた三乗の教えは方便であったと表明したことによります。

方便品では「仏、舎利弗に告げたまわく、「諸仏如来は、ただ、菩薩を教化したもう。諸の作す所あるは、常に一事のためなり。ただ仏の知見をもって、衆生に示し悟らせたまわんとなり。舎利弗。如来はただ、一仏乗をもっての故に、衆生のために法を説きたもう。余乗のもしは二、もしは三あることなし」 と説かれました。

三乗(声聞・縁覚・菩薩)の教え(方便)を開いて一仏乗の教え(真実)を顕したことから、古来この教えを「開三顕一」と呼んでいます。成仏への道に差別があるかのような三乗の教えは仮の教えであり、仏の真実の教えはすべての衆生が差別なく成仏を認める一仏乗であることを宣言されたものです。

続いて方便品では
「舎利弗。諸仏は、五濁の悪世に出でたもう。いわゆる劫濁と煩悩濁と衆生濁と見濁と命濁となり。かくのごとし。舎利弗。劫の濁乱の時には、衆生は垢重く、慳貪(けんどん)・嫉妬にして、諸の不善根を成就するが故に、諸仏は方便力をもって、一仏乗において分別して三と説きたもう。舎利弗。もし、わが弟子にして、自ら阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)なりといわん者が、諸仏如来は、ただ菩薩のみを教化したもう事を聞かず、知らずんば、これ仏弟子に非ず、阿羅漢にも非ず、辟支仏にも非ず。」と三乗の教えに執着する弟子を誡めています。

五濁悪世に出現した仏はさまざまな方便をもって衆生を仏道に導きますが、真実は菩薩だけを導く一仏乗を説くことが目的であったことを述べ、仏弟子に一仏乗(法華経)を信受することを求めていることをお伝えしました。

結びは「舎利弗よ。そなたたちは心を一つにして信じ、理解して、仏の言葉をよく受持せよ。多くの仏たちの言葉には決して偽りはなく、それ以外に真実の教えなどは存在しない。ただ一仏乗の教えだけが真実である」と。を読み上げて今季の研修会の拝読は終了。

今回の研修会では『法華経要品(方便品)現代語訳』から「仏は諸法実相を如実知見」「仏は一大事因縁のゆえに出現」「一大事因縁とは四仏知見」「三乗方便一乗真実」「二乗作仏は一切衆生の成仏」などの大切な御法門を詳細にわたることはできませんでしたが学ぶことができました。改めてことわるまでもなく日蓮の門下として法華経を学ぶことは意義深いことです。参加聴講された方々も信行増進されたことでしょう。
富士日興門流では古来方便品世雄偈を勤行でも読誦していました。近年は時間に追われる世相にまぎれて読誦される方も少ないようです。しかし、内容はとても深いので私も毎日ではありませんが折節に読誦しています。

研修会は小憩をはさんで1時間40分の講義とその後30分の質疑応答で終了。10月31日の秋の研修会では続きを拝読の予定です。コロナ禍が収まり少しでも多くの方と法華経に親しみたいと願っています。

相武山 山主

2021年09月27日

現代語の法華経要品を拝読(上)

 8月最後の日曜日29日、未だコロナ禍は収まりませんが、草取り作務と夏季法門研修会を開催しました。午前10時半からの草取り作務には、奥田さん、熊木さん、阿部さん、安西さん、辻本さん、落合さん夫妻の7名の方にご協力頂きました。今回は本堂前から三師塔までの境内、駐車場と参道の草取りです。草取りには有り難い曇り空でしたがやはり仏道荘厳の汗がながれました。皆さんありがとうございました。

小憩の後、午後1時から夏季法門研修会。コロナ禍の自粛体制下ですから参加者は6名でした。はじめに仏道増進を祈念して皆さんと一緒に勤行・唱題。その後、4月に開催された春季法門研修会に続いて「法華経要品・現代語訳」(日蓮大聖人御生誕800年記念発刊)を拝読。
要品の拝読の前には法華経と仏典についての解説。私たち富士日興門流の信仰は「法華経と日蓮大聖人の教えを受持する」こと。日蓮大聖人・日興上人のご教示では、末法の衆生は下根下機の愚人であり、上根上機の賢人・聖人のように観念観法を修して仏道を成ずるのではなく、法華経の要法である南無妙法蓮華経のお題目を受持し、唱題行に励むことによって仏道を成ずることになります。

したがって信行の中心はあくまで「南無妙法蓮華経への揺るぎない信」の確立にありますが、その仏道は日蓮大聖人の遺された御書(御遺文)を学んで理解して行くことが常道です。御書は文書伝道や法要行事の折々に親しむことが多く、信仰の長い方であればたくさんのお言葉を覚えていらっしゃることでしょう。

しかし、日興門流では題目受持の一行に成道を見いだすことから、意外に法華経については学ぶ機会が少なく、その結構や概要を理解している信徒も少ないように思います。現代は宗開両祖の時代とは異なり法華経そのものを学ぶことが容易になっていますから、私は折にふれて法華経の概要を一緒に学んで行きたいと考えています。
法華経を語る時には大乗仏教についても言及しなければなりませんし、経典の成立やその展開についても説明が必要です。日頃から日曜法話会などでは仏教学の基礎としてそれらについて略述していますが、今回の研修会でも前回に続いて復習のかたちでお伝えしました。

インドで創作された経典はその伝播にしたがって各地の言語に翻訳され、我が国には漢訳(中国語訳)の経典となって伝わりました。当然、各宗派の依経もインドの経典から直接日本語に訳したものではなくすべて漢訳によるものです。漢訳経典はすでに長い歴史の上に宗教・思想・哲学を有する中国の人々に沿った経典ですから、格義仏教などといわれる場合もあり、必ずしもインド経典の原典直訳といえるものでもありません。

日本仏教の各宗派はこのような漢訳経典と中国仏教の展開の上に構築されているもので、これらのことは少し歴史を学べば誰もが知りうることです。また、明治時代になると我が国にも各宗派の教学とは異なるインド仏教を直接学ぶ「インド仏教学」が各大学などで研究されることになりました。この仏教学はアジアの植民地化をはかったヨーロッパ各国が、考古学、文献学、書誌学、宗教学、民俗学などの広範なフィールドから先行していましたが、現在、我が国でも各宗派独自の教学とは異なるかたちで仏教学が発展しています。

以上を略述し、現在、中国新疆ウイグル自治区に在る亀茲国の仏僧「鳩摩羅什(344~413)」は法華経を「妙法蓮華経」と27章立て(後に28章となる)で翻訳したこと。中国隋代の天台大師智顗(538~597)はこの妙法蓮華経を円教の中心にすえて釈尊仏教を判釈したこと。日蓮大聖人の仏法も妙法蓮華経と天台教学の上に展開されていることをお伝えしました。(つづく)

相武山 山主

2021年09月27日