相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

梅雨の晴れ間に

26日(土)午前10時から境内清掃作務を行いました。この時季は降雨が多く思うように境内整備を行えないことが多いのですが、この日はまさに梅雨の晴れ間、といっても清掃には絶好の曇り空でした。
 メインは本堂前と三師塔前の草取りとバス通りに降りて行く市道の境内側フェンス約40メートルの整備です。ことに雑草と雑木がフェンスを越えて道路側に越境、見苦しく折々に花ばさみなどで整備はしているのですが、かなり距離があるので一人で作業していると少しむなしくなります。今回は3人がかりで作業してもらい、すっきりときれいになりました。

 もちろん梅雨が明けて猛暑ともなれば本堂前も参道フェンス周辺も雑草とのいたちごっことなります。今回は9名の方に参加ご協力頂き1時間半の作業でしたが墓苑の中の雑草まできれいにとることができました。境内が清掃整備されることは仏法の荘厳。さわやかで有り難いかぎりです。参詣される方々にも喜んでいただけると思います。

来月は25日(日)午前10時から境内清掃作務を行います。作務の時間は1時間30分ほど。雨天中止ですが、ご協力頂ける方は作業のできる服装でご参加ください。なお、作務の後、11時30分から当山北側の櫻井さんの農地でブルーベリー狩りを行います。ブルーベリー狩りもお楽しみください。

相武山 山主

2021年06月30日

学びを愉しむ(下)

「学びとは?」に続いては「学ぶ愉しみ」について、「学びということばには広く深い意味がある。学びは知識の習得のみを意味していない。知識にとどまらず心の動きや感情、意志や経験など人間の精神世界に大きな影響を持っている。学びの対象はすべての分野に及び、その対象は是非善悪を問わない。なぜ?どうして?という素朴な問いから学びは始まる」と解説。

 次に先月の法話会で語ったワクチン接種の問題を取り上げ、ワクチンとその接種について具体的に学びました。まず参考文献に沿って「ワクチンの基本的知識・予防接種・ワクチン接種」の3点について解説。続いて「ワクチン接種の現状」と「開催中のG7、各国との比較は?」について統計資料から、先進国7カ国といわれる国々のなかで日本が最も出遅れている現状を説明しました。

さらに「なぜ日本でワクチン開発ができなかったのか?」については、インターネット検索から、①石井健教授(東京大学医科学研究所)は「ワクチン開発予算、承認手続きなど、欧米は緊急時対応、日本は平常時対応であったことによる。ー略ーワクチンの緊急開発は安全保障と外交の意義を持つという意識が日本には足りなかった」と解説。
②坂元晴香特任研究員(東京大学大学院医学系研究科)は「国民の間に『ワクチン忌避』が根強くあり、メディアもそれをあおるような報道をしてきた。その結果、外国と比べてもワクチンに対してかなり慎重な体制が作られてきた」と解説。
③厚労省元幹部は「過去のワクチン接種の健康被害に対する批判もあって、この数十年間、国民のワクチン忌避が強まる傾向があった。訴訟のリスクが高い一方で手間がかかるなど、開発するインセンティブが下がり撤退した企業もある。海外に比べて、人材面でも技術面でも国内メーカーの体力は弱くなっている」との解説を紹介しました。

続いて、「なぜ接種予約が混乱したのか?」と「ワクチン接種にリスクは無いのか?」についての私見を述べ、結びに「今後同様の疫病流行に対応ができるか?」について、感染が収束した後に、偽りのない確かな検証が必要であることをお伝えしました。
学びを愉しむことの大切さと具体的な学びを述べた後は「学びを愉しむことば」を紹介。学びについては古今東西名言として数え切れないほどの言葉が残されています。今回は主に近現代のことばを中心にお伝えしました。

★私に特別な才能はありません。非常に強い好奇心を持っているだけです。
★学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば
気づくほど、より一層学びたくなる。 [アルベルト・アインシュタイン]
★私は何も学びとることがないほど、無知な人に出会ったことはありません。
[ガリレオ・ガリレイ]
★20歳であろうが80歳であろうが、学ぶことを止めてしまった人は年老いる。学び続
ける人はいつまでも若い。 [ヘンリー・フォード]
★真の学者となるコツを教えましょう。その秘密とは、出会う人すべてが何らかの点で私
の師であり、私はその人からその点を学んでいると考えることです。
[ラルフ・ワルド・エマーソン]アメリカの哲学者・作家
★大学とは、学習の場である。ビジネスも、学習の場である。人生そのものが、学習の場
なのだ。 [トーマス・エジソン]
★勉強するから、何をしたいか分かる。勉強しないから、何をしたいか分からない。
[ビートたけし]
★経験というのは、莫大なお金に匹敵する価値がある。ただ、ほとんどの人が、その経験
を学びに使わない。 [ベンジャミン・フランクリン]
★安楽な人生は何も教えない。長い目で見て重要なのは『学ぶこと』。
[リチャード・バック(作家)]
★学習の最大の敵は、すでに学んだこと。  [ジョン・マクスウェル]
★学んでいて楽しくないものは、本当の意味で身につかない、というのは私の実感でもあ
りますが、一方で、苦しさを伴わない学びもまた、ニセモノだと思うのです。 [河合隼雄]
★失敗するから強くなる。失敗から学びなさい。 [ウサイン・ボルト]
★成長を続けるためには、私たちは学び、決断し、実行し、そして、なおも学び、決意し、
実行しなければならない。 [スティーブン・R・コヴィー]
★やってみて『ダメだ』とわかったことと、はじめから『ダメだ』と言われたことは違い
ます。 [イチロー]
★熱心に学ぶ姿勢は、やがて習慣になる。  [オウィディウス]
★明日が命日のつもりで生きよ。永遠に生き続けるつもりで学べ。 [マハトマ・ガンジー]

法話会の結びは日蓮大聖人のことば。
大聖人の御書『日妙聖人御書』から「昔雪山童子と申す人ありき。雪山と申す山にして、外道の法を通達せしかども、いまだ仏法をきかず。時に大鬼神ありき。説いて云く『諸行無常 是生滅法』等云云 ー 略 ー 大鬼神、此の座について説いて云く『生滅々已 寂滅為楽』等云云」を紹介。その身を捧げて仏道を求めた雪山童子のいわれから、仏道とは求める心が肝要であることをお伝えして6月度の法話会は終了。

私は有縁の方々に、より良い人生を歩むために、老後を愉しむために、堅苦しく考えずに「学びを愉しんでほしい」と願っています。

相武山 山主

2021年06月29日

学びを愉しむ(上)

6月の日曜法話会は13日(日)。テーマは「学びを愉しむ」。サブタイトルは「学びは人生を豊かにするもの」でした。はじめにいつものように当山の法話会の趣旨を述べ、釈尊の十四無記の姿勢から仏教の目的が自然科学的な真理探究が主眼ではなく、「人間如何に生きるべきか」ということにあること。また、釈尊の覚りの中心にすえられているのは「縁起」の思想であることを略述しました。

 この日のテーマ「学びを愉しむ」は寿命が100歳に向かっているとさえいわれる長寿社会の日本。多くの人に定年を迎えてもなお30年以上の老後の時間が在ることになります。その時間は生育期間としての少年期から青年期、子育てや社会の担い手であった壮年期とは大きくちがい、自由な時間が相当長く続きます。また、その時間は日々老化して行くことを実感するもので、健康が損なわれがちになり、心身共に思うようにならぬことに不安や苛立ちを覚えるものでもあります。

そのような老後も貴重な人生の一コマ。法話会では「学ぶことの愉しさを知れば高齢者でも最後まで人生を豊かに生きることができる」こと。また、青年や壮年の方には人生のおもしろさや深さを知るためにも、「遇・不遇、喜怒哀楽の対象はすべてが学び」と受容し、学びの世界を広げて豊かな人生を歩んでほしいとお伝えしました。

自分には知らないことが多くあり、学ぶべきことが多くあると認めて、その真意を探求することは謙虚な心の基本です。また、人生の苦楽すべてが学びの対象であることを知って、辛いことや苦しいこと、悩むことや悲しいこと等も学びになると理解できれば、「知ること、学ぶことが愉しい、学びの中に真の愉しみがある」と実感することができます。そして、どのような境遇にあっても人生を楽しむことができるようになるのです。この姿勢は「人生如何に生きるべきか」をテーマとする仏教の基本思想にも通じるものといえましょう。

 法話会ではレジメに沿ってのお話。
はじめに「学びとは?」として、「勉強と学びは同義か? 教育と学びの関係? 勉強と教育のイメージ」を提示。勉強と教育には、「人生を歩むために必要な教育。身につけておかなければならない基礎的な知識や常識」を前提として、勉強には「勉め強いる、強いて勉める」という他者から強制されるイメージがあり、教育には「教え育む」という父母や教師などからのはたらきかけのイメージがあることを解説。

「学びのイメージ」として、「自主的、主体的というイメージ。自らの意志と直接につながっているイメージ。対象はすべての分野に及び、人生を歩むための手段ではなく、より良い人生を歩むための心得であり姿勢」であることを解説。その上で、「なぜ? どうして? 何のために?・・・という童子のような問いかけを忘れない。学びの心は好奇心と探究心そして愉しむ心から。学びは人生の愉しみと知る」との所見をお伝えしました。
(つづく)

相武山 山主

2021年06月28日

コロナ禍の仏事諸相

昨年からのコロナ禍で、「法事はどうすれば良いでしょうか?」というお尋ねをよく頂きます。
【法事とは】
法事というのは本来仏教行事のすべてにおよぶ表現ですが、現在、一般的には故人を偲び冥界の幸せを祈念する年忌法要と受け止められています。一年に一度の祥月命日などに寺院や家庭において、僧侶を招いて亡くなられた方に供物をそなえ、仏道の功徳を回向する法要のことです。日本の仏教では故人の葬儀の後には七七日忌(四十九日忌)法要や百カ日忌法要が営まれ、その後、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十五回忌,二十七回忌,三十三回忌,五十回忌と追善の供養が営まれるのを常とします。

檀家制度などによる仏教の習慣化の名残もあり、昭和の時代まではほとんどの家庭で亡くなった死者への追福作善(死者のために生者が追って善根を修し、その福を死者に回向して供養を行うこと)を大切に考え、親族縁者が集まって法事が営まれていました。
その後、都市化、核家族化が進み、さらに忙しい生活に追われて先祖への報恩感謝という概念も薄くなってきたために、平成に入ってからは「仏教信仰の篤い家庭、伝統や文化を大切にする家庭、親族・縁者の絆を思う家庭」などでは当然のように営まれていますが、昭和の時代ほどには大切にされていない印象です。

【妙法院での法事】
また、菩提寺とのつながりも疎遠となっていたり、祖父母や両親からの適切な導きもなく、親族縁者からの助言もなければ、法事をどのように営めば良いのかわからないという家庭も少なくありません。法事を営みたいと思ってもどのようにすれば良いのかわからなければ、その気も失せてしまうというものです。

そこで、当山では十数年前から法事を執り行う時には、事前に施主の方に法事の流れと準備について文書で説明することにしました。すると皆さん安心して法事に臨まれるようになりました。当山では法事の後に追善のため十分ほどの法話をさせて頂きますが、そこでは法事を営む仏教的いわれと、故人やその家族の人柄とエピソードなどを回顧し、結びには一緒に読誦した法華経要品と南無妙法蓮華経の唱題の功徳をお伝えしています。

当山には妙法院を菩提寺として護持される「檀徒の方」、妙法院に結縁して日蓮大聖人の仏法を信仰している「信徒の方」、さらに檀信徒の縁者の方々や墓所や永代供養墓などをご縁に結縁された「法縁の方」が居られます。それぞれ妙法院との関係性によるものですが、それは徳川幕藩体制下の檀家制度のようなシステムは現代に通用しませんし、思想信教の自由が保証されている我が国ですから、信仰の在り方も各自の希望を認めていることによります。檀徒、信徒、法縁については妙法院と各自の認識が基本となっているもので差別しているものではありません。

檀信徒の方々には年回表(年忌を示す表)を正月にお渡ししていますから、法事を営む気持ちのある方は、それぞれ御命日が近くなるとご連絡があり、日程を調整して法事を執り行います。檀徒の方は概ね年忌法要を執り行う方が多いようですが、信徒の方や法縁の方は厳格に営む方もあれば、気がついた時に営む方など各人各様です。それでも皆さん法事の後には「法事をして良かった。○○さんもきっと喜んでいるよね・・・」と語られています。

コロナ禍によって法事も変化があったかといえば、昨年「コロナ禍でお参りできないので、御供養と供物をお寺にお届けします。命日に塔婆を建立して供養して頂けますか?」という希望を3件お受けしました。今までも高齢の方や身体の不調な方からは同様の希望を頂いていましたからまったく違和感はありませんでした。
その他は皆さん、お参りの人数を制限したり、御斎(法要後の会食)を取りやめたり、感染対策を講じながら感染防止を徹底して、いつもどおりに営んで居られました。

【コロナ禍の葬儀から】
当山ではコロナ禍の中で8件の葬儀を執り行いました。それぞれ各家庭の希望されるかたちでの葬儀です。式場は妙法院と葬祭場に分かれますが、葬儀についての知識は多くの方が持ち得ていませんから、法事同様、葬儀の前には丁寧な打ち合わせを行います。妙法院の法式に則っての葬儀ですから当然葬儀社との連携も必要になります。

一般の方が葬儀にふれたり自分が主体的に仕切ることは人生でそうあることではありませんから、自分が施主となれば誰もが困惑するのが当然です。円滑に葬儀を営むためには十分な説明と適切なアドバイスが必要となります。当山では生前に相談に見えられた檀信徒の方々には、希望をうかがい丁寧に説明します。また、生前に相談のなかった方にも必ず説明をします。得心行く説明があり、納得した葬儀を営むことができれば、誰もが「大切な家族の葬儀を執り行ってよかった」と仰るものです。

現在、横浜ではほとんどの葬儀が家族葬のようで当山でも同様です。一般会葬者を迎えての葬儀は稀で、親族・友人の会葬も多くはありません。しかし、葬儀は地域によってかなり異なりがあります。法縁の森田さんは4月にお父様の葬儀を浜松市の斎場で営まれましたが、親族・縁者の皆さんが参列され、故人の友人や関係者も会葬されていました。けっして盛大な葬儀というわけではありませんでしたが、参列者による故人への敬意が伝わってくるような、温もりと厳粛さが感じられる葬儀でした。私は生前の森田様を存じ上げませんが、息子さんからお人柄をうかがい、法華経の世界にお迎え頂くよう御本尊様に心をこめて御祈念を申し上げました。

5月の末には檀徒の朝生さんが91歳の長寿を全うされて霊山に旅立たれました。朝生さんには40年近いご厚誼を頂き、17年前には私がご主人の葬儀の導師を務めさせて頂きました。その後、千葉市に転居されましたが8年前には夫婦の墓所を当山に求めたいとお出でになり、その後、遺言執行の姪御さんを同道されて数回参詣。自らの葬儀から供養までのすべてを決めて居られました。まことに見事なふるまいでした。

葬儀は千葉市の斎場で営まれました。葬儀に際しては事前に姪御さんから数名の親族が参列するだけですと連絡を受けていましたが、お通夜と葬儀それぞれに親族20名ほどが参列されました。うかがうと「朝生さんに可愛がって頂いたので是非参列したい、最後のお別れがしたい」ということになったのだそうです。千葉市でも家族葬が主流となっているそうですが、まだまだ家族・親族のご縁を大切にしている風情が伝わってきました。朝生さんを慕う皆さんと一緒に霊山への旅立ちを祈念申し上げた次第です。

相武山 山主

2021年06月27日

コロナ禍を機縁として

昨春からのコロナ禍のために全国の仏教寺院は大きな影響を蒙り、我が国でもワクチン接種が徐々に進んでいるとはいえ、現在までに通常の信仰活動を取り戻している寺院はほとんどありません。当妙法院でも昨春から各法要行事は自粛や中止を余儀なくされ、二年目のマスク着用の夏を迎えようとしています。

【信仰と儀式の執行】
寺院にとって各法要行事は「肉眼では見えない教えと信仰を仮にかたちに顕すもの」であり、その執行によって僧俗は己れの信行を深めています。また、その執行を通して教えと信仰を護持伝承していることにもなります。したがってその自粛と中止は仏教徒にとって大きなダメージとなったことは言を俟ちません。

ときに「仏教は信仰者一人ひとりの魂の救済が目的、ひたすら教えに沿って心を磨くことに専念すれば良い」「信仰の場に集って互いに啓発しなくても信仰を護り深めることはできる」「所詮は心の持ち方・・・」等の声を聞きます。そのような考えも一概に間違いというわけではありませんが、古今東西の宗教が寺院や教会などの宗教施設を調え、儀式の執行を通してその教えと信仰を伝えてきたことは事実です。踏み込んでいえば各宗教における儀式はその教えと信仰を護持する基盤ともいえるでしょう。基盤なのですからそこを毀損すればその存在も危うくなるということになります。

宗教は保守的な存在の代表のようにいわれ、頑固一徹と思われがちですが、これまでの歴史を振り返ってみればさまざまな変化がありました。けっして唯我独尊という姿勢ばかりで振る舞ってきたわけではありません。もちろん歴史的には権威主義の象徴として折々にその傲慢さや横暴さが批判されていますから、その変化は内外からの批判の所産ともいえますが、変化を重ねて現在に至っていることは事実で、何ごとにもいえることですが、存在するためには変化を受容し、変化を活かして行く智慧と勇気が必要であることを教えているように思います。

有史以来、宗教には必ず儀式が存在し、儀式には何らかの宗教性がうかがえますから、宗教と儀式の関係は密接不可分ともいえます。その強い関係性から見れば「宗教は儀式を求め、儀式には宗教性が求められている」ともいえるでしょう。
儀式が宗教のすべてではありませんから、儀式の盛衰がそのまま宗教の盛衰と断定することはできませんが、儀式執行の有無が宗教や信仰に大きな影響を与えることは事実です。その視点から今回のコロナ禍は当妙法院ばかりでなく、日本の仏教教団から世界の宗教教団に至るまで大きな打撃を与えたことが想像できます。

【コロナ禍を機縁として】
仏教では「此の世界は諸行無常。いつ何が起きるかわからない、いつ何が起きても不思議ではない」と説かれています。したがって今回のように新型コロナウイルスのパンデミックによって、信仰活動を自粛したり中止するということも当然起こり得ることと観なければなりません。
誰もが不慮の事態に遭遇してうろたえることは当然ですが、真理の永遠性を信ずる信仰者はこのような時にこそ、その信仰心を深めて平常心をすみやかに取り戻し、混乱と沈鬱から心を隔離することが大切です。また、起こるべくして起こった事態であると認識して提示された課題に向き合い、その課題を通して次の展望を拓いて行くことが求められています。

前述のとおり、儀式行事の執行はあらゆる宗教の基盤ですから、その執行ができないということは深刻な事態といえます。しかし、仏教の長い歴史をひもとけば常に課題を乗り越えて現在にその教えと信仰が護り伝えられています。したがって私は今回のコロナ禍も「現在のような信仰と活動で良いのか・・・」との問いかけのように思えるのです。

日蓮の門下僧俗は機根の低い末法の荒凡夫であることを自覚していますから、常に仏縁を大切にして自らの信仰の涵養をはかっています。その仏縁の基本は法華経の道場たる菩提寺とのご縁となります。
当山檀信徒の皆さんはご信心の篤い方が多く、一日の御経日や十三日の宗祖報恩講、日曜法話会などの月例行事に参詣される方も少なくありません。また、新春初勤行会や春秋の彼岸会、盂蘭盆会、日蓮大聖人御会式などの年間行事に参詣される方もかなり居られます。
それぞれ菩提寺に詣でるためには、参詣の志を立て、時間をつくり、身なりなどを調えて妙法院に足を一歩踏み出します。菩提寺参詣と一口にいっても信仰心がなければできない振る舞いであり、その姿にはさまざまな仏道の功徳が積まれているのです。

仏道の修行を自粛しなければならないことは実に残念なことですが、参詣を規制されたことによって、この一年半ほど檀信徒の皆さまも、思うような参詣はできなくても、どうしたら仏法の護持に寄与できるかと思案され、各自それぞれに信仰を磨いて護持に努められてきました。

妙法院としても相武山だより「不染」の充実をはかると倶に、檀信徒限定ですが今春からウエブとDVDで法話を配信しています。今までも高齢や身体的障害、遠隔地のためなどによって仏法聴聞できない方々が居られました。そのためインターネットなどの活用は私も視野に入っていたのですが、初めての試みはきっかけがなければ決断ができにくいものです。
今回はコロナ禍を乗り越えて仏法の護持と弘通に資するという姿勢で制作配信することにしました。すでに3月から5月までの月例御講と日曜法話会の法話を配信していますが、これもコロナ禍による機縁といえるでしょう。
いつの時代も仏法を護り伝えることは容易なことではありませんでした。この時代に仏法に結縁した私たちもあらゆることを仏道の機縁と考えて精進したいものです。

相武山 山主

2021年06月26日