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相武山 妙法寺 ブログ

春季法門研修会を開催

18日(日)午後1時からは春季法門研修会を開催。研修会には15名の信徒が参加聴講されました。はじめに参加者一同にて法門研鑽を祈念して勤行・唱題。その後、講義。
今回の研修会では日蓮大聖人御生誕800年を記念して正信会から発刊された「妙法蓮華経要品・現代語訳版」の拝読がテーマ。

研修会の開催にあたっては参加者一同にて『行学二道の御聖訓』を奉唱。行学二道の御聖訓というのは「諸法実相抄」の一節で、「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」との御文。この御書は真蹟遺文ではありませんが、仏道における信・行・学の大切さを述べたもので、日蓮門下の修行・修学の姿勢を自覚するために意味のあるお言葉です。
講義では妙法蓮華経要文を現代語訳で読み進めるために、「インドにおける仏典の成立、初期仏教から大乗仏教ヘの歴史、仏典の東漸と漢訳の歴史、鳩摩羅什と妙法蓮華経、天台法華思想と日蓮大聖人の仏法」について簡略に解説。

続いて、『月水御書』「法華経はいずれの品も左記に申しつるように愚かならねども、事に二十八品の中に優れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。去れば恒の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。又別に書き出だしてもあそばし候べく候。余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財の備はるが如し。寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり」を拝読。

月水御書は大学三郎の女房にあてた御書と伝わりますが真偽未決の御書です。参考として御書システムの月水御書の解題から、宗祖が常の御所作(勤行)では方便品・寿量品を読誦することを教示されていたことをお伝えしました。
その後、方便品現代語訳「その時、世尊はゆったりとおごそかに冥想状態を解かれて、舎利弗に次のように告げられました。」から、増上慢の四衆五千人が退座する「彼らは座から退き、世尊もまた黙ったままで、それを制止されませんでした」までを丁寧に拝読。法華経迹門の要となる方便品の前段を親しく学びました。
拝読の続きは夏季法門研修会に行うことをご案内して2時間30分の研修会を終了。

相武山 山主

2021年04月30日

今を生きる(下)

前に述べたように今を生きるためには過去との比較が欠かせませんから、「この時代、この社会、この地域、この環境・・・・・・」について参加者の皆さんと考えてみました。

過去の時代(昭和や大正・明治、さらには江戸時代や戦国時代、鎌倉時代や平安時代~)とは違う現代。想像できない未来とも違う現代。今は令和の時代。日本という国、生活する地域、日本の自然環境。世界中の国や地域とのつながりと影響。地球と宇宙のいとなみにも影響されます。

生活のスタイルや社会のシステムも「今」のもの。過去の時代とはちがいます。昭和の時代と比較してみるとよくわかります。「住宅、電気、水道、トイレ、電話、ガス、電気製品、洋服、食事、お菓子、商業施設、車、・・・和風から洋風へ、学校の教育内容、新旧の産業の興廃、企業の興廃、病院やクリニック、医療や治療など・・・」。

「家父長制、夫婦関係、親子関係、師弟関係など。結婚式や葬儀などの儀式行事。礼儀や言葉遣いなど文化や習俗。社会のグローバル化(社会的・経済的に国や地域を超えて世界規模でその結びつきが深まること」等々。 少し振り返ってみればその変化には驚くばかり。意識するとしないとにかかわらずほとんどの人が変化を受容して今日に至っています。

次に「今を生きるため」には、自分自身の今を知らなければなりません。自分ことといえば多くの人がわかっていると思いこみがちですが、実はそうでもありません。自分自身を見つめ知ることはかなり難しいことなのです。 自分自身を見つめ、己れを知ることが大切として「年齢、体調、性格、これまでの歩み、育った環境、修学や就職、職種や経験、人生の歩みと置かれている環境は一人ひとりちがう・・・」ことなどについて説明。その上で、今の自分にできること、できないことを理解して心豊かに生活することをお勧めしました。

変化してやまない今を生きるとして「時代は日々刻々変化していることを知る。人は誰もが生・老・病・死をまぬがれない。仏教では四劫が説かれている(成劫・住劫・壊劫・空劫のこと。仏教では世界が成立し、変化・破滅を経て、空の状態に帰するまでを四つの期間に分ける)。真理である変化をおそれない心を涵養する」ことをお伝えしました。

変化についても「変えるべきもの、変えた方が良いもの、変えない方が良いもの、変え てはいけないものがある」ことを解説。「今までの考えやかたちを変えることには不安を伴うことが多い。変容(変化を受け入れる)にはできるだけ正確な情報と知識が必要。コロナ禍によって失ったもの、コロナ禍によって得たものを知る。「今」コロナ禍での人生を歩むということは、それ以前との変化を認めて新たな人生を歩むということ。置かれた環境を愚痴ることなく認め、一歩でも前を向いて与えられた人生を歩むことが大切。人生は出会いと選択であり、人生はすべてが学びである。」と所見を述べました。

 

変化をおそれずに生きる「諸行は無常&縁起として在る」では釈尊と弟子の問答『相応部 サンユッタ・ニカーヤ』から、

「大徳よこの世の色には、ほんの少しでも、なんぞ常恒・永住にして、いささかも変易することのないものはないでありましょうか」

「比丘よ、この世の色には、常恒・永住にして、変易することのないものはまったく存しない」

「比丘よ、もしこの爪の上の土ほどのものであっても、常恒・永住に して、変易することのないものが存するならば、わたしの説く清浄の 行によってよく苦を滅尽することはできないであろう。

しかし、比丘よ、この世にはこの土ほどのものといえども、常恒・永 住にして変易することのないものは存しない。故にわたくしの説くこ の清浄な行によって、よく苦を滅尽することができるのである」

「比丘たちよ、色は無常である。色を生起せしめる因も縁も無常であ る、比丘たちよ、無常なる因と縁によって生起せる色がどうして常恒 なることがあり得ようか」『雑阿含経 サンユッタ・ニカーヤ』から「縁起の 法は我が所作にあらず、亦余人の作にもあらず、然も彼の如来、世に出ずるも、未だ世に出でざるも法異常住なり。彼の如来は自らこの法を覚って等正覚を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発し顕示す。謂わゆる此れ有るが故に彼有り、此れ起こるが故に彼れ起こる」を紹介。

「諸行無常とはあらゆる存在が変化してやまないという真理。あらゆる事物事象は縁起によって成り立っている。釈尊の覚られた真理は縁起を基本としている。縁起であるがゆえに不変・絶対なるものは存在しない。」であり、諸行無常が仏教の基本思想であり縁起は真理であることをお伝えしました。

学ぶべき日蓮聖人の言葉では以下を紹介しました。

「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり」 『可延定業御書』

「夫れ以みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候ひしが念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ひて後に他事を習ふべし」 『妙法尼御前御返事』

「流罪の事痛く歎かせ給ふべからず。勧持品に云く、不軽品に云く。命限り有り惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり」 『富木入道殿御返事』

「一生はゆめの上、明日をご(期)せず。いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給ふべからず」 『四条金吾殿御返事』
今回のテーマ「今を生きる」から 「現実をしっかりと理解しよう。己れ自身を見つめよう。過去にとらわれず、未来をいたずらにおそれない。貴重な命であることを知り、また、その命が有限であることを知る。今日一日の命のいとなみを大切にしよう。学ぶことを愉しもう。臨終のそのときまで自分自身が成長することを願う」ことをお伝えしました。

相武山 山主

2021年04月29日

今を生きる(上)

本年、第4回目となる日曜法話会は4月18日(日)午前11時の開催。今月のテーマは「今を生きる『諸行は無常、仏教は変化をおそれない』」でした。
初めて参加された方もおられましたから、当山の日曜法話会は「仏教に親しみ、その教えと信仰について正しく理解して頂きたい。法華経の教えや日蓮聖人の教えにふれて頂きたい」を主旨として開催していることを述べ、仏教寺院の存在意義は冠婚葬祭のためばかりでなく「仏教を学び伝える、僧侶と信徒が修行・修学し仏道への信仰を磨く、心を浄め癒やしと安らぎを得る、伝統や文化などを護り伝える」ことにあることをお伝えしました。

法話会のテーマで「世相」を取り上げていることについて「仏教は現実を直視する立場。仏教は神秘主義や不思議世界には浮遊しない。あらゆる事物・事象は私たちの生活や人生と無縁なるものではない。起こる事象はすべて学びの対象。眼前の事物・事象を自分はどのように観ているかを認識し、どのように自らの人生に活かすかが大切」であることをお伝えしました。

今月のテーマは「今を生きる」。過去のしがらみなどによって目が曇ったり、知ることのできない未来に翻弄されることなく、今この時を真剣に、そして誠実に生きることが大切であるという仏教的視点の一つの表現です。

「今」を思索する時には、その今がどのような今であるかという現状の認識が不可欠。それは今の現状を的確に認識できているか否かで判断が大きく左右されるからです。その的確な認識のためには過去などとの比較が効果的となります。というのも物事は比較することによってかなり整理することができるからです。
そのためにも自分自身が生きているこの時代、この社会、この環境などを過ぎた時代と比較しなければなりません。できるだけ的確な認識に立った上で、諸行(あらゆる存在)は無常(常ではない)という仏教の真理を理解し、変化してやまない現実を怖れることなく、永久に通じる一日一日であることを自覚して大切に歩むことが、「今を生きる」仏教徒の姿勢だと思うのです。

法話は「今を考える」ことからスタート。昨年春から世界中が翻弄されている「コロナ禍による変化」を振り返ってみました。認知症になっているわけではありませんが、たった1年前のことでもすっかり忘れていることが多いものです。
まずは「コロナ禍の現状。」
「コロナ第4波か? 欧米諸国に比すると感染者数も死亡者も少ない日本。しかし、東アジアでは感染者が多い日本。2度の緊急事態宣言と新たな『蔓延防止等重点措置』の実施。」「見通し不明のワクチン接種と専門家の第4波憂慮発言。病床の逼迫や医療崩壊への危惧もささやかれる。我が国のコロナ対策の歩みを検証しなければ悪夢は繰り返す。」と所見を述べました。

次に「コロナ禍の歩み、思い起こしてみよう」
★ 新型コロナウイルス感染症報道
(2020年1月下旬、中国武漢を発生源とする感染症が発症と報道。
★ 1月23日、中国政府が武漢市を事実上封鎖
★ 1月28日、日本人初感染公表
(武漢市への渡航歴のないバス運転手の男性。武漢から来たツアー客を乗せて、東京・大阪間を往復。翌29日にはこのバスに同乗していた女性バスガイドの感染も確認。この頃からマスクや体温計、除菌剤などを中心に衛生用品が店頭から消える。)
★ 武漢からのチャーター便帰国
(1月29日、中国・武漢市などに滞在していた日本人がチャーター機で帰国。2月17日までに計5便が派遣。中国人配偶者や子どもを含む800人超が帰国した。)


★ ダイヤモンド・プリンセス(DP)号の集団感染
《クルーズ船「(DP)号」(乗客2666人、乗員1045人)。DP号は1月20日に横浜港を出発。鹿児島、香港、ベトナム、台湾、沖縄に立ち寄り2月3日に横浜に帰港。その途中、1月25日に香港で下船した乗客が新型コロナウイルスに感染していたことが2月1日に判明。日本政府はDP号からの下船を認めず、5日から洋上で2週間の検疫を行った。陽性者は神奈川県をはじめとする医療機関に搬送され、入院措置がとられた。その間、船内の感染症対策の不十分さが指摘された。2週間の健康観察期間を経て下船した乗客が陽性診断される事例が問題となった。最終的にDP号での感染者は計712人(うち死者は13人)》
★ クラスターの発生
(2月14日、前日に感染が確認されたタクシー運転手の男性が1月に開かれた屋形船での新年会に参加。都は「約100人が濃厚接触者にあたる」として検査を進め、初のクラスターとして報道された。この後、病院や高齢者施などでのクラスター発生が報じられた。)
★ 小中高等学校の休校
(3月2日から春休みまで臨時休校。)
★ 各種イベントの自粛と中止。
★ 緊急事態宣言発出
(4月7日、東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に緊急事態宣言を発出、4月16日に対象を全国に拡大。)
★ その後については割愛。

以上、昨年1月下旬から初めての緊急事態宣言発出まで3ヶ月ほどの足取りをたどってみました。未知のウイルスによる不安と恐怖と混乱は我が国を覆い尽くしたことがわかります。それから1年という時間が経過しましたが、期待のワクチン接種も全く見通しがたたず、感染拡大が再度広がり3度目の緊急事態宣言さえ予想される現状についてお伝えしました。
続いて私が率直に疑問に思うこと・・・。
当然のことながら政治や行政も努力していることはわかっています。さらに医療従事者や介護従事者などのご苦労にも敬意を表します。しかし、腑に落ちないことやなぜ・どうしてと疑問に思うこともあります。
ポイントを絞って「パンデミックから1年4ヶ月。疑問に思うこと、なぜできない」として、「病床の逼迫と医療崩壊の解消。法律やシステムの不備があっても知恵をしぼって実行してほしい。平時と緊急時の対応は異なっていても良いのではないか? なぜワクチンの確保と接種が遅れているのか? なぜ日本でワクチンが創れないのか? 失敗や責任は忌避したいのが人情、しかし、有権者から選出されたた政治家には緊急事態との認識と覚悟が必要ではないのか? 日本ははたして先進国だろうか?・・・・・」と私見を述べました。

次にコロナ禍による大きな変化。
★ コロナの感染予防を中心とした生活と社会
日常の家庭生活、学校や会社、各種イベントや大会、宗教や文化、人的交流、儀式や行事、飲食など社会生活の在り方が大きく変化。
★ 感染の予防を中心とした生活
三密(密集、密接、密閉)を避ける生活スタイル。日々衛生管理を意識する生活。
★ リモートワーク&リモート学習
自宅での仕事や学習。
★ リモート会議
対面での会議ではなく、PCやタブレットなどを利用しての会議。
★ イベントや各種大会開催
人生の節目となる大切な行事でも中止となる。感染予防を徹底しての開催。スポーツ観戦などでは規模の縮小や内容の変更。
★ 職種によってコロナ禍の影響が異なる。
★ コロナ禍による経済的な被害は深刻。
★ 儀式や行事の変化
コロナ禍によって儀式や行事のかたちが変化することもある。
以上誰もが実感した社会の変化をお伝えしました。

(つづく)

相武山 山主

 

2021年04月28日

慰霊の供養をつとめて

妙法院には墓苑事務所の奥にペット墓「慈愛」が設けられています。ソメイヨシノの樹下にあるペット墓にはすでに20霊以上のペットが共同埋葬され、例年4月1日には慰霊供養を行っています。
今年も4月1日午後1時からの御経日に引き続いて、名残のサクラの下で香華を供え、ご信徒と倶に法華経要品読誦、南無妙法蓮華経の唱題を修して慰霊供養をいたしました。

ペットという言葉からのイメージは犬や猫が中心で、飼育愛玩している動物というのが一般的な理解だと思います。ペットの存在を認めて可愛がる方も多く、その輪も世界に広がっていますが、他方、本能的に受容できない方や、体質的に合わない方もいます。また、好ましくない経験などから忌避される方がいるのも事実です。ペットへの理解や対応、選択は個人のまったくの自由ですが、大切なことは自分と異なる認識や好みがあり、その事実を認め他者を尊重するという姿勢ではないかと思います。
ペットへの我が国の意識は欧米の影響もあって近年大きく変わってきているように思えます。ペットという表現が我が国で一般化したのは1980〜1990年代といわれており、そう長い歴史ではありません。そもそもペット(pet)とは日本では愛玩動物以外の意味で使われることは少ないようですが、英語では人間に対して使われる意味も含まれているようです。「愛玩動物、ペット、お気に入り、いいやつ、かわいい人、いい子、すてきなもの、あこがれのもの、(子供っぽい)不機嫌、すねること」などと解釈されるようです。

さて、一概にはいえませんが、我が国ではかつて飼育する犬や猫などを畜生と蔑視することがあったり、人間のしもべのように扱うことも珍しくはありませんでした。しかし、今ではペットを飼う家庭では「ペットは家族の一員」という認識がほとんど。多くの方が家族の一員として名前をつけ、他者には「うちの子」などと紹介しています。まさに家族そのものです。

ペットへの認識や定義については種々意見もあることと思いますが、
『ブリタニカ国際大百科事典』には
「愛玩動物のこと。大切にかわいがるために飼育されている動物をいう。かわいらしく愛嬌のある容姿,きれいな鳴き声,飼い主に従順な性格などがペットの条件としてあげられる。昔からおもに哺乳類,鳥類,魚類が飼われてきたが,近年はワニ,トカゲ,ヘビなどの爬虫類も人気を集めるようになり,両生類や昆虫類を含めて幅広くペットになりうる。そのなかで最も一般的なのはイヌ,ネコで,危険を察知したり狩猟の助けをしたり,ネズミをとるなど家畜としての役割を兼ねていたものが,長い歴史のなかで遺伝的に改良され,まったくの愛玩用になってしまった品種も少なくない。」とあります。

ペットはことばも通じないのに、なぜか家族と同じように強い絆を感じる存在です。そこから現代では「コンパニオン・アニマル(伴侶動物)」とも呼ばれるようにもなっています。したがってペットへの表現や対応もかなり慎重さが求められ、我々僧職がペット供養を希望されても従前のように「如是畜生」などという表現は憚られるようになり、施主(供養を願われる方)の気持ちを推し量った供養のかたちに変化を余儀なくされています。実際当山では個別にペット慰霊のための塔婆を依頼されたときには、かつてのように「○○号・如是畜生頓生菩提」ではなく、「慰霊追善供養」と書いて供養しています。

愛らしいペットの存在は飼育愛玩される方によって(飼育という表現が不適当と指摘されそうですが)それぞれ異なると思いますが、およそ癒やしや安らぎの対象であり、家族のコミュニケーションの対象となり、飼い主家族の生きがいにも通じる大きな存在となっています。ときに自宅などを猫屋敷や犬屋敷として、動物を虐待し周囲の人々に迷惑をかけるような人もいますが、ほとんどのペット愛好家はペットを家族の一員として人生のよすがとしているようです。

しかし、ペットも人間同様、「生・老・病・死」をまぬがれません。愛情が深ければ深いほど悲しみも深いものです。病気になってはうろたえながら治療し、老いてはできるだけの介護をします。寿命を迎えれば悲しみに襲われながら手厚く弔いたいと願う方が多いようで、情愛や人情が薄くなってきたといわれる現代に逆行するような温もりのある姿を多く見受けます。そこからはペットの置かれている位置が昔と様変わりしていることがわかります。ペットが可愛いという無条件的価値は当然として、核家族化や少子化、孤独や孤立生活など人間社会の環境変化がペットの存在価値を向上させているように思えます。
家族の一員であるペットを失うと飼い主家族の精神的ショックは大きく、だれもが「ペットロス」といわれるような経験を覚えます。そのショックが軽ければ問題ありませんが、中には悲しみが重症化して心の病や身体的な病気を患ってしまう人もいますから注意しなければなりません。ペットロス症候群等は人と動物との間に「深い絆」が存在するから起こる病です。

亡くなったペットも愛してくれた飼い主家族が悲しみから立ち上がれず、心身に支障を来たすような姿をみればきっと悲しむことでしょう。諸行は無常との真理に想いを馳せ、生前の存在に感謝して冥界の安寧を祈り、自身の心のバランスをとることが大切です。

大乗仏教ではあらゆる存在の成仏が説かれていますからペットも当然その対象です。法華信仰の家族と倶に生活したペットは、法華経に説かれるように信仰の功徳によって仏さまのお側で安らいでいることでしょう。私たち家族もジョン、ボブ、タロー、を仏さまの世界に送りました。恒例となった慰霊の供養をつとめながら在りし日の可愛い姿を偲び、ペットについて種々思いを巡らした慰霊供養法要でした。

相武山 山主

2021年04月27日