相武山 妙法院のブログ

相武山 妙法院のブログです。

相武山 妙法院

  • HOME
  • 相武山 妙法院
  • お知らせ&行事案内
  • 道の心得
  • 法話会
  • 墓苑・永代供養墓
  • 自然に親しむ
  • 交通のご案内
  • ブログ
  • サイトマップ

045-442-7688

  • ご相談について

〒241-0806 横浜市旭区下川井町1590-1

相武山 妙法寺 ブログ

想いを馳せて(ある法事から)

昨年春からのコロナ禍のために寺院行事は大きく制約を受け、年中行事をはじめ各法要行事に大きな影響を蒙っています。緊急事態宣言の発出による影響はもちろんのこと、感染予防の基本は三密ですから、密接、密集、密閉のすべてに該当する法華の道場では活動を自粛せざるを得ない状況が今に続いています。
自粛は寺院の法要行事ばかりでなく檀信徒の方々の仏事法要にも及びました。コロナ禍の吹き荒れた昨年は、家族親族が集まることを遠慮されて、御供養やお供物をお届けになり、参詣者がいないという法事が数件ありました。今までも高齢や体調不良などで参詣者不在の法事はありましたが、今回のようにコロナ禍によるものとは趣がかなり違います。

法事は仏教信仰の篤い家庭、儀礼を大切にされる家庭では至極当然に営まれてきました。また、近年旅立たれた家族のおられる方や先祖への想いが在る方にとっても自然なことといえるでしょう。しかし、仏教や信仰と無縁であったり、法事をしたことのない家庭で過ごされた方にとっては思いつかないものかも知れません。

ゆかりある故人のための法事は仏教の一つの儀礼ですが、仏教信仰から芽生える知恩・報恩、追善供養という思いばかりではなく、故人との縁から家族の絆を確認したり、故人との思い出から自分自身を見つめたり、さまざまな人情が行き交うものです。また、家族親族がゆかりある故人のために集い、旧交を温め合うことにも人生の一つの意味があると思います。

当山で営まれる法事は富士日興門流の化義作法に則ったもので法式はすべて同様ですが、各法事がまったく同じということではありません。というよりも法事は営まれる施主と臨席される方々によってそれぞれ異なるものです。それは霊山に旅立たれた故人とご家族の関係、旅立たれてからの時間の経過とご家族の在りようによって法事の雰囲気がちがうことからもわかります。そこには時のながれと家族と一人ひとりの人生が投影されているように思えます。

2月6日(土)、H家(横須賀市)の第13回忌法要が当山で営まれました。Hさんのお母さまは当山開創当時からのご信徒で強盛な法華の信仰者でした。Hさんとはお母さまからのご縁となります。今から16年ほど前、羽沢の妙法院にご夫妻で突然お見えになり、お母さまから「悩んだり、迷ったり、困ったら、ご住職のところへ」と言われていたので来られたということでした。
それ以前にもお父様の法事などでお顔は拝見していたのですが、親しく言葉を交わすことはあまりありませんでした。来院の理由は奥様がかなり厳しい病であると診断されたので、病気の平癒をご本尊様に祈念してほしいということと、どのように気持ちを立て直して病気に向き合えば良いかというお尋ねでした。

その日のご夫妻は、病気についても明るく話される奥様と、すっかり落ち込み意気消沈しているご主人でまさに対照的。お二人のその姿を今でも鮮明に覚えています。ご主人の憔悴している姿の理由は「うちのやつがいないと私はだめなんですよ・・・」という一言で合点がいきました。
夫婦や親子、家族や親族のことは当事者同士でなければその関係はよくわからないものです。時に無責任に他の家庭のことをあれこれと詮索したり、一方的知見で勝手なことをいう方を見聞しますが、実に失礼なことであり不見識ではないかと私は思っています。

しかし、Hさんの言葉と態度、奥様の子どもを見守るかのような優しい眼差しから、このご夫婦は深い愛情で結ばれていることが自然に伝わってきました。お話をうかがいながら病気のことは病気のこととしてご夫妻の睦まじさに心打たれたことを記憶しています。
私からは、「仏教では現実を直視して目をそらさずに自らの課題に向き合うことが大切と教えている。誰もが生老病死を免れることはできず、自分だけが病を得たのではないことを認識しなければならない。病の床に伏しても一人ひとり状況がちがう、それは心の持ちようが異なるからで、病に伏しても御仏の救いと導きを信じて仏道に心を寄せ、仏法を生きるエネルギーとして希望をもって日々生活してほしい。心新たに法華経を読誦し南無妙法蓮華経のお題目を唱えて仏道の功徳を積みましょう」とお伝えしました。
結びに「得たものがあれば失うものがあり、失えば得たものが必ずあるのが真実ですから、病をよく見つめて、失ったもの、得たものをよく考え、一日一日を大切に過ごしてください」と申し上げ、その後、ご夫妻と一緒に勤行・唱題をつとめて奥様の当病平癒の御祈念を申し上げました。

残念ながら3年後に奥様は霊山に旅立たれました。愛情が深いということは悲しみも深いということですから、Hさんのことがとても心配でしたが、深い悲しみにもかかわらずHさんはご家族と倶に真心こめて葬儀を営まれ、その後、折々の年忌法要も丁寧に営まれています。もちろん、春秋の彼岸会や盂蘭盆会の供養も欠かされることはありません。

第13回忌法要は逝去されてからまる12年の歳月が流れたということになります。乳飲み子も健やかに成長しました。少年は青年となり、3人の子どもさんもそれぞれ立派に家庭を築かれています。Hさんは数年前に大病を患われましたが、仏天のご加護と霊山の奥様の見守りを得て無事に回復され元気に生活して居られます。
奥様もきっと完爾として笑みを浮かべておられることでしょう。

当山では毎月1件~3件の法事が執り行われます。それぞれのご家庭のありようで法事も異なり、お一人での法事もあれば20名以上のにぎやかな法事もあります。いずれも現世に生きる者と御仏の世界に身を置く者が、仏法を中心に心を通わせ想いを馳せる機会となっています。

相武山 山主

2021年02月28日

ジェンダー意識の変革を

14日(日)は2月度の日曜法話会。初めての参加という方もおられましたが、コロナ禍の緊急事態宣言下ですから参加者も15名ほどでした。今月のテーマは「仏教の平等思想 ージェンダー意識の変革についてー 」でした。オリンピック組織委員会会長だった森喜朗氏の女性蔑視発言の世相に着目。男女間の社会的文化的差別の認識を考える「ジェンダー」について皆さんと一緒に考えてみました。

 

【基本的人権とジェンダー問題】
テーマのきっかけは月初の森喜朗氏の女性蔑視発言です。憲法にうたわれているように我が国では誰もが平等に基本的人権が保証されています。しかし、男女という性差は歴史的変遷を経て文化・伝統・習俗・常識などさまざまな差別として存在しているのが事実です。わかりやすい表現としては「男らしく・・・。女らしく・・・」とか「男は外で仕事・・・、女は家で家事と子育て・・・」というものです。

もちろん当事者同士がそのような状態を納得して選択している場合はまさに他人の余計なお世話ですが、現代では「男は・・・、女は・・・」と発言し、その認識が当然であり常識であるとして主張することは差別主義者としての批判を受けることになります。性差は性差として認め、どのように生きるかはその人本人の自由なのです。ここは人権の基本中の基本です。

男女を性差によって差別することは基本的人権にも反する行為であり、適切ではないと多くの人は認識していますが、意識されず無意識に性差によって社会的差別をしている場合が少なくありません。なぜかといえば我が国では長く続いた封建的身分制度や家柄意識、家父長制や本家・分家意識など、歴史的・文化的な営みの中で、知らず知らずのうちにジェンダー差別にもつながる認識や感覚が存在しているからです。その無意識の認識や感覚がまちがっていると気がついたときには、かなり意識して修正をはからなければ変革はできませんし勇気もいることです。

我が国は太平洋戦争の敗戦によって基本的人権をうたう民主主義国家となりましたが、敗戦によって享受した民主主義ですから、国民一人ひとりが民主主義の重要さに気づいて求めたものでもなく、独裁的権力者と対決して勝ち得たものでもありません。ここが民衆主義意識が低いと感じるゆえんです。

我が国のジェンダー問題もここに起因しているかもしれませんが、1986年4月、「男女雇用機会均等法」が施行されました。この法律は職場での男女平等を確保し、女性が差別を受けずに、家庭と仕事が両立できるよう作られたものです。その後、1997年と2007年に改正されその充実がはかられています。この法律の成立施行にみられるようにジェンダー平等はより良い生活を求める時代の要請なのです。

 

【森氏の発言から】
法話では森前オリンピック組織委員会会長の女性蔑視発言から、「日本のジェンダー意識の変革が求められていること」「仏教と平等思想について」所見を述べました。
はじめに情報の整理です。情報にはその正確さが求められます。情報の取捨選択を誤れば当然のことながら判断もまちがってしまいます。ことに膨大な情報が氾濫するほど流されている現代ですから情報の正確さと整理は不可欠です。

2月3日(水)森氏が日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で、「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」と発言。この発言が公表され女性蔑視発言であり、オリンピック精神にも反すると国の内外から厳しい批判を受けました。その後、2月4日~2月11日に「森会長が辞任の方向で調整」と複数メディアが報じるところまでを時系列で整理。

その間の森氏やIOCの言動を伝えると倶に、「抗議署名キャンペーンに1日で5万人以上の賛同が集まる」、「国際人権団体の『ヒューマン・ライツ・ウォッチ』が森氏の発言を受けて『日本の性差別に金メダル』と非難声明」、「各国の駐日大使館も「DontBeSilent (沈黙するのはやめよう)」というハッシュタグで、男女平等への支持と連帯を表明した」、「最高位スポンサーのトヨタが『遺憾』のコメント」などの言動を紹介しました。

最後にオリンピックに大きな影響を持つアメリカNBCの公式サイトに掲載されたパシフィック大学のジュールズ・ボイコフ教授の意見を紹介。
「大坂なおみが、適切に、『本当に無知』と呼んだ森氏の発言は日本における、より広い問題の一部だ。この国は、ジェンダーギャップ指数の調査で153か国中121位にランクされた」と指摘。そのうえで、「森氏は世界が見えるようにカーテンを開け放っただけだ。性差別発言のために、誰かが職を失うに値する時があるとすれば、それは今だ」「森氏が退任すべき時は過ぎている」と。

 

【差別を考える】
森氏の発言から次は「差別」について考えてみました。少ししっかり調べてみると差別は理解しているようでよく理解できていないものであることがわかります。デジタル大辞泉によれば差別とは「あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。取り扱いに差をつけること」とあります。

社会学的にはどのように解説されているかを日本大百科全書(ニッポニカ)[社会学者鈴木次郎氏述]から紹介しました。鈴木氏は「差別の定義」「差別とは何か」「差別の形態と構造」の3節に分けて丁寧に解説されています。学術的表現が展開していますから少し難しい気もしますが、繰り返し読めばよく理解できます。差別の意味とその弊害を知ることはとても大切なことです。
解説の後に私は森氏の発言は池に投げられた小石であり、今後の展開はその波紋であるから、意識の底に沈んでいる無意識の差別を知ることと、日本のジェンダーギャップを直視することの大切さをお伝えしました。

 

【仏教の平等思想】
原始仏典の『スッタニパータ』には
「生まれによって『バラモン』となるのではない。生まれによって『バラモンならざる者』となるのではない。行為によって『バラモン』なのである。行為によって『バラモンならざる者』なのである。
行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。」と説かれています。

仏教は創始者の釈尊自らがヒンドゥー教の差別主義(カーストとカルマ)を否定したことが原点です。釈尊は古来からのヒンドゥー教のカースト制度を否定し、神の支配からの脱却、ダルマ(妙法)の獲得による解脱と救済の道を説かれたのです。
その悟りの中心は縁起の理法(此あれば彼あり、彼あれば此あり)であり、あらゆる存在が他者との関連性にあることを説くものでした。仏教2500年の歴史や展開の上では差別的と指摘されることもあったようですが、縁起の理法こそが仏教の基本ですから差別を認めることはありません。仏教では性差を認めながらも各自の行為(おこない)をより重視する立場なのです。

学ぶべきこととして「森氏の発言から我が国のジェンダー問題をみんなで学ぶ機会とする。・差別の誤りを認識して違いを認め合う。・互いに尊重し合える社会の構築を願う。・人間は未熟であり未完成な存在、時代の変化によって気づかされることもある。・過ちをただすことに躊躇しない」。と所見をお伝えして2月度の法話会は終了。
3月度の法話会は14日(日)午前11時からの開催です。

相武山 山主

2021年02月27日

興師会(妙法院開創40周年)を奉修

2月7日(日)は法華宗日興門流の門祖白蓮阿闍梨日興上人の御命日。昭和56年(1981)2月7日開創の当山は今年で開創満四十周年を迎えました。今年は宗祖の御生誕800年という佳節でもあり、二つの意義をこめた慶祝記念の法要や事業を考えていましたが、昨年春から続くコロナ禍のために十分に企画検討することができませんでした。記念の事業としては宗祖御影像の造立と勤行要典の刊行、コロナ禍を乗り越えての慶祝法要も予定していますが、いずれも明年初夏の順延となります。

今年はコロナ禍の緊急事態宣言下という現実をふまえて、粛々と2月7日に興師会、3月28日(旧暦の2月16日)に御生誕800年法要を奉修することとしました。
快晴に恵まれた興師会には15名ほどのご信徒が参詣。精霊檀には妙法院有縁物故者の御塔婆と正信会僧俗物故者の御塔婆を建立。御宝前と精霊檀にお膳を供え、献膳・読経・焼香・唱題と如法に奉修。報恩感謝の唱題裡にはついつい草創期の方々のお顔が浮かんだり、檀信徒の皆さまと信行に励んださまざまな光景が流れて行きました。

当山40年のあゆみは門祖日興上人の御精神と日蓮大聖人本来の教えと信仰を真摯に求めてきたものです。私も同志もその志は高く強いものと自負していましたが、世俗的な権威や権力、大きく強固な組織を離れて、手探りで法義信仰の研鑽に努め、信仰の護持弘通の基盤を作り上げて行くことはけっして平坦な道のりではありませんでした。
時に迷いながら、時に悩みながら、試行錯誤を繰り返し、「まことの法華信仰の道」を求めて今日に至ったものです。当山40年の歩みはひとえに仏祖三宝尊の御加護の賜物であり、倶に仏道精進してきた檀信徒の信仰心によるものと深い報恩感謝の思いを御宝前に申し上げました。

法要後には法話と挨拶。はじめに興師会(せり御講)にちなんで門祖日興上人の御精神について「末法の一切衆生を救い導くのは末法の法華経の行者である日蓮大聖人。宗祖の教えは法華最勝の覚悟によるものであり、その修行は南無妙法蓮華経のお題目専修であること。法華信仰の対境は宗祖御図顕の妙法曼荼羅と宗祖の御影像。本因妙の成仏道を明かして愚人・迷者を教導するのが日蓮大聖人の教え」が基本思想であることをお伝えしました。

さらに開創40周年にあたることから開創時より今日までの妙法院の足跡を簡略に回顧。佳節を無事に迎えられたことへの感謝の思いを述べました。

相武山 山主

2021年02月26日

2月2日の節分会

立春の前日は節分会。例年2月3日に行われることが多い節分ですが、暦の都合で今年は明治30年(1897)以来124年ぶりに2月2日が節分でした。
節分といえば一般的なイメージとしては鬼を災厄に見立て、「豆(魔滅)をまいて鬼を追い払う」ですが、本来、節分は季節の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをいいますから、立春の前日だけが節分というわけではありません。立春の前日が旧暦の大晦日にあたる重要な日として、いつしか節分といえば立春の前日をさすようになったということです。

古来、季節の分かれ目には邪気や厄(鬼)が入り込みやすいと考えられていたために、新年を迎える前に邪気を祓い、一年の無病息災を祈る行事として追儺(ついな)式が行われてきたといわれています。この追儺式は中国で行われていた行事が日本に伝わったもので、周代(B.C.1046~B.C.256)には、朝廷や諸侯による「大儺」という行事があったといわれています。

この中国の「大儺」が日本に伝わって「追儺」として宮廷の年中行事になり、『続日本紀』によれば飛鳥の頃からこの行事が行われていたようです。その行事では役人たちが厄払い役とその手下に扮し、宮中を掛け声をかけながら回ったといわれ、これが後世の「豆をまいて鬼を追い払う」節分の儀式になったといわれています(豆まきのいわれには諸説あります、皆さんも調べてみてください)。いずれにしても節分会は「除災招福」を願う行事として親しまれて今日に伝わっています。

節分会は仏教の行事というわけではありませんが、日本の伝統行事であり習俗ともなっています。また、毎年厄歳の御祈念を申し出られる方も居られますので、当山も年中行事の一環として執り行っています。
当日は午後1時から御宝前に福豆をお供えし、如法に法華経要品読誦・南無妙法蓮華経の唱題とお勤めして、疫病の退散、衆生の安寧を祈願し、さらに災厄祈願を申し出られた方々と参詣者の方々の現当二世にわたるご健勝を祈念いたしました。
寿量品長行では私が「福は内」と念じて御宝前に福豆をまき、興厳房が本堂から客殿、ロビーから寺務所に福豆をまいて除災招福を祈りました。
法要後は節分のいわれをお伝えして参詣者の皆さまに福豆を振る舞いました。今年は新型コロナの疫病退散を強く祈念し、福豆をたくさん用意して前日の御経日や興師会などに参詣された方々にも振る舞いました。

厄歳の御祈念は例年のように有縁檀信徒の皆さまよりお受けしましたが、今年は3年前にご主人の母国である英国に帰られた久美子・Sさんからもメールでご家族の厄歳祈念のお申し出を受けました。ご信心の篤い久美子さんは幼い頃からお母さまの信仰を承け継がれ、物心ついた頃から朝夕の勤行をほとんど欠かすことはないという方です。理屈抜きで素直に日蓮大聖人の教えに帰依して、生きる力にしてきたということです。当山には27年ほど前からご縁を結ばれましたが、その信行は常にバランスを考慮してのマイペースなもので、沈着冷静揺るぎのない姿勢でした。また、英国人のご主人もとても理解と愛情のある方で、在日中はよくご夫妻で一緒に参詣していらっしゃいました。

ご家族の幸せを切に願う久美子さんのご信心は息子さんにも伝えられ、息子さんも日本在住のときにはご一緒に当山に参詣されて勤行・唱題していました。また、久美子さんは英国への帰国に際して、仏壇を新調されるなど生涯の信仰成就を誓って準備をされました。帰国後は当山から相武山だよりや妙風などをお届けし、久美子さんからもメールを頂戴しています。
英国に厄歳という概念があるのか無いのか私にはわかりませんが、仏教への信仰と日本の伝統や文化を大切にされる久美子さんの想いに敬意を表しつつ、ご家族の安寧を心より祈念申し上げました。

 

相武山 山主

2021年02月25日