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相武山 妙法寺 ブログ

大乗の仏教 悟りから救いへ(下)

昨年11月の日曜法話会「大乗の仏教(悟りから救いへ・仏教の多様性)」については、11月末のブログに前半の内容をアップしましたが後半をお伝えしていませんでした。相武山だよりのスペースは限られていますがフォローしておきたいと思います。

釈尊創始の仏教は、現在、上座部仏教(大乗仏教からは小乗仏教と呼称)と大乗仏教に分類することができます。できるだけ正確な歴史をふまえて理解することが大切ですからまず「釈尊の入滅とその後の仏教教団」について以下のように概要解説。
①『釈尊の入滅』
「釈尊はバラモンの教えと信仰(現在のヒンドゥー教)を超克。弟子や信徒のために仏教の教団をつくられた。仏教における三宝は『法と仏と僧』。釈尊入滅後はその教えを口伝として伝承した。仏教を修行・修学できる者はごくわずか。ブッダ(覚者)となる者はほとんど無く最終的にあ阿羅漢をめざした。」
②『教団の分裂と仏典の成立』
「釈尊滅後100年頃、第2回結集後に根本分裂(教えの解釈によって教団が上座部長老と大衆部に分裂)。次第に分裂は広がりインド仏教は『アビダルマ仏教』とよばれる20余派に分かれて展開。完全な断絶ではなく、儀式を同様に行うなどして併存していた。」
③『仏典の成立』
「口伝暗誦されていた教えがやがて経典となる。釈尊の言質を中心とした素朴な原始仏教が経・律・論の三蔵にまとめられる。口伝による言葉から文字に表記されて経典となる。る。部派仏教それぞれに経典が編纂され修行修学の基本となる。」
④上座部仏教と大衆部仏教
「上座部は保守的な長老派。大衆部は長老とは意見が異なるより進歩的な考え方をする人々。大乗の思想を生んだのは大衆部からの系統だと考えられている。上座部系統の思想は保守的な小乗仏教と呼ばれたが、現在は上座部仏教と呼ばれている。」

続いて大乗仏教の興起の概要について
①深刻な危機意識と真摯な求道心
「部派仏教教団では僧侶による特権階級化が進んだり、些末な教義論争に明け暮れるようになる。民衆への教化と救済は停滞。様相を憂えた者たちは『釈尊の本意はいずこにあるのか』と自問しその教えを希求。大乗仏教は古代インドの伝統的保守的仏教を批判して誕生した。」
②大乗仏教運動
「釈尊の真意を探求する運動(紀元前後から登場)。大乗(大きな乗り物)を自称。自利の悟りよりも利他の救済。宗教的情熱と文学性。法身を軸とする仏身論や六波羅蜜や十地に代表される菩薩論を展開。限定された者のための仏教からすべての人々の仏教へ。煩悩断尽の悟りから仏法の救いを信ずる仏教へ。」
③大乗仏典の成立
「原始経典とは別の流れで大乗経典が編纂された。『般若経』、『法華経』、『華厳経』など。後に浄土教や密教の経典類も成立。日本人の思想や世界観に大きな影響を与えている。大乗経典の著述と編纂は釈尊の言葉や精神を追及した多くの無名の仏教者」などについて解説

結びに「インドではかつて上座部の仏教と大乗仏教が兼学されていた。東アジアでは上座部仏教と大乗仏教が並列的に伝播した。教相判釈(教えの浅深・高低)の必要性が生じた」ことを概説。
大乗仏教の特徴は「自利の仏教から利他の仏教へ。悟りの仏教から信による救いの仏教へ。人生の環境に恵まれた一握りの上根上機の者が悟る仏教から、すべての人々に差別なき救済の道を切り拓いた仏教。人生のすべてが仏道の修行であり、誠実に人生を歩むことが仏道の成就につながること」をお伝えしました。
法話から「仏教には上座部仏教と大乗仏教という二つの大きな潮流があること。大乗仏教は仏教のもつ多様性から誕生したこと。日本の仏教は大乗仏教でありすべての人々に救済の道が開かれていること」を知って頂きたいと思います。

相武山 山主

2021年01月31日

仏教の目的とその基本

1月17日(日)は午前11時から令和3年初の日曜法話会を開催。年明け早々、コロナ禍による緊急事態宣言の再発出に遭遇し、法話会も中止しなければならないかと思いましたが、すでにタウンニュースで旭区、保土ケ谷区、瀬谷区、大和市に広報しており、参加を希望するお電話も頂いていましたので、感染予防を徹底し時間を短縮して開催することとしました。

平成23年4月から開催してきた日曜法話会も11年目となりました。昨年はコロナ禍のために3ヶ月中止しましたが、10年間、1月から11月までテーマを工夫して、誰でも気軽に参加して頂ける一般公開の法話会を心がけてきました。その趣旨は一貫して「仏教に親しみ、その教えと信仰について理解してほしい」と「法華経の教えや日蓮聖人の教えにふれてほしい」というものです。参加者は檀信徒の方と一般の方がおよそ半々といったところでしょうか。少ないときは20名、多いときには40名ほどのご参加を頂いて仏教を学び伝える機会としています。

11年目という節目でもあり、今月のテーマは原点に返って「仏教に親しむー仏教の目的とその基本ー」でした。「目的とその基本」は何ごとにおいても修得するためには要となるもの。目的を定めなければその道を達成することはできませんし、基本を疎かにして道を成就することもできません。以前にもふれたことのある内容ですが、仏教への正しい認識と理解を深めるためにも常に「目的と基本」を確認してほしいと思っています。

今回は初めて参加の方もおられましたから、はじめに法話会の趣旨についてふれてからレジメにそってのお話。
① 「仏教のイメージ」について
現代の仏教についてどのように認識していますかと尋ねても、多くの方は「よくわからない」といわれます。それは「仏教やお寺、僧侶などとのふれあいがほとんどなく、理解も親しみも乏しい。仏事の意味や教えについて学ぶ機会がない。さらに、知りたいと思っても知る機会がない」ためであろうと思います。
では仏教という言葉から連想されるイメージはと尋ねると、「古めかしい仏像であったり、読経や葬儀や法事などの仏事、お墓や先祖供養」「寺院の伽藍や僧侶」「きれいで趣のある庭や境内、歴史や文化を伝える観光と寺院」と語る方が大半です。
そのようなイメージはイメージとして、6世紀前後に我が国にわたってきた仏教は、日本の歴史と文化、日本人の思想と生活に大きな影響を与えてきました。その事実を歴史の足跡と生活になじんでいる四字熟語「因果応報(いんがおうほう)、有為転変(ういてんぺん)、一期一会(いちごいちえ)、一蓮托生(いちれんたくしょう)、有象無象(うぞうむぞう)、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、後生大事(ごしょうだいじ)、言語道断(ごんごどうだん)、三界無安(さんがいむあん)、四苦八苦(しくはっく)、諸行無常(しょぎょうむじょう)・・・・・」から解説しました。皆さん普段なにげなく使っている言葉の多くが実は仏教に由来していることを知って大いに頷いていました。

② 「仏教とは(その目的と基本)」について
仏教は宗教であり信仰でもありますが、客観的、学術的に理解することも大切。教団による主観的、恣意的な解釈によってはまちがっていることもあることを説明。参考文献として国史大事典(中村元述)と釈尊の御事跡をたどるインドの地図を提示。「釈尊を知る(その一生と歩まれた道)。苦悩からの解脱(釈尊の求めたもの)。インド古来のバラモン教(ヒンドゥー教)からの解放と超克。釈尊の遺された教え。2500年に及ぶ仏教の歴史を学ぶ。日本の仏教は大乗仏教。」を解説しました。

③ 「仏教の基本思想」について
初期仏教から大乗仏教まで仏教は長い歴史と広範な伝播によって複雑煩瑣になり、宗旨宗派によってかなりの相違がみられるが、仏教と称するゆえんとなる基本的思想は通底しています。
釈尊は真理は誰のものでもなく法(ダルマ)として在ることを述べたこと。その基本的内容は「釈尊の覚られた真理」として仏教徒に伝承されてきた。それは「一切は縁起によって在る。三法印(四法印)「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静」。四聖諦(苦・集・滅・道)。八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)。六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)。等々」として、すべての仏教教団共通の認識となっていることを伝えました。

釈尊最後のことばとして「法灯明(ほうとうみょう)・自灯明(じとうみょう)」について解説し、「釈尊はヒンドゥー教の神秘主義や苦行、超常現象を認めなかった。釈尊は自身への帰依を求めず、妙法への帰依とその獲得を求めた。釈尊は人々の日々の安らぎを願い妙法を説かれた。釈尊の神格化と強い信仰は後世のもの。仏像の造立はギリシャのアレクサンダーの東征(紀元前327)以降。インド西北部、ガンダーラ地方をその始原とする」ことなどを述べました。

④ 「仏教を人生に活かす」について
釈尊がバラモン教(ヒンドゥー教)を離れて創始した仏教の目的は極めてシンプルで苦悩からの解脱であることを確認。続いて「人生に生起するさまざまな苦悩の源を知り、仏教に説かれる叡智を学びながらより良い人生を歩むこと。大乗仏教では覚りよりも信仰による自他の救済が説かれていること。人間の有限性、未熟さを認めた上での修行と平安、さらに生きがいをもたらすのが大乗仏教であること」を学びました。
人間は人生の最後まで成長できる存在ですから、仏教を学ぶ楽しみを知り、その叡智を日々の人生に活かすためにも、「真実を知る勇気、真理を求める姿勢、生涯学ぶ姿勢が大切」であることをお伝えしました。

結びに「日本は仏教というすばらしい智慧と文化の歴史がありますが、すっかり形骸化してしまい、その価値に気づくことなく、その叡智を人生に活かしている人が少ないことを残念に思っています。人生は出会いと選択ですから大乗仏教法華宗徒の責務と使命に思いをいたし、ささやかなりとも仏教の啓蒙に資したいと願っています。この一年もコロナ禍に負けることなく仏道に精進してまいります」と所信を述べ法話会を終了。

相武山 山主

2021年01月29日

初御講は知恩・報恩の心から

1月13日(木)は「初御講(はつおこう)」。1月8日からのコロナ禍による緊急事態宣言の再発出がありましたので、参詣者はわずかでしたが今年初の日蓮大聖人の月例御報恩講を執り行いました。日蓮門下では日蓮大聖人のご命日である13日が毎月の行事の中心です。とはいえ、近年は檀信徒の参詣を優先して13日前後の日曜日に執り行う寺院も少なくありません。御講では唱題の太鼓のうちに仏祖三宝尊へ献膳を申し上げ、法華経要品の読誦、御報恩のお焼香、南無妙法蓮華経の唱題を修して御報恩謝徳申し上げます。

現代では報恩(ほうおん)などというと、古めかしい言葉として一笑に付す向きもあるかもしれないが、恩を報じるということは人倫の徳目として風化させてはならないものです。恩に報いるためにはその前に恩を知るという心のはたらきがあります。恩を知ることができる人にして初めて報恩の心が芽生えるのです。
釈尊の初期仏教では己れの覚りが主眼ですから、「知恩・報恩」という概念はあまり強調されませんが、法華経を中心とする大乗仏教では仏教の心得として知恩報恩が説かれます。

法華経の信解品には「世尊(せそん)は大恩まします。希有(けう)の事をもって、憐愍(れんみん)し教化(きょうけ)して、われらを利益(りやく)したもう。無量億劫にも、誰かよく報ずる者あらん。手足をもって供給し、頭頂(ずちょう)をもって礼敬(らいぎょう)し、一切をもって供養すとも、皆、報ずることあたわじ」と説かれています。
この経文は「仏恩の甚深を歎ずる」もので、現代語に訳すれば「世尊は広大な恩徳をお持ちです。なぜならば、最高の教えをもって哀れみつつ教化し、私たちにこれ以上ない利益を与えて下さいました。たとえ、どれだけの時間と労力を費やしても、その大恩に不足なく報いることはできないでしょう。手足を使って給仕し、頭を地につけて礼拝し、自分のすべてを捧げて供養したとしても、誰も満足にその恩徳に報いることはできません」となり、仏さまのご恩が甚だ深いことを教えています。

末法の法華経の行者である日蓮大聖人は報恩抄に「夫(そ)れ老狐(ろうこ)は塚をあとにせず、白亀(はっき)は毛宝(もうほう)が恩をほうず。畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや。されば古への賢者予譲(よじょう)といゐし者は剣をのみて智伯(ちはく)が恩にあて、こう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公(いこう)が肝を入れたり。いかにいわうや仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや」とご教示です。
この報恩抄は門家全体に示された法門書ですが、直接的には出家の師匠である道善房の死去に伴い、その報恩の為めに記されたものです。

私たちの人生を振り返ってみれば、両親や家族、先生や先輩、友人知己など、数え切れない人々の恩恵を蒙っていることがわかります。その恩恵に感謝することが知恩であり、その感謝に応えようと勤めることが報恩となります。

日蓮門下僧俗は毎月13日に宗祖日蓮大聖人への御報恩として月例御講を執り行いますが、それは末法の教主への知恩・報恩の志によるものです。今年も一年、檀信徒の皆さまと倶に毎月の御講を大切に修してまいります。

相武山 山主

2021年01月27日

御生誕800年佳節の年

コロナ禍に明けコロナ禍に暮れた令和2年、その歳末からコロナ禍の第三波が押し寄せ、新春の菩提寺参詣も自粛を余儀なくされることとなりました。例年、当山では年明けに元朝勤行会(がんちょうごんぎょうえ)を執り行い、三ケ日にはそれぞれ初勤行会(はつごんぎょうえ)を執り行って、檀信徒の皆さまと倶に法華経への祈りと誓願から新年の幕開けとしています。しかし、深刻なコロナ禍の前にこの春は慎重を期しての初参りとなりました。

各勤行会は回数を増やして三密回避を基本に感染防止を徹底。例年と異なり方便品・自我偈・唱題と礼拝時間を短縮。新春の御書拝読と新年の辞も重須殿女房御返事の冒頭を拝読して一言のみの挨拶。お屠蘇や祝い昆布も容器と袋に入れてお渡ししました。各勤行会が密になることはなく、1日から7日までは時間外にも自由にご家族で参詣されていましたが、いつものようにお屠蘇を差し上げながら近況を伺うことができず残念に思いました。

南関東に位置する横浜市の今年のお正月は、日本海側の雪国の方々には申し訳ないくらいの抜けるような青空が続き、コロナ禍でなければより多くの檀信徒の方々と初春を寿ぐことができたでしょう。参詣の方々は例年の半数ほどでしたが、この時局ではよくご参詣頂いたと思います。当山では参詣の皆さまと心を一つにして疫病の速やかな退散をご祈念いたしました。
諸法は実相(すべての存在はまことのすがた)と説く仏教の視点からは、コロナ禍のお正月にもきっと何らかの意味があるのだと思います。緊急事態宣言も再発出されていますから、感染に注意しながら社会の変化を己の人生に活かして行きたいものです。

【日蓮大聖人御生誕800年】
さて、日蓮大聖人は承久4年(1222)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海に誕生されましたので、令和3年(2021年)は御生誕八百年となります。
私たちはさまざまな因縁によって、法華経と日蓮大聖人の教えに結縁させて頂きました。それぞれ信仰への道は異なっていますが、法華経の妙荘厳王本事品には「仏は値(あ)いたてまつることは得(え)難(がた)し。優曇波羅華(うどんばらけ)のごとく、また一眼(いちげん)の亀が浮木の孔(あな)に値(あ)えるがごとし。しかるにわれらは宿福深厚にして、仏法に生まれ値えり」と説かれています。

この言葉によれば、数え切れない思想や宗教の中から、私たちは不思議なことに仏法と出会う機会を得たことになります。「人生は出会いとその選択」ですから出会いは物事のはじまりです。出会いの機会がなければ選択もできません。時に出会いそのものに善悪を観る方もいますが、およそ出会いそのものに善悪は問えないと思います。悪しき出会いであれば捨離して反面教師とし、自身の戒めとすれば良いのであり、また、善き出会いと思えば人生に活かして行けば良いのです。

日蓮大聖人の教えに出会いその教えを人生の杖や柱とし、光明とする私たち門弟にとっては宗祖のご恩は実に深いものがあります。その宗祖の御生誕から800年という佳節を迎えるのですから、報恩感謝の心を顕そうと思うことは自然なことです。日蓮各門下では数年前から御報恩のための企画を検討しその実践に取り組んできました。しかし、佳節を迎える前年、新型コロナウイルスのパンデミックにみまわれ、思うような法要や行事の奉修はほとんど不可能となってしまいました。

当山でも正信会と連携して佳節を祝うことを考えていましたが、時局がらその執行は難しく、各自時宜に適ったかたちで御報恩申し上げることになりました。暦の上の御生誕は2月16日ですが旧暦では3月28日となります。そこで、当山では緊急事態宣言の再発出も収まる可能性がある「3月28日(日)に記念法要を執り行う」こととしました。すでに令和3年度年間行事予定表にてお伝えしているとおりですが檀信徒の皆さまにはご了承願います。

相武山 山主

 

2021年01月25日