相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

厳かに令和二年度御会式を奉修

24日・25日の両日は当山の御会式。弘安五年(1282)十月十三日の日蓮大聖人ご入滅を期して奉修される御会式は日蓮門下僧俗にとって最も重要な法要です。富士日興門流では日蓮大聖人は末法の法華経の行者であり末法の仏さまと拝信。その滅・不滅、常住此説法を寿ぎます。例年、信徒の皆さまと真心込めて厳粛かつ賑やかに執り行っていますが、コロナ禍で世相が大きく変化しつつあるように、今年の当山の御会式も例年とはちがうかたちとなりました。

御会式のご宝前を荘厳するお花つくりは9月から信徒有志の協力で始められ、今月の1日、11日、13日に竹ひごに巻き付けて完成。堂宇の大掃除は17日(土)午前10時から。あいにくの雨天でしたが数名のご信徒と本堂や客殿、受付やロビーの窓を拭き、トイレの清掃などを行いました。また、22日(木)は10時から餅つき。今年も小原さんのご協力と興厳房のサポートでかさね餅と竿餅が無事につき上げられご宝前にお供えされました。御会式の準備は毎年のこととはいえかなりの手間と時間がかかります。しかし、手間暇と心労を向けるところに信仰の価値があるのですからささやかな悦びです。


今年の御会式は24日(土)午前11時からのご宝前お飾り、午後からの御逮夜法要、翌25日(日)の御正当法要。また、密を避けて法要時間外の自由参詣と、信徒の皆さまには4回に分けての参詣をご案内。例年は御逮夜と御正当の法要において信徒と臨席僧侶によって申状が奉読されますが、今年は執事の興厳房による日有上人の申状と私の立正安国論の奉読としました。また、時間短縮を考慮し講演もとりやめて住職からの挨拶で終了。
24日と25日は8月末以来の週末連日の晴天。気象予報で報じられるくらいですから、しばらく週末の天気には恵まれていなかったことがわかります。さわやかな清風が法華の境内を流れる中、厳かな御会式を奉修することができました。

自由参詣を選択された約10世帯の方々は三々五々家族でのご参詣。荘厳された本堂に進み大聖人さまへの御報恩を申し上げました。また、高齢や体調の不良、都合によって参詣できないご信徒十数名からも手紙や御供養をお届け頂きその貴い志を御会式のご宝前にお供えいたしました。
感染予防にしっかりと配慮し3回に分けた法要にはそれぞれ15名、20名、35名の信徒が参詣。献膳、要品読誦、日有上人申状・立正安国論の奉読、自我偈の訓読、そして南無妙法蓮華経の唱題と如法に奉修。最後に講中世話人によるお花くずしにて参詣者にはお供物が振る舞われました。


御会式が終わると一気に秋が深まり新年への始動となります。新型コロナウイルスの感染に負けることなく、法華の寺としてのお務めをしっかりと果たして行こうと誓願申し上げた御会式でした。

相武山 山主

2020年10月30日

有り難いを知る(感謝のなかみ)

今月の日曜法話会は11日。前日まで台風14号の影響が心配されましたが、当日の関東上陸は避けられ伊豆諸島の方に南下したために青空も広がる天気になりました。当初は雨の予報でしたから参加者も少ないと思っていましたが、二十数名ほどの方に参加聴聞頂きました。法話会のテーマは「有り難いを知る」。サブタイトルは「幸せを感じる人生(仏教的な幸せとは)」でした。
私たちは今ある状況が好ましいと思えば幸せを感じ、好ましくない、つらい、苦しいと思えば不幸を感じます。いつも自分の思うようになるならば、誰もが幸せを感じられるのでしょうが、ほとんどの人が理解しているように、人生はさほど自分の思うようにはなりません。しかし、たとえ思うようにならない人生であっても日々幸せを感じながら歩みたいと私たちは願っています。


幸せを感じながら人生を歩むためには「すべてに感謝をすること」とは一般常識のように語られています。さまざまな宗教や信仰の世界、自己啓発のために語られる言葉にも最も多く多用されているのは「感謝のこころを持つ」であり、ビジネス書にさえ「感謝の心が道を切り拓き、あなたを成功へと導く」とあります。感謝とは「ありがたいと思う気持ち」のこと。ありがたいという気持ちが起こることによって私たちは幸せを感じることができるのは自明の理なのです。
今月の法話会ではこの感謝の心のなかみを求めて、私たちの存在にかかわるすべてのものごとが有り難いことであることを学びました。はじめに「幸せとは?」との問いです。一般的には熟慮することなくイメージが先行していて、置かれている環境や一時的条件などをもって遇・不遇を幸・不幸と誤解しやすいことを指摘。
一般的に「これがあれば、あれがあれば、こうなれば、こうだったら・・・」という「たら・れば」がよく語られますが、幸せと思われる環境や条件だけを語っても意味はありません。その例として、「お金があっても幸せではない人がいる。健康でも幸せではない人がいる。家族がいても幸せではない人がいる。学歴が高くても幸せではない人がいる。会社で出世しても幸せではない人がいる。容姿端麗でも幸せではない人がいる。事業が成功しても幸せではない人がいる。社会的地位があっても幸せではない人がいる。・・・」のが事実。同じ環境や条件であっても、ある人は幸せと考え、ある人は不幸と感じているのです。

幸せを感じるというのは感性そのものであり、それも刹那的・一時的・流動的なものではあまりに儚く、環境や条件などに左右されない普遍的価値に裏打ちされた感性でなければ残念です。また、幸せを得るためには正しい知見が必要(現実直視の仏教)であり、自分自身を知る(人間の心と身体についての知識、自身の資質や性格など)こと。置かれている環境を知る(いかなる出自、いかなる家族、いかなる時代、いかなる社会に生きているか等々)こと。人生と社会を知る(限りある人生と変遷してやまない社会)ことなどが大切であることをお伝えしました。
幸せとはゆるぎない安らぎと満足を意味しており、不幸とは不安と恐れ、不平と不満とみることができます。幸せが安らぎと満足ならば、そこには必然的に「今、貴重な有り難いことが現出しているという認識と感謝の思い」が存在しています。この認識と思いが幸せの基盤となっているのです。

次に有り難い(何ごともそのようにある〈状態〉ことは難しいのに、今、その状態にあるということ)を理解するために「人間存在の不思議と奇跡」について解説。
◆人間は超有機体
「人間はヒトの細胞と細菌から成る「超有機体」であり、人体を構成する細胞の数は約37兆程度。体内に生息する細菌の細胞数は100兆を超える。体内微生物が免疫系など人体の仕組みと密接な相互作用をしている。人間とはヒトの細胞と微生物とが高度に絡み合った集合的有機体である」
◆人間の細胞は入れ替わる
「人間の細胞は入れ替わる(入れ替わらない細胞もあるが…)。組織によって細胞の入れ替わる年数が違う。入れ替わる周期(赤血球120日、骨細胞90日、肌細胞28日、胃の細胞5日、小腸の細 胞2日等々)。細胞は儚く私たちが自覚できないうちに絶えず生まれては死んでいく。ただし、生まれ変わる周期は一時ではなく、見た目には分からないレベルで総入れ替えするのが約6~7年ほど。」
◆細胞が入れ替わるのになぜ病気は治らない?
病気の人でも細胞は新しく生まれ変わるが、病気が治らないのは遺伝子そのものが損傷しているから。遺伝子が損傷していると細胞に情報がきちんと伝わらない。未完成の細胞ができてしまう。そのためにうまく修復できなくなり病気が治らない。

レジメに沿って私たちの人体が極めて複雑精緻にできている事を説明し、「人間の身体は実に不思議で壮大なもの。複雑多岐にわたる人間の身体に、それを円滑に動かす脳や神経などのソフトが精緻に作用して人間が存在している。そのうちの一つでも障害を起こせば健康な生活はたちどころに失われてしまう。人間の生命存在そのものが実に貴重で有り難いものとの認識が大切。」であることをお伝えしました。
有り難いと理解して感謝の対象とするのは自身の身体ばかりではありません。この世に生命を与えてくれた両親はじめ数えきれぬ祖先たち。人生にとってかけがえのない存在である家族や友人たち。人生を歩むためにさまざまなことを教えてくれた教師や先達。そのどれもが有り難い存在なのです。
また、すべてを自分だけでまかない誰にもお世話になっていないという人は存在しません。生きるための衣食住の環境すべては他者による提供なのです。皆多くの人々のお世話になっているのですから、すべての人々への感謝を忘れてはいけないのです。

家族がいること、友人がいること、知人がいること、学べること、働くことができること、いずれも当たり前のことではありません。実に有り難いことなのです。
また、天地自然の恵みによって私たち一人ひとりは生かされています。地球のめぐみばかりでなく、月のめぐみ、太陽のめぐみ、宇宙のめぐみ、さらにはそれらのすべてが円滑にはこぶ妙法のはたらきによって生かされているのです。天地自然の運行や宇宙の営みが円滑さを失えば私たちの生命ははかなく絶えざるを得ないのです。そのように思いをはせることができれば一日一日の命がいかに貴重なものであるかがわかります。
むすびには釈尊のことば
「『われらはこの世において死ぬはずのものである』と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知れば争いはしずまる」[ダンマパダ]
日蓮聖人のことば
「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり」[可延定業御書]を紹介し、10月度の日曜法話会は終了。
11月15日は今年最後の日曜法話会です。
皆さまのご参加をお待ちしています。

相武山 山主

 

2020年10月29日

コロナ禍に法事雑感

日本では仏教伝来のいにしえから故人や先祖のために追善供養として法事が営まれてきました。しかし、釈尊が仏教を創始されたインドでは先祖崇拝や故人への追善供養という意識はみられません。釈尊の入滅後仏教が北方インドからアジア全域に伝播し、やがてシルクロードを経て中国にも受容されましたが、中国では在来の道教や儒教の影響をうけた格義仏教となりました。その中国仏教は韓国経由で我が国に伝えられ、日本では土着の祖先崇拝が仏教と融合し、伝来当初より故人や祖先のための追善法要が営まれるようになったのです。

【檀家制度・・・】
飛鳥の昔から徳川の時代まで仏教は国の権力者から地方の有力者まで篤い帰依を受け、彼らの精神的支柱でもありました。したがって冠婚葬祭などの儀式も仏教の教えや作法の影響を強く受けたといっても過言ではありません。今では想像もつかないでしょうが天皇家の葬儀も明治以前までは長く仏教式で執り行われていたのです。
さらに徳川幕藩体制のもとキリシタン禁教令がしかれ、檀家制度によって庶民もすべて仏教徒であることを強制されました。檀家制度は徳川幕府の後ろ盾によって仏教教団や寺院に権威や権力をもたらしましたが、仏教本来の自由闊達であった教学や布教に大きな制約をもたらし、今日にいたるまでその弊害がみられるのは残念です。
また、檀家制度は家父長制にも通じるシステム。戦後、基本的人権や民主主義を尊重する我が国では、夫婦や親子、家族や親族の在りようなども歴史的変化を遂げつつあります。各自の思想や信条、信教の自由も憲法で保障されていますから、曖昧模糊とした檀家制度への認識も見直しが迫られているように思えます。

私の口癖ですが『何事にもプラスとマイナスがあります』。檀家制度にもさまざまな負の問題はありますが、仏教の教えや儀礼を護り伝えて人心を涵養し、人徳を増すよう導いてきたというプラス面もありました。また、地域に根ざしたまじめな寺院の多くは迷い悩む人々の心のよりどころともなってきたのです。さらに檀家さんが菩提寺を精神的にも経済的にも支えることによって仏教を護り、日本の伝統や文化を伝えてきたことも事実です。
さて、檀家制度によってすべての国民が仏教寺院に所属することになりましたから、人々の生活全般に仏教の教えや儀礼が影響を及ぼし、やがて文化・伝統、習俗・風習となって今日まで伝えられているものも少なくありません。先祖や故精霊への追善供養を営む法事もその一つです。
前のブログでもふれましたが多くの人にとって人生は艱難辛苦に満ちたもの、その人生を全うした故人の尊厳に想いをはせ、縁者として来世の安楽と福徳を祈る厳粛な儀式が葬儀。心の想いはかたちに顕されることによって伝えられるもので、言葉や態度、振る舞いなどが問われるゆえんです。
故人への想いが問われる葬儀も一部では簡便化されたり不要とされる時代となっています。このような世相については仏教者からの説明や案内、さらに適切な対応がなされていないという指摘もあります。私たち仏教寺院は誰もが気軽に相談できるお寺を心がけ、縁者の方々が負担とならない葬儀を執り行えるように努めなければならないと自戒するところです。

【追善の法要】
日本の仏教徒の多くは葬儀の後に追善供養の法事を営みます。追善供養とは故精霊のために仏事を執り行い、仏道修行の功徳善根を故精霊に回向する供養のことです。葬儀直後には七七日忌(四十九日忌)法要。その後、百ケ日忌、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と続きます。当山でもお正月にその年度の年回忌表をお渡していますが、法事を営むか否かは縁者と各家庭の想い次第でありそれぞれの都合によりますから、できるときもあればできないときがあるのも自然です。
当山では毎月法事があるわけではありませんが、墓所などの開眼を含めて年間に20件~40件ほどの法事を執り行います。コロナ禍の今年は法事も少し趣を異にしていました。今までも『高齢や体調不良のために参詣できないのでお寺の方で御供養してほしい・・・』という依頼はありましたが、今年は『無理して参詣できないわけではありませんが、コロナ禍のなか家族や親族にも心配をかけたくないのでお寺の方で供養して頂けませんか・・・』というお申し出が数件あったことです。まさにコロナ禍が檀信徒皆さまの法事にも影響しました。
もちろんこのような時局下ですが、今月も感染予防を徹底し参列者を限定した追善法要が営まれました。金子家が第一周忌、小出家が四十九日忌、青野家が二十三回忌と二十七回忌、菊地家が有縁精霊への供養、豊島家が墓所開眼法要などです。法事のあり方も自身の置かれている環境や時局によって変化することはやむを得ないことです。大切なことは縁の深い人への想いであり仏道の功徳を回向しようという志だと思います。


よく日本の仏教は葬式仏教と揶揄されますが、当山では葬儀や法事などの機会を通じて仏教のおしえの一端なりともお伝えしたいと願っています。そのため、追善の法要は故精霊への回向が主眼なのですが、仏教をお伝えする佳い機会と考え拙い話ではありますが、御回向の後、10分前後の法話を必ずさせて頂き仏縁を深めて頂くよう努めています。

相武山 山主

2020年10月27日

コロナ禍の仏事

今年は春から新型コロナウイルスのパンデミックによって、世界中の社会活動が停止・停滞を余儀なくされました。その後、我が国はもちろんのことすべての国が感染防止に努めながら、通常生活の回復に向けて国を上げて努力をしています。その道程は一様ではありませんが次第にウイズコロナ(コロナと共存)というかたちで前進しているように思えます。しかし、ワクチンや治療薬、治療法も獲得できているわけではありませんから、寒期を迎えてインフルエンザの流行とも重なる北半球ではさらなる注意が必要となります。

コロナ禍によって家庭や学校、職場や社会など生活全般に近年稀に見る大きな影響が出ました。御仏の慈悲とご加護を説く仏教寺院も例外ではありません。パンデミック当初、韓国のキリスト教系教団でクラスターが発生したこともあり、我が国でも各仏教教団は活動を一斉に自粛、感染予防を徹底することになりました。
当然、年中行事や各法要の執行を直撃。行事・法要は信仰の深化と啓蒙に不可欠ですから中止や延期、自粛するということは信仰活動の停滞につながることを意味しています。それは自粛を徹底していた3月末から7月初旬までの当山の静けさをみればよくわかります。その後、感染予防に注意し工夫を凝らして行事・法要を執り行ってきましたが、世相同様旧に復するのにはまだまだ時間がかかりそうです。

仏教では「環境の変革も大事なことだが、まずは与えられた環境のなかで最善の道をあゆむこと」が大切と説かれていますから、コロナ禍にあっても環境の所為にして自身を怠惰にながすことなく、コロナ禍であるからこそできる信行に努めて行きたいものです。気持ちを切り替えることができれば、コロナ禍であるからこその知見も深まることでしょう。

【コロナ禍での葬儀】

コロナ禍は寺院の行事や法要ばかりでなく、ご信徒の葬儀や法事などの仏事にも少なからぬ影響を与えています。当山のご信徒で直葬(葬儀などの祈りをなさずに死後直ちに火葬すること)をされる方は居られませんから、規模はともかく皆さま縁者の尊厳に想いをいたし丁寧に葬儀を執り行っています。 葬儀は人類の歴史に遡ることができるほど、古今東西、大切な儀礼として認識され現代まで執り行われています。仏教やキリスト教やイスラム教など世界宗教で葬送の儀式を軽んじる宗教はありません。葬儀は人生の終焉を迎えた縁者の尊厳に想いをいたし、今世の務めを果たして来世に向かう旅立ちに幸いあれと祈る愛情のこもった重要な儀式なのです。

ところで、時々「葬儀と告別式は同じですか・・・」ということを聞かれます。今は「葬儀並びに告別式」と案内されることが多いので、葬儀と告別式は同じと考える方が多くなっているのかもしれません。 本来、葬儀は故人や親族の信仰や思想、意思に則ったかたちで行われるのを常としますから、極めて個人的・家族的な宗教性のある儀式ということがいえます。葬儀には故人とのお別れという側面もありますから告別の意味を含んでいるともいえますが、厳密には故人の冥福を祈る儀式といえましょう。他方、告別式は故人との永久のお別れをするための儀式で宗教性や思想性はあまり介在することはありません。時間などの都合上、葬儀と告別式を分けて執り行うことは難しいために、現代は前後したり平行して営まれているというのが事実です。
宗教的信仰を持たない人や仏神を信じない人、来世を信じない人などにとっては葬儀に価値を見いだす事ができないのも無理からぬことです。ことに我が国では宗教や信仰に関心の薄い方が多く、また、都市化が進み、都市部では核家族化によって親族のつき合いも薄くなったり、夫婦だけの家庭や単身生活者が増加していることなどから、残念ながら葬儀もかなりおざなりになっているのを見聞します。しかし、大切な縁者の最後なのですから情愛を尽くし、感謝と祈りをささげる心を涵養してほしいと願わずにはいられません。

ときに葬儀ばかりでなく儀式そのものを否定する方を見聞することがあります。もちろん虚礼や無用の儀式と考えるものを否定することは当然で、儀式にも変化したり行われなくなるものがあるのが事実です。しかし、人生におけるさまざまな儀式は心の想いをかたちに顕したものですから、その取捨選択は慎重になされるべきものだと思うのです。
当山は檀信徒がそう多くはありませんので葬儀執行の依頼は毎年5件から10件ほど。今年もコロナ禍のなか数件の葬儀を執り行いましたが、皆さま亡きご家族の尊厳に想いをいたす方々ばかりで、御仏の世界への旅立ちを丁寧に営まれました。コロナ禍で葬儀のかたちも変わったという話を耳にしますが、有り難いことに当山では多少の心労はありましたが、いずれも通常の家族葬のかたちで厳かに執り行い、故人を法華経の浄土である霊鷲山にお送りいたしました。

相武山 山主

2020年10月26日