相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

衆生本有の妙理を観る

月遅れの8月のお盆には今年もご縁のある方々が三々五々お見えになられました。本堂に上がってお参りされることはなくても、本堂の前や三師塔の前でお参りされ各墓所や久遠廟に向かわれ有り難いことと思った次第です。お参りされた諸精霊もきっと悦ばれておられることでしょう。

故人を偲ぶ心がなければお参りしようという思いは生じないのですから、お参りされるその姿には故人や先祖を思う確かな心があるのがわかります。仏教では身(しん)・口(く)・意(い)の三業(さんごう)を調えることが大切と説かれますが、仏教では「心に思い、言葉によって伝え、行動で顕す」ということが求められます。心で思っているとか言葉で伝えたという方がいますが、やはり行動に現れてこそ、その思いは通じることになるのです。

当山では12日、13日、15日の三日間、盂蘭盆会の供養を執り行いましたが、13日は宗祖日蓮大聖人の月例のご報恩講であり、15日は終戦記念日で戦没者追善法要が主体でした。それぞれに勤行をつとめ法要の趣旨にそったご祈念を申し上げした。
その後、一生成仏抄
『夫れ無始の生死(しょうじ)を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと思はば、すべからく衆生本有(ほんぬ)の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是れなり。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。文理真正の経王なれば文字即実相なり、実相即妙法なり。唯所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく。故に此の経を諸仏の智恵とは云ふなり。
一心法界(いっしんほうかい)の旨とは十界三千の依正(えしょう)・色心(しきしん)・非情草木(ひじょうそうもく)・虚空刹土(こくうせつど)いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。
但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心(こしん)の外に法ありと思はば全く妙法にあらず、麁法(そほう)なり。麁法は今経にあらず、今経にあらざれば方便なり、権門(ごんもん)なり、方便権門の教ならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫(たしょうこうごう)の修行を経て成仏すべきか。故に一生成仏叶ひがたし。故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくるぞと、深く信心を発(おこ)すべきなり』 を拝読。
『衆生が迷妄をはらい苦悩を乗り越えて真の安らぎを得る成仏の境地は、自身に備わっている本有の妙理を観ることであり、その本有の妙理とは妙法蓮華経であるから、一心法界の旨を心得て、我が心の中に妙法が存在することを深く信じて唱題に努めることが大切』
と日蓮大聖人の御心をお伝えしました。

参詣者の皆さんは猛暑の中、菩提寺まで足を運び、御宝前に供養をささげて信行の功徳を積まれました。盂蘭盆の時にあたってご先祖有縁精霊にご回向されたことは、あらゆる存在はすべて妙法のはたらきによるものであることを信じ敬う志を顕したものであり尊いことと存じます。

相武山 山主

2018年08月31日

新盆とお経参り

仏教では逝去された方がはじめて迎えるお盆を新盆または新盆とよび、例年と異なり丁寧に仏事を営むのを常といたします。当山でも今年は平塚市の足立さん、中区の𠮷田さん、同じく𠮷田さん、多摩区の石井さん、緑区の阿部さん、港南区の加藤さんの新盆供養にお参りしました。

お盆については前のブログでそのいわれや歴史を少々解説しましたが、お盆はどこでも同じだろうと考える方も多いようです。しかし、お盆も時代や地域、宗派や各家庭などによって異なりがあり一様ではありません。まして、現代の社会環境では昔のように玄関前に迎え火を焚き、墓所に御霊を迎えに行ってひと時を過ごし、送り火を焚いて見送るということも難しくなっています。私は今の時代、その家や家族に見合ったお盆で良いと思っています。

ところで、新盆はご先祖を迎えて共に一時を過ごすというよりも、幽明境を異にした家族を親しく迎える一時のような気がします。つい先日まで一緒に生活していた家族が今年はその姿を見ることができないという、まさに人生の無常を感じての営みであり、思いやりの情愛がにじんで来るようなたった一回の仏事です。今年の夏も対象となるすべてのご家庭で新盆のお参りをさせて頂きましたが、各ご家庭ごとに皆さまの優しさが伝わってきました。

また、当山では開創当時から夏を中心に檀信徒宅の御本尊様にお参りする「お経参り」をしています。お盆経や棚経などと同じ気持ちで始めたのですが、各ご家庭にうかがってともに読経・唱題をお勤めして、「ご家族の信行増進とご健勝、ご先祖有縁精霊への追善供養」を申し上げています。お経参りは親しく言葉を交わす好機でもありますから大事にしているのですが、日時や双方の都合がつかず毎年10軒~20軒ほどしかうかがうことができません。

今年お参りにうかがって自分でも驚いたのは港南区の中澤宅が7年ぶり、都筑区の森家が6年ぶり、多摩区の芦川宅が4年ぶりということで、その他も数年ぶりということでした。忙しさにかまけてずいぶん失礼していたと反省しています。お寺では交わせぬ話もご家庭でうかがえることができますし、ゆっくりと言葉を交わすことで信頼も深まることになりますからこれからは興厳房と共に精進したいと思っています。

相武山 山主

2018年08月30日

8月の日曜法話会

【お盆のいわれ】

8月の日曜法話会は12日でした。猛暑が続く日々でしたがこの日は少し雲も出て若干過ごしやすい感じのなかでの法話会。
参加者はいつもおなじみの方々でした。はじめの世相のテーマは「お盆のいわれ」について。我が国の伝統習俗としてすっかりなじみのあるお盆ですが、俗信がそれぞれに語られることが多く、そのいわれを知る機会が少ないものです。そのいわれと歴史を学んで「お盆」の意義を人生に活かせればと思い以下のようにお伝えしました。

お盆はサンスクリット語の「ウランバナ」「ウド、ランブ」(ud-lamb)の音写語と言われ、倒懸(さかさにかかる)という意味で逆さづりのような苦しみのこととされるが、インド仏教で先祖を敬い供養する儀式が存在していたことは伝えられていない。しかし、釈尊の弟子の目連尊者が餓鬼道に堕ちた母親青提女(しょうだいにょ)を神通力で救うことができず、釈尊の教えにしたがい、雨安居(4月15日から3ヶ月)の修行を経て功徳を積んだ修行僧の功徳を回向することによって、母親を餓鬼の世界から救うことができたとする盂蘭盆経がその由来となっている。

中国では『仏祖統紀 』(南宋時代)に梁の武帝の大同4年(538年)に同泰寺で盂蘭盆斎を設けたとあり、梁の武帝と同時代の宗懍が撰した『荊楚歳時記』には、7月15日の条に、僧侶および俗人たちが「盆」を営んで法要を行なうことを記し、『盂蘭盆経』の経文を引用している。このようなことから仏教寺院では盂蘭盆会が行なわれていたことがわかる。
一般に広がったのは仏教者以外の人々が7月15日 (旧暦)を中元節(中元)といって、先祖に供物し灯籠に点火して祖先を祭る風習による。両者が一つとなって、盂蘭盆の行事が盛んになっていった。

日本では日本書紀から、推古天皇14年(606年)4月、毎年4月8日 (旧暦)と7月15日に斎を設けるとあり、また斎明天皇の3年(657年)には、須弥山(しゅみせん)の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、その5年7月15日には京内諸寺で『盂蘭盆経 』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている。
聖武天皇の天平5年7月(733年)には大膳職に盂蘭盆供養をさせ、それ以後は宮中の恒例の仏事として毎年7月14日 (旧暦)に孟蘭盆供養、盂蘭盆供が執り行われた。奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行なわれ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)をあわせて行なった。
お盆は太陰太陽暦である和暦(旧暦)の7月15日を中心に祖先の霊を祀る行事であり、一般に仏教の行事と認識されているが、江戸時代の檀家制度のもと神道における祖先崇拝の思いをおさめ、各宗の信仰や地域融和の習俗として工夫され庶民生活に浸透して今日に至っている。

お盆の行事から学ぶこととして、お盆には『己れの持つ貪りの愚かさを自覚すること、私たちは先祖の命を受け継いでいること、 仏教で説かれる慈悲の心に気づくこと、限りある人生が三世に通じていることの大切さ』が説かれていることをお伝えしました。お盆は静寂の時間を得ながら、家族とともにリラックスして『自身の生命の継承を考え、生と死を見つめて、人生如何に生きるべきか』を考えるひとときでもあります。

【続・日本の仏教】

法話会のメインテーマは『続・日本の仏教』。平安時代初期の仏教の担い手であった慈覚大師円仁と智証大師円珍について学びました。
奈良時代の後半には仏教が政治に深く介入して、過度な仏教中心政策がとられる弊害もあったことから、桓武天皇は、遷都に伴って南都の大寺院(興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺)を長岡京・平安京に移転することを認めず、最澄や空海らによってもたらされた、従来の国家仏教とは異なる新仏教の動きを支持しました。

平安京に遷都してから9世紀末ころまでの文化は、嵯峨天皇・清和天皇の時代の元号をとって弘仁・貞観文化と呼ばれます。この時代は、政治的には新しい都で律令制を改革して文章経国がはかられ、貴族たちは平安京において都市貴族化する一方、文化的には唐文化を摂取して自らのものに消化するという段階を迎え宮廷では漢文学が発展しました。また、仏教界では新たに最澄や空海らによって伝えられた天台宗・真言宗が広まり密教(みっきょう)が盛んになりました。
天台宗では最澄の後、弟子の円仁・円珍らによって本格的に密教が取り入れられ、東寺などを中心とした真言宗の密教(東密とうみつ)に対して台密(たいみつ)と呼ばれる天台密教を構築しました。天台・真言の両宗ともに現世利益を説いて天皇や貴族たちの帰依を広く集め、一門の繁栄と国家・社会の安泰を祈ったのです。円仁・円珍両師は共に唐にわたり平安初期の日本仏教に大きな影響を与えました。歴史をよく学び現在に至るながれを理解することは仏教においても大切なことですから、これからも地道に見識を磨いて行きたいものです。

来月の日曜法話会は9月9日です。仏教はより良い人生の手引きとなるものですから、ご縁のある方々と共に親しみ学んで行きたいと願っています。皆さまのご参加をお待ちしています。

相武山 山主

 

2018年08月29日

面影を偲んで

記録的猛暑が続く今月の4日(土)、今井家の法事が当山で営まれました。お父様宏さんの17回忌とお母様の静子さんの23回忌を併せて執り行った法要で、ご夫妻と二人の娘さんのご家族が参詣されました。
今井さんのご両親、ことにお母様は当山にとってとてもご恩のある方です。開創当時、保土ケ谷の道場にお訪ね頂いてからのご縁で、霊山に旅立たれた平成8年まで約15年間にわたりご交誼頂きました。
静子さんは幼い頃から人生のさまざまな苦労と向き合い、それらを乗り越えてこられた方でしたから、何ごとにも冷静で落ち着きのある方でした。また、幼い頃から仏縁を大切にして来られたようですが、日蓮大聖人の教えに巡り会ってからさらに信心を深めたいと思うようになったと仰っていました。法華経と日蓮大聖人の教えに誠実で信心深い方でした。

今井さんには当山にご縁を頂いてから3年後の頃より、坂上シゲ子さんと一緒に法華講会計係を長くお務め頂きました。保土ケ谷の正信寮から新横浜岸根の道場では多くの方々が講費の件で静子さんにお世話になられたことと思います。講員の方々とのふれあいの折りには、常に菩提寺を護ることの大切さや信仰を人生の柱とされるよう皆さんに伝えていました。ほんとうに当山の縁の下の力持ちさんでした。

ちなみに現在の妙法院に至るきっかけの一つが今井さんの『小さくても良いから自分たちのお寺を建てたいね』という言葉でした。日蓮正宗という教団を離れて日蓮大聖人の真の教えを求めるためには環境は二の次と考えていた私に、『信徒にとって安心してお参りできるお寺、子どもや孫たちが笑顔で集えるお寺はやがて必要でしょう』と仰っていました。そのような声があちらこちらから寄せられて現在の相武山妙法院が存在しているのです。

平成6年、新横浜にほど近い神奈川区の羽沢町に自前の道場が落成した翌年、今井さんは病にたおれました。ぜんそくや肺の病で病院にかかることも多かった今井さんでしたから、病いの発見が遅れたことはとても残念でなりませんでした。しかし、芯の強い今井さんは深刻な病状を告げられてもジタバタされる風情は微塵もみせず、特別な治療を求めることもありませんでした。すべては御本尊様におまかせし、最後の数カ月は息子の均さんのお宅で過ごされ、諸事万端手配を怠らず、平成8年1月3日、65歳を一期に静かに霊山に旅立たれました。

仲の良いご夫婦でしたから静子さんはご主人のことをとても気にかけて居られましたが、愕然とされたご主人も均さん夫妻やお孫さんの情愛に恵まれて穏やかな生活を送ることができ、7年後の平成15年に逝去されました。

日頃からお盆や春秋のお彼岸にはご両親や有縁精霊への供養を心がけておられる均さんご夫妻ですが、子どもや孫たちにも仏教の追善供養や法事の在り方を見せておきたいとお考えになり、猛暑の中、ご両親の23回忌と17回忌を営なまれた次第です。ご両親も御仏大聖人様のお側できっと今井家の皆さまの思いをよろこんで居られることと存じます。私も読経・唱題をつとめながら在りし日の静子さんとご主人の面影を偲ばせて頂きました。

相武山 山主

2018年08月28日