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相武山 妙法寺 ブログ

仏生日にちなんで

私は朝と夕方、甲斐犬のリョウマと一緒に散歩するのを日課にしていますが、その道の周囲では3月の中旬頃からスミレなどいろいろな野の花が咲き始め、散歩の愉しみを豊かにしてくれます。雑木林にかかるヤマブキもそのひとつ。八重のヤマブキではありませんからシンプルなものですが、自然の移ろいのなかで時を得てその存在を知らせています。野原に広がるタンポポは背の高いセイヨウタンポポではなく昔ながらのタンポポで、モンシロチョウが止まっていたり、観ているだけで何か童心に還れるような気がします。花について私はあまり知識はありませんが、春夏秋冬に自然から語りかけられているようなこの地にご縁を頂いてからは、少しでもその名前や生態を知りたいと思うようになりました。有り難いことにインターネットという便利なツールがあるのでこれからも愉しみたいと思っています。

さて、寒の戻りもあって少し肌寒い感じの12日(日)午前11時から月例の日曜法話会を開催しました。今月の8日は釈尊ご生誕の日、その仏生日にちなんでテーマは「釈尊の道」としました。当日は約30名ほどのご参加を頂き、はじめにいつものように法話会の趣旨をお話しし、続いて「世相」として「ドイツ航空機墜落事故」を取り上げました。

世相の多くが事故や事件、災害等を話題とすることが多く、明るい話題が少ないのは残念ですが、この世界に存在する事物、起こる事象はすべて私たちの学びの対象ですから、目をそらすことなく受け止め、自らの意見を整理することも大切なことだと思います。今回の事件は精神疾患をわずらっていた副操縦士による事故といわれていることから、「精神疾患はいつでも誰の身の上にも起こること。他人の生命をあずかるという特別な人物には配慮とチェックが必要。以外に多い命を預かる職務。事故も病気もいつ起きても不思議ではない世界に私たち生きているという自覚。不信や不安ばかりに陥ったり、根拠のない楽観主義と快楽主義に流れるのは愚癡。諸行無常をよく理解し、三世永遠の魂の営みの中で、今を生きていることをわきまえたい」と私の意見をお伝えしました。

次に今月のテーマ「釈尊の道」。我が国では各宗各派の祖師などについては丁寧に解説されますが、釈尊については以外に粗い説明であることが多いようです。しかし、釈尊を知ることは仏教を知る基本であり、「釈尊の観たもの、釈尊の求めたもの」を学び、その歩まれた道を理解することは大切なことだと考えます。 法話会では釈尊の御一生をインドの地図と仏跡の写真を用意して説明しました。インドは日本の国土の9倍の広さがあり、釈尊は日本の国の2倍ほどの広範な地域を遊行され、人々に伝道教化しながらその生涯を歩まれました。

はじめに釈尊の生涯について『釈迦族の皇太子としてネパールのルンビニーに誕生。カピラヴァストゥ(カビラエ城)で成長され、人生への懐疑から真理探究への道に向かう。難行苦行を越えてブッダガヤーの地でついに正覚を得た。ベナレス郊外のサールナート(鹿野苑)で初転法輪(初めての説法)。その後45年にわたり、竹林精舎や霊鷲山のあるラジギール、祇園精舎のあるシュラヴァースティーを中心に智慧と慈悲に溢れた教えを説き続けた。ヴァイシャーリーで自らの入滅を予言した後、クシーナガルの沙羅双樹の下で入涅槃』となったことを解説。

続いて「釈尊の観たもの」として出家のきっかけとなった『四門出遊(カビラ衛城から外出した釈尊が観たもの。東門を出て老人に、南門を出て病人に、西門を出て死人に、北門を出て出家修行者に、それぞれ出会った。四つの事実を観た)』。また『人生は苦に満ちている』こと。生・老・病・死の四苦と「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五蘊盛苦」の四苦を合わせた四苦八苦。それらの苦しみは、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の真理をわきまえることなく、煩悩に流された愚かさによるものと観られた。
これらの真相を眼前にされた釈尊は、普遍の真理を尋ねる「真理の探究」を大事とされ、有限の人生であるからこそ意義深く歩む志を立てられました。覚者となった釈尊はその生涯を人々への伝道と救済にささげられたのです。

インド出現の人間釈尊ばかりではなく、法華経を中心として大乗仏教に説かれる「久遠の釈尊」についてもお話をさせて頂くつもりでしたが、時間の都合で次回にさせて頂くこととなりました。来月の日曜法話会は5月17日(日)午前11時から開催の予定です。

皆さまのご参加をお待ちしています。

相武山 山主

 

2015年04月17日

お彼岸とは

すっかり気分は春ですが、春らしい暖かさかなと思ったら突然寒さがぶり返したり、まだ「ひねもすのたりのたりかな」とはいかぬ陽気の3月15日、開催した日曜法話会のテーマは「お彼岸について」でした。

日本の伝統であり習俗ともなっている春秋のお彼岸ですから、日頃から信心深い方でなくても、この時季には家族でお寺やお墓にお参りしたり、自宅の仏壇を浄め供物をそなえ香華を捧げられます。意識して嫌う人は別としてすっかり我が国の春秋の風情となっています。

しかし、子どもや孫たちから「お彼岸てな~に」とその意味を聞かれて、戸惑う方も少なくないことでしょう。もちろんしっかりとその由来と意味を承知の方も居られるでしょうが、習慣となり馴染んでいる季節行事ですから、改まって問われると躊躇してしまう方も多いのが事実です。忙しい生活の中で、せっかく心にかけ時間を費やして行っている仏教行事ですから、その意味がよくわかれば一層信仰の悦びが湧いてくることでしょう。

15日の法話会にはインターネットで開催を知ったという方をはじめ、35名ほどのご参加聴講を頂き一緒にお彼岸について学びました。始めに法話会の趣旨を説明し、続く「世相」では川崎市多摩川河川敷での13歳の少年が殺害された事件を取り上げ、『人間の持つ残虐性』についてのお話。事件の概要と犠牲者の少年に関する説明の後、閉鎖された組織や社会のもつ危険性、善悪の判断に迷惑することもある不安定な青少年の時期、そして、「仏教では十界が説かれているように誰もが善悪の心を具有している、自らの心をコントロールして人生を歩むことが大切」とお伝えしました。

テーマの「お彼岸について」のサブタイトルは『此岸(しがん)から彼岸(ひがん)へ』です。はじめに彼岸の語源がインドの古代言語サンスクリット語のパーラミターの意訳で、「彼岸」に到ることを意味していることを解説。次に、「彼岸は此岸に対する言葉で、『かなたのきし』ということで川の対岸をさすこと。仏教ではこの彼岸を仏さまの悟りの世界に喩え、私たち凡夫が住む『こちらのきし』すなわち此岸を迷いの世界に喩えていること。仏道では迷いと苦しみからの解放を求め、偽りのない安らぎの世界に生きることを説くことから、彼岸とは自らが川を渡って理想の世界に到る行為をあらわしていること」を説明。

続いて彼岸で大切なことは、「凡夫(ぼんぶ)の自分が此の岸に居るという自覚であり、五欲の追求に明け暮れる自我(じが)の存在を見つめることができなければ此岸を観ることはできない。眼前の感情や欲望に翻弄されて満足し、それが人生だと考えている人には彼岸を求める道心は発(おこ)らない」「五欲は5つの感覚器官に対する5つの対象のことで,形体のある物質 (色) ,音声 (声) ,香り (香) ,味,触れてわかるもの (触) をいい、また、財欲,色欲,食欲,名誉欲,睡眠欲を五欲という」を説明。

その上で、「仏道は彼の岸をめざすものであり、道心(どうしん)を発すことが基本。欲望と感情の世界(此岸)を離れて真実の幸福(彼岸)を求める心。人生の遇不遇(幸不幸)の意味を探り、普遍の真理を尋ねること。人生は有限であり意義深く歩もうという志が大切」であることをお伝えしました。

最後に渡河(河を渡る)こそが仏道を歩むということであり、仏道では六種の修行「六波羅蜜(ろくはらみつ)『布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若』」が勧められていることを説明。結びに「深い意味がわかっていなくても、お彼岸には仏道の功徳を積み、その功徳をご先祖や有縁の精霊にご回向することが大切。菩提寺への参詣、お墓へのお参り、お塔婆の建立、法華経の読誦、お題目を唱えること、仏壇を浄め香華を捧げ、お供物をそなえること等々、すべて仏道の修行であり、尊い渡河のすがたです」「お彼岸の時季には、ご先祖や有縁精霊への想いをいたし、静かに自己の人生を省みて、来世にも思いを馳せて仏道に心を寄せて頂きたい」と述べて法話といたしました。

来月の日曜法話会は4月12日(日)午前11時からの開催です。4月8日が釈尊の降誕会(こうたんえ)ですので、テーマは「釈尊の道」としてその足跡をたどります。皆さまのご参加をお待ちしています。

相武山 山主

2015年03月25日

日曜法話会 「三つの毒について」

今年初めての日曜法話会を1月25日(日)に開催しました。

地域広報誌タウンニュースをご覧になり、初めて参加聴聞された方3名を含め、継続参加の一般の方や檀信徒方々と親しく仏教を学ぶ機会をもちました。平成23年3月から開催している「日曜法話会」は5年目を迎えました。23年には9回の開催、24年、25年、26年にはそれぞれ1月から11月まで11回の開催ですから、法話会も今回が43回目となります。一般的にも仏教や信仰への偏見や誤解が見受けられることから、少しでも正しい理解を頂きたいと願って、「仏教に親しむ」をテーマにその基本的な思想や信仰の在り方などを中心にお話をしてまいりました。

当山の法話会は「法話会の趣旨」と「世相」、そして「テーマ」という3部構成のながれ、毎回レジュメを作成してお話をしています。法話会の趣旨は初めての方のためや、法話会の意義付けを確認するためのものです。次ぎに毎回時のニュースなどを対象に世相についてのコメントを伝え、参加者の皆さんにも現実の事象について一緒に考えて頂く機会としています。テーマでは仏教の基本的な考えや宗祖の教えを学びます。今月の世相は「吹き荒れるテロ事件」。テーマは「三つの毒について」でした。

世相についてお話をするのは、仏教が現実から目をそらすことなく、一切を直視することをその基本姿勢としているからであり、また、仏教本来の教えが抽象的なものではなく、現実生活を豊かにすることのできる教えであることを伝えるためです。今回は先月、パキスタン・ペシャワールの軍事学校を襲撃し141名もの子ども達を殺害したパキスタン・タリバーンによるテロ。年明け早々フランスでの週刊新聞「シャルリ・アブド社」襲撃関連テロ。そして深刻な事態となったイスラム国による邦人人質事件などから「吹き荒れるテロ事件」について、まず、それぞれの事件の概要をレジュメにそって解説。これらのテロ事件は、思想的・宗教的・民族的な対立が暴力のかたちとなって現れたものであり、「テロ事件の根幹には偏見と憎悪の存在」があることを指摘。事件から学ばなければならないこととして、基本的な人権の尊重。それぞれの多様性を認め合うこと。寛容の精神を育むこと。暴力は絶対否定されるべきこと等を伝えました。

テーマ「三つの毒について」とは、仏教が求める「迷いや悩みや苦しみ苦悩からの解放」のため、その源をたずねることを意味しています。三毒は仏教において苦悩の原因である根本的な三つの煩悩のことで、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)を指し、煩悩を毒に例えたものです。貪瞋痴は「貪欲 むさぼること」「瞋恚 怒ること」「愚癡 無知でおろかなこと」。「煩悩」の原義は klesa (苦しむ心)とされ、私たちを悩まし、害し、間違いに導く不善の心を煩悩と呼んでいます。釈尊は人生苦の根本煩悩とされるこの三毒を、解脱のために克服すべきものとされました。三毒の解説には原始仏典『スッタ ニパータ』より、「貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れる ことなく、犀の角のようにただ独り歩め」等を紹介。仏道では己れに内在する三つの毒と向き合うことが大切であることをお伝えしました。

時間の都合上、テーマの半分ほどしかお話できませんでしたので、次回2月22日(日)の法話会で続きをお話いたします。法話会は一般に開放されています。檀信徒の方々には「より正しい理解と信仰を深めるため」、初信の方や一般の方々には「仏教に親しみ、人生に仏教の叡智を活かすため」、日曜日法話会を「学びと修身」の機縁として頂けるよう、今年も精進してまいります。

来月も皆さまのご参加をお待ちしています。

相武山 山主

 

2015年02月04日

あるがままに生きる

秋も深まり三師塔裏手のイチョウがようやく色づいてきました。緑の葉から黄色の葉に色変わりして、やがて樹全体が黄金色になり初冬の訪れを知らせてくれます。しばらくすると楽しませてくれた代わりに、一週間ほど落葉を片づける作務に追われることになりますから、本当に世の中は良くできているものです。

16日(日)の日曜法話会は今年最後の法話会でした。先月はプロローグとなる「世相」の話が長引いて、テーマの「あるがままに生きる」という内容に踏み込めませんでした。今月の世相は「七五三祝」について、七五三を祝う慣習のいわれをたずね、幼子が健やかに成長することの難しさ、幼子の成長に感謝しその未来を祈る儀式であることを簡略にお話し、スムーズにテーマに入りました。

テーマ「あるがままに生きる」は、人生には変えられることと変えられないことが有り、現実を受け容れて精一杯生きようという内容です。

はじめにスッタニパータから『この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する。何となれば彼はあるがままに見るからである』との言葉を紹介。続いてダンマパダから『一切の形成されたものは無常である(諸行無常)。一切の形成されたものは苦しみである(一切皆苦)。一切の事物は我ならざるものである(諸法非我)。と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる』との言葉を紹介しました。共に原始仏典と呼ばれている経典で、仏教の基本的教えを伝えているといわれるものです。

続いて仏教は【諸法(あらゆる存在)は実相(真実のすがた)という立場】であることを説明。この考え方の意味を「あらゆる存在は偽りではなく真実であること。現実から目をそむけても何も変わらないこと。より良い人生のために、自らとその置かれている環境をよく観ること」が大切であると述べ、しかし、私たち凡夫はこの「あるがままに観る」ことが難しいことをお伝えしました。

次に【与えられた人生と自分が切り拓く人生】として、「変えられる環境と変えられない環境(生まれた時代・生まれた地域・両親と家族等々)。変えるべきか否か(転職、転居、結婚、離婚、等々)。自らの決断(決断のもとは自身の価値観、その価値観も変化する)。が求められる。人生最後まで価値観を高める必要性が有り学びの大切さを理解。変化をおそれない生き方。などについて話し、その上で、【自分らしく生きる】として、「人は一人ひとり異なることを認める(環境、能力、性格、好み等々)。価値観の多様性を認め、他者との違いにこだわらない。自分らしく生きる(皆んなと一緒でないことに不安をもたない)ことの大事さを述べました。

最後に【この舞台で生きる】として、「まずは現実を受け容れる。賜った人生に感謝の念を忘れない。自分の舞台(地域、家族、社会、老若男女)で人生を楽しむ。仏の道は心を磨き豊かな人生のためにある」ことをお話し、結びに【あるがままに生きる】とは、「人生を放埒に生きたり、あきらめと嘆き、不平と不満と愚癡で生きるのではなく、生涯かけて学ぶことと機縁のおもしろさ、精進努力することのすばらしさ、あらゆる事物事象に感謝の念が抱けるように自らの心を磨くことを愉しめること」とお伝えしました。

日蓮大聖人の言葉では、

★ 南部六郎三郎殿御返事『法華経の心は当位即妙(とういそくみょう)・不改本位(ふかいほんい)と申して、罪業(ざいごう)を捨てずして仏道を成ずるなり』。

★ 四菩薩造立抄『日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以(もっ)て論ずれば一閻浮提(いちえんぶだい)第一の富める者なり。是(こ)れ時の然(しか)らしむる故なりと思へば喜び身にあまり、感涙押へ難く、教主釈尊の御恩報じ奉り難し』

★四条金吾殿御返事『賢人は八風と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦・楽なり。をを心(むね)は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば、必ず天はまぼ(守)らせ給ふなり』。

を拝読ご紹介し、今年最後の法話会を終了しました。

今年も1月から毎月1回の法話会を開催し多くの方々に参加聴聞頂きました。つたない法話かもしれませんが、多くの方に仏教に親しんで頂きたいという願いのもとに精進しています。法話会は年に2回地域紙に案内し、当山のホームページにアップしているだけで、まだまだ認知度は低いのですが、継続は力であり新たな道を切り拓く唯一の方策と承知していますから、明年も心を込めて取り組んでまいる所存です。仏道は僧侶だけで護持伝承できるものではありません。志のある方々のご理解とご協力を頂き、共々に護り伝えたいと願っております。

相武山 山主

 

2014年11月24日

テーマに入れず

10月は19日(日)に日曜法話会を開催しました。前月のレジュメや掲示板にご案内した法話会のテーマは「あるがままに生きる」でした。当日は秋晴れの爽やかな天候に恵まれた行楽日和でしたが、志のある方々が参集。倶に仏教に親しむ有意義な時間を持ちました。

初めての参加者も居られましたから、法話会の趣旨『仏教に親しみ、その教えと信仰について正しい理解を。学ぶことは継続が大切。仏道は求める心が基本、いつでも何でも尋ねよう』と、お寺の役割『仏道を護り伝える道場。信徒僧俗の修行の場、僧俗が仏道を学び信仰を深める場、人生に疲れた時に心を癒やす場、汚れやすい心を浄かにする場、仏教の伝統や歴史を伝える役割を担う』について説明しました。

よく参加聴聞されている方や檀信徒の方々には毎回のことなので、十分承知されていることですが、初めての方にとってはやはり大切なプロローグではないかと思います。

毎回、テーマの前には「世相」を取り上げて、私の所感を申し上げていますが、世相とは世(よ)の相(すがた)ということです。仏道では『現実を直視する』ことが基本的な姿勢であり、あらゆる事物事象は一人ひとりの人生に影響を与えているばかりか、存在と出来事のすべてが学びに満ちているからです。眼前の事物事象をどのように見るかは百人百様。それぞれの見方にその人の見識と価値観が現れているといっても過言ではありません。仏道に身を置く末弟としての意見をお伝えして、参加者の皆さん各各に世相をお考え頂くコーナーです。

世相はどちらかといえばいつも事件や災害の話題が多く、暗く厳しい話題になりがちですが、10月の話題は「ノーベル賞受賞者のコメント」で明るい話題を取り上げました。全世界が注目するノーベル賞、受賞者は世界的な研究や社会貢献を認められた人々ですから、受賞にあたってのコメントはいつも私の関心事の一つです。一昨年IPS細胞の研究で受賞した京都大学山中教授のコメントも人柄がにじむもので、とても愉しい気持ちで聞かせて頂きました。喜びと感動をお裾分けして頂いて大変得をした気分です。

今年も各受賞者のコメントはそれぞれに意義深いものでしたが、世相では日本人3氏と平和賞の2氏の受賞コメントをピックアップ。日本人3氏はLED開発(青色発光ダイオード)で受賞した赤崎勇・名城大教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授です。選考委員会の受賞理由は「省エネで環境に優しい青色発光ダイオード(LED)を発明した。従来に比べ、長寿命でエネルギー効率が高い。多くの研究者が失敗する中で三人は成功した。二十世紀は白熱電球が照らしたが、二十一世紀はLEDによって照らされる時代になるだろう」というものでした。

見聞した3氏のコメントはそれぞれの人柄や研究へ思い、そして人生観が表れているもので、その発言に対しての私の所感を語りました。

次にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんのコメント、カイラシュ・サティアルティ氏のコメントを説明。「女性や子どもの人権と教育」に命をかけて取組んできた崇高な志と活動には敬意を表するばかりです。その発言は人間の尊厳にかかわるもので思索と示唆にとみ、多くの人々に感動を与えるものでした。ここで詳細はひかえますが、ことにマララ・ユスフザイさんについては、昨年の国連総会での演説が印象に残っていたので、再度その演説を聞いてみました。英語は良くわからない私でも、彼女が一生懸命に訴えていること、その内容のすばらしさは言語の違いを越えて伝わってくる名スピーチで、あらためて感動しました。

受賞者のコメントからは多くのものを学ぶことができます。端的に特徴をいえば『好奇心、信念、勇気、探究心、改革、決断、努力、主張、権利、自信、誇り、謙虚さ、優しさ、生きがい、持続力、諦観等々」となりましょうか。勇気と優しさ、自信と謙虚さなど、一つひとつを取り上げて並べてみると相反するようにもみえますが、要は置かれている時と機と場所によって心のバランスをとって対処しているのでしょう。自らの持っている価値観を磨き上げ、見識を高めて自分らしい人生を切り拓いてきたことがわかります。

当山の法話会ではよくあることですが、10月の法話会では世相への意見が長引いてしまい、テーマに入ることができませんでした。11月16日(日)今年最後の法話会であらためて「あるがままに生きる」についてお話をいたします。

今日と明日は当山で恒例の日蓮大聖人お会式を奉修いたします。日蓮門下にとっては最も大切な法要です。雨模様という予報もありますが「雨もまた良し」で、信仰も法会も天候に左右されるものではありません。ご信心の篤い檀信徒の皆さんと倶に厳かに宗祖への御報恩を申し上げたいと思います。

相武山 山主                                                                     、

2014年11月01日

優れた自然の営み

当山周辺では今年の彼岸花の開花が去年より一週間以上早かった気がします。暑さ寒さも彼岸までなどと言われますが、ここ数年秋の彼岸の頃でも厳しい暑さが続いていました。その影響なのか近年は、お彼岸に入ってから彼岸花がチラホラと咲き始めていたのですが、今年はお彼岸の少し前から曼珠沙華といわれる華麗な姿を見せていました。

そういえば8月の末頃から猛暑を意識することはなく、9月に入ってからも秋らしい気候でしたから、寒さが早く来るのかなと察した彼岸花が早めに開花したのではないかと思います。そういえば本堂南側の桜も墓苑西側の桜も例年より早くその葉を散らせ始めています。私たち現代人は自然の移り変わりを予知する力が、昔の人たちよりもかなり弱っているといわれることがありますが、それに対して草木は天地のはたらきをよく知っているようです。草木の振る舞いを観ていると今年は寒さも早いのかもしれません。優れた自然の営みに感心しながら、鈍くなりがちな己れの自然感知力に注意したいと思いました。

お彼岸に入った翌日の21日は今年9回目の日曜法話会でした。秋空の広がる中、今月も初めての方の参加聴聞を頂き、皆さんと一緒に学びの時を持ちました。今月のテーマは前月積み残しになった「終活(しゅうかつ)に思う」です。前段の「世相(せそう)」では広島市北部地区の土砂災害についてお話をしました。8/20未明の土砂崩れで広島市安佐南区では74名の方が犠牲となられ多くの被災者が出ました。この大災害はもちろん自然災害ですが、環境を十分考慮することなく宅地開発を行った人災の側面があることも事実です。これから災害の実体が種々に検証され、その原因も明らかとなって行くことでしょう。次に同様のの悲惨な災害が起こらないよう、しっかりと検証し長く教訓として行くことが、犠牲者へのせめてもの供養になると思います。

また、この災害では旧地名のいわれも報じられました。昔からの地名にはさまざまな意味や教訓が込められているということがいわれています。安佐南区八木三丁目にも伝説ということわりつきですが、かつて「蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」と呼ばれていたそうです。古来、雨は龍のしわざといわれていますが、龍を蛇に見立てて水害の起こる可能性を伝えていたのでしょう。その後、蛇落地悪谷は語感が悪いと思われたのか「上楽地芦屋」と改め、近年では八木三丁目になったということでした。今になって地形をみれば素人目うなずける地名です。古いものも大切にしなければならないことをまた一つ知りました。

法話会のテーマ「終活に思う」では、先ず始めに近年使われるようになてきた終活の意味について、「自らの人生の終焉(老・病・死)を認めて、今生の整理を行い、後事を誰に託すかを検討すること」「残された人生をより良く生きるため、葬儀式やお墓、遺言や遺産相続などを元気なうちに考えて準備すること」「信仰的(宗教性)思いなどから、ことに来世(仏国、天国、楽園)の安穏を願って行う準備のこと」であることを解説。その上で、老や病や死を「縁起でもない」といって忌み嫌う誤った風潮が戒められ、仏教に説かれるように「生老病死を直視する」考えが受容されるようになってきた現代。自らの希望を後事を託す者に伝えたり、できれば「エンディングノート」などのように明確に文章化することが望ましいことをお伝えしました。

また、なぜ終活が必要かという問いを起こし、「老いや病いが進んでから事故や死について考えることは難しいので、心身共に健康なときに考えておくのが良い」「家族や親族の扶助、地域の助け合いが希薄になった現代。自らの意思を明らかにすることが遺された人々の混乱を回避する」「核家族化が進み、信仰心も希薄になってきたため、葬儀式やお墓や供養の作法などについて事前に準備をする」との理由も説明しました。その上で、葬儀や法事、埋葬や供養など具体的なお話をいたしました。

結びには「終活が賢明な道であること。終活は何回検討しても良いので元気なうちに始めること。終活しながら人生と社会を考え、自分の残された時間を有意義に用いるように努めること」をお勧めしました。

次回の日曜法話会は10月19日(日)午前11時から、テーマは「あるがままに生きる」です。皆さまの参加ご聴聞をお待ちしています。

相武山 山主

2014年09月29日

7月の盂蘭盆会

横浜や東京などでは7月にお盆の法要が執り行われます。月遅れで8月にされる方もおられますから、当山では7月と8月の2回、盂蘭盆法要を営むことになります。去る13日(日)は午前11時の日曜法話会に続いて午後1時より月例の宗祖ご報恩講を執り行い、併せて盂蘭盆の法要も行いました。

今年7回目となる日曜法話のテーマは「仏事の意義」でした。お寺で執り行われる仏事と個人や家庭で執り行われる仏事、それぞれのかたちと内容についての法話です。さまざまな仏事にふれることはもちろん、自ら仏事を営むこともある人生、その意義が理解されてこそ、仏事に臨む悦びや愉しみが得られ、心をこめて執り行うこともできるというものです。知っているようでよくわかっていない仏事についてのお話でした。テーマに入る前の「今月の世相」では野々村元兵庫県会議員の政務調査費などの不正事件をとりあげ、「号泣会見など笑える事件との一面もあるが、古今東西、すべての人々の思考や行動には品性や品格といわれるものが現れている。どのような人生を歩んできたのか、どのような人生を歩んでいるのか、それらはその人の品性・品格として現れ、その人となりを明らかにする。野々村元議員を他山の石として、自らの品格を高めて行きたい」と意見を申し上げた。

テーマの仏事の意義については、「仏事とは仏教の儀式や行事や作法のこと。寺院の荘厳やお給仕、執り行われる日々の勤行や年中行事と法会を中心に、個人や家庭での仏壇の飾り方やお給仕とその作法、朝夕のお勤めや法事や葬儀式、そして初参りや七五三参り等に及ぶ。寺院は教えを護り伝えるために、信仰者は教えを確認しそこに自らの信仰を明らかにするために仏事が作(な)されている。心はかたちを求め、かたちは心を調えるという相乗作用により、荘厳や儀式作法のすべてに仏教の教えと、信仰者の思いが込められている。仏事は仏さまの道を敬い教えを現わすものである」と解説いたしました。最後に仏事でありながら、すでに我が国の習俗とも伝統とも文化ともなっている「お盆」のいわれを、日蓮大聖人の盂蘭盆御書を拝読して説明。仏事の意義を理解して仏の道を大切にされることをお勧めしました。

50分ほどの昼食タイムをはさんで午後1時からは宗祖ご報恩講と盂蘭盆会を執り行いました。はじめに御宝前にて仏祖三宝尊への献膳を申し上げ、参詣者の申し込まれたお塔婆が建立されている精霊壇にもお膳を供えて供養の志をささげました。その後、参詣の方々と読経・焼香・唱題とお勤めをいたし、宗祖への御報恩を申し上げると倶に、盂蘭盆会にあたってご先祖と有縁精霊への追善供養を申し上げました。

法要後の法話では、初心者の方々も居られることから盂蘭盆御書を拝読し、お盆のいわれを説明し、「目連尊者の親を思う心と慈悲心、青提女の貪ぼりとエゴイズムを他者のものとせず、自身に引き当てて考えることこそ、お盆の意義を深めることになる」と申し上げました。

法話の後には、各自建立ご回向されたお塔婆をもって墓所に向かわれました。当山の墓苑に墓所をお持ちの方も塔婆を建立し香華を手向けておられました。ご先祖や有縁精霊に追善供養の思いを捧げられた皆さまの志に敬意を表する次第です。
相武山 山主

 

2014年07月20日

この時季の恵み

6月の22日(日)は第6回日曜法話会でした。

梅雨時らしい空模様のなかでの法話会のテーマは「仏教とは その3」(仏の道を歩む)でした。これは今年の1月の法話会が「仏教とはその1」として仏教の多様性についてお話させていただき、3月の法話会では「仏教とはその2」として仏教の多様性の核となる基本思想についてお話ししたのに続いて、仏教にとって大切なことは、その道を歩むことですので、仏さまの道を歩むことに話を絞っての法話会でした。

世相は「中東イラクの内戦」でした。2003年3月のイラク戦争開戦から2011年12月米軍撤退、オバマ大統領の終結宣言までの流れを振り返り、現在起こっているイスラム過激派ISIS(イラク・シリアのイスラム国)の台頭による内戦情況について説明。
世界の現実として「貧困や飢餓、争乱や人権抑圧、病や災害にあえぐ民衆」「法による統治、生命の安全や基本的人権が無視される多数の国や地域。その原因は民族・宗教・歴史・文化など多種多様」それらを原因としてテロ事件が頻発、戦乱はそこかしこに展開されていることをお伝えしました。
その上で、「現代はグローバルな世界となり、国や地域の閉鎖はできず互いに影響し合う」ことを理解。世界の現実を知って、恵まれている国「日本」を認識しよう。また、平和と救済を祈り自らにできる支援を考えようと意見を述べました。

続いて、テーマである「仏の道を歩む」について、はじめに「仏法」と「仏教」と「仏道」の違いについて、仏法というのは仏さまが覚られた永遠普遍の真理(妙法)であり、仏教とは仏の覚られた真理を一切衆生に教えることであり、仏道とは仏の歩まれた道、仏と成るために開かれた道、歩めば仏と成る道であることを解説。
妙法は真理として存在しているものであり、教えは因縁や比喩などを交えて説かれており、肝心なことはその道を歩むこと、実践ということです。人生は何かと忙しく、目先の利害や損得ばかりを追いやすく、好きや嫌いといった感情に振り回されたり、楽しい趣味や遊びに時間も心もうばわれがちです。それはある面当然なことですから、仏さまの教えや信仰にふれることも稀なことかもしれません。また、たとえふれたとしても、発心して仏の道に志を立てる方は、さらに稀有(けう)な存在といえるでしょう。しかし、仏の道ではその発菩提心(ほつぼだいしん)が尊いこと、信を起こすことが大切なことを、華厳経(けごんぎょう)や法華経、聖徳太子の勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)などを引いて説明しました。

古来、仏の教えを仏道とも称していたことは、仏教が単なる学術宗教ではなく、観念論やおまじないや祈祷でもなく、仏縁を結んだ者が仏の歩まれた道を自らも歩むことによって、真(まこと)の人生を得ることを意味しています。その功徳については「無知と不安と嘆きを越えて、安らぎと喜びと生きがいを得ること。世俗的な利害や感情を越えて、仏の知恵を人生に活かすこと。人生折々の苦楽に仏の教えを照らしてみること」ということになります。

結びに仏の道を歩むという姿を当山の信仰をもって具体的に示すならば、「仏さまを自宅に安置し日々に御仏(みほとけ)の教えを意識する。仏法僧の三宝(さんぽう)への給仕を心がけ、朝夕に法華経読誦・唱題に勤める。仏の教えを学ぶ機会を大切にする。自らと家族の幸せを祈り他者の幸せも祈る。一言でも二言でも仏道の尊さを語れるように努力する」となることをお伝えして6月度の法話としました。
この時季の恵みでしょうか、本堂の外では時折雨が強く降っていましたが、雨のお陰で法話会に参加聴聞の方々の集中力が切れることはありませんでした。つたない法話でしたが皆さんの心の中にしみいったようで有り難く思いました。

相武山 山主

2014年07月05日

伊豆のご難会

10日ほど前から当山南西の田んぼで田おこしが始まりました。田おこしの前からカエルの声が聞こえ始めましたが、昨年より少し遅いような感じです。これから田んぼに水が引かれると蛙の声がいっそう賑やかになってゆきます。
さわやかな五月の風がわたる今日この頃、新緑に抱かれたような里山の風情を楽しみに多くの方が当山周辺の市民の森を散策しています。時折当山にもお入りになり、本堂の前や三師塔の前で手を合わせていらっしゃる方もおります。その姿からはあらゆる人々に信仰心が具わっていることがわかります。

11日(日)はご案内のとおり今年5回目の日曜法話会でした。4月の法話会のテーマ「釈尊という人」の続編です。はじめにいつものように法話会開催の趣旨をお伝えし、その後の今月の世相は「韓国フェリー セウォル号海難事故」について。
犠牲者300人以上となった韓国の海難事故について、まず事故原因については①進路の変更ポイントで急な方向転換(未だ原因究明中、未熟な操船と船長の無責任さ)。②不適切な改造と過積載の常態化(船会社と関係者の責任)。③海難事故への訓練がなされていない(加害者である海運会社と旅行を計画した学校関係者)。④犠牲者の判断の誤り(高校生を責めることはできないが、的確な事態認識が必要だった。自らが自らを護る、受けて良い指示、護って良いルールか否か)。の4点を上げて完全な人災と指摘しました。
その上で、船長と操船者及び乗組員の責任(避難指示も出さずに避難)、事故への油断(安全は危険を認識してこそ確保される)を考え、学ばなければならないこととして、①いつ何が起きても不思議ではない世界に生きている。②非常事態には非常事態なりの対応が必要。③他者に判断を委ねるのではなく、自らを信じて生きるのが人生。と意見を述べさせて頂きました。

法話のテーマ「続。釈尊という人」のサブタイトルは(釈尊の人生とその求めたもの)でした。釈尊の人生を学ぶのは、○仏教を正しく知るため。○覚者としての仏陀ではなく人間釈尊を知る(史実と伝説の相違)。○釈尊を敬うことはその求めた道を敬うことであることをお伝えしました。
簡略に先月のおさらいをした後、ガヤーでの「降魔成道とその内容について」のお話は「悪魔の武器」についてです。人間の恐れるもの、欲しいもの、喜ぶもの、悲しむもの、嫌がるもの、ありとあらゆる手段を講じて悪魔は釈尊の成道を妨げようとしましたが、釈尊はそれらのすべてを降して成道をとげました。その後の伝道と救済についても、広いインドとその時代を思い浮かべながら、クシーナガルでの入涅槃までを説明させて頂きました。最後に釈尊の求めたものは、「解脱であり涅槃の寂静、永遠普遍の真理であり真の安らぎの境地、迷惑する人々を救い倶に安心を得る」であることをお伝えし法話会を終了。
次回は6月22日(日)午前11時からの開催です。

同日、午後1時からは伊豆御流罪法難会を執り行いました。法話会に参加聴聞された檀信徒の方々が昼食を摂られ引き続いて法会に臨まれました。皆さん五月の好季に半日、行学に励まれたことになります。自らの時間を何に用いるかは、その人の価値観が表れるものですから、参詣の皆さんの信仰心に深く敬意を表するしだいです。

伊豆の御難会は弘長元年5月12日、時の為政者から罪科に問われた宗祖が、鎌倉から伊豆に流罪となられた法難を報恩謝徳申し上げる法会です。この法難は法華経の宗旨を弘通した事により、宗祖が初めて公的に罪科を問われた法難です。
参詣者の皆さんと倶に読経・唱題を申し上げ、その後、船守彌三郎御書を拝読しての法話。伊豆御難会についての解説とその意義についてお話をしました。
その後の世話人会まで出席頂いた皆さん、本当にご苦労様でした。

相武山 山主

2014年05月22日

新緑の季節を迎えて

華やかな桜の風情を楽しんでいると、木々の枝から新芽が吹き出してきました。当山の周囲ばかりでなく其処もかしこも新緑の季節を迎えました。やわらかな若芽が暖かさに引かれてぐんぐんと伸びています。まるで大地の力が淡い緑の葉を通して伝わってくるようです。

4月の「日曜法話会」は13日でした。うららかな春の陽気にも恵まれ、檀信徒や友の会の方など、いつもより少し多い約40名ほどの参加聴聞を頂きました。初めての方も3名、一般の方にも6名聴聞を頂き、「仏教に親しんで頂きたい」という開催趣旨が、少しづつ広がってゆくようでとてもうれしく思いました。
今月のテーマは「釈尊という人」サブタイトルは「釈尊の人生とその求めたもの」でした。4月8日は釈尊の誕生の日として、古来『仏生日』として親しまれてきました。多くの仏教寺院ではその誕生を祝福して降誕会などが奉修されています。富士門流上代の記述にも仏生日との表現がみられしっかりと意識されていたことがわかります。

始めに世相では「4/10、沼津市で起こった交通事故」についてお話をしました。新たな勤務地に長距離通勤し始めた中学校教諭が起こした朝の事故、小学生二人が被害を受け10才の男の子が尊い命を失いました。事故原因の究明や責任については警察などで調査され今後の事故防止に活かされることでしょうが、被害に遭われた子どもとそのご家族の悲嘆はあまりにも深いものがあります。どのような慰めの言葉もご家族の心に受け入れられることはないでしょう。
この事故について一人ひとり思うこと、考えることは異なることでしょう。もちろん正解と断定できることなどありません。しかし、不幸なこと、理不尽なこと、不条理なことを何かのせいにしたり、カルト宗教的に罰が当たった的な解釈などの意見はあまりに愚かです。もしそのような意見を聞くことがあれば正されなければならないと思いますので、私からは、「思議を超えた理不尽な事故。(なぜ、どうして)」「被害者と加害者、その家族の思いに寄り添おう」、その上で、私たちは「いつ何が起きても不思議ではない世界を生きていることを自覚しよう」と意見を申し上げ今回の世相のまとめとさせて頂きました。

テーマの「釈尊という人」については、仏教を正しく知るためには釈尊の人生を学ばなければならないこと。それも覚者としての仏陀ではなく人間釈尊を知ることが大切で、史実と伝説の相違をわきまえようと説明しました。さらに「釈尊を敬うことはその求めた道を敬うこと」という視点についてもお話をさせて頂きました。
その上で、釈尊の人生について、「誕生~その環境と生活~人生への懐疑~出家~求道」までを現代仏教学をベースに解説し法話としました。タイムオーバーとなりましたので、「成道~ 伝道と救済~入涅槃」のクライマックスについては5月(11日)の日曜法話会にお話いたします。4月の法話会は、今までで最も多くの参加聴聞を頂いたのではないでしょうか。法話会ではその趣旨である「仏教に親しむ」をテーマとして、不信の時代に少しでも仏縁を結ぶ機会となるよう努力してまいりますので、同心の方々にはご家族友人誘い合わせてこれからもご参加頂きたいと思います。

法話会の後には午後1時から毎月恒例の日蓮大聖人御報恩講を執り行いました。はじめに仏祖三宝尊に献膳を申し上げ、参詣者の方々と心をこめて読経・唱題、ご報恩のまことをささげました。その後、興厳房が「持妙法華問答抄」を拝読して法話をさせて頂きました。法話会から宗祖の御講をお勤めして、一人でも二人でも仏教への信仰心を発され、その志を持続せられて真の安心(あんじん)を得られるよう祈り上げた次第です。

相武山 山主

2014年04月20日