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相武山 妙法寺 ブログ

9月の日曜法話会

9月13日(日)は日曜法話会。法話会はコロナ禍のために4月から3ヶ月間中止して7月からの再開でしたが、7月・8月の参加者は以前の半数以下でした。9月はコロナ禍にもいい意味でなじんできたのか、旧に復してきたように思います。

今月の法話会のテーマは「お彼岸について」。サブタイトルは「心静かに人生を見つめ仏の道を実践するとき」でした。すっかり我が国の習俗となっている春秋のお彼岸ですが、秋の彼岸会を迎えるにあたってその意義について聴聞の皆さまと考えてみました。

毎回法話会のはじめにはその趣旨をお伝えしていますが、今月は初めての方はいらっしゃらなかったので割愛してレジュメに沿ってお話を始めました。

彼岸について
「現在の我が国の祝日の意義によれば、春のお彼岸は『自然をたたえ、生物をいつくしむ祝日』。秋分の日は『祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ祝日』とされていますが、春秋ともに多くの人々が寺院に参詣して先祖や精霊に供養をささげ、墓所などにお参りするのが一般的になっています。

仏教の行事のように思われていますが、このような習俗はインドや中国にはみられず、日本独特のものです。その歴史は古く、春秋の2月、8月(陰暦)に7日間の仏事を行うことは、806年(大同1)を最初とし、平安時代初期には恒例となっていたことが日本後紀や延喜式にみえます。
この仏事が彼岸会とよばれていたかどうかは不明ですが、宇津保物語や源氏物語などに彼岸の語がみえるので,平安中期には彼岸や彼岸の仏事が定着していたことがわかります。

彼岸の語源はサンスクリット語のパーラミター「波羅蜜多」の訳で、元来は仏の悟りの世界である向こう岸に渡るという意味です。此岸を迷いの凡夫の世界に喩え、川の向こう岸の彼岸を仏の世界に喩えたものです。此岸から彼岸へ渡ること(仏道成就)を求め願うのが仏教の姿勢です。
また、彼岸には『仏の世界』という意味と『自らに与えられた環境で仏道に励む時にはその世界が彼岸である』という二通りの意味があります。ことに大乗仏教では僧院に入らずに生活を営みながらでも、仏とその教え信じて信行に励む者の世界はそのまま仏土であると説かれています。

大切なことは私たちが此岸(煩悩に覆われた迷いの世界)に生きているという認識に立つこと。現実の世界ではその時代の環境、その時代の価値観、その時代のシステムなどの制約のなかで生活しています。人間はおよそ未成熟であり未完成なる存在です。生活のために凡夫は眼前刹那の利害損得に陥りやすく、迷惑の根源をしっかりとみつめようとしない。また好きや嫌いという自身の一時の感情にも流されやすい存在なのです。

釈尊はバラモンの教えを超克し、解脱して仏教を創始されましたが、その基本思想は『人間が苦悩するのは本来具えている燃えさかるような貪欲・瞋恚・愚癡などの三毒を中心とする煩悩に由来し、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という縁起の真理に迷うことにある』というものです。
原始仏教や小乗仏教では資質と環境に恵まれた一部の者が煩悩の断尽による覚りを求めましたが、大乗仏教では煩悩を断じた覚者となることは上根上機の限られた者であり、永遠の仏の存在とその教えを深く信ずることによって救済されると説かれました。

仏の道を歩むということは、自らの愚かさを認め、仏の教えを信じ学び行じて、己の人間性を終生磨き高めて行くこと。お彼岸が休日となっているのですから、みんなで心静かに人生を見つめ仏の道を実践するときとしたい」
と申し上げて9月度の法話としました。

相武山 山主

2020年09月28日

平和に思う(日曜法話会から)

妙法院では「仏教に親しむ」をテーマとして10年前から毎月1回日曜法話会を開催しています。今年はコロナ禍のために4月から6月まで開催を中止しましたが7月から再開。
8月は16日(日)午前11時からの開催でした。コロナ禍に連日の猛暑ですから参加聴講はわずかな方と想定していましたが思いのほかにご参加頂きました。
8月法話会のテーマは「平和に思う」。前日が75回目の終戦記念日であり、当山でも執り行った戦没者追善法要の意義を深めて、参加者の皆さまと前の大戦を概観し平和について考えてみたいとのテーマです。戦争と平和、民主主義と基本的人権などについて所見を述べ、釈尊と日蓮大聖人の遺された言葉から教訓を頂きました。

【戦争の事実を直視】
夏8月を迎えると各メディアは一斉に「広島・長崎への原爆投下・・・」「太平洋戦争の惨劇・・・」「戦時中の苦悩にあえぐ世相と国民の困窮生活・・・」等々について報道するのを常としています。これは極めて当然のことで、前の大戦は国民を苦悩のどん底に陥れ、国土を大きく荒廃させました。また、我が国ばかりでなく太平洋一円の国や国民に計り知れない甚大な被害を与えたのです。

二度と同じ過ちを犯さないためにも私たちは前の戦争の真実を知らなければなりません。何ごとにおいても「いつ・どこで・だれが・何のために・何をしたのか・そしてその結果は」という事実を検証し整理することが大切なように。
凡人の集まりであるこの世の中、政治でも社会でも都合の悪いことには目をつむったり、耳を塞いで、批難が通り過ぎるまでしのごうという姿勢は古今東西に見受けられことですが、それでは失敗を活かして同じような過ちを断つことができません。より良い解決のためにはやはり事実の検証が必要なのです。

我が国の健全な未来にとって太平洋戦争の真実は真摯に探求されるべき歴史的課題であるとともに、基本的人権が保証された民主主義国家の確立とその維持に不可欠のテーマといえるでしょう。前の敗戦についてはさまざまな視点から反省がなされたり、戦没者への慰霊や遺族への補償も実施されました。また、非戦・反戦・自衛など平和に関する議論も今に行われています。しかし、国としてのたしかな総括が行われたという認識は乏しいように思えます。そのために戦争被害をこうむったアジアの国々とのあつれきが解消されていないのではないかと思うのです。

法話会ではレジュメと一緒に『第2次世界大戦死者数』『戦没者の過半数は餓死』『安全保障の焦点は国家から人々の安全保障へ』などのプリントをお渡しました。その上で前述のように「太平洋戦争の確かな検証」が大切ということと、「敗戦によってもたらされた民主主義」「天皇主権から国民主権へ大転換」「すべての国民に基本的人権の保障」について所見を解説しました。

【人権と民主主義の価値を確認】
昭和20年8月15日、天皇の終戦宣言による敗戦受諾から一夜にしてダイナミックな価値観の転換が促されたのです。現人神(あらひとがみ)として日本国の主権を握る天皇が人間宣言をし、臣民(しんみん)であった国民が主権者となったのですから、まさに青天の霹靂。急には理解できない話です。さらに、一人ひとりの国民には差別なく基本的人権が保証され、天皇や貴族、軍部や財閥などの特権階級による政治ではなく、主権者たる国民の意志によって政治社会が運営されるというのです。

戦後の時代しかしらない現代の私たちには、基本的人権、主権在民、民主主義は当たり前の概念ですが、戦前の思想と教育のもとに生活していた人々にとっては、戦後しばらくその受容に意識して取り組まねば理解できないものでした。

基本的人権によって得られた自由と権利、民主主義によって得られた主権在民というシステムは、我が国においては敗戦受諾で突然天から降ってきたようなものといっても過言ではないでしょう。しかし、欧米では自由と権利・民主主義のために長い間、血涙の歴史がありましたから、自由や権利、民主主義については現在でもとても敏感です。したがってその権利を守るためには労をいといませんし、政治についても我がこととして意識している人が多いように思えます。

我が国では人権や民主主義をあまりにも当然として、そのすばらしい価値を見失っているのではと思えることが散見されます。これはとても残念なことで、終戦記念日には戦争と平和について考えるとともに、是非、人権と民主主義を考える好機としてほしいと願っています。また、平和は何らの努力もせずに得られるものではなく、平和な世界は強い意志と絶え間ない努力によって維持されることも認識しなければなりません。

【平和を求めて】
続いて「現代社会の平和を脅かす人権軽視と覇権主義」「一党独裁国家の専横」「世界中の差別主義」などについて言及し、結びは「仏典に学ぶ平和」でした。

原始仏典 ダンマパダ (中村元 現代語訳)から
☆「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みのやむことがない。堪え忍ぶことによって、怨みはやむ。これは永遠の真理である」
☆「その報いはわたしには来ないであろうとおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである」

日蓮大聖人の立正安国論から
『汝須く一身の安堵を思はば先づ四表の静謐を祈るべきものか。就中 人の世に在るや各後生を恐る。是れを以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪むと雖も、而も猶仏法に帰することを哀しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄りに邪義の詞を崇めんや。ー 略 ー
汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし』
を紹介。

今月の学ぶべきこととして
「平和は意識しなければ崩れやすい。前の戦争をけっして忘れてはならない。常に戦争の検証を怠らず、民主主義のルールのもと、権力者の言動に注意しなければならない。平和の基本は人々の心の平安から。平和は基本的人権の尊重による。
一人ひとりが現代の平和の語り部となろう。」
とお伝えしました。
来月の法話会は9月13日(日)午前11時からの開催です。

相武山 山主

2020年08月30日

日曜法話会を再開

当山では檀信徒の皆さまに3月下旬から参詣の自粛をお願いしてきましたが、7月からは三密の対策を講じながら法要・行事への参詣を再開。12日の日曜日には4月から中止していた日曜法話会を開催しました。法話会は「仏教に親しみ、その教えと信仰について正しく理解願いたい。法華経と日蓮大聖人の教えにふれる」を趣旨に平成23年3月から開始し今年で10年目を迎えました。

毎年1月から11月まで11回にわたって開く法話会には檀信徒の皆さまばかりでなく、地域タウン紙の広報により一般の方々も参加聴聞されています。今年の梅雨は雨の降らない日はないという横浜ですが12日は幸いにも曇り空。久々の法話会にも15名の方お出でになりました。

いつものようにレジュメに沿っての法話。はじめに法話会では世相をテーマとする理由を「仏教は現実直視」「あらゆる事物事象は私たちと無縁ではない」「自分が現象をどのように観ているかが大切」「起こる現象はすべて学びの対象」と解説。

次に今月のテーマである「今を生きる」について。コロナ禍によって我が国ばかりでなく世界中が不安と混乱のなかにありますが、多くの人が静かな自省の時間が得られたことも事実。このような時にこそ自らの存在の有様をみつめ、与えられた今をどのように認識すべきかを考える事が必要。「今を生きるとは自らに与えられた環境を受容し、そこを基盤に自分らしい人生を歩むことである」と説明。

『人は皆、過去からやって来て、今を生き、未来へと歩みを進める存在。今の自分の在りようが過去をおさめ、未来の果報を定める』『過去ばかりにこだわる人、未来ばかりを夢見る人がいる。それぞれ自由だが「今を直視する」ことなくして真の安らぎはない。』ことをお伝えしました。

世の中には啓発本があふれていますが、より佳い今を歩むためには仏教の叡智を学ぶことも有益。素朴な原始仏典から以下ダンマパダの数節を紹介しました。
☆「まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しき思いにしたがって、ついに真実に達する」
☆「一つの岩の塊りが風に揺がないように、賢者は非難と称讃とに動じない」
☆「たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである」
☆「善をなすのを急げ。悪を心から退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ」
☆「沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない」
☆「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない」
☆「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ」
☆「みずから自分を励ませ」
☆「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ」
等々。

また、末法の法華経の行者である日蓮大聖人の教えを以下の御書から紹介。
☆『一切の事は時による事に候か。春は花、秋は月と申す事も時なり』(上野殿御返事)
☆『夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし。ー 略 ー 彼の 時鳥は春ををくり、鶏鳥は暁をまつ。畜生すらなをもかくのごとし。何に況や、仏法を修行せんに時を糾さざるべしや』(撰時抄)
☆『仏法には賢げなる様なる人なれども、時に依り機に依り国に依り先 後の弘通に依る事を弁へざれば、身心を苦しめて修行すれども験なき事なり』(下山御消息)
等々

最後に「あらゆる現象は縁起によって生起し変化してやむことはない。変化をおそれることなく可能性を信じて前向きに生きる。コロナ禍からも多くの学びを得よう」とお伝えして法話を結びました。
来月の法話会は16日(日)午前11時からの開催を予定しています。

相武山 山主

2020年07月25日

6年目を迎えました

平成22年11月、横浜市旭区下川井町に相武山妙法院を移転建設した目的は、日蓮大聖人の教えを永く護り伝え、有縁無縁の方々の仏道精進を願うためです。移転前の神奈川区羽沢町でも法華弘通の道場として不満があったわけではなく、施設としては十分なものでしたが、下川井町に墓苑が開かれ、特別の許可で寺院用地が確保できたことや、自然環境や交通利便性、駐車場の確保、未来への布教への取り組みなど、さまざまな状況を検討して移転建設を実行したものです。

寺院の存在意義は「仏道を護り伝える」ことに尽きます。その意味で寺院は仏法を修行・修学する道場でなければなりません。寺院における葬儀や法事は大切な仏事ですが、修行や修学がなされることなく、単なる式場となっては本末転倒となってしまいます。 また、寺院は広く社会に開かれ、あらゆる人々に仏縁を結ばせる役割をもっています。人生は出会いで決まるといっても過言ではありませんから、どのような時代、どのような人、どのような思想・宗教と出会うかは人生に大きな影響を与えます。

仏道を歩むということも、仏教とご縁を結ばなければ歩むことはできません。現在仏教への信仰をお持ちの方は、何らかのかたちでご縁を結ばれた方です。導き手はご両親、祖父母、兄弟・親族、友人や知人、さまざまなことでしょう。書籍や仏事がきっかけであったかもしれませんが、いずれにしても何らかのきっかけがあって仏縁を結ぶことができたのです。 当然、寺院や僧侶はその導き手にならなければなりません。現代は宗教不信の時代ともいわれています。その原因は宗教者にも世俗主義者にも求めることができますが、その分析はともかく、寺院は敷居を低くしてどのような人にも仏縁を結ぶ努力をしなければならないと思うのです。

当山は「仏道を護り伝える」という目的を見据えて建立されたのですから、布教についてはゆるがせにはできないと考えていました。したがって建立の翌春3月から早速「日曜法話会」を開始し、今年で早6年目を迎えることになりました。年に1回か2回、地域広報誌「タウンニュース」に開催案内を出すだけですが、掲載してしばらくは初めての方々がお出でになります。続いてお見えになる方もいますし、しばらく休んで気の向くままにお出でになる方もいます。いずれにしてもいつ伺っても良い法話会であるということは伝わっているようです。

今年も旭区版と瀬谷区版の1月14日号の同誌に案内を掲載しました。今年最初の法話会は24日(日)でした。少し寒い日でしたが初めての方が5名ほどお出で頂きました。いつものように法話会の開催趣旨を説明した後、「世相」は軽井沢スキーバス転落事故。1月15日に起こったバス事故を取り上げ、はじめに事故の概要を説明し、若者の命が多数失われたことに哀悼の思いをのべました。その後、事故のたしかな原因究明が望まれていること。学ぶべき事としては、「乗員乗客は運転手に生命を預けているという事実を認識。割安、格安、激安というコストよりも安全が最優先。安心、安全はコストがかかると認識。人生何ごとが起きても不思議ではないという見識。日々の無事と平安に感謝の心を持つこと」などのべて私の意見としました。 世相の後は今月のテーマについて。テーマは「法華経のこころ(5)ー久遠のいのちー」でした。内容は「本仏の永遠性とその救済。菩薩道の実践こそ法華経の精神」というもので、本仏は永遠に衆生を救済する存在であり、仏縁を結ぶことができた人は菩薩の道を歩むべきことを申し上げました。
今年も11月まで仏縁を結ぶきっかけとなるよう毎月日曜法話会を開催いたします。一般の方々が対象ではありますが、仏教の基礎や基本を学ぶものですので、檀信徒の皆さまも初心者にかえって参加聴聞頂ければ幸いです。来月は21日(日)午前11時からの開催です。

相武山 山主

 

2016年01月31日

今年最後の日曜法話会

去る15日(日)午前11時から今年最後の日曜法話会を開催しました。平成23年春から始めた法話会も今年で5年目です。法話会の趣旨である「仏教に親しむ」「より正しい仏教への理解」を願い、1回1回テーマを設けて仏教本来の在り方を求めての法話会を心がけてきました。また、必ずレジュメを作ってから臨んでいますので、自分なりにはかなりプレッシャーを感じて務めています。

今月のテーマは「法華経のこころ(4)」でした。先月述べられなかった法華経の内容についてのお話です。その前の『世相』では「MRJの初飛行」と前日に勃発した「フランス・パリのテロ事件」を取り上げてお話をいたしました。予定では「MRJの初飛行」について所感をのべようと考えていたのですが、前日のフランス・パリのテロ事件があまりにショッキングでしたから二つの話題となりました。

「MRJの初飛行」は私も関心を持っていた話題です。太平洋戦争の敗戦まで日本は世界有数の航空機産業を擁していたことは周知の事実です。幼い頃にそのような話を聞き、青年期には戦後初の国産機であるYS11によく乗った記憶がありますから、国産ジェット機の生産には少し思いが入っていました。さらに幾度となく初飛行の延期がありましたから、「今度は大丈夫か?」と心配の思いもつのっていたのです。 直接の関係者でもないのに困ったものですが、とても気になっていてスマホで状況を確認してはほっとし、テレビの放映を観ては一人でささやかに拍手を送りました。

私は頑張る姿やチャレンジする姿に素直に感動する気性ですから、この初飛行に至るまで、関係者の人々が説明できないほどの苦難を乗り越えてきたんだろうと思って感動したことをお伝えしました。

次の世相は「フランス・パリ、同時多発テロ」でした。フランス・パリ北の郊外、サンドニ市のサッカー競技場をはじめ、パリ中心部の劇場やレストランなど6カ所で13日夜(日本時間14日早朝)、同時多発テロ事件が発生しました。爆弾や銃撃による死者は計130人。オランド仏大統領は「前例のない規模のテロ、フランスは戦争状態に入った」と声明を出し、フランス全土に非常事態を宣言しました。IS(イスラミック・ステーツ)は犯行声明を出し、中東の戦火が欧州に飛び火したものです。 フランスでは今年1月、パリの諷刺週刊紙シャルリー・エブド本社やユダヤ系食品店が相次ぎ襲撃され、17人が死亡するテロ事件が発生しています。今回の劇場に侵入した犯人の1人は「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」「シリアへの介入は許さない」と叫んでいたといわれます。神の名のもとに戦いと殺戮が展開され、憎悪の連鎖が続けられるのです。世界中では宗教や民族の対立が絶え間なく続いています。争乱の根源が人間の煩悩にあることを知り、憎悪と対立を超えて平和を希求しなければならないこと。人間性が最大限尊重されるところに真の宗教性があることをお伝えしました。

法話会のテーマ「法華経のこころ」については、法華経は一切衆生の成仏(二乗作仏)を認め、誰もが差別なく成仏できることを説いていること。釈尊の願いは一切衆生の成仏にあり、すべての衆生を仏道に入らしめるために出現されたこと。諸法は実相(あらゆる存在はそのままで真実を示していること)であり、その真理は仏のみが知るところであることについて述べました。仏さまの常住と菩薩道の実践という法華経のテーマについては次回に述べさせて頂きます。 今年1年、多くの方に日曜法話会にご参加頂きました。仏道の護持伝承のため、仏縁を結ばれた方の行学増進のため有り難いことと存じます。明年も1月から日曜法話会を開催いたしますので、皆様のご参加をお待ちしています。

相武山 山主

2015年11月30日

受賞者のことばから

秋はいろいろなイベントが目白押しですが、中でも10月に発表されるノーベル賞には世界が注目しています。毎年、発表が近くなると受賞候補者がマスコミを通じて伝えられ、関心のある人はあれこれとにぎやかに意見を交わしています。現代世界で最高の学問的・人道的栄誉とされるノーベル賞。しかし、その受賞者は広い対象者に比してまことに僅かな存在です。時代的な事情やその他の理由によって受賞することができなかった優れた人物もいるでしょうし団体もあることでしょう。受賞に至らなくても優れた人物や団体がいることは周知の事実でもあります。また、未だ埋もれている人物も多数いることでしょう。多くの対象者から厳密に受賞者を選定するのですから、選考委員の作業も困難を極めるものだと思われます。

そもそも、ノーベル賞(ノーベルしょう)は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞で、人類に学問的・人道的に貢献した人物や団体に送られる賞です。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和、+経済学 の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物や団体に贈られます。経済学賞だけはノーベルの意向とは関係なく死後70年あとに金融機関などの後押しにより設立されました。

ふり返れば国民の多くが戦後の荒廃から気力を振り絞って立ち上がるために頑張っていた昭和24年、湯川秀樹氏がノーベル物理学賞を受賞。多くの国民に勇気と誇りを与えたのは66年前のことでした。その後も我が国は各分野で受賞者を輩出しましたが、21世紀に入ってからはそのスピードが加速しているように思えます。今年も二人の研究者が受賞しました。「医学生理学賞」に北里大学・特別栄誉教授の大村智さん。「物理学賞」に東京大学宇宙線研究所所長の梶田隆章さんです。大村さんの受賞理由は「寄生虫による感染病に対する新しい治療法の発見」。梶田さんの受賞理由は「ニュートリノに質量があることを示すニュートリノ振動の発見」でした。

ノーベル賞受賞者にはインタビューが殺到しますが、とっさのことであるからこそ本人の生の声を聞くことができます。取り繕うこともなく、飾ることもない言葉が多いようです。私はいつも「そうか、そうだよな~。やはりちがうな~」などと感心してしまうことが多いのですが、冷静で辛口な隣人は「そんなことはじっくりと人生を歩んでいる人や、自然と向き合って謙虚に生きている人からはよく聞く声だよ」といわれます。それはそれで意味のあることでしょう。「老若男女・賢愚を問わず、誰が語ろうが真実は真実である」ということですから。それにしても今回も心地よい率直な言葉を聞くことができ、気持ちが晴れ晴れとして気力を頂きました。いろいろな言葉や出来事に感動するか否かは、一人ひとりの感性によるのですから、感動の押し売りなどできませんが、お二人のコメントを2~3ご紹介したいと思います。エッセンスを並べるだけですので、それぞれに意のあるところをお汲みとり頂ければ幸いです。

大村さんは「科学者は人のためにならなきゃ」と述べました。『幼少期、祖母から「とにかく人のためになることを考えなさい」と言われてきた。研究者になりましても、分かれ道に来たときはそういう基準を考えた』と。次に「もっと勉強しなきゃいかんと思った」と述べました。それは、山梨大学を卒業して東京都立墨田工業高校定時制の教師となった大村さんが、『夜間の工業高校だから、近辺の工場から仕事を終えて駆け込んできて勉強する人がほとんど。あるとき期末試験の監督をしていると、飛び込んできた(生徒の)一人が、手に油がいっぱいついていた。私は一体何なんだ。ショックだった。もっと勉強しなきゃいかん。本当の研究者になろうと思った』。(楽な道を行くと本当のいい人生にならない)と。
また、「成功した人は人より失敗している」とも語りました。それは『やったことはだいたい失敗するわけでしょう。思ったよりはるかに難しかったり、うまくいかなかったり。しかしうち5回、6回、7回やっているうちに、びっくりするぐらい上手くいくときがある。その味を味わうと、あとは何回失敗しても怖くない。それが研究の楽しさですよね。1回失敗してそれでだめだと思ったらだめですね。失敗したからよかった、これは絶対役に立つと思いながら続けることが大事ですよね』。さらに『いろいろやりたいことはあると思うけど、これやると失敗する、じゃなくて、やってみようという気を絶えず起こさなきゃだめ。成功した人は失敗を言わないですよ。でも人より倍も3倍も失敗している。だから1回失敗したからって、若い頃はどうってことないよ。とにかくやりたいことをやりなさい』(記者会見場に詰めかけた学生に失敗を恐れないよう説いた)と。

最愛の奥様への感謝も忘れることはありません。『真っ先に報告したのは「心の中で亡き妻・文子」研究者としていちばん大事なときに支えてくれた』と、16年前に亡くなられた奥様への思いを述べました。さりげない言葉の一つひとつに重みがあると感じたのは私ばかりではないように思います。

次に梶田さんは「グループ全体の栄誉」と述べました。『ニュートリノ研究というのは、一人でできるようなものではなく、スーパーカミオカンデですと100人を超えるチームが一つの目標に向かって共同で研究をして、成果を出していくというようなプロジェクト。ノーベル賞には、私の名前を出してはいただきましたが、スーパーカミオカンデ、そしてカミオカンデの研究グループが認められたということだと思う』と。

「地道な継続」が大切と述べました。『きちんと(研究を)やっていけば、何かに結びつくんじゃないかと思ってきちんとやった。自分の進んでいる道が正しいと思って頑張った』と。

「探究心が大切」と述べました。『何かがすぐに役立つものではなくて、人類の知の地平線を拡大するような研究を、研究者個人の好奇心に従ってやっている分野』。『われわれの住む宇宙というのは、まだまだわからないことがたくさんあります。大きい問題は、1日や2日の短い研究では解決できるものではなく、たくさんの人が興味を持って長い年月をかけて解き明かしていくというもの。そのような宇宙の謎解きに、若い人たちに是非参加していただきたい』と。研究グループへの言葉やそれぞれの言葉に梶田さんの研究者としての謙虚さと精神があるように思いました。

お二人の言葉を聞いて、「その道に優れた人の見識はその道にしか通じないものもあるが、万般に通じるものがあり、その道の優れた人は他の世界(未知の分野)に対して謙虚である」ことと「奥行きの深い言葉にはその人の人間性がにじみ出ている」ことがよくわかりました。人にも言葉にも出会いがあります。それを活かすことが出来るか否かは一人ひとりの感性によりますから、感性を磨いてゆきたいものです。

相武山 山主

2015年10月27日

修学の好季

実りの秋、相武山南西側の田んぼでは稲刈りが行われ、刈り取られた稲が干されて、いよいよ秋も本番という風情です。味覚の秋といわれるように、ブドウ・梨・栗・柿・リンゴ・みかんと次から次に果物が店頭に並べられています。まだ味わってはいませんが新米も出回りはじめました。秋ならではの味覚を頂くことができるのですから、自然の大きな恵みと栽培されている人々に感謝の思いが湧いてきます。旬の恵みを「お初(初物)」といいますが、私たち信仰者はお初を頂くとまずご本尊様にお供えいたします。それは、「自らが妙法によって生かされている存在であり、一切は妙法の果報であり恵みである」と信じている証です。鈴を打って唱えるお題目には妙法への篤い感謝の心が込められているのです。

さて、1月から毎月開催している日曜法話会も今月13日の法話会で今年9回目となりました。新寺院を建立した翌年の平成23年3月から始めた法話会は5年目に入り、檀信徒以外の一般の参加聴聞者も毎回6名から10名ほどおられ、いつも25名~40名ほどのご聴聞を頂いています。法話会は「仏教に親しむ」を趣旨としていますので、これからもより多くの方に足を運んで頂き、仏教に親しむとともにその教えを正しく理解して、人生に活かしてほしいと願っています。今年は10月と11月の2回を残すだけとなりましたが、いつも法話会でお話しする「世相」と「レジュメ」の構成には苦労しています。前日まで真剣にテーマと向き合い、当日はできるだけわかりやすくと心がけて法話に努めています。

13日の法話会で「世相」としてピックアップしたのは「北関東豪雨災害」についてでした。10日から11日にかけて北関東地方をおそった豪雨は、鬼怒川の氾濫をもたらし大きな水害となりましたが、その原因は積乱雲が帯状に並ぶ「線状降水帯」によるということです。台風18号と17号の影響をうけての集中豪雨で、鬼怒川の堤防が決壊、想定外の豪雨に大きな被害が出ました。はじめに状況について説明し、「災害の人的原因、インフラや住宅の深刻な損壊、農作物と耕地の被害などを解説」しました。被災者の「自分のところは大丈夫だと思っていた。まだ大丈夫だと思っていた。まさかこんなことになるとは・・・。」という声を紹介しました。その上で、「何が起こるかわからないのが人生。大自然の活動に油断しない。過去の災害を参考にする。早めの避難勧告等々」災害への心構えを持つことをお勧めしました。最後に学ぶべきこととして「地球も一つの生命体。(あらゆる自然現象は地球も生命体として存在している証)。自然災害と向き合いながら生きる。他所の災害は明日の自身と受け止める。無駄でも良いから準備をする(何も無ければ幸い)。人生への教訓とする(災害を自らの人生にあてて見る)」をお伝えして世相への意見としました。

続いて今月のテーマ「法華経のこころ(2)」。内容は「法華経とその構成について」でした。「『法華経』(ほけきょう)は、初期大乗仏教経典の1つ。サンスクリット語では『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』といい。『正しい教えである白い蓮の花の経典』と訳される。法華経は仏教伝播の流れに乗って中国に渡ってきた。漢訳されたのは部分訳・異本を含めて16種といわれているが、現在まで完訳残存しているのは、「『正法華経』10巻26品(竺法護訳、286年)、『妙法蓮華経』8巻28品(鳩摩羅什訳、400年)、『添品妙法蓮華経』7巻27品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年」と解説。

次に「漢訳での総称を法華経というが、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』から「妙」と「蓮」が省略され、「妙法蓮華経」の略称としても用いられている。漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、最も優れた翻訳として受容され、天台宗や多くの宗派の信仰上の所依の経典となった。天台法華宗、日蓮法華宗では、『法華経』を中心に『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経として、「法華三部経」と呼んでいる。鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は『観音経』として宗派を越えて普及した。」ことを説明。

続いて「鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は序品第一から普賢菩薩勧発品第二十八まで、28品の章節で構成されており、内容を大別すれば『「本門と迹門』となる。隋の時代、法華経を中心に仏教の統一をはかった天台大師智顗は、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとするもの。本門とは釈尊が久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かしたもの。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬える。天台宗や法華宗一致派は両門を対等とし、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とする。」と述べて法華経の構成をまとめました。
最後は日蓮大聖人の報恩抄(ほうおんじょう)『何(いず)れの経にてもをはせ 一経こそ一切経の大王にてをはすらめ。而(しか)るに十宗七宗まで各々諍論(じょうろん)して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふところに一つの願を立つ。我八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく 一切経を開きみる ー 略 ー 仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべき』を拝読、宗祖の法華経受持の方途を示して9月度の法話を終了。

いつもの法話会より少し難しく思われる方が居られたかもしれませんが、一度に理解しなくても良いのですから、法話に親しみながら法華経への理解を深めて頂くことを願っています。時は秋、仏教を修学する好季といえましょう。10月の日曜法話会は18日(日)午前11時からの開催です。テーマは「法華経のこころ(3)」。法華経の中心テーマに焦点をあててその内容を解説し、法華経信仰の尊さをお伝えいたします。ご家族友人誘い合わせてのご参加をお待ちしています。

相武山 山主

 

2015年09月27日

夏の終わりに

7月の中旬から8月の中旬までの猛暑がうそのように涼風がわたり、最高気温が30度を越えることもなく相武山周辺はすっかり秋の気配です。たくさんのトンボが秋空を気持ちよく舞っていますし、田んぼの稲穂も実をつけて頭を垂れ始めています。これから多少暑さの戻りがあるかもしれませんが、このまま実りの秋を迎えそうです。

先週の23日(日)は午前10時から境内・駐車場の草取り整備。11時からの法話会の前に1時間ほど世話人さんを中心に作務をして頂きました。日曜法話会常連の松田さんが10時前にお出でになったので、時間を間違えられたのかと思いましたら、すっかり作業の用意をされて駐車場の草取りをされていました。松田さんは当山の檀信徒ではありませんが、日蓮大聖人への信仰をお持ちの方です。当山より相武山だよりなどをお届けしていますので、ご覧になってご参加頂いたようです。松田さんは5年目に入った法話会にはほぼ皆勤賞で、いつもまじめにレジュメに目を通され聴聞されておられ、その学ぶ姿勢には敬意を表しています。

今月の日曜法話会は「仏事の心得」でした。6月の法話会では「お経のこころ」、7月の法話会では「法華経のこころ(1)」で、仏教の基本となる仏典と私たちが信行している法華経について解説しましたが、7月と8月のお盆、9月の秋季彼岸の間の法話会ですので、今月は日頃良くわかっていない仏事についての解説です。信仰の厚薄によって仏事への心構えは異なりますが、仏事の大切さを教えてくれる年配者も少なくなり、ライフスタイルや価値観の変化などから仏事も疎かになっているのが現状です。このような世相ですから、信仰に関心のない方や否定される方には価値観が違うので理解されることは難しいと思いますが、人間としての心や精神性を大切にする方、人間性や情操に価値をおける方に、理解を深めて頂けるよう努力しなければならないと思っています。

法話会の「世相」は高校野球についてのお話。高校野球選手権大会がさまざまな感動をよぶ理由について解説し、「結果を受け容れる。努力は無駄になることはない。今に集中すること。失敗に込められた教訓。人生には遇不遇がある事を知る。一途に打ち込めばそこには人生への教訓が満ちている。高校野球を楽しもう」と私の意見をお伝えしました。テーマの「仏事の心得」では、「仏事は仏道を敬い教えを現わすものであり、尊崇する仏教の教えと信仰を明らかにして、人生の節目を意義あるものとするものであること」を述べ、、「仏道の教えを伝承し、菩提寺の護持にも貢献するもの」であることをお伝えしました。

法話会終了後は聴聞された方々や世話人さんと納涼会、夏の終わりを意識しました。遠方から法話会に参加された方も居られ、お腹のすいた時間でのタイミングの良いランチタイムでした。前日から用意した食材を皆んなで焼いてバーベキューを楽しみました。一緒に食事を楽しむことは互いに打ち解け合う格好の場となります。準備をする時から、食材を調理して頂く折々に会話が弾みます。せっかく同じ時空に心身を置くのですから、心を開いての語りは食事にいっそうの味を引き立てます。

歓談も終りを迎える頃、南雲さんの娘さんのエリ子さんが見えました。お父さんと連絡をとることもなく突然のお参りで、納涼会に参加していたお父さんもびっくりでしたが和やかにご対面です。エリ子さんはお盆にお参りできなかったお母様へのお参りということでした。年に数回はお参りにみえるエリ子さんですが、二人の娘さんもすっかり大きくなったようです。失礼かなと思いながらお歳をきけば40代半ばということですから、歳月の流れは早いな~と、ついうなってしまいました。はじめてお会いしたのは昭和56年、エリ子さんが小学校の6年生頃だったでしょうか、とても愛くるしい娘さんでした。亡くなられたお母様もまだ40才をすぎたばかりで、皆んな元気溌剌でした。ついつい35年前の頃を思い出していました。そういえば、来年の春に開創35周年を記念して文集を発刊しようと、現在企画を進めています。〆切を少し延ばしてより多くの方に寄稿頂きたいと思っています。檀信徒の皆さまにはご協力よろしくお願いいたします。

相武山 山主

 

2015年08月30日

蝉も鳴き始めました

横浜では6月の末頃から今年の梅雨の本番を迎え、7月の9日まで半月ほどお日様の顔をほとんど見ることがありませんでした。といっても九州地方のように激しい豪雨があったわけではありません。静かに梅雨らしい鬱陶しい日々が続いたということです。それでも紫陽花をはじめ夏を前に季節の草花が次々に野原を彩ってゆきますから、季節と自然の運行の妙を思います。10日に晴れ間がのぞくと昨日までの一週間、真夏を思わせるような厳しい暑さが続きました。
4日ほど前からは蝉の音も聞こえるようになりました。蝉の音といえば夏の季語ですから、気象庁から梅雨明けのご託宣はありませんが、夏がやってきたんだな~という気分になります。そういえばリョウマの散歩の折りにトンボも見かけるようになりました。間もなく夏の到来のようです。この一週間は全国各地から35度~39度という猛暑が報じられました。30年~40年前に比べて気温の高さに驚かされます。やはり地球の温暖化が進んでいるのでしょうか。

自然科学研究者からの指摘では、温暖化は私たち人類の責任といわれていますから、次の時代のためにも、今を生きる私たちがしっかりと考えて行動することが求められています。人類の生活の在りようによって、目に見えないかたちで複雑に進む温暖化ですから、「ここが問題」「こうすれば」という単純な解決策があるとは思えません。地球を一つの生命体として考えて対処することが肝要かと思うのです。それでも指をくわえて見過ごすことはできないのですから、温暖化が問題であることを一人ひとりが認識し、より多くの人々と自然の大切さ語り合うなど、意識を共有することが賢明ではないかと思います。

12日(日)は午前11時から日曜法話会でした。テーマは「法華経のこころ」で、6月のテーマ「お経のこころ」の続編です(法話会については他のブログで解説します)。その後、私の師匠である日達上人の第37回忌法要を奉修。私は昭和38年3月、日達上人の弟子として得度を許され仏門に入りました。私の今日があるのはひとえに日達上人の御高徳によります。在りし日のお姿をお偲びして、参詣者と倶に心を合わせて読経・焼香・唱題と御報恩を申し上げました。法要後には私から日達上人の御生涯と近年大石寺の歩みについてお話を申し上げました。

13日(月)は月例の日蓮大聖人の御報恩講でした。猛暑の中、宗祖へのご報恩を思う信心の篤い方々が参集。ご一緒に読経・唱題し、懇ろに宗祖への御報恩を申し上げました。法要後の法話では「上野殿御返事」を拝読。熱原法難の起こることを覚悟された宗祖が、内外からの障魔に信心を破られないように、上野殿(南条時光殿)の信心を励まされていたことをお伝えしました。

15日(水)は7月お盆を執り行う方々の盂蘭盆法要でした。12日から14日までそれぞれ墓参などの参詣があり、当日は参詣者と倶にご先祖や有縁精霊への追善供養を申し上げました。法要後の法話は宗祖の「盂蘭盆御書」を拝読。盂蘭盆のいわれについて「盂蘭盆経は中国で作成されたお経、仏教の救済と神道の祖先崇拝が融合してお盆の行事となっていること。お盆の歴史は日本書紀に遡ること。塔婆を建立して供養されたご先祖や有縁精霊が喜んでいること」などをお伝えしました。当山では檀信徒の希望もあり、7月と8月に盂蘭盆会を執り行っています。

今日は台風11号が西日本に近づいているようですが、被害の少ないことを心より祈っています。

相武山 山主

 

2015年07月16日

久遠の釈尊について

このところ何かと追われてブログをアップすることができませんでした。この間、谷戸の田んぼでは田植えが行われ、市民の森ではホタルが舞い、梅雨に入ってアジサイがその彩りを深めています。

そんな折りに日曜法話会に参加されている方から電話を頂き、「5月の日曜法話会には参加できなかったんですがどんな内容でしたか」というお尋ねがありました。仏教や信仰に関心をもって頂けるだけでも有り難いことですが、少しでも学ぼうという気持ちはさらにうれしいことです。
先月の法話会のテーマは「久遠の釈尊」でした。4月に「釈尊の道」と題して釈尊についてのお話をしましたが、その時には人間釈尊の一生を中心にした解説でした。インドで覚者となった釈尊から永遠の仏としての「久遠の釈尊」についてもお話をしたかったのですがタイムオーバーとなってしまいました。5月はその続きで「永遠の存在としての釈尊」についてのお話です。

テーマに入る前の「世相」では、作家の下重暁子さんのベストセラー「家族という病」について。新聞などでの見出しには「家族ほどしんどいものはない」「殺人事件で最も多いのは”家族間”である」「最後は一人」等々、そこには家族という一般的には肯定的なイメージに対して、批判的、懐疑的な言葉が並んでいます。すでにインターネット上ではさまざまな書評がアップされていましたが、私自身がまだ読んでいなかったこともあり、内容にふれることはなく、見出しや評論を紹介しながら次のような意見をのべました。筆者は「既成の価値観と向き合う姿勢をもって疑問を呈し、所感を述べているが極論を押しつけているわけではない」こと、「個々を尊重する姿勢と家族の在り方の問題をテーマとしている」ようであり、私たちは刺激的な言葉に振り回されることなく、「家族もふくめて何ごとにもプラスとマイナスがあることを理解し、さまざまな意見を参考に自らの見識を養う」ことが大切であるという所見を述べました。

テーマの「久遠の釈尊」について。
前回は人間釈尊の存在について、釈尊を知ることが仏教を知ることであり、その生涯を学ぶことは仏教徒として当然のこととお話しました。人間釈尊から覚りを得てブッダと成った釈尊は、やがて法華経などによって「釈尊は永遠(久遠)の命を持ち人々を救済する存在」であることが明かされます。「永遠のほとけ」ということになります。それは釈尊は法(真理)を体得したのであり、法こそが釈尊の実体であるということを示しています。しかし、愚かな凡夫には、永遠の救済者の存在とその法は、信じがたく理解しがたいものです。法華経の方便品にはそのことを「難信難解(なんしんなんげ)」と説かれていますので、訓読して難信難解についての説明をいたしました。続いて「生身の仏陀と法身の仏陀」「大乗仏教と仏身論」「法・報・応の三身(真理と智慧と慈悲のほとけ)」などについての解説。少し専門的な領域に入りましたが、ある程度のご理解は頂けたのではないでしょうか。

続いて釈尊の久遠を説く法華経如来寿量品。『我成仏してより已来(このかた)、甚(はなは)だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず。諸の善男子、我れ本(もと)、菩薩(ぼさつ)の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶(なお)未(いま)だ尽きず。復(また)上の数に倍せり。・・・・・』について説明。

さらに、この寿量品の自我偈『我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり  常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり  衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く  我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ』を訓読。 「はるか久遠の昔に真のさとりをえられた仏は、数え切れない永い間多くの衆生を導いてきた。時に涅槃のすがたを示すがそれは方便であり、真実には滅度することなく、常に妙法を説いて人々を救済している。しかし、仏はいつもこの世界におられるけれども、顛倒の衆生には見ることができない」という経意を解説。
永遠のほとけである「久遠の釈尊」存在について説明し、本仏の永遠性を信じ、その時空を超越した救済を尊ぶところに法華経の信仰があることをのべ法話としました。

相武山 山主

2015年06月16日