相武山 妙法院のブログです。
続・宮澤賢治の世界にふれる
2月16日(日)午前11時からは月例の日曜法話会を開催。法話会のテーマは前回の継続。「続・志に生きる」(続・宮澤賢治の世界にふれる)でした。テーマに入る前に当山の法話会の趣旨は「仏教に親しみ、その教えと信仰を理解して人生の糧として頂きたい。法華経の教えや日蓮聖人の教えにふれて頂きたい」を説明。
「世相に想う」では、「今冬の記録的な豪雪」と「八潮市道路陥没事故」について私見を述べました。はじめに二つの世相から『私たちは仏教で説かれる「諸行無常の世界」に生きている。あらゆるものが変化して止まない世界(縁起所生)であり、何が起きても不思議ではない世界に生きている』との仏教的な認識を持つことが大切であることをお伝えしました。
《今冬の記録的な豪雪》
「今の冬は暖冬とも思われるが雪国では例年にない豪雪に苦慮している」「乾燥した晴天が続く関東ではわからない雪国の苦労について」を解説。
続いて雪国の事情に疎い方のために「豪雪被害とは!!!。・路面凍結などによる交通事故や歩行中の転倒事故。・道路の通行止めや車両滞留、鉄道・空運などの運休や立ち往生。・集落の孤立や家屋の損壊・倒壊など。・雪崩、除雪中の転落事故など。・農業用ハウスの倒壊や果樹の枝折れ等の農業被害など。・停電など」を北海道での生活を事例に説明。さらに、雪による死傷者について「近年は毎年約100人程度。その多くは除雪作業中の事故によるもの。負傷者は相当数に上る」ことを紹介。
自然現象は人智を超えるものであり、常に自然災害への心構えを持たねばならないことをお伝えしました。
《八潮市道路陥没事故》
令和7年1月28日午前9時50分頃、埼玉県八潮市道路が陥没、トラックが転落しました。現在まで運転手の救助が続いています。時系列で事故とその対応を説明。
その後、事故への想いと学びとして「・陥没事故に遭遇し犠牲者となった運転手の驚愕と悲哀。・関係者の苦悩と悲しみ。・対策・対応にあたった関係者(消防、行政、住民・・・)の心労。・すべての存在は老朽化し損壊する。・社会インフラも諸行無常を免れない。・固体として絶対なるものは存在しない。」を解説。
その上で、この世界は「いつ何が起きても不思議ではない世界」であり、人の身の上に起きたことは我が身にも生ずると認識すること。災害や事故、病気や怪我、老化や死、人生は何が起きるかわからないと知ること。カルマ(業)論(なぜ・・・、どうして・・・、この人が・・・)に脅かされてはいけない。極端な不安や心配に陥ることなく、バランスをとって事物・事象を見つめ、心身の調和をはかることが肝要」とお伝えしました。
続いて「続・宮澤賢治の世界にふれる」。
前回の略歴紹介「誕生から少年期」~「妹 トシの死」「詩集と童話出版」に続いて、
《羅須地人協会》
1926年(大正15年)3月31日、花巻農学校を依願退職。農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習を始めた。6月『農民芸術概論綱要』起稿。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談に応じた。
《病臥・両側肺浸潤》
1927年(昭和2年)8月10日、高熱で倒れ、花巻病院で両側肺浸潤との診断を受ける。以後、実家で病臥生活となる。
《東北砕石工場技師》
1930年(昭和5年)、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる。1931年(昭和6年)2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資を行って花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった。しかし技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り、販売などで東奔西走する。
《賢治の死》
1933年(昭和8年)9月17日から19日まで鳥谷ヶ崎神社のお祭りが行われ、賢治は門口に椅子を出して座り、神輿や山車を見物した。翌日の朝、昨夜賢治が門口にいるのを見た農民が相談に来た。話をした後、賢治は呼吸が苦しくなり、往診した医者から急性肺炎の兆しと診断される。
9月21日、午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」と唱題する声が聞こえたので家族が急いで二階の病室に行ってみると、賢治は喀血して真っ青な顔になっていた。政次郎が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と語った。
以上の略歴を紹介しました。
次に前回、読み上げた「雨ニモマケズ」は、「このように人生を歩みたい」と願う宮澤賢治の心象世界を手帳に記したものであり、病気への問い、法華経への信仰、死を意識した病床にて執筆されたものであることを解説。
その発見については、
『賢治が没した翌年の1934年2月16日に東京・新宿で開催された「宮沢賢治友の会」の席上。この会合には、招かれた賢治の弟・宮沢清六が賢治の遺品である大きな革トランク(上記の壁材セールスの際にも使用した)を持参していた。席上、参加者の誰かがこの革トランクのポケットから手帳を取り出し、他の参会者も回覧した。その模様を、同席していた詩人の永瀬清子が後に「この手帖がこの夜のみんなの眼にはじめてふれた事については疑いがないように私は思う」と書き記している』ことを紹介。
むすびには「宮澤賢治のことば」を紹介。
『世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない』
『自分が真実から目をそむけて子どもたちに本当のことが語れるのか』
『誰だって、本当にいいことをしたら、いちばん幸せなんだねぇ』
『我々が出来ることは、今を生きることだけだ。過去には戻れないし、未来があるかどうかも定かではない』
『一つずつの小さな現在が続いているだけである』
『宇宙は絶えずわれらによって変化する。誰が誰よりどうだとか、誰の仕事がどうしたとか、そんなことを言つてゐるひまがあるか』
『無意識から溢れるものでなければ、多くは無力か詐偽である。』
『人の心を本当に動かすにはその人の体験から滲み出る行いと言葉しかない。知識だけでは人は共感を感じないからだ』
『真の幸福に至れるのであれば、それまでの悲しみは、エピソードに過ぎない』
『永久の未完成これ完成である』
『求道、すでに道である』
以上をお伝えして2月度の法話会は終了。
《詳細は相武山だより「不染」のウエヴ動画を参照ください》
相武山 山主
2025年02月28日