相武山 妙法院のブログです。
10月度の日曜法話会は御会式の奉修が最終週に控えていたため、月初の6日に開催。
テーマは「娑婆を生きる(上) 思うようにはならない人生」でした。
はじめに当山の日曜法話会の趣旨「仏教に親しみ、その教えと信仰を正しく理解願いたい。法華経の教えや日蓮聖人の教えにふれて頂きたい」をお伝えし、続いて、法話会への参加から「何ごとも継続が肝要、仏教のおしえを地道に積み重ね、人生に活かしてほしい」。「仏教寺院の役割と存在意義について」などをお伝えしました。
法話会は世相を仏教の視点から観る「世相に想う」と仏教の教えとその信仰を学ぶ「仏教に親しむ」の2部構成としていますが、今月のテーマは2部に通じるものであることを説明して開会。
《娑婆とは》
今月のテーマは、仏教では私たちが住む現実世界を娑婆と呼んでいますが、なぜこの世界を娑婆と呼ぶのか、その理由と意味を学んで人生の糧にして頂きたいと考えました。また、同じ仏教でもその宗旨によって娑婆の概念や捉え方が異なっていることも一緒に考えてみたいと思った次第。
一般的に娑婆という言葉は「自由な世界」という意味で使われています。刑務所や軍隊など閉鎖的な場所にいる人が、「シャバに出る」などと言って、外の自由な世界を指す場合に用いたり、不自由な状況から解放されて自由に過ごせる喜びや解放感を表現するときに使用されます。また、「あの人はシャバっ気が多い」等と言って、日常会話で名誉や損得に対して、人並み以上の関心を持つ人を指しても用いられます。しかし、その基本は仏教用語としての「娑婆」であり、煩悩などによって悩みや苦しみの多いこの現実世界を指す言葉です。
《娑婆の語源と仏教》
娑婆という言葉の語源について一般的にはサンスクリット語の「サハ」に由来するといわれています。サハには、「耐える」「我慢する」といった意味があり、苦しみが多いこの世を生きることを表していると考えられています。この言葉はインドで仏教が創始された時代にはすでに使われていたようです。
仏教ではその原義を「堪忍」や「能忍」として、衆生がさまざまな悩みや苦しみを耐え忍びながら生きている世界と理解。私たち凡夫は世俗的な欲望や執着にとらわれ、苦しみから逃れられない状態に在ると考えました。また、そのような世界であるからこそ、悟りを求める絶好の修行の場であると考え、自らの煩悩や苦しみと正面から向き合い、仏の教えを実践してまことの安らぎを得なければならないと説いたのです。
《娑婆を生きる》
幼子が青少年となり、壮年となって老境に到るまで、人生を歩んで行くと誰もが「人生思うようにはならない・・・」ことを自然に知ることとなります。その理由を求める人も求めない人もおられるでしょうが、仏教ではその基本思想として「諸行は無常。あらゆる存在は変化して止まない」という真理を説き、その理由を「あらゆる存在はすべては縁起として在るにすぎない、縁(さまざまな条件)によって存在するのであるから、縁が変化する時にはその存在そのものも変化する」という真理を明示します。そのため、仏教を学ぶ機会に恵まれた方ならば「人生思うようにはならないな・・・」ということは理解できることになります。
また、仏教では「生・老・病・死」の四苦、さらに「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」の四苦を加えて、人生は四苦八苦に満ちていると説きます。いずれも「因縁生起・諸行無常」の真理によるものです。この四苦八苦は誰もが否定できない真理ですから、感情を差し挟むこと無く真理と認めなければなりません。したがって、人生は夢と希望を持って歩まなければなりませんが、他方、思いどおりには行かぬと確かに認識することも大切になります。
《志を立てて人生を歩む》
私たちは現実世界をよく理解し、自身の資質と環境を知識した上で、志を立てて人生を歩むことが大切です。立志は自らの人生を導くものであり、立志しなければより良い人生は得られません。しかし、立志を全うすることが実に難しいのです。
立志を全うするためには「人生のすべてが学びである」という認識が大切であり、悦びや楽しみばかりでなく、悩みや苦しみ、辛さや悲しみにも意味があることを理解しなければなりません。幸も不幸も人生に起こるすべては自らに必要なことと信じて人生を歩むことが肝要であると私見をお伝えしました。
※詳細は妙法院だより「不染」のウエブ動画をご参照ください。
相武山 山主
2024年10月30日