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相武山 妙法寺 ブログ

日本人の「仏壇離れ」

今月初旬、「日本人の仏壇離れ」という記事をネットで目にしました。そこでは、「最近は仏壇を置く家が少なくなったといわれています」とことわり、手土産を仏壇に供える行為についての意見が展開されていました。

『祖父母や父母から「いただきものは、先に神棚や仏壇にお供えしてからいただく」と教えられた人もいれば、「持参する側としては、中身も確認せずいきなり仏壇にお供えというのはちょっと抵抗あり」という意見もあります』ということでした。その上、『確かに、仏壇にお供物をしたからといって、実際にご本尊やご先祖が食べるわけでもないし、水がないからといって喉が渇いたと訴えるわけでもありません。文化の違い、考え方の違いと言ってしまえばそれまでですが、いただいたものをそのまま仏壇へお供えするという行為、現代人はどのように捉えているのでしょうか』と疑問を呈しています。

頂戴した手土産を仏壇に供えることへの意見ですが、ここでは弔問に訪れた時のことではなく、一般的な訪問での一コマという設定のようです。昭和の時代に教育をうけてきた私たちの世代では当たり前のことで、信仰はなくても仏壇があれば、「まずご先祖様に・・・」という姿が一般的でした。まして、仏教を信仰する私たちは「まず、御本尊様にお供えしご報告・・・」というかたちになります。今現在も私などはその姿勢に変わりはありません。

時代の変遷によって意見や価値観、ライフスタイルが大きく変化するのは世の常ですが、「変えた方が良いこと、変えて良いこと、変えなければいけないこと、変えてはいけないこと」があると思います。思想信条の自由が保障されている現代では、当然、その判断は個々の見識によるものです。
したがって、頂きものを仏壇に供えることは頂いた方の意思であり、その姿を見て持参した方が肯定的に捉えることも否定的に捉えることも自由です。これは誰もが理解していることですが、ネットで取り上げられたのは時代によって価値観が変わることの一つのテーマとみられたのかもしれません。

現代は価値観の多様性がうたわれ強調される時代ですから、まずは自分自身が「なぜそのように考え、なぜそのように行動するのか」という問いに答をもつべきだという意見かもしれません。しかし、言葉や理屈で説明できなくても「親や友達など信頼する人から教えられたから。そのようにすると良いと思えるから。心地よいから。」でも良いのではないでしょうか。

一般的に「仏壇は位牌をまつるもの」と誤解されている向きもありますが、そもそも仏壇は仏教信徒が信仰する菩提寺の御宝前をシンプルにまとめて自宅に再現したものです。信仰の証としての御本尊を安置し、仏具を調えて朝夕信行をささげる尊い信仰の空間なのです。もちろん、そこはご先祖を敬い供養する世界ともなっていますが、基本は仏法の御本尊をお祀りする世界です。

仏さまとその教えによって人生を支えられ護られていると信じる仏教者は、自らは仏さまと倶にあると信じていますから、自らに頂戴した頂き物をまず仏さまにご披露して報告申し上げ、家族を見守っておられるご先祖にも報告しているのです。そこには自分自身が仏法によって支えられ、ご先祖の命を受け継いで存在していることが無意識に表現されているのです。

相武山 山主

 

 

2020年02月28日