相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

土石流の映像から

現代はスマートフォンなどの普及によってさまざまな映像が瞬時に報道される時代。今や誰もがカメラマン、誰もが動画編集提供者という感じです。今では多くの方が気軽に利用しているスマホ(スマートフォン)ですが、その幕開けは2007年にアメリカのアップル社が「iPhone」を発売したことによります。2007年といえばたった14年ほど前のことです。

 アップル社の前にはIBM社が1992年に開発した端末があり、1994年にはIBMがタッチパネル搭載の端末を発売しています。しかし、スマートフォンという名称の起源は1996年ノキア社発売の端末からのようで、広く利用されるようになったのはやはりアップル社のアイフォーンからでしょう。

日本でも2008年にアイフォーンが登場。それ以来スマホが携帯電話の主流となり現在に至っています。携帯電話がレンタル提供から売り切り制となって、多くの人々に提供されるようになったのは1994年(平成6年)頃のことですから、わずか14年くらいで携帯電話の端末機が大きく変化したことがわかります。その後のスマホの活躍は皆さまご承知のとおりです。

【熱海市伊豆山の土砂崩れ】
地球温暖化の影響か近年7月には全国各地で豪雨災害が多発しています。しかし、災害の発生する度に検証がなされ、気象予報も精度が上がり、豪雨災害への意識も高まってきたので災害は起こったとしても被害は縮小して行くことを私は希望していました。ところがその望みも熱海市伊豆山での土石流災害で一気に吹き飛んでしまいました。

梅雨前線による大雨に伴い、令和3年7月3日10時30分頃、熱海市伊豆山の逢初川で土石流が発生。11時前後にはすさまじい映像がテレビから流れてきました。土石流が多くの家屋を押し流しながらものすごい勢いで下って行くのです。これは何ごとだと唖然としてしまいました。詳しい解説はありませんでしたが、とんでもない災害が発生したことだけは瞬時に理解できました。

その後の報道によれば
「午前8時20分ごろ、逢初川近くの道路で大量の泥水が流れる様子を住民が目撃。午前10時28分、『向かいの家が地滑りで跡形もなく流された』という通報があり、熱海市消防署の消防隊が出動。伊豆山地区のバス通りが土砂で通れず、通報現場にはたどり着けない状況で、消防隊が手前に車両を止めて周辺の住宅を調査していたとき、大規模な土石流が発生し、多くの住宅などを巻き込みながら流れ下ったという。
この瞬間の様子は住民が撮影してSNSに投稿。国内外のメディアでも大々的に報じられた。土石流は逢初川を南東方向に向かって海までおよそ1 kmにわたって流れ出た。これにより住宅131棟が被害を受け、小規模なものも含めて10回以上の土石流が繰り返し発生した」
という災害です。

気象庁によると当時は西日本から東日本にかけて停滞する前線に向かって暖かく湿った空気が次々と流れ込み、大気の状態が非常に不安定となり、東海地方から関東地方南部を中心に記録的な大雨となっていたということです。同じ熱海市の網代では3日午後3時20分までの48時間で321 mmの降水量を記録し、現地の7月の観測史上で最多となっていました。また、被災地などには前日の12時30分に土砂災害警戒情報が発表されていました。

【人災との指摘】
伊豆山地区の土石流災害の原因については激しい豪雨が主因ですが、土石流の起点周辺の「盛り土」が被害を誘引しその拡大につながったと指摘されています。災害は雨量や地形、地質の悪条件が重なった発生したものですが、盛り土に流れ込む雨水の排水が十分に機能していなかった可能性を複数の専門家が指摘しています。

「盛り土」はそのままでは住宅地や道路の建設に適さない山や丘の斜面に、土を盛って人工的に平な部分を作ること。今回の崩落はその盛り土を起点としています。「手抜き工事」や「違法投棄」などが行われていたかどうかは不明ですが、今までも行政からの注意や指導があったようですから、今後の厳正な調査が求められます。

現代は地図の精度や記録が格段に向上していますから、盛り土の開始前から現在までの変遷を詳細に調査すれば、災害の実態と主因が解明されることでしょう。少し時間はかかるかもしれませんがしっかりと検証してほしいと思います。また、全国には同様の懸念される盛り土地域もあるようですから併せて調査することを望みたいと思います。

豪雨が原因の一つであることは論を待ちませんが、人間が人工的に工作したものが原因の一つであるとするならば、間違いなく人災と呼ぶべきではないかと思います。甚大な被害と多くの人命が失われた災害ですから、今後同じような災害を発生させないためにも皆で注視して行かねばなりません。

この土砂崩れによって27名もの方々が犠牲となりました。突然の災害に貴重な人生を奪われた方々、かけがえのない家族を失って悲嘆に暮れるご遺族にはお悔やみの言葉もありません。災害の復旧には県の内外から消防、警察、自衛隊などが1000人超の体制で支援。懸命な復旧作業が続けられていますが、被災地域の方々は不自由な避難所生活を余儀なくされています。速やかな復旧と平穏な生活が早くもたらされますよう心より仏天に祈ります。

相武山 山主

2021年07月27日

コロナ禍の仏事諸相

昨年からのコロナ禍で、「法事はどうすれば良いでしょうか?」というお尋ねをよく頂きます。
【法事とは】
法事というのは本来仏教行事のすべてにおよぶ表現ですが、現在、一般的には故人を偲び冥界の幸せを祈念する年忌法要と受け止められています。一年に一度の祥月命日などに寺院や家庭において、僧侶を招いて亡くなられた方に供物をそなえ、仏道の功徳を回向する法要のことです。日本の仏教では故人の葬儀の後には七七日忌(四十九日忌)法要や百カ日忌法要が営まれ、その後、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十五回忌,二十七回忌,三十三回忌,五十回忌と追善の供養が営まれるのを常とします。

檀家制度などによる仏教の習慣化の名残もあり、昭和の時代まではほとんどの家庭で亡くなった死者への追福作善(死者のために生者が追って善根を修し、その福を死者に回向して供養を行うこと)を大切に考え、親族縁者が集まって法事が営まれていました。
その後、都市化、核家族化が進み、さらに忙しい生活に追われて先祖への報恩感謝という概念も薄くなってきたために、平成に入ってからは「仏教信仰の篤い家庭、伝統や文化を大切にする家庭、親族・縁者の絆を思う家庭」などでは当然のように営まれていますが、昭和の時代ほどには大切にされていない印象です。

【妙法院での法事】
また、菩提寺とのつながりも疎遠となっていたり、祖父母や両親からの適切な導きもなく、親族縁者からの助言もなければ、法事をどのように営めば良いのかわからないという家庭も少なくありません。法事を営みたいと思ってもどのようにすれば良いのかわからなければ、その気も失せてしまうというものです。

そこで、当山では十数年前から法事を執り行う時には、事前に施主の方に法事の流れと準備について文書で説明することにしました。すると皆さん安心して法事に臨まれるようになりました。当山では法事の後に追善のため十分ほどの法話をさせて頂きますが、そこでは法事を営む仏教的いわれと、故人やその家族の人柄とエピソードなどを回顧し、結びには一緒に読誦した法華経要品と南無妙法蓮華経の唱題の功徳をお伝えしています。

当山には妙法院を菩提寺として護持される「檀徒の方」、妙法院に結縁して日蓮大聖人の仏法を信仰している「信徒の方」、さらに檀信徒の縁者の方々や墓所や永代供養墓などをご縁に結縁された「法縁の方」が居られます。それぞれ妙法院との関係性によるものですが、それは徳川幕藩体制下の檀家制度のようなシステムは現代に通用しませんし、思想信教の自由が保証されている我が国ですから、信仰の在り方も各自の希望を認めていることによります。檀徒、信徒、法縁については妙法院と各自の認識が基本となっているもので差別しているものではありません。

檀信徒の方々には年回表(年忌を示す表)を正月にお渡ししていますから、法事を営む気持ちのある方は、それぞれ御命日が近くなるとご連絡があり、日程を調整して法事を執り行います。檀徒の方は概ね年忌法要を執り行う方が多いようですが、信徒の方や法縁の方は厳格に営む方もあれば、気がついた時に営む方など各人各様です。それでも皆さん法事の後には「法事をして良かった。○○さんもきっと喜んでいるよね・・・」と語られています。

コロナ禍によって法事も変化があったかといえば、昨年「コロナ禍でお参りできないので、御供養と供物をお寺にお届けします。命日に塔婆を建立して供養して頂けますか?」という希望を3件お受けしました。今までも高齢の方や身体の不調な方からは同様の希望を頂いていましたからまったく違和感はありませんでした。
その他は皆さん、お参りの人数を制限したり、御斎(法要後の会食)を取りやめたり、感染対策を講じながら感染防止を徹底して、いつもどおりに営んで居られました。

【コロナ禍の葬儀から】
当山ではコロナ禍の中で8件の葬儀を執り行いました。それぞれ各家庭の希望されるかたちでの葬儀です。式場は妙法院と葬祭場に分かれますが、葬儀についての知識は多くの方が持ち得ていませんから、法事同様、葬儀の前には丁寧な打ち合わせを行います。妙法院の法式に則っての葬儀ですから当然葬儀社との連携も必要になります。

一般の方が葬儀にふれたり自分が主体的に仕切ることは人生でそうあることではありませんから、自分が施主となれば誰もが困惑するのが当然です。円滑に葬儀を営むためには十分な説明と適切なアドバイスが必要となります。当山では生前に相談に見えられた檀信徒の方々には、希望をうかがい丁寧に説明します。また、生前に相談のなかった方にも必ず説明をします。得心行く説明があり、納得した葬儀を営むことができれば、誰もが「大切な家族の葬儀を執り行ってよかった」と仰るものです。

現在、横浜ではほとんどの葬儀が家族葬のようで当山でも同様です。一般会葬者を迎えての葬儀は稀で、親族・友人の会葬も多くはありません。しかし、葬儀は地域によってかなり異なりがあります。法縁の森田さんは4月にお父様の葬儀を浜松市の斎場で営まれましたが、親族・縁者の皆さんが参列され、故人の友人や関係者も会葬されていました。けっして盛大な葬儀というわけではありませんでしたが、参列者による故人への敬意が伝わってくるような、温もりと厳粛さが感じられる葬儀でした。私は生前の森田様を存じ上げませんが、息子さんからお人柄をうかがい、法華経の世界にお迎え頂くよう御本尊様に心をこめて御祈念を申し上げました。

5月の末には檀徒の朝生さんが91歳の長寿を全うされて霊山に旅立たれました。朝生さんには40年近いご厚誼を頂き、17年前には私がご主人の葬儀の導師を務めさせて頂きました。その後、千葉市に転居されましたが8年前には夫婦の墓所を当山に求めたいとお出でになり、その後、遺言執行の姪御さんを同道されて数回参詣。自らの葬儀から供養までのすべてを決めて居られました。まことに見事なふるまいでした。

葬儀は千葉市の斎場で営まれました。葬儀に際しては事前に姪御さんから数名の親族が参列するだけですと連絡を受けていましたが、お通夜と葬儀それぞれに親族20名ほどが参列されました。うかがうと「朝生さんに可愛がって頂いたので是非参列したい、最後のお別れがしたい」ということになったのだそうです。千葉市でも家族葬が主流となっているそうですが、まだまだ家族・親族のご縁を大切にしている風情が伝わってきました。朝生さんを慕う皆さんと一緒に霊山への旅立ちを祈念申し上げた次第です。

相武山 山主

2021年06月27日

コロナ禍を機縁として

昨春からのコロナ禍のために全国の仏教寺院は大きな影響を蒙り、我が国でもワクチン接種が徐々に進んでいるとはいえ、現在までに通常の信仰活動を取り戻している寺院はほとんどありません。当妙法院でも昨春から各法要行事は自粛や中止を余儀なくされ、二年目のマスク着用の夏を迎えようとしています。

【信仰と儀式の執行】
寺院にとって各法要行事は「肉眼では見えない教えと信仰を仮にかたちに顕すもの」であり、その執行によって僧俗は己れの信行を深めています。また、その執行を通して教えと信仰を護持伝承していることにもなります。したがってその自粛と中止は仏教徒にとって大きなダメージとなったことは言を俟ちません。

ときに「仏教は信仰者一人ひとりの魂の救済が目的、ひたすら教えに沿って心を磨くことに専念すれば良い」「信仰の場に集って互いに啓発しなくても信仰を護り深めることはできる」「所詮は心の持ち方・・・」等の声を聞きます。そのような考えも一概に間違いというわけではありませんが、古今東西の宗教が寺院や教会などの宗教施設を調え、儀式の執行を通してその教えと信仰を伝えてきたことは事実です。踏み込んでいえば各宗教における儀式はその教えと信仰を護持する基盤ともいえるでしょう。基盤なのですからそこを毀損すればその存在も危うくなるということになります。

宗教は保守的な存在の代表のようにいわれ、頑固一徹と思われがちですが、これまでの歴史を振り返ってみればさまざまな変化がありました。けっして唯我独尊という姿勢ばかりで振る舞ってきたわけではありません。もちろん歴史的には権威主義の象徴として折々にその傲慢さや横暴さが批判されていますから、その変化は内外からの批判の所産ともいえますが、変化を重ねて現在に至っていることは事実で、何ごとにもいえることですが、存在するためには変化を受容し、変化を活かして行く智慧と勇気が必要であることを教えているように思います。

有史以来、宗教には必ず儀式が存在し、儀式には何らかの宗教性がうかがえますから、宗教と儀式の関係は密接不可分ともいえます。その強い関係性から見れば「宗教は儀式を求め、儀式には宗教性が求められている」ともいえるでしょう。
儀式が宗教のすべてではありませんから、儀式の盛衰がそのまま宗教の盛衰と断定することはできませんが、儀式執行の有無が宗教や信仰に大きな影響を与えることは事実です。その視点から今回のコロナ禍は当妙法院ばかりでなく、日本の仏教教団から世界の宗教教団に至るまで大きな打撃を与えたことが想像できます。

【コロナ禍を機縁として】
仏教では「此の世界は諸行無常。いつ何が起きるかわからない、いつ何が起きても不思議ではない」と説かれています。したがって今回のように新型コロナウイルスのパンデミックによって、信仰活動を自粛したり中止するということも当然起こり得ることと観なければなりません。
誰もが不慮の事態に遭遇してうろたえることは当然ですが、真理の永遠性を信ずる信仰者はこのような時にこそ、その信仰心を深めて平常心をすみやかに取り戻し、混乱と沈鬱から心を隔離することが大切です。また、起こるべくして起こった事態であると認識して提示された課題に向き合い、その課題を通して次の展望を拓いて行くことが求められています。

前述のとおり、儀式行事の執行はあらゆる宗教の基盤ですから、その執行ができないということは深刻な事態といえます。しかし、仏教の長い歴史をひもとけば常に課題を乗り越えて現在にその教えと信仰が護り伝えられています。したがって私は今回のコロナ禍も「現在のような信仰と活動で良いのか・・・」との問いかけのように思えるのです。

日蓮の門下僧俗は機根の低い末法の荒凡夫であることを自覚していますから、常に仏縁を大切にして自らの信仰の涵養をはかっています。その仏縁の基本は法華経の道場たる菩提寺とのご縁となります。
当山檀信徒の皆さんはご信心の篤い方が多く、一日の御経日や十三日の宗祖報恩講、日曜法話会などの月例行事に参詣される方も少なくありません。また、新春初勤行会や春秋の彼岸会、盂蘭盆会、日蓮大聖人御会式などの年間行事に参詣される方もかなり居られます。
それぞれ菩提寺に詣でるためには、参詣の志を立て、時間をつくり、身なりなどを調えて妙法院に足を一歩踏み出します。菩提寺参詣と一口にいっても信仰心がなければできない振る舞いであり、その姿にはさまざまな仏道の功徳が積まれているのです。

仏道の修行を自粛しなければならないことは実に残念なことですが、参詣を規制されたことによって、この一年半ほど檀信徒の皆さまも、思うような参詣はできなくても、どうしたら仏法の護持に寄与できるかと思案され、各自それぞれに信仰を磨いて護持に努められてきました。

妙法院としても相武山だより「不染」の充実をはかると倶に、檀信徒限定ですが今春からウエブとDVDで法話を配信しています。今までも高齢や身体的障害、遠隔地のためなどによって仏法聴聞できない方々が居られました。そのためインターネットなどの活用は私も視野に入っていたのですが、初めての試みはきっかけがなければ決断ができにくいものです。
今回はコロナ禍を乗り越えて仏法の護持と弘通に資するという姿勢で制作配信することにしました。すでに3月から5月までの月例御講と日曜法話会の法話を配信していますが、これもコロナ禍による機縁といえるでしょう。
いつの時代も仏法を護り伝えることは容易なことではありませんでした。この時代に仏法に結縁した私たちもあらゆることを仏道の機縁と考えて精進したいものです。

相武山 山主

2021年06月26日

慰霊と鎮魂の祈りをかたちに

3月11日は未曾有の大災害となった東日本大震災の発生から10年。本年3月1日現在、死者、行方不明者、震災関連死は合わせて約22,000名といわれています。先月の下旬頃からメディアでは大震災発生10年について手厚く報道。さまざまな視点から災害と被災者の実相を報じています。
自然の猛威による悲惨な大災害を思い起こし、慰霊と復興への思いを新たにしたり、これから発生するであろう自然災害への備えとして、被災体験者のことばを真摯に視聴された方も多かったことでしょう。
この日、被災地は朝から静かな慰霊と鎮魂の一日。東京の国立劇場ではコロナ禍にもかかわらず、被災者と国の代表者によって追悼式が執り行われ、地震発生時刻の14:46には全国各地で多くの国民が哀悼の意を表して黙祷を捧げました。当山でも物故者精霊の塔婆を建立して御回向を申し上げた次第です。

心の中の思いはかたちに顕れるもの
かけがえのない家族を突然に失う悲哀はどのようなものとも比較することのできない深い悲しみ。被災者は衣・食・住のすべてに困窮を来しましたが、その苦しみや悩みも大切な家族を喪失した悲哀を越えることなどありません。被災当時から今まで絶え間ない慰霊と鎮魂の祈りが続くゆえんです。
どのようにすれば犠牲者への慰霊となるのか、どのように犠牲者の鎮魂を祈れば良いのか、等々、心の中の思いは祈りとなりますが、祈りはやがてかたち(礼儀・作法)を求めることになります。

宗教性を持ちたくないのであれば、黙祷が一般的であり、合掌や献花などのかたちもあります。しかし、宗教性を帯びても良いというのであれば、宗教にはすべてそれぞれに祈りのかたち(礼儀・作法)がありますから、そのかたちにそって心のなかの祈りを顕すことができます。今回の大震災では多くの人々が自らの慰霊と鎮魂の祈りを先祖伝来の仏教的なかたちをもって顕していました。
多くの被災者の方が犠牲者のために、仏壇を調え、墓地を整備するばかりでなく、朝夕の祈りや読経と回向の儀礼を僧侶から学んだということです。祈りは犠牲者のためばかりではありません。深く傷ついた自らが悲しみと慨嘆から立ち上がることにも通じているのです。祈りは安らぎをもたらし、祈りはかたちを求めます。
私は憂・悲・苦・悩のときにはもちろんのこと、喜悦や感謝のときにもご本尊様に数珠をかけ端座合掌。法華経要品を読誦し南無妙法蓮華経のお題目をお唱えします。祈りを行儀に顕すことができることは信仰の大きな功徳と考えていますので、被災地の方々が慰霊と鎮魂の祈りをかたちに顕されていることに敬意を表しています。

相武山 山主

2021年03月29日

生活環境を知識して十分な備えを

今年も大きな豪雨災害が発生しました。7月3日夜から九州に線状降水帯ができて局地的に猛烈な雨が降り、熊本県の球磨川が氾濫、熊本県南部を中心に大きな被害が出ました。4日から7日にかけても鹿児島県、福岡県、佐賀県、長崎県などで多くの河川が氾濫し、広範囲に浸水・冠水、土砂災害などが発生。7月16日時点で死者76人、心肺停止1人、行方不明者8人という甚大な災害です。気象庁はこの豪雨を「令和2年7月豪雨」と名づけました。

2年前の7月、西日本豪雨と呼ばれる平成最悪の水害が発生したことは記憶に新しいものがあります。昨年も夏から秋にかけて日本各地で豪雨災害が発生しました。また、東京湾にそそぐ多摩川、荒川、江戸川の河口域や湾岸地域での大規模水害も想定され注意が喚起されました。

近年、毎年のように発生する豪雨災害。異常気象といわれるのは我が国ばかりではありませんが、いずれも地球温暖化と無縁とは思えません。「私たち人類のさまざまな活動が地球に負荷をかけ、自然の営みに影響を与えているのではないか」という懸念は、かなり前から識者によって指摘されていました。その指摘どおりかもしれませんし、そのような人類の動きのすべてを飲み込んだ上で、地球や宇宙の営みがはかられているのかもしれません。浅学非才の身にはいずれであるかはわかりませんが、貴重な生命が失われたり脅かされることは残念でなりません。

我が国では豪雨災害や土砂崩れなどの災害発生危険地域に居住する人はおよそ3500万人に及ぶといわれています。急峻な国土に生を享けた私たち国民の約35%が何らかの自然災害の対象地で生活しているということになります。

最近、豪雨水害や地震など自然災害が報じられる時には、ハザードマップ(危険と思われる箇所や災害時の避難場所などを地図にまとめたもの)の重要性も同時に語られるようになりました。自分たちがどのような環境で生活しているのかを知ることは危険を避けるために大切なことです。現代は古代からの積み重ねによる科学的知識も向上し、昔はよくわからなかったことも次第にわかるようになりました。
ハザードマップで地勢をしっかり理解しておけば、災害の想定やその対応策も講じることができます。我が身を護り大切な家族の命を守るためにも、自らの生活環境をよく知識して十分な備えをしなければなりません。

ときに洪水となって流域の生活者を困らせる河川ですが、人類の歴史をたどれば河川の恵みをうけて文化文明が発展してきたことは事実。何ごとにもプラスがあればマイナスが寄り添うように、河川は私たちに大きな恵みを与えるとともに被害もあたえてきました。しかし、河川によこしまな意志などはありません。自然の摂理にしたがって己の営みを果たしているに過ぎないのです。

豪雨災害は人命をも奪い生活にも大打撃を与える恐怖そのものですから、私たちは一人ひとりが現代の降雨と河川の有り様をよくよく知識して、自ら安全と安心をはからなければならないと思います。
犠牲となられた方々のご冥福を祈り、被災された方々のすみやかな復旧復興をお祈りいたします。

相武山 山主

 

2020年07月21日

憎悪の連鎖を断つ

フランスのオランド大統領が「前例のない規模のテロ、フランスは戦争状態に入った」と声明を出し、フランス全土に非常事態を宣言した「フランス・パリの同時多発テロ」から1ヶ月が過ぎました。その後も欧米ではテロとされる事件が発生しテロリストへの捜索が間断なく続けられ、現代世相の混乱を浮き彫りにしています。

IS関連のテロについては各方面の識者をはじめ一市民に至るまで、さまざまな意見が表明されています。いずれもそれなりに意味のあるものですが、最愛の妻を失ったフランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリスさん(34歳)の言葉がフェイスブックに投稿され、インターネットを通じて全世界を駆け巡り感動をよんでいます。私も彼の発信した言葉にふれ、その見識に深い感動と共感を覚えた一人です。丁度「相武山だより」12月号の発送前でしたので、新聞で報道された全文をコピーして、たよりと一緒に檀信徒の皆さんにお届けしました。より多くの方に読んで頂き、彼の崇高な精神にふれてほしいと願ってのことです。彼の精神と言葉こそが憎悪の連鎖を断ち切るものと思えたからです。

仏教では「憎悪は憎悪によって消え去ることはなく、憎悪は慈悲によって解決される」と説かれています。原始仏典のダンマパタ(法句経)には、『「彼はわれを罵(ののし)った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない』と説き、『彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨(うら)みが息(や)む』と説かれています。さらには『実にこの世においては、怨みに報(むく)いるに怨みを以(も)てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。』と私たちを諭(さと)されています。

彼の述べた言葉はまさに仏教の精神そのものです。誰が語ろうが真理は真理であり、真理に目覚めることこそ幸いへの道となるのですから、彼の言葉を世界中の人々に共有してほしいと願わずにはいられません。彼の言葉と精神こそが「憎悪の連鎖を断つ」ものなのです。ここで今一度彼の言葉をご紹介します。

テロリストへ「憎しみという贈り物はあげない」

「君たちに私の憎しみはあげない」

『金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷になっているだろう。

だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレイヤーはまだここにいる。

今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。

私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。』

この精神はテロ事件ばかりでなく、私たちの人生すべてに通じており、真のやすらぎを得るキーワードのように思います。

相武山 山主

2015年12月15日

田起こしとカエル

当山周辺のゴールデンウイークは今年も予想通りの「ズーラシア」渋滞でした。当山から東北に約3㎞にはよこはま動物園「ズーラシア」があります。ズーラシアは首都圏にある日本最大級の都市型動物園(53.3㏊)として有名で、関東一円から観客(年間約90万人ほど)が集まります。当山の近くには保土ヶ谷バイパスと中原街道が交差する下川井インターがあり、保土ヶ谷バイパスは東名横浜町田インターからの渋滞、反対側はズーラシアから下川井インター下り線につながっての渋滞となります。また、中原街道の上下線ともズーラシアを起点に渋滞しますから、身動きがとれない状況が朝から夕方3時頃まで続きます。
車のナンバープレートも広範囲で、地元になる横浜や川崎ナンバーはもちろん、品川・足立・練馬・多摩という東京ナンバー。千葉・袖ケ浦・柏、大宮・熊谷・所沢、そして高崎・前橋・宇都宮まで。静岡や関西ナンバーまで並んでいます。これでは渋滞するのも当然ということです。ズーラシアは子ども連れにとっては、とても良い学びと遊びの世界ですから、混雑するのはやむを得ないと思いますが、もう少し上手に渋滞が解消されないものかと工夫を望むばかりです。
そんなゴールデンウイークでしたが、当山南東側の櫻井さんの田んぼでは「田起こし」が行われていました。田起こしは、稲を植える前の乾いた田の土を掘り起こし、細かく砕く作業のことです。この作業によって土地の滋養が増し稲の収穫が豊かになります。田起こしが始まると、いつの間にかカエルが鳴き始めます。カエルは境内や墓苑で見かけることが多くなってきていますが、これからは秋までその姿を見ることになるでしょう。その鳴き声は里山の風情をいっそう深めてくれるもので、自然の側で暮らすことのできる果報かと思います。

私たち人間も自然の一部なのですが、近代化と都市化の波に洗われ、いつの間にかその在り方さえ見失いがちになります。さらに残念なことは見失いがちになっていることにさえ気がつかないことです。自然にふれることができれば、本能が呼び覚まされることもあるでしょうが、無機質な世界での生活が当たり前となっては、本能の覚醒も危うくなってしまいます。自然にふれることが大切だと叫ばれるゆえんでしょう。子どもたちにはお泊まり会などをして、是非自然のおもしろさと楽しさを知ってほしいと思います。

相武山 山主

2015年05月13日

あの日から4年

今年も3月11日を迎えました。

忘れようとしても忘れられないあの日からもう4年となります。

朝のお勤めの時に心を込めて犠牲となられた方々への追善供養を申し上げ、被災復興途上の方々への所願成就を祈念申し上げました。近代稀な大自然災害として世界中を震撼させた「東日本大震災」。地震国日本でも歴史に刻印される大地震でした。大地を揺るがし、大津波を招き、原子力発電所を崩壊させた大災害です。直接的な犠牲者が2万人を越え、膨大な被災者の救援と再生への道も未だ定かにならず、原子力発電所の崩壊はその廃炉へのめどさえ立っていません。今なお東北の人々の 悲嘆と憂いは解消されていないのです。

それでも被災された方々は世界中の人々からの激励と自らの持てる力で立ち上がろうとしています。その原動力は犠牲となられた家族・親族・友人への思いからではないでしょうか。人智人力の及ばぬ自然の猛威によってもたらされた大災害に、私たちは抗すべき術をまったく持ち得ませんが、その事実を厳粛に受け止め、そこから立ち上がって意義在る人生送らなければ、突然の災害に尊い生命を犠牲にされた方々に申し訳ないと思うのです。
11日は被災地はもちろんのこと、全国各地でそれぞれが深い追悼の祈りを捧げました。東京では政府主催による追悼式が国立劇場で執り行われ、そこでは岩手県・宮城県・福島県の被災者を代表して3名の方が追悼の言葉を述べました。いずれも当事者でなければ語ることのできない深く重みのあるものでしたが、ことに動けなくなった母親を残して自ら生きる道を選んだ菅野彩加さんの話は、その心中が思いやられて胸が熱くなるものでした。「愛する家族を失う、それも突然に、しかも眼の前で、助けることも出きず、自らは生きなければならない」となれば誰もが語る言葉をもたないでしょう。

追悼の言葉を述べた3名の方の後ろには、何万何十万という悲しみと嘆きを抱えながら、厳しい生活と向き合っている人々の存在があります。人生は思うようにならないものであり、理不尽なことや不合理なこと、理由のわからない災害や事故にも遭遇すると教えられていますが、あまりの心労になげやりになることもあるでしょう。立ち上がることが辛い時もあるでしょう。それでも犠牲となった人々の無念の思いに心を寄せるからこそ、涙をふりきって前を向いて歩みを進めているように見えます。

今回、横浜などでは幸いにも直接の被害を蒙ることはありませんでしたが、何ごとも明日は我が身ということですから、これからも皆んなで陰に陽に被災地の復旧復興を支援して行きたいと思います。また、地震の多発する大地を祖国とする私たちはその現実をしっかりとみつめて、一日一日を大切に歩まなければなりません。それが大震災の犠牲となられた方々への慰霊に通じる道ではないかと思うのです。

相武山 山主

2015年03月12日

自然と共に生きる

本日、強い台風18号が静岡県浜松市近辺で本州に上陸、関東地方も台風の直撃を受けることになりました。横浜も昨日からかなりの降雨で、今日午前中までは断続的に激しい雨が降りましたが、思いの他の駆け足台風で強風は短い時間だけでした。しかし、県内各地では避難警報が発せられ、まだ詳しいことはわかりませんが、横浜の中区や緑区などでは被害者も出たようです。当山周辺では幸い被害はありませんでしたが、新倉さんはじめ数人のご信徒から心配のお電話を頂きました。温かい心遣いに御礼を申し上げます。

ただ、午前中には帷子川の水位が上がり、近くの川井本町では約100世帯に一時避難警報が出され、携帯電話からは突然に「横浜市からのエリア メール」から避難警報が流れてきました。初めての経験ですが、世の中ホントに便利になったものだと驚きました。

人智を越えた自然の営みとはいえ、それにしても私たちの国は、地震、津波、台風、土砂崩れ、水害、火山噴火、等々まことに自然災害の多い国といえるでしょう。夏の終わりには広島市の土砂災害で多くの方々が犠牲となり、その悲嘆の声が消える間もまなく、紅葉を楽しむ人々が登山していた御嶽山(おんたけさん)が噴火。また多数の犠牲者が出てしまいました。噴火からすでに10日目となりますが、まだ行方不明の方が居られますから、明日からも天候の回復を待って捜索が懸命に続けられることでしょう。早くすべての方々が救出されることを願ってやみません。

9月の27日(土)は爽やかな秋空が広がる絶好の登山日和でした。近年の登山ブームもあり、老若男女が各地で紅葉を楽しみに山に向かったようです。岐阜県と長野県にまたがる御嶽山にも多数の方々が登山していました。そこに突然噴火が起こりました。御嶽山が活火山と知ってはいても、まさか噴火するとは誰もが予想することができませんでした。突然の噴石と火山ガスの来襲です。身を護る安全な場所などなく、かわすことは不可能なことです。奇跡的に助かった方もおられますが、多くの尊い命が噴火の犠牲となりました。只々、ご冥福を申し上げるばかりです。私たちには何の力もありませんが、法華経の信仰者ですから御宝前に真心をこめて祈りを捧げました。

我が国は巡り来る四季の彩(いろど)りからもわかるとおり、自然に恵まれ河川も山も野もみずみずしく豊かな国です。しかし他方、自然は人智を越えた営みですから、私たちにとっては恵みと同時に畏(おそ)れの対象でもあります。何ごとも「いいとこ取り」はできません。自然も同様です。この国に生きる者として自然の営みに敬意をはらい、尊重して共生への思いを新たにしました。

相武山 山主

 

2014年10月06日

無事これ幸い

伊豆大島を中心に台風26号による大きな被害が生々しいところに、27号28号と二つの強い台風が日本列島に接近という報道に接し、ここしばらくは緊張が走っていましたが、幸い 26日昼過ぎには関東の南を通って東北から北海道の南方海上へと抜けていったようです。40名以上の死者行方不明者を出した伊豆大島の大雨による土石流災害によって、豪雨と土石流による災害への意識は高まりましたが、自然の災害はいつも私たちの想定を越えるもので、思いが及ばなければ非力な私たちは大きな被害を被(こうむ)ることになります。

一つの生命体である地球の一員として、自然を構成する存在の一部として、私たち人間も生滅(しょうめつ)変化してやまないこの世界の一員であることを認識しなければならないのですが、平穏で平和な時間が流れていると、それが当たり前になって自然の営(いとな)みには、ときに私たちの思議を超えた猛威が存在することを忘れがちです。
今回、未明に突然被災された多くの方々の悲嘆の声が止むことはないと思います。それほど辛く悲しい災害でした。犠牲者の方々のご冥福をお祈りするとともに、島民の方々が一日も早く落ち着いた生活に入れるように願うばかりです。また私たちも自らの周囲の環境に心をくばり、いつ何が起きてもおかしくない世界に生きていることを自覚しなければならないと思います。

私たちは人生を賜ったそのときから、欲(煩悩)という内なる強い力と押し合い引き合いしながら人生を歩んでまいります。一概に言い切ることは難しいことですが欲にも善悪があり、人生ではさまざまな体験と学びを修めながらそれぞれの価値観を磨き上げ、悪しき欲望を慎み、善き意欲を発揮してゆくことが望まれます。しかし、およそ我欲に引かれやすい私たちは、「あれがほしい、これがほしい、ああなれば、こうなれば、ああだったら、こうだったら・・・・・」という欲望と愚癡(ぐち)に陥(おちい)りやすいものです。もちろん、仏道の教えの上から私たちは凡夫の身でありますから、それはそれで結構ですが、できれば、恵まれているいろいろなことにも思いをいたし、あらゆる物ごとへの感謝の心を涵養(かんよう)したいものです。

愚かな身としては、けがや病気になってはじめて健康のありがたさを知るように、また、失ってはじめてその大事さに気がつくように、大災害を目の当たりにした今、改めて日々の無事に感謝する心をしっかりと意識したいと思います。

私たちは人間としての貴重な生命を頂き、仏縁(ぶつえん)まで結ばせて頂いたのですから、何が起きても不思議ではないこの世界、無事であるということが幸いであることに気づき、何げない一日一日の生活を感謝(南無妙法蓮華経)の心で大切に・大切に過ごしたいものです。

相武山 山主

2013年10月29日