相武山 妙法院のブログ

相武山 妙法院のブログです。

相武山 妙法院

  • HOME
  • 相武山 妙法院
  • お知らせ&行事案内
  • 道の心得
  • 法話会
  • 墓苑・永代供養墓
  • 自然に親しむ
  • 交通のご案内
  • ブログ
  • サイトマップ

045-442-7688

  • ご相談について

〒241-0806 横浜市旭区下川井町1590-1

相武山 妙法寺 ブログ

法華経の行者として生きる(下)

○不軽菩薩の振る舞い
この末法の法華経の行者としての振る舞いについては、釈尊の過去世の菩薩行を説いた法華経『常不軽菩薩品第二十』に、不軽菩薩の故事をもって明かされています。
そのあらすじは、遙か昔、威音王仏の滅後像法時代に一人の修行者が出現し、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)の人たちを行き会うたびに合掌礼拝して、「我れ深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」との二十四字を口に唱え讃歎する但行礼拝を行じます。

この菩薩は経典読誦等の通常の修行者が行う修行をせずに、ただ礼拝のみを行じたわけです。しかし、増上慢の四衆はその礼拝を受けて逆に怒ります。そもそも授記は仏のみ行うことが出来ますから、礼拝のみの修行しかしないこの無智な菩薩の虚妄の授記に侮辱されたと怒ったわけです。 そして四衆は悪口罵詈さらには杖木で打って瓦石を投げるという暴挙に至ります。これに対して菩薩は決して怒らず、迫害にあっては遠く逃げ去り、先ほどの二十四字を唱えながら礼拝を行じたので、四衆はこの菩薩を「常不軽」(バカの一つ覚えのように「私は常に軽んじません」と言い、礼拝しか出来ない能の無い奴)と軽蔑の意味を込めた名を付けたわけです。

この四衆から迫害を受けながらも但行礼拝行を続けた不軽菩薩は、命終する時に空中から威音王仏の『法華経』の偈を聞いて信受し六根清浄を得て、その結果延びた寿命の間に広く『法華経』を説きます。そして自分を迫害した四衆をも救ったと故事は終わります。最後にこの不軽菩薩が過去世の釈尊自身の姿であり、成仏の因行であると明かされるのです。
この不軽菩薩の二十四字には、一切衆生には仏性が備わり、敬うべき対象である。また差別無く全ての人々が菩薩の修行を実践すれば必ず仏となることができると述べられています。ですから但行礼拝行は法華経の平等思想たる一仏乗の教えと実践を表しているわけです。

中国天台宗の祖、天台大師智顗は『法華文句』において不軽菩薩は心に「一切衆生の仏性がある」ことを信じ、身にあらゆる人への礼拝行なして、口には「我れ深く汝等を敬う」との言葉を唱え、身口意の三業相応して、不軽の礼拝行をなしたと述べられています。
不軽菩薩はこの但行礼拝行のみを行って、法華経を聞いたり、説いたわけではありませんが、命終の際に法華経の偈が聞こえてきたと言うことは、不軽菩薩の振る舞いそのものが法華経の精神に適っていて、自然に法華経の教えを自得したことを意味しています。ですから不軽菩薩の振る舞いそのものが法華経の行者の振る舞いといえるのです。

○不軽菩薩と大聖人
大聖人様は不軽菩薩の唱えた二十四字が妙法蓮華経の五字と同義であり、但行礼拝行は折伏行と同行であって、不軽菩薩と大聖人様は共に法華経の行者であると仰せです。そして『聖人知三世事』に「我が弟子等之れを存知せよ。日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に」と仰せになられているように、末法の濁悪な時代に、法難迫害を忍受しながらも、逆縁毒鼓の折伏行をもって妙法の五字を一切衆生に下種結縁すべく法華経の行者として、不軽菩薩の跡を継いでいるのだと理解するよう、大聖人様は私たちに仰せなのであります。

○法華経の行者の生き方
これまで法華経の行者について種々申し上げてきましたが、大聖人様は『崇峻天皇御書』にて「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞ひにて候ひけるぞ。」と仰せです。
不軽菩薩の但行礼拝の振る舞いこそが法華経の行者の実践すべき修行というわけです。つまり絶対平等の下、あらゆる人間を尊重し、自他共に成仏の境界に至れるよう精進することで、それが人の振る舞いであり、法華経の行者の振る舞いであると仰せなのです。

世間を広く見てみますと、現在ジャニーズ事務所の人権問題や、今年のノーベル平和賞を受賞し、今なお投獄中のイランのナルゲス・モハンマディ氏の人権問題、また昨年から続くウクライナ戦争や現在戦火が広がるイスラエルのガザ地区など、人の生命や人権、それらを侵害、蔑ろにするニュースが連日報道されています。
現代に生きる私たちは日蓮大聖人様の弟子檀越として、法華経に説かれる平等な世界、つまり人には皆違いがありますが、その違いを互いに尊重しながら、誰もが自分らしく尊厳をもって生きることが出来る社会を目指して、どのような働きかけが出来るのかを考えなければならないと思うのです。
この尊重をするということは相手の全てを認めるということではありません。失敗をしたり過ちを犯した人、その行為に対しては、やはり物事の是否を問うことは大事です。ですが、その根底には必ずあらゆる人の人権を認め、尊重するというお題目の精神がなければならないと思うのです。

私たちは末法の荒凡夫ですから、他者を好き嫌いや都合で判断し、相手を軽んじたり、蔑ろにしてしまうこともあるでしょう。ですが、自分を尊重してほしいのであれば、相手も尊重されるのが道理です。自分がされて嬉しいことを相手にして、自分がされて嫌なことは相手にしない。それが人の振る舞いであると私は思います。ですから、いじめやパワハラなどのハラスメントをしてはいけないわけです。

人は感情の動物で、心に善悪の両面あるのが私たちです。自分の思い通りにならない感情・心ですが、悪い感情に振り回されないよう唱題行に励み、自身の身口意の三業をより良い方向へ整え、普段から自分の周りの人を尊重して、法華経の行者たらんと法華経の教え、お題目の精神を実践して参りましょう。
そして法華経の行者としてお題目の精神を実践する場は、信仰の場はもちろんのこと、それぞれの与えられた環境である学校や職場、家庭等の普段の日常生活の場です。一般に信仰をするというと信仰の場のみを想像しますが、いわば信仰の場は練習として、日常生活の場が本番である言っても過言ではないと思います。

三業の説明の時に申し上げましたが、私たちの信心は御本尊様の前に座る時や寺院参詣等の信仰の場だけではなく、普段の生活に生かされていなければ、信仰をしていない人と何ら変わらない振る舞いとなってしまいます。さらにその振る舞いが法華経に背くものであっては、大聖人様の門弟とはいえないと思うのです。
ですから、いかに普段の生活の中で実践できるかということです。だからといって練習を疎かにしてはいけません。練習していなければ本番で力が発揮出来ないように、信仰の場でしっかりと唱題に励み、寺院参詣して仏法を聴聞し、大聖人様の教えを学んで、一歩一歩信心を深めていくことによって、実生活の中で、人生で法華経の教え、お題目の精神を実践できるようになるのです。

そして現代は信教の自由が保障されていますから国家権力から法難迫害を受けることはまずありませんが、人生は一切皆苦、辛いこと苦しいこと様々な壁が常に立ち塞がり、思い通りにならないのが人生です。私たち大聖人様の門弟は、そのときに いかに法華経の教えを胸に、お題目の力を頂きながらその問題を超克できるかが試されているのです。

○法華経の行者たる想いを胸に
最後になりますが、ここ数年は新型コロナウィルスの感染拡大のため、全国の寺院・布教所では様々な活動が自粛をよぎなくされました。今なお払拭できたとは言えませんし、コロナ禍前とかなり状況が変わってしまいましたが、本日の御会式を契機として志しを新たにして法華信仰を深めていって頂きたいと思います。

大聖人様は『諌暁八幡抄』に「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。」と仰せであります。門弟である我われは大聖人様の激励の言葉に応えるべく、法華経の行者たらんとの誓願を胸に、上求菩提・下化衆生を掲げる菩薩道を歩み、お題目の精神を自分の人生に。そして社会に。実践して参りましょう。
本日は日蓮大聖人様御会式御正当法要にあたり、「法華経の行者として生きる」と題して法話を述べさせて頂きました。ご清聴、誠にありがとうございました。

相武山 執事

2023年10月26日

法華経の行者として生きる(上)

本日は日蓮大聖人様御会式御正当法要、誠におめでとうございます。
まだまだ若輩者ではございますが、本日の御会式にあたり「法華経の行者として生きる」と題して少々法話を述べさせて頂きます。どうぞ楽な姿勢でご聴聞下さい。

○御会式の意義について
皆様すでに御存知と思いますが、御会式は、弘安五年(1282年)十月十三日武州池上の地で御遷化遊ばされた日蓮大聖人様の、そのご命日忌に報恩謝徳の真心で奉修する法要です。殊に富士日興門流では末法の法華経の行者である大聖人様を「末法下種の仏」と仰ぎ、「滅・不滅、常住此説法」の深い意義を込めて奉修致します。

○法華経の行者
さて私たちは日蓮大聖人様を末法の法華経の行者と拝するわけですが、この「法華経の行者」とは法華経に説かれる教えをそのままに修行し、実践して成仏をめざす人を指します。
大聖人様は『撰時抄』にて「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」と仰せられ『開目鈔』や『土木殿御返事』等、様々な御書に自身が法華経の行者で有ることを自覚し、宣言をされています。法華経には「この経を仏滅後護持弘通する者は法難迫害に遭う」と説かれていますが、実際に様々な法難迫害に耐え、一切衆生救済のため妙法を下種された大聖人様は、まさに末法の法華経の行者としての御生涯を歩まれたのです。

また大聖人様はご自身だけでなく、竜口法難の際に宗祖と共に腹を切らんと覚悟された四条金吾や佐渡流罪中の宗祖を鎌倉から訪ねられた日妙聖人、そして熱原の法華講衆等の弟子檀越へ、「あなたも法華経の行者である」とその信仰心を讃嘆されています。
大聖人様の弟子檀越はそれぞれ置かれた環境、立場は様々ですが、『十章鈔』には「南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候はんずらん。」(全集1275)と仰せになり、賢者愚者、貴賤差別関係無く、お題目を唱えることで法華経の行者となることが出来ると仰せになっております。
私たちが法華経の教え、お題目を信仰するということは、大聖人様や先達の弟子檀越のように「法華経の行者」の境界へと至り、成仏を目指すためなのです。

○身口意(しんくい)の三業(さんごう)
この法華経の行者について「南無妙法蓮華経と申す人」と仰せですが、これは身口意の三業にわたってお題目を受持するという意味です。身口意の三業とは、人間の一切の行為を身体と口と心に分類したもので、身体的な行動、言葉を発すること、心であれこれと思う心の働きです。この三つの働きは別々にあるのではなく、互いに関係し繋がっています。また、三業には善悪があり、苦楽の結果をもたらします。

では、お題目を身口意の三業でお唱えするとはどういうことかと申しますと、身をもって法華経の教えを実践すること、生き方・振る舞いが法華経の教えに適っていること、お題目を一心に唱えること、そして法華経の教えを心から信じるということです。この三業が互いに背かず一致することを三業相応といい、この状態がお題目を受持するということになるわけです。
また、三業は互いに影響し合いますから唱題によって信心が深められたり、また順番があるわけではありませんから、信心から唱題を始める人もいれば、お題目を勧められて信心を始める人もいるでしょう。どちらにしても、いずれは三業相応してお題目を受持することが大事なのです。

この三業が常に相応し、お題目を受持できれば法華経の行者であると名乗れるわけですが、私たちは末法の荒凡夫ですからその状態をなかなか維持できません。時にはどれかが欠け、三業が一致しないこともあるのが私たちの存在です。そもそも、自分の心や身体、口を完全に理解し、コントロール出来ていないから、私たちは悩み苦しむわけです。そのような存在の我々が法華経の行者の境地にいたる為には、お題目を信じて唱題に励み、振る舞いを正して精進していくことが肝要となるのです。

この身口意の三業の中で、心の働きというものは目には見えません。心は見えませんから、私たちは自分が思っていることや伝えたいことは、言葉と行為・振舞をもって相手に伝えます。反対にその人がどのような人なのか何を考えているかを判断するためにはその人の発言・行為をみて判断していくわけです。
一般的に「人を判断するとき、その人の行動を重視しなさい。」といわれます。口から発せられた言葉は大変大事です。しかし、簡単にデタラメや嘘を言うことも出来るのが口です。では、行動や振る舞いはどうでしょう。口を動かすことと比べれば嘘をつきにくい、本心が出やすいのが行動です。例えば美辞麗句を並べたところで粗野な振る舞いを続けたり、親が子を大事と言いながらも虐待を加えたり、無関心であればどうでしょう。どちらが本心だと思いますか?信心も同様です。如何に法華経のお題目を唱えていようとも、暴力的で他者を差別するような法華経の精神とかけ離れた振る舞いをして、果たしてお題目の信仰をしていると言えるでしょうか。

大聖人様は法華経を口に唱え、心に堅く信ずることは勿論のこと、法華経の教えを実践する「色読(身読)」を重視されています。私たちは唱題に励み信心を深めると同時に法華経の教え、お題目の精神を自らの人生に活かし、実践していくことが肝要だと思うのです。

○末法の法華経の行者とは地涌の菩薩
それでは実践するべき法華経の教えについて申し上げますと、法華経に一貫して説かれる教えとは平等思想たる一仏乗の教えであり、それは菩薩の教えとなります。だれもが法華経を信じて発心し、上求菩提・下化衆生の誓願を立てれば菩薩となり、そして菩薩道を行ずれば平等に成仏が叶うと説きますから、法華経の修行者とは菩薩行を実践する人といえるわけです。法華経の『如来寿量品第十六』には「我本行菩薩道」(我れ本菩薩の道を行じて)と説かれており、釈尊も久遠の過去世に菩薩の道を行じて成仏したと仰せです。
また釈尊は滅後この法華経を弘通する者を募られますが、付嘱が授けられたのは上行菩薩を上首とする地涌の菩薩であります。広義では法華経を受持する者を法華経の行者といいましたが、末法という時代に於て法華経の行者とは地涌の菩薩の流類なのであります。

相武山 執事

2023年10月25日

令和5年度御会式を奉修

《御宝前お飾り》
令和5年度の日蓮大聖人御会式を10月14日(土)、15日(日)の両日にわたって奉修しました。9月から檀信徒有志の方々と御宝前荘厳のサクラの花をつくり、10月1日には境内堂宇を有志の皆さまと浄めて当日の御会式を迎えた次第です。お飾りとお供えの餅はここ数年のように、かつて和菓子職人であった小原さんと執事の興厳房の手作り。11日(水)、半日かけて小原さんと興厳房がお餅をつき仕上げました。小原さんのご指導宜しく興厳房も腕を上げているようですが未だまだ向上の余地も残しているようで、今後の充実が楽しみです。

無事にお供え餅と飾り餅もできあがり、果物や杉の葉などの準備をして御宝前のお飾りです。近年は御逮夜法要の前にお飾りをして、小憩後にお手伝い頂いた檀信徒の方々を中心に御逮夜法要を執り行っています。
午後1時からのお飾りは事前に御宝前前机の両側に飾り台を設え、台座に胴藁の支柱を立てて置きました。はじめに胴藁に竿餅と飾り棒を法輪をかたどった胴帯で締め、その上部に、柿とみかんを置き、三角餅、手餅、あられ餅、などを飾ります、上部の周囲には杉の葉とシキミを入れ、最上部に皆さん手作りの桜の花を立てて荘厳。最後に台座の周囲を山折り半紙でかこみ、約1時間でお飾りは完成しました。

《御逮夜法要》
14日(土)午後3時から御会式の前夜祭となる御逮夜法要を奉修。以前は夕闇のせまる午後6時頃からの開式でしたが、近年はお飾り後、引き続いての開式としています。これは現在の妙法院では参詣者がバス停からの夜道(徒歩3分ほど)に不安を覚えるのではないかと懸念してのことです。
少し早めの御逮夜法要には約30名の檀信徒が参詣。コロナ禍で参詣者が少なかった昨年までよりは多くの方に参詣頂きうれしく思いました。今年はご案内のハガキをお届けしたこともありますが、やはり新型コロナが感染症5類に変更されたことによるものと思います。
法要は荘厳された御宝前に参詣されたご信徒を迎えて定刻に開式。如法(仏の教法にかなっていること)に法華経要品(方便品、寿量品長行)を読誦、献香(仏祖三宝尊に香を献ずること)、自我偈の前で磬一打、まず、執事の興厳房が第九世日有上人の申状を奉読。続いて住職が『立正安国論』を奉読。自我偈の読経は訓読。勤行時のように音読ではありませんが、妙法院では折々に自我偈を訓読していることもあり、皆さんあまり戸惑う様子はなく朗々とお読みになっていました。その後、法華本門のお題目をお唱えし、報恩感謝の誠をささげました。

法要後の住職挨拶では、御会式が日蓮の門弟にとって重要な意義を持っていること。また、日蓮大聖人の教えが大乗仏教の根本精神である「現実世界を直視して仏道の修行に励み、まことの幸いを味わうこと」にあると解説。御会式を好機に日蓮が弟子との自覚に立って倶に精進しようとのべられました。

《御正当法要》
御会式の法筵を浄めるかのような降雨も朝方には上がり、静かで穏やかな気配の中で御正当法要を迎えました。今年は4年ぶりに教区の僧侶もご臨席。法会には約40名の檀信徒が参詣。開式10分前には司会進行の阿部一博さんによる「御会式の意義について」。参詣者一同、式次第の裏にプリントされている御会式の解説文を確認しました。
法要は司会のことばで定刻に開式。参詣者唱題の裡に住職が御宝前に進み、仏祖三宝尊への献膳。続いて法華経要品の読誦、参列僧侶の献香、教区僧侶による御先師の申状奉読、住職による『立正安国論』の奉読がなされ、自我偈は御逮夜法要同様に訓読でなされました。

法要後の講演は当山執事の興厳房。講題は「法華経の行者として生きる」でした。
はじめに御会式の意義について略述し、次に『撰時抄』や『土木殿御返事』を引いて日蓮大聖人が末法の法華経の行者であることを解説。その御自覚と振る舞いは「身・口・意の三業にわたってお題目を唱える」ものであり、私たち門弟はその道しるべをしっかりと見据えて仏道を歩んで行こうと講演。
その内容としては「末法の法華経の行者とは地涌の菩薩。修行の相は不軽菩薩がお手本。不軽菩薩と日蓮大聖人。法華経の行者としての生き方」を解説。最後に『諌暁八幡抄』の「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」を拝読し講演を結ばれました。
(詳細は相武山だより11月号をご覧ください)

講演後には新倉昇三さんが講頭挨拶。「愚かな凡夫の身としては、身・口・意の三業にわたってお題目を唱えることは難しいが、少しでも大聖人様の御心に近づけるよう精進したい。菩提寺である妙法院を仏道の依所としてしっかりと外護して行こう」と述べました。
住職挨拶では「日蓮の門弟は法華信仰を人生に活かして行かねばなりません。仏法を学び修めて如何に活かすかは各自の生涯の課題。法華経や日蓮大聖人の教えには人生の宝となる教えが豊かに説かれている。仏法信仰にご縁を結ばなければ三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)に流され侵されたような人生に陥りやすい、仏法信仰は三毒をコントロールするもの。あらゆる価値は心から生ずるが、その心は善悪の外縁に振り回されやすい、宗祖は『心の師とはなるとも心を師とせざれ』とご教示。心を修めるためには、仏法の真理を顕す御本尊を拝し、仏法の智慧であるお題目を唱えて我が心を磨き上げることが肝要」と述べました。

法要の時間が長くなりましたが最後は「お花くずし」。太鼓に合わせて参詣者がお題目を唱和するなか、御宝前のお供物が下げられ、荘厳のさくらの花がくずされます。下げられたお供物(らくがん、りんご、かき、みかん、餅など)は帰路につく参詣者に、さくらの花と一緒に振る舞われました。
※落雁は鹿児島市の上行院さまからのお供えでした。
コロナ禍前に比すると参詣者が少ない気もしますが、時間外に参詣されたご信徒もおられるなど、いつもながらに檀信徒の皆さんのまじめなご信心にふれることのできた御会式でした。今年も無事厳かに執り行うことができたことを住職として心より感謝しています。

相武山 山主

2023年10月22日

病によりて道心はおこり候(上)

~ 驕りを知る ~
私ことながら秋の彼岸会を執り行って間もなく脊柱管狭窄症の手術のために入院し、11日間ほど妙法院を離れました。当然のこと事前に法務や管理については種々準備し、執事の興厳房も法務の遂行に問題はありませんから安心して入院治療させて頂きました。

周知のように人生には病気や怪我や事故はつきものでまったく特別なことではありません。周囲を見ても身体的、精神的な障害を抱えながら厳しい人生を歩んでいる方は大勢おられます。しかし、若い頃より健康に恵まれていた私にとっては、72年の人生で初めての入院と手術でしたから、手術の決断と入院生活はそのすべてが学びであり、日蓮大聖人が「病によりて道心はおこり候」と仰せられた言葉を味読することとなりました。
(※「道心」とは仏道を求める志のこと)

手術を決断するまではなんとか手術をしないで治療する方法はないものかとあれこれ考えていたので多少の不安もありましたが、当山の御本尊に祈りをささげて手術を決めた後は私も仏弟子の一分、すべてを御仏大聖人様にお任せして不安を覚えることはありませんでした。術後が良ければまさに幸いであり、思うようにならずとも歩行不全のような状態からは少しは増しになるでしょうし、さらに厳しい状態になったとしても、それはそれで私にとって何かしらの意味があることだと覚悟したからです。仏教では如何なる状況におかれようともそこには必ず何らかの意味があると教えています。その教えを信じられるか否かが私にも問われました。

手術に至る下肢の不全と診療の経緯などは、以前に日曜法話会などでお伝えしましたが、
「数年前から下肢に不快感と痛みなどを覚えたために、3~4年ほど前、近くの病院二カ所で受診しましたが『加齢でしょうか・・・』という程度の診察で適切な治療を講じることなくいたずらに日を送り、昨年末から今春にかけて、痛みが増して歩行に支障を来すようになりました。その日によっては歩行も不安定になり、しだいに間欠性跛行となったので、素人ながら私の見たては『脊柱管狭窄症』。
最近の医療ミスなどの報道などから、医療と医師への意識を変えて、『医師は選ばなければならない』と意を決し、以前にも増して脊柱管狭窄症の解説書と治療書を読みこみ、次は適切な診察と治療を委ねる医師と病院を探しました。かかりつけの内科医や友人などから数名の医師を紹介され、その中から二人の医師に診察を受け、服薬やリハビリ、運動療法などを数ヶ月重ねました。しかし、狭窄が厳しくその範囲も腰椎の1番の下から5番の上までと広いため、最終的には除圧手術をすることを決断。診察を受ける過程で信頼できる医師に手術をお願いした。」
ということです。

【すべては縁起に因る】
仏教ではあらゆる存在は「縁起によって存在している」と説いています。この縁起こそ釈尊の基本的覚りとされるものであり、この真理から「諸行は無常(あらゆる存在は変化してやまない)」、「諸法は無我(あらゆる存在に固定化したものはない)」へと展開して行きます。この縁起論は仏教の基本的な思想ですが真理そのものですから、仏教で明らかにされようがされまいが厳然とした法理ということになります。仏教宗派ではさまざまに教えが説かれますが、この縁起の教えをはずしては仏教とはいえません。それほど縁起の思想は仏教にとって大切な教えであり、この真理と教えは人生の智慧となるものです。

仏教の四苦八苦を示すまでもなく、病はいつ誰のもとに訪れるかわかりません。老衰も病のうちに収めるならば病は人生の必然といってよいでしょう。私の病も医師の診察によれば特別なことではなく、今までの生活の有り様からもたらされたものだと納得しました。
私は仏教の縁起思想を得心し、あらゆる事物事象は縁起によって成り立っていると観ています。健康であることも健康であるすべての要素が調って健康であるに過ぎません。その条件(因縁)がほんのわずかでも損なわれるならば、健康を害し、病や障害を得ることになるというのが縁起の示す真理です。

世間一般では『突然に病気になった』と言ったり、『突然怪我をした』などと言いますが、仏教では「いつ病気になってもおかしくない存在が、稀に諸条件が調って今この瞬間健康でいるに過ぎない」と考え、「いつ怪我や事故に遭遇してもおかしくないのに、たまたま遭遇しなかったために、今は健常であるに過ぎない」と考えることを教えています。
幼くして仏門に入った私は幸いにも若い頃からその道理は耳目にふれていました。したがって知識としては理解していますから、法話や個人の相談などでもよく縁者の方にお伝えしてきました。きっとご信徒の方は幾たびも聞かれたことがあると思います。しかし、読んで理解している、聞いてわかっている、ということと、我がこととして意識の底にしっかりと落ちているということは別物のようですから、やはり揺るぎない認識をもたなければなりません。

健康に恵まれていると健康であることが当たり前に思えて、その貴重さに気づきにくいものです。しかし、熟く考えると健康ばかりでなく、人生には当たり前などということが一つもないことは誰もが気づくことでしょう。ただ、残念なことはその気づきは恵みを失ってからとなることが多いのです。誰もが「病気になって初めて健康の有り難さを知る」と言われます。また、「孝行したいときに親はなし」とのことばもよく聞かれます。親子、家族、友人、仕事、学校、会社、地域、自然・・・・・、すべて当たり前に存在しているのではりません。そのすべてが実は有り難いことなのです。

現在、有り難いとは感謝の言葉として用いられていますが、本来、「そのように有ることが難しいこと」を意味することばです。すなわち、「めったにないこと、稀にしかないことが、今、もたらされている」と実感したときに語られる言葉なのです。そこには悦びと敬愛の想いがこめられています。
前述したように仏教では「あらゆる存在はさまざまな縁起(諸条件が複雑に連関する)によって、今そこに存在している」と説いています。表現をかえれば「我々のすべては有ること難い存在なのです。当たり前などいうことは一つもありません」となるのではないでしょうか。

【健康の驕り】
原始仏典のダンマパダ(法句経)には直訳ではありませんが、「三つの驕り」が説かれています。そこには釈尊が出家前の自身を回想し、自分には「若さのおごり、健康のおごり、生存のおごり」があったと内省が示されています。
若さのおごりとは、若いがゆえに自分は老いや死と無縁であるかのように思い込むこと。健康のおごりとは、健康であるがゆえに自分は病や怪我などとは無縁であるかのように思い込むこと。生存のおごりとは、生命が有限であるにもかかわらず永遠であるかのように思い込むことです。
「若さ、健康、いのち」の対語は「老い、病い、死」となります。多くの人々が求めるのは前者であり、忌避しても必ず迎えなければならないのが後者です。諸法の実相(あらゆる存在のまことのすがた)を求めて仏道を歩まれた釈尊は、この厳しい真理を覚られ、仏道以前の自身の驕りを反省されたというのです。

仏典には以下のように説かれています。
「若い時から老いるまで、健康な時から病気になるまで、生きていた時から死ぬまで、すべてのものは変化する」と。
すなわち、「すべてのものは変化するものであり、永遠なるものものはないこと。このことから、若さ、健康、生命も、いずれは変化し、失われてしまうものであると解釈できる」したがって、「若さ、健康、生命の驕りとは、これらのものが永遠に続くものであると思い込むことである」と解釈することができます。

驕りという自覚はなくても、それらの存在が不変であると誤解することは愚かなことだと教えられているのです。このような思考は私たちが仏教の教えを理解する上で重要なポイントとなります。驕りを自覚し誤った思考と感覚を解放することで、私たちは苦悩から解き放たれ真の幸福へと近づくことができるのです。
日蓮大聖人の「病によりて道心は起こり候」とのご教示は、実に示唆に富んだ言葉で、くみ取り方一つでいかようにも思索が広く深く展開されます。私自身、人生初の入院と手術に向きあって改めて健康の驕りに気づくことができたのもその一端だと思います。
(つづく)

相武山 山主

2023年09月30日

秋のお彼岸

我が国では『暑さ寒さも彼岸まで』といわれますが、今年は秋の彼岸を迎えてもまだ暑さが続きました。国連事務総長が「地球沸騰の時代・・・」というほどで、令和5年(2023)は世界中が猛暑に襲われました。きっと酷暑の年と記憶されることでしょう。それでも朝夕は少し涼風が流れるようになりましたから自然の営みはたしかなようです。

秋のお彼岸は7月と8月にお盆の供養を勤める家庭が多く、一般的には春のお彼岸に比して菩提寺や墓所への参詣は少ないようですが、当山ではまじめな檀信徒の方々が多く、春も秋もあまり変わりなく彼岸中には朝から夕べまでお参りの姿が境内にありました。

秋の彼岸の入りは20日(水)。午前10時40分、執事の興厳房が三師塔に参詣。香華をささげ、懇ろに読経・唱題、御三師に彼岸会の御報恩を申し上げました。興厳房は引き続いて永代供養墓「久遠廟」に参詣。お塔婆を建立し、お参りに見えていた柴さんと一緒に香華を手向けて読経唱題。久遠廟納骨の諸精霊に追善の供養を申し上げました。その後、樹木葬墓地に向かい、お塔婆を建立し、香華を手向けて読経唱題。樹木葬墓地埋葬の諸精霊に追善の供養を申し上げました。

彼岸の法要は23日(土)、24日(日)の両日、午後1時から執り行いました。法要は唱題裡に仏祖三宝尊への献膳、ご先祖有縁精霊へ霊供膳、そして、法華経要品を読誦。参詣者は読経中にお塔婆が建立された精霊壇に進み、懇ろに追善のお焼香をささげました。
法要後の法話には『土籠御書』
「日蓮は明日佐渡国へまかるなり。今夜のさむきに付ても、ろうのうちのありさま、思やられていたはしくこそ候へ。あわれ殿は、法華経一部色心二法共にあそはしたる御身なれは、父母六親一切衆生をもたすけ給へき御身也。法華経を余人のよみ候は、口はかりことははかりはよめとも心はよます。心はよめとも身によます。色心二法共にあそはされたるこそ貴く候へ」
《現代語訳》
「日蓮は明日、佐渡国へ赴くことになった。今夜の寒さに付けても、牢の中の苦しさを思い、気の毒で仕様がありません。貴殿はみごとに法華経一部を身と心で読まれたので、父母・兄弟等の六親を始め、一切衆生をもお救いなされる身である。
およそ法華経を読む人は、口で言葉ばかりを読んで、心では読まない。たとえ心で読んでも、身で読むことはない。それを身でも心でも読まれたのだから、まことに貴い限りであります」
を拝読。

はじめに春秋の彼岸法要は仏教に基づく仏道修行の時であり、仏教徒は煩悩におおわれた娑婆世界の此岸(此の岸)から、清浄で安らぎに満ちた仏の世界の彼岸(彼の岸)に向かうことを願って執り行われていることを解説。
「仏教徒は此岸に生きていることを自覚して彼岸を目指すことが大切」。さらに「大乗仏教・法華経では、この世界を、自分の人生そのものを、仏法信仰によって彼岸として生きることを教えている」。日蓮の門弟は「法華経と日蓮大聖人の教えを燈明とし、鏡として自らを磨きながら人生を歩むこと。その相がそのまま、来世の安らぎに通じる」とお伝えしました。

拝読御書については、龍ノ口法難に由来し、宗祖の真筆が遺る「五人土籠御書」を脚色したもののようであるが、宗祖の教えに違背する内容ではなく、門弟僧俗の信行に資するようご教示として拝読したことを説明。宗祖が「身・口・意の三業(さんごう)に南無妙法蓮華経の唱題をなすことの功徳を賞嘆し、その信行が末法の成道であること」を述べ、彼岸会の法話としました。
法話を聴聞し功徳を積まれた参詣者は各自建立のお塔婆を受け取り、境内内外の墓地や久遠廟、樹木葬墓地に香華を手向けるため帰路につかれました。

相武山 山主

2023年09月24日

変化を識る(仏教の叡智に学ぶ)

9月の日曜法話会は10日(日)午前11時からの開催。
8月がお休みでしたので、2ヶ月ぶりの法話会でした。冒頭は恒例の法話会の趣旨「仏教に親しみ、その教えと信仰について正しい理解を。法華経の教えや日蓮聖人の教えにふれる。」について説明。また、「何ごとも継続が肝要。仏道は求める姿勢が基本であり、仏教のおしえを地道に積み重ね人生に活かしてほしい」とお伝えしました。
お寺の役割(僧俗修行の場、信仰を磨く場、仏教を学ぶ場、心を浄め癒す場、仏教や伝統や文化を護り伝える役割等々)と法話会が2部構成(「世相に想う」世相を仏教の視点から観る。「仏教に親しむ」仏教の教えと信仰を学ぶ)であることも説明。

今月は1部の世相に想うと2部の仏教に親しむ共通のテーマ「変化を識るー仏教の叡智に学ぶー」でした。
はじめに「仏教の基本思想の一つである『諸行無常(あらゆる存在は変化してやまない)』は、人生をより良く生きるための智慧。『あらゆる存在は変化してやまない』ということは否定することのできない真理であり、説明をじっくりときけば誰もがうなずかざるを得ません。バラモン教(ヒンドゥー教)のような神秘主義や不思議主義に与しなかった釈尊は、その教えの中心に『真理・道理』を据えたのです。仏教は真理を尊ぶ教えであり、真理を求める教え」であることを解説。
普遍の真理や道理は、時代や社会、人によって受容されるか否かで変わるということはなく、「変化を識る」ということは真理であると共に人生を歩むための智慧であり、自身の安らぎのためにもよく理解し、佳き変化を楽しむような日々であってほしいとお伝えしました。

レジメにそって、まず仏教について「仏教の教えは真理を伝えるもの(真理は仏法もしくは妙法)。仏教は釈尊の覚られた真理を経典によって伝えてきた(仏教で経典を大切にする理由)。アジア全域に伝播した釈尊の仏教は各地で受容されたがそこには変遷と興廃が存在している。」ことを説明。
次に「教えを大切にする仏教」。日本の仏教は当初鎮護国家のための仏教であったが、やがて学問仏教から総合仏教と変遷し、平安中末より専修(せんじゅ)仏教が中心となって現代に至っていること。専修とは「座禅によって禅定を専ら修め成仏を求める禅宗」であり、「阿弥陀仏への絶対帰依である南無阿弥陀仏の念仏行を専らにして、極楽往生を願う浄土宗や浄土真宗」であり、「専ら南無妙法蓮華経のお題目を唱えて法華経(妙法)への信を決定し成仏を願う日蓮法華宗」の教義と信仰を略述。しかし、いずれの仏教宗派でも「仏教の教えを学び伝え人生に活かす」ことが求められていると解説。

続いて釈尊の誓願について。
「仏教がすべての人々の現実の生活に活かされることが大切。儀式や法要、歴史や文化、観光や癒やしも仏教が担うべき役割だが、仏教を創始された釈尊の願いは、その教えを人生の燈とし、日々の生活に活かされることにある。仏教徒はその教えを己の人生に体現することが求められている。現代に正しく仏教を信行する者は、この時代とこの社会に理解されるように努力しなければならない。仏教の教えを現代の人々と社会に活かすことがこの時代に生きる仏教徒の使命」であることをお伝えしました。

続いて仏教では「諸行は無常。すべては変化して止まない存在。すべての存在は縁起所生の存在であり、因縁を条件として生じているにすぎない。因縁が変わればすべての存在は変化する」と説いているように、すべての存在は一瞬たりとも同じ状態ではなく、常に変化しているのが真理。感情では理解しにくくても理性をもって受容し、理解を深めて心の安らぎを得ることが肝要です。

変化の諸相について
変化にも善と悪があり、「社会制度や生活環境、教育や道徳、さまざまな価値観・・・」があることを識ることが大切。変化の多面性をレジメでは以下のように示しました。
①時代の変化(旧石器、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、 室町、戦国、江戸、明示、大正、昭和、戦前、戦後、平成、令和)
②社会の変化(社会制度、身分制度、政治、産業、文化、信仰・・・)
③生活の変化(衣・食・住、家庭、職業、交通、通信・・・)
④環境の変化(自然環境、生活環境、国家や世界の環境・・・)
⑤医療の変化(医学、薬学、死生観・・・)
⑥価値観の変化(家庭、教育、思想、宗教、文化、習俗、道徳、・・・)
⑦自らの変化(誕生、幼少期、青年期、壮年期、熟年期、老年期、)
⑧その他(家父長制の変化、葬儀やお墓などの儀式や習俗・・・)

また重ねて「善悪共に変化を識ることが大切」として、
「変化(諸行は無常)は真理であり、己の感情によって左右されない。変化を認識することは理性であり、受諾するか否かは個人の見識。変化を認識することは、自らの判断の基礎となり、次の展望が開ける機縁となる。変化したという事実の多くは後になってわかる。しかし、その前に気づくことが大切。変化の兆しに気づくことができれば、その後の対応にも活かせる」を説明しました。

ここで、今、話題の「原発処理水」問題。
原発処理水問題を正しく理解するためにも、「NHKの原発処理水Q&A」と「日本における原子力利用のこれまでとこれから(経済産業省 資源エネルギー庁)」を参考資料として提示、改めて日本における原子力利用の変化を識ることの大事さをお伝えしました。

小結の1として
「時代や社会の変化は客観的に理解しやすい。それでも意識を欠くと見失い、気づかない場合がある。できるだけ自分の身の上に置いて考えてみることが大事。己の変化に気づくことは少し難しい。人生を歩む心身は気がつかないほどの微妙な変化の連続。幼子は身近な者が気がつかないほどの変化の連続で成長している。高齢者は気がつかないほどの微妙な変化の連続で、老いと病と死に向かっている。変化が連続していることを理解することが大切」。
小結の2として
「連関している環境(時代と社会)と自己。人生は出会いと選択の連続。時代や社会に大きな影響を受けて変化する自己。他方、一人ひとりの変化が時代や社会を変化させてもいる。自己と環境や社会は互いに影響し合っているのが真実」と私見を述べました。

学ぶべきこととしては
「変化を識ることによって、より良い人生、より良い社会の構築を願うことができる。変化にも善悪があり、それを受容するか否かは自身の見識による。変化に対応するためにも自らの見識を高めなければならない。変化を怖れるのではなく、楽しむような心の持ち方を涵養したい。人生はそのすべてが学びであることを知る」。
をお伝えして9月度の日曜法話会は終了。
(詳細は相武山だよりのウエブ動画をご覧ください)

相武山 山主

2023年09月22日

龍ノ口法難会

9月10日(日)午後1時から龍ノ口法難会を執り行いました。午前中の日曜法話会から引き続いての法要には約20名ほどの檀信徒が参詣。御宝前に供物をお供えし、参詣者と倶に読経・唱題、真心からの御報恩謝徳を申し上げました。

日蓮大聖人は文永8年9月12日、生涯最大の法難であり、仏道のクライマックスとなった「龍ノ口法難」を迎えました。御年50歳のことです。宗祖は建長5年、32歳の立教開宗から18年間、身命を賭して法華最勝、唱題成仏を弘通されました。しかし、その結果が世相を争乱させる悪党としての断罪されたのが龍ノ口法難です。
釈尊は末法の法華経の行者には三障四魔が競い起こると予証されましたが、宗祖は大難四カ度、小難数知れずと法難重畳の人生でした。その中でも斬首という最も厳しい法難が「龍ノ口法難」だったのです。古来、龍ノ口法難の折りに信徒がぼた餅をささげたという伝説があり、法難会は別名を「ぼた餅御講」とも称されています。

法要後の法話は執事の興厳房が担当。
寺泊御書
「或人日蓮を難じて云く、『機を知らずして麁(あらき)義を立て難に値ふ』と。或人云く、『勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違す』と。或人云く、『我も此の義を存すれども言はず』と云云。或人云く、『唯教門計りなり。理具は我之れを存す』と。・・(略)・・『悪口して顰蹙し、数数擯出せられん』。数数とは度々なり。日蓮擯出衆度、流罪は二度なり。法華経は三世の説法の儀式なり。過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は過去の不軽品なり。今の勧持品は未来は不軽品為るべし。其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為るべし」を拝読。

はじめに御書システムの「解題」から、当該御書が「現在千葉県中山の法華経寺に現存していること。佐渡配流途上、寺泊で船待ちの寸暇をもって土木殿に宛てた書状であること。冒頭十月十日依智を出立し、寺泊までの十二日間の行程と、佐渡への渡航の機を待つ御心境、すなわち大難は『法華経』『涅槃経』の予言通りであって本より存知のことである」と、その梗概を解説。

拝読御書について
「『或人難云』と、宗祖への批判を取り上げられ、『勧持品』・『不軽品』の色読が強調されていることを説明。『勧持品』と『不軽品』は根底において通底しており、法華弘通のゆえに大難を受ける日蓮はその両品を色読する者。日蓮は不軽菩薩であり、また勧持品の八十万億那由陀の菩薩の代官であるとの気概が示されている」と解説。
身命に及ぶ法難を超克して到達した宗祖の御心を想い量る法話でした。

相武山 山主

2023年09月20日

「備えあれば憂いなし」を実践

今年は1923年(大正12年)に発生した関東大震災から100年の節目の年です。9月1日が「防災の日」と定められたのもこの関東大震災に由来しています。ここ数日、各メディアからも関東大震災100年という報道が頻出、国民に注意を喚起しています。

関東大震災は「大正12年(1923年)9月1日11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9と推定される関東大地震が発生。この地震により、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県で震度6を観測したほか、北海道道南から中国・四国地方にかけての広い範囲で震度5から震度1を観測し、10万棟を超える家屋が倒潰。また、発生が昼食の時間と重なったことから、多くの火災が発生し、大規模な延焼火災に拡大した。
この地震によって全半潰・消失・流出・埋没の被害を受けた住家は総計37万棟にのぼり、死者・行方不明者は約10万5000人に及ぶなど甚大な被害となった」ものです。

この大震災は近代日本の首都圏に未曾有の被害をもたらしたことで、我が国の災害史において特筆すべき災害となっています。近年、発生した大震災としては、平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災。平成23年311日に発生した東日本大震災が私たちの記憶に新しいものですが、我が国では大きな被害となった自然災害は頻繁に起こってるのが事実です。

日本の歴史を少しひもといただけでもわかりますが、我が国は自然災害と共に在るといっても過言ではありません。先人の方々は大きな災害を乗り越えながら現在の日本社会を形成してきたのです。首都直下型地震の来襲が話題となって久しく、現在は東南海大地震、日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震などが予想され、さらに富士山の噴火という関東直結の大災害も想定の範囲内となっています。
いつ何が起きても不思議ではないのです。いたずらに不安と恐怖を増長させることは精神的に佳いことではありませんが、のほほんとして無責任に他人任せなのは不謹慎というもの。先ずは現実を直視しましょう。

仏教で「諸行は無常」と教えているとおり、私たちは「生・老・病・死」の四苦の変化を免れません。自分自身の生命は変化してやまない存在なのです。私たちを支え育んでいる地球自体も一つの生命体であり、地球が存在する太陽系も一つの生命体であることを理解しなければなりません。
前述の諸行無常と同様に、仏教ではあらゆる存在は「生・住・異・滅」の四相(しそう、事物が生成変化して消滅すること)を免れないと説いています。この法理に則れば、人間に四苦といわれる変化が存在するように、自然界も四相を展開して変化する存在なのです。
となればいつ何が起きても不思議ではないのですから、「備えあれば憂いなし」の実践が求められます。一庶民の私たちに大きな事はできませんが、せめて自分自身のこと、家族のこと、身近な友人知己への助力ができるくらいの準備ができれば佳いと思います。

首都圏一極集中化といわれる現状です。ひとたび富士山の噴火や首都直下型地震、東南海地震が発生すれば関東地方一帯はかつてない甚大な被害を被り、社会・経済のすべてが深刻な打撃をうけることは想像に難くありません。
ややもすると悲観的な心境に陥りがちになりますが、「貴重な人生であるから最後まで最善を尽くして歩め」と教えられている仏教徒としては、警鐘に応えて自分にできる「身近な防災の実践」に努めて行こうと思います。

相武山 山主

2023年08月31日

夏季法門研修会を開催

8月27日(日)午後1時より夏季法門研修会を開催。
午前中の境内清掃作務から継続しての参加者を含め11名が参加。始めに仏道精進を祈念し、参加者全員で勤行唱題。参加者各位の信行増進を祈念して開会。
当山では春夏秋冬に4回の法門研修会を開催。3時間ほどの時間をかけてじっくりと法華経や日蓮大聖人の教えを学ぶ機会としています。行事や法要でも必ず法話をして日蓮大聖人の教えをお伝えしていますが、その時間はせいぜい30分~40分ほどですから十分な時間とはいえません。
その上、行事法要への参加者は初信者の方も居られます。したがって難しい教学に及ぶことは躊躇することもあります。僧侶の務めとして工夫はこらしていますが、聴聞される皆さんの信心も一様ではありませんから、中には物足りなく感じる方もいることでしょう。

「御法門をどのようにお伝えするか」ということは、僧侶にとって永遠の課題といえるかもしれませんが、仏道の語り部としては時間に余裕を持って臨める研修会は有り難い機会です。少し専門にわたることもありますから、すぐには理解できないことがあるかもしれませんが、機会を重ねるごとに「学んだ点がやがて線としてつながり、さらには面として広がり、やがては立体的に捉えることができる」ようになることと思います。
私も仏教を修学した当初は点ばかりでなかなか線につながらず、いらいらしたり迷ったりしたものです。時を重ねて取り組んで行くと、思いもよらぬ時に「あ~そうだったのか」と合点がいったり理解が進むことを知りました。また、基本的な教えがしっかりと理解されると難しい法門につながっていることがわかり、学びの楽しみに気づくことにもなります。

今年の春4月の研修会では「顕仏未来記」を拝読しての研修会でした。御書の後半に入ったところで時間となったので今回はその続きとなります。
この御書は佐渡流罪中の御遺文で
『一往は仏の滅後更に天台伝教にも値遇できぬ末法の世に生まれたことを悲しみ、しかしながら再往これを考えれば「後五百歳中広宣流布」との金言を実践できることは大いなる悦びであるとの確信を述べられている。
また、末法において正法を弘通することの困難なことを経釈より説示され、不軽菩薩の如くに大謗法者の充満する逆縁の世にあって「後五百歳中広宣流布」の金言を実践するのは日蓮であるとのご自覚を表明されている。
さらに、妙楽の「文句記」、遵式の「天竺別集」により、天竺・漢土にはすでに仏法は滅尽しており法華経の行者は存在しないとご教示。
結びに伝教の『法華秀句』に示される法華経流布の担い手の系譜、釈尊→天台→伝教にならい、それに自身を加えられて「三国四師」とする」
と述べられています。

研修会では上記の内容を今一度簡略に復習。釈尊からの仏教の基本思想にふれながら、アジアに伝播した仏教のさまざまな様相を学び、さらに日蓮大聖人の教えを理解するために、日本仏教史のながれの上から大乗仏教と末法思想について略述。
また、日蓮大聖人理解のポイントとして、日蓮大聖人が当時の最先端の仏教を理解しておられたことを、仏典編纂と大乗仏教への理解、インド・中国・日本三国の仏教史の理解、インド・中国における廃仏の理解等々、現代仏教学に照らしても遜色ない優れたものであったことをお伝えしました。

研修会の後半は春季研修会に残された顕仏未来記を丁寧に解説。「末法の法華経の行者であるとのご自覚に立たれた日蓮大聖人のご内証、衆生済度の崇高なご精神」について参加者の皆さんと学びました。猛暑の中、3時間集中の夏季法門研修会でした。

相武山 山主

2023年08月30日

酷暑の中で境内清掃整備

8月27日(日)午前11時から境内の清掃整備を行いました。今年の暑さは半端ないもので、猛暑は雑草の勢いを増しているかのようで、暑さにお構いなくその背丈を伸ばしています。他方、さしもの暑さに蚊も日中は飛ぶことができないのか、境内で作業をしていてもあまり刺されることはありません。猛暑を超えた酷暑のほとんど一つの恩恵かもしれません。
黙っていても汗が吹き出る暑さですから、境内とその周囲の作業となればなおさらのことです。ご信心がなければとてもできるものではありません。作業にご参加頂いた、熊木さん、久保さん、森さん、落合さん(2)、柴さん、市川さん、阿部さん(2)、新倉さん、ご協力に感謝いたします。
お陰様で菩提寺の境内が浄められ、お参りされる方々も気持ちよく参詣ができることでしょう。ありがとうございました。

相武山 山主

2023年08月30日