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相武山 妙法寺 ブログ

追悼 劉 暁波氏

16日(日)は7月度の日曜法話会でした。この日の法話会「世相」のコーナーは、7月13日に逝去した劉暁波氏追悼をこめた「私に敵はいない」でした。中国共産党一党独裁下の中国では人権問題が大きな課題。毛沢東の時代からさまざまな人権抑圧は伝えられてきましたが、今に収束する見通しはありません。世界第二の経済大国となってアジアばかりでなく全世界に大きな影響力を持つ中国ですが、共産党一党支配下での政治には光と影が在り、さまざまな課題が山積しているようです。

チベットの強行併合、文化大革命、天安門事件など、私はかねてから隣国である中国の問題には関心がありました。それは当初、共産主義・社会主義国の市民支配のシステムを利用しようとしていたある教団の実相探求が目的でした。しかし、やがて現代世界の見過ごしてはならない事相ではないかと思うようになったからです。この日の法話会は劉暁波氏の生前の思想と活動を中心にお話をしました。多くの見識ある方々にも知って頂きたく、以下に法話会の趣旨をまとめてみました。

7月13日、中国の民主化運動のリーダーであり人権活動家として著名な劉暁波氏が肝臓がんによって死去しました。共産党一党独裁統治下、基本的人権が抑圧される中国で、さまざまな弾圧に遭いながら命をかけて自由と基本的人権を訴え続けた人物です。

彼が人権活動家として民主化運動に参加したきっかけは1989年6月に起こった天安門事件です。1980年代、文化大革命の混乱を乗り越え中国の実権を握った鄧小平によって改革・開放政策が推進されると、経済的な発展がなされた反面、物価の高騰などによる経済格差などが生じ、政治体制の民主的改革を求める声が増大しました。

その渦中で国民的人気が高く民主化に理解のあった胡耀邦氏が死去。民主化を求める大学生を中心に一般市民約10万人が天安門広場に集結しデモを起こしました。この民衆化運動を共産党政府が中国人民解放軍を出動させて、同年6月4日、武力鎮圧したのが天安門事件です。犠牲者は数百人から数千人といわれていますが、国民をその軍隊が殺戮するという凄惨な事件は、現在も中国政府によってタブー視され、国民が事件について語ることは許されません。

1989年、民主化運動が勃発するとコロンビア大学の客員研究者だった劉氏は即座に米国より帰国し運動に身を投じました。天安門事件では銃をとって権力と対峙しようとする者もいましたが、劉氏はその銃を奪い取って非暴力で運動に臨むことを主張しました。彼はこの非暴力の姿勢を生涯堅持したのです。

また、事件後は「反革命罪」で投獄されましたが、この事件で他のリーダーの多くが「病気療養」の名目で出国を許可される中、1991年の釈放後も出国せずに引き続き中国に身を置き、天安門事件殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を叫び続けました。
その後、劉氏は2度の投獄や強制労働の弾圧を受けましたがその志を折ることなく、2008年には「零八憲章」を起草。この起草では、憲法改正・三権分立・司法の独立・人権保障・公職選挙・結社の自由・集会の自由・言論の自由・宗教の自由等を主張。民主主義国家では当たり前の主張です。しかし、この宣言文の発表で劉氏は「国家政権転覆扇動罪」で逮捕、懲役11年の判決を受けました。

裁判において劉氏は『私の自由を奪った政権にいいたい。20年前にハンスト宣言で表明した「私に敵はいない、憎しみもない」という信念に変わりはない。私を監視し、逮捕し、尋問してきた警察、起訴した検察官、判決を下した裁判官はすべて私の敵ではない。監視や逮捕、起訴、判決は受け入れられないが、当局を代表して私を起訴した検察官の張栄革と潘雪晴も含め、あなた達の職業と人格を私は尊重する』と陳述しました。

実に深い思想性を帯びた言葉であり、非暴力主義の尊い精神がほとばしっています。2010年10月8日、劉暁波氏は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことによってノーベル平和賞を受賞しますが、その授賞式では出席ができない彼のために椅子が用意されこの陳述書が代読されました。

彼の病死によって弾圧者は彼の口を一時封じることはできたかもしれませんが、彼の思想と主張と活動の事実を覆い隠すことはできません。そればかりか彼の死はその言動と共に世界中に広報され、中国の現実を浮き彫りにし、彼が望む未来への展望を指し示したのです。

現実から逃避することなく、逆境にひるむことなく、勇気を持って真実を述べ続けた彼の思想と行動は、実に尊敬すべきものであり永く輝くものであります。彼の冥福を祈りその希望が必ずや満たされることを信じてやみません。

相武山 山主

2017年07月31日

7月の盂蘭盆会

横浜では東京と同様に7月にお盆の法要を営む寺院や家庭が多いように思いますが、全国的には月遅れの8月が一般的なお盆とされています。当山では檀信徒の方々の自由としていますから7月と8月の2回のお盆の法要を営みます。通常お盆は13日が入りで法要は15日、開けが16日となっています。しかし、寺院によってはこの期間の前に法要を行って、お盆の期間は各自のお墓参りや自宅でのお盆を営むようにしているお寺もあるようです。

今年も三軒茶屋の鈴木キヌ子さんから塔婆供養申し出のお手紙を頂きました。鈴木さんは間もなく米寿を迎えますから、高齢と遠路のために参詣はままならなくなり、久しく参詣を頂いておりませんが、毎年春秋のお彼岸と夏のお盆には、ご先祖や有縁の方々への追善供養を欠かされることはありません。多少の信仰心があればご先祖などへの供養は多くの方がなさいますが、子供の頃の友情を米寿を迎える頃になっても忘れることなく、冥福を祈って供養をささげる方はそう多くはないと思います。鈴木さんが追善供養をなさるのは女学校時代のお友達、宇田川喜代子さんです。喜代子さんは鈴木さんを当山に導かれた方でもあります。「人情は日々に薄れ」という世相ですから、いっそう鈴木さんの心の温もりを感じます。喜代子さんもさぞ喜んでおられることでしょう。

さて、当山ではお盆が近くなると墓所の清掃や香華をささげるためにお参りされる方が増え、期間中は朝から夕方まで三々五々家族連れの姿をお見かけします。日本のお盆らしくて良い光景だと思っています。7月の盂蘭盆法要は15日がメインでしたが、13日と16日に参詣される方も居られました。13日は宗祖の月例の御報恩講、16日は日達上人のご報恩法要でしたが、ご一緒させて頂いた次第です。それぞれの法要では常のように御供物を供え塔婆を建立して、法華経要品を読誦、お題目をお唱えして懇ろに御回向を申し上げました。

法要後の法話は「盂蘭盆御書」を拝読。この御書は宗祖が弟子の治部房の祖母からお盆の御供養をお受けになったご返事。宗祖はお盆の御供養にちなんで盂蘭盆経を基とした由来を述べられ、法華経の受持によってこそ真の救い、成仏が遂げられることを説かれました。その内容は釈尊の十大弟子の一人、神通力第一とうたわれた目連(もくれん)が、餓鬼の世界に堕ちた母親青提女(しょうだいにょ)を通力で救おうとして叶わず、釈尊の導きによって救うお話ですが、真の救いは目連尊者が法華経を受持し成仏したことによるとし、孫の治部房が法華経の行者であるから祖母の成仏も疑いはないと述べられています。
盂蘭盆経で説かれる目連尊者の母青提女とは、私たち一人ひとりの凡夫のことです。すなわち「強い欲望に振り回されやすい姿、自分だけの利害損得に追われやすい姿、他者の苦悩や悲哀を理解しようとしない姿、嫉妬や憎悪や怒りなど感情に流されやすい姿、真理を求め学ぼうとしない姿・・・」など、私たちが貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒に犯されやすい者であることを教えているのです。その上で真実の幸せのために仏道を歩むことを勧めているのです。

信仰歴の長い方々は幾度となく聴聞された御書だと思いますが、当山には常に初信の方が居られるので、折々にお盆のいわれをお伝えしています。また、同じ御書でも拝読聴聞するときの環境は常に同じではありませんし、語る私もまったく同じ心情ということはありませんから、それぞれの機会に信仰の意義を深めて頂きたいと願っています。

相武山 山主

2017年07月31日

阿部信光師第一周忌

昨年の7月に逝去された法因寺初代住職阿部信光師の第一周忌法要を7日(金)11時から当山の本堂で執り行いました。ま夏の暑いさなかに信光師を弔い、その後、汗をかきながら教区の方々と1ヶ月ほどかけて都筑区の法因寺を整理し、明け渡してから早くも1年となりました。

信光師にはいろいろと問題があったかもしれませんが優しい人柄の持ち主で、法要には追善の気持ちを抱く近在の僧侶にご参集頂きました。御宝前を荘厳申し上げ、精霊壇には塔婆を建立して供物とお膳を供え、皆で真心込めて読経・唱題を申し上げました。参列者の信光師への思いは霊山で宗開両祖にまみえている信光師にも届いたことでしょう。

法要後にはささやかな御斎の時間。信光師が引き寄せたご縁そのものに、在りし日のさまざまな姿の信光師を偲び、皆で楽しい語らいの一時をもちました。ちなみに法因寺は早瀬宗門の手によって昨年の秋には取り壊され現在は更地となっています。信光師も驚いておられることでしょう。

相武山 山主

2017年07月31日

「みほちゃん」しばしのお別れ

先月の21日早朝、吉田満さんから「みほちゃん」逝去の報せをうけました。最近の様子をうかがっていなかったので突然という思いでしたが、満さんからの丁寧なお話をうかがって得心しました。すぐに枕経にお参りしたいと思ったのですが、現代の世相のままに、すでに病院から葬儀社の安置所に行かれるという流れになっていましたから、枕経や十分な段取りについてお話はできませんでした。それでも本人の意思とご遺族の理解があって、当山の法式に則って23日と24日の両日、新横浜の斎場にて厳かに葬儀式を執り行いました。
数え年で81歳だった吉田みほ子さんを私が「みほちゃん」と呼ぶのには少々わけがあります。私が横浜での布教を志して当山の前身となる「布教所 正信寮」を開いたのは昭和56年の2月でした。得度を許され仏道に身を置いた小学校の6年生から29歳近くになるまで、私は寺院での生活が当たり前でしたが、創価学会と結託した阿部日顕師が大石寺と日蓮正宗を乗っ取ったことが判明したときから、寺院での生活を離れ民家で求道と布教にあたることを決意しました。保土ヶ谷駅にほど近い西区東久保町のアパートの一室を仏間としてスタートしたそのときに私の生活環境はがらりと変わりました。今振り返ればよくやったものだと懐かしく思い出しますが、初めてのアパート暮らしはいろいろなことがあり鮮明に覚えています。

2月7日は御開山日興上人の祥月のご命日忌。日興門流の法義と信仰を求める正信覚醒運動の布教所を開所するにさわしい日と考えて、昭和56年2月7日入仏開所式を執り行いました。入仏式には千葉に布教所を開こうと考えていた楢原慈道師が臨席してくださり、また心をお寄せ頂いた数人のご信徒が参列されました。その中に「みほちゃん」もいたのです。お会いしたその時に、義姉の与志子さんが「みほちゃん」とよんでいたので、その親しみやすい雰囲気に私もつい「みほちゃん」と呼び始めて、最後にお別れをするまでみほちゃんだったということです。

ご厚誼を頂いてもう37年になります。信仰心の篤い「みほちゃん」は年中行事はもちろんのこと月例のお経日や御講には義姉の与志子さんと一緒に、保土ケ谷の丘の上の正信寮によく参詣され、合摩さん宅での宅御講にも必ず足を運ばれていました。『信心だけは真面目にしっかりとしたい』と熱く語る人で、言葉をかざることはまったくありませんでしたが、ざっくばらんな物言いに正直さと心のぬくもりが伝わってくる方でした。家族や友人のこともよく心配されていましたし、お寺のこともご心配頂きました。岸根町や羽沢町ではバザーなどにも積極的に参加され、元気に皆さんに声かけをしていたことが思い起こされます。

10年ほど前からは高齢になられた上に体調をくずされ、お寺には思うように参詣できなくなり、旭区下川井町の現寺院には数回参詣されただけでしたが、恵まれた環境に立派な本堂が建立されたことをとても喜んでいました。また、息子の満さんと勝利さんがそれぞれに当山の墓苑に墓石を建立したときには『本当によかった、これで私も安心・安心』と満足しておられました。

昨年は二年ぶりのお経参りにうかがい、久しぶりにゆっくりと語り合うことができ、今となっては懐かしい思い出となりました。葬儀では懇ろに読経・唱題を申し上げ、仏祖三宝尊に成仏の御祈念をいたし御回向申し上げました。今生ではもう二度とみほちゃんの元気な声を聞くことはできませんが、信心深かったみほちゃんですから、きっと日蓮大聖人様のもとに行かれたことでしょう。時が来れば私も霊山に向かいます。みほちゃんしばしのお別れです、またお会いしましょう。

相武山 山主

2017年07月31日