相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

吉次さんの旅立ち

去る9日の夕方、1本の電話が入りました。金沢区の吉次さんの娘さん憲子さんからの電話です。吉次昭治さん逝去の一報でした。10日前の御会式には元気に奥さん・娘さんと一緒に笑顔で参詣され、同志の方々と明るく挨拶を交わしておられましたから、本当に驚きました。ご本人はご家族に「妙法院で葬儀を執り行ってほしい」という希望を伝えていましたから、その希望に添って葬儀を執り行うことになりました。

病院からのご遺体を午後9時40分当山にお迎えし、客殿に安置して読経唱題申し上げました。翌日、午前10時過ぎにご家族がお見えになったので枕経をお勤めし、その後葬儀の段取りを調えました。次の日11日には納棺を行い、12日には仮通夜を行いました。それぞれ奥さんと娘さん孫娘さんがお参りになりました。また、吉次さんは毎月のお経日や13日の御講には奥さん・娘さんといつも一緒に参詣され、多くの方に親しまれていましたから、講中の世話人の皆さんにもご逝去をお伝えしました。

13日は午前11時から今年最後の日曜法話会、午後1時よりは月例宗祖御講と日目上人会でした。その後、参詣の皆さんと客殿において吉次さんとお別れの読経・唱題をさせて頂きました。参詣者の皆さんも突然のことで驚きと悲しみで一杯のようでしたが、心を込めてご冥福を祈っておられました。

吉次さんが奥さんとご一緒に年中の諸行事はもちろん、お経日と御講にほとんど欠かすことなくお参りされるようになってもう10年ほどになります。高齢の上に病気などもありましたから近年は娘さんの憲子さんが車で送迎されていましたが、とても人柄の明るい方で、人なつこい笑顔でお参りされる皆さんに自分から気軽に声をかけられていました。「同信の皆さんに少しでも楽しい気持ちでお参りしてほしい」という吉次さんの思いやりの心が伝わってくる姿でした。
13日の御通夜と14日の葬儀式は本堂の内陣を閉じ、南側に祭壇をしつらえて執り行いました。会葬者は家族親族だけの限られた方ばかりでしたが、皆んなで法華経を読誦、日蓮大聖人ご証得の南無妙法蓮華経のお題目をお唱えして吉次さんの冥福を祈りました。その後に出棺、当山からほど近い横浜市北部斎場で荼毘にふされた後、再び当山に戻られて初七日忌の追善法要を執り行い葬送の儀は恙なく終了。
戦前・戦中・戦後と90年の生涯を歩まれた吉次さんの人生も波瀾万丈のようでした。これよりは生前積まれた仏道の功徳を頼りに、霊山にて宗開両祖の衣につつまれ安らかでありますようお祈り申し上げます。

吉次さんありがとうございました。ご苦労さまでした。
相武山 山主

2016年11月30日

我が子を思う母心

11月1日、月例のお経日の前にサンリーさんがお見えになりました。ルクセンブルクで家庭を持った息子さんに子どもが授かったので、『無事に出産できるようご本尊様に御祈念をお願いしたい』ということです。利発で紳士的で背の高いリックと初めて会ったのはもう20年ほど前のことになります。中学生や高校生の頃にはお母様の導きもあって、時々法要にも参詣し、正座をして御本尊様に手を合わせ、読経・唱題していた姿が印象的でした。その後、父親の母国であるイギリスに帰って大学に通い、現在は社会人となってルクセンブルクで生活をしています。

有り難いと思うのは、いつになっても変わることのない「子を思う母のこころ」です。古今東西子どもを思う母親の優しい気持ちは尊いものです。それは母親の本能なのかも知れませんが、悲しいことに現代では子どもを虐待するという事件も報じられますから、当たり前というわけではないようです。虐待の報道に接すると、どうしてそんなことができるのかと憤りの気持ちが起こりますが、しかしそれはほんの一握りの母親であり、瞬間的な感情によるものだと思います。私はほとんどの母親が子どもを愛おしみ育ててることを知っており、子育てにはげまれるお母様方を心から尊敬しています。

子どもを授かるということはけっして当たり前ではありません。生命的には奇跡に近い確率で授かっていると思うのです。親という存在も子どもを授かることによって得られたものですから、考えようによっては子どもによって親という立場を与えられたということもいえるでしょう。思議を超えた深い因縁によって親子となったのですから、時に諍うことがあっても親子のおもしろさを味わってほしいと思っています。

とても信仰心の篤いサンリーさん。遠いヨーロッパで生活する我が子とその妻、そしてやがて誕生する孫の無事息災を祈り、腹帯を持参しての参詣でした。私もともに御本尊様に祈りを捧げながら、新しい家族の未来に仏天のご加護を賜りますよう祈念申し上げた次第です。

相武山 山主

2016年11月30日

御会式を奉修

今年も同志の皆さんと一緒に日蓮大聖人御会式を厳かに奉修申し上げることができ心からうれしく思っています。例年11月の第一週に執り行われている当山の御会式ですが、今年は10月の29日と30日の両日に奉修しました。

御会式は日蓮大聖人の祥月命日忌(10月13日御入滅)を迎え、門下一同が報恩感謝を申し上げる法要、今年は祖滅735年となります。宗祖が御遷化に当たって選定された六老僧の一人日興上人は、末法の法華経の行者を仏と信受され、日蓮大聖人の説示された末法相応の仏道を明らかにされました。その日興上人の門流が日興門流・富士門流です。当山はその日興門流の寺院ですから「日興上人の信仰と教え」を信行の基本としています。御会式は当山の年中行事では最も大切な法要ですので、開創当時から檀信徒の皆さんと同心して執り行ってきました。儀式や行事にはすべて意義が込められており、その内容を理解して自らも参加することによって仏道の功徳を積むことになります。

近年は御会式の前夜祭にあたる「御逮夜法要」への参詣は多くありませんが、今年も檀信徒の方々に宗開三祖や御先師の申状を奉読して頂きました。日有上人を興厳房が奉読し、続いて私が立正安国論の奉読。中澤俊彦さんが大聖人、新倉昇三さんが日興上人、芦川裕子さんが日目上人、熊木真治さんが日道上人、阿部誠也さんが日行上人をそれぞれ真心を込めて奉読されました。立正安国論や申状には富士日興門流の法義と信仰が凝縮されており、文章は難しい仏教用語でつづられていますが、意味が少しでも理解されれば一言ひとことの重みに信仰の感動を覚えることができます。仏教では「学びの功徳を積む」ことが大切といわれますが、意味が少しでもわかれば愉しくなります。より多くの縁者の方々に仏教に親しんで頂きたいと願う理由です。法要後には皆んなでお茶を頂き和やかに歓談し散会しました。

 
翌日の「御正当法要」は午後2時からの開式。講中世話人の方々が1時間ほど前から準備にあたっていましたが、世話人有志の方々にはいつも法要や行事のために尽力頂いています。何ごとも誰かがどこかで頑張っているから維持されているものです。当山のさまざまな年中行事も有志の方々のご信心のお陰で無事に執行されており感謝しています。

定刻の10分前には司会進行の阿部一博さんが式次第の裏面に掲載の「御会式の意義」についてを読み上げ、参詣者は御会式への思いを新たにしました。開式が宣せられて本堂が唱題の声で満たされる中、教区僧侶が入堂。御宝前に供えられた仏祖三宝尊への献膳から読経・焼香へと進み、自我偈の前で磬が打たれ読経を中止。参詣僧侶によって日有上人から申状が順次奉読され、静かな本堂には厳かな奏上の声が響きました。法要後には松田教尊師(茅ヶ崎市妙覚院住職)による講演。『巡り会うことのできた尊い大聖人様の仏法。生涯退転することなく、しっかりと精進して行きましょう』と法話を頂戴しました。その後、私より『今年も無事に御会式が奉修できたことに感謝。一人ひとりが妙法院の主役という自覚で菩提寺の行事や法要に参加頂きたい。さまざまな仏道修行を愉しんで修めて頂きたい』と挨拶を申し上げました。続いて新倉講頭より『皆んなで菩提寺を護り仏法の護持と弘通に励もう』という挨拶があり、唱題のなか、講中世話人によって御宝前荘厳のお花くずしが行われました。

司会者の閉会の言葉で御会式は無事に終了。子供たちには御菓子が贈られ、参詣者には桜の花とお供物が手渡され、それぞれ和やかな笑顔で帰路につかれました。今年の御会式では当山の「開創三十五周年記念法要」の冊子を参詣者に贈呈。参詣者は本堂に約100名、客殿に約20名でした。明年の御会式がさらに盛大に奉修できるよう精進を重ねて行きたいと思っています。

相武山 山主

 

2016年11月30日

慈しむこころ

今年10回目となる10月の日曜法話会は16日の開催でした。毎回法話会の趣旨を説明してから法話に入りますが、今回は初めての方が居られなかったので「世相」からのお話。法話会では毎回世相を取り上げて私の意見を述べていますが、それは仏教が『現実直視』を大切にし、『あらゆる事物・事象は私たちと無縁なるものではない』との認識に立って、『眼前に展開される事物・事象をどのように観るか』を一人ひとりに問うているからです。また、『起こる事象はすべて学びの対象』とするのも仏教の立場です。

10月の世相のテーマは「過労死という現実」でした。大手広告代理店電通に勤めていた高橋まつりさん(24)が過労を苦に入社一年目の平成27年12月25日に自死され、三田労働基準監督署が過労死と認定した事件を取り上げました。始めに事件の概要を説明し、大多数の人々が哀悼の意を表するとともに現代の悲劇として問題視していることを解説。『過労自死(未遂も含む)での労災認定は平成27年度93件』であること、『過労による鬱病等の精神疾患多発が社会現象』であること。『余裕のない労働環境(会社と収益が至上の価値』『被害者救済の対策(個人と会社と社会)が急務』『労働への意識改革(個人と会社と社会)が必要』という意見を述べました。
また、「仕事と人生を考える」として、『仕事は人生で重要なポイント(人生の大切な項目を具体的に挙げて優先順位を考えてみよう)』『仕事は選択できる』『仕事の苦楽がともに人生に活かせる労働を求める」『人生を心身共に豊かにする労働が望ましい』という意見をお伝えしました。
さらに「意識改革が必要」として『人は一人ひとりちがう存在(肉体や精神、個々人の素質や能力や性格。家庭、人間、学業、社会、自然環境など)』『互いの違いを認め合い尊重する社会』『慈しみのこころを涵養し皆んなが健やかに生活できる社会』『古今東西、人間の内面教育が求められている』ことを述べ世相への意見としました。
世相の内容が濃かったので、法話会のテーマ「慈しむこころ」(幸せに生きるために) は少し駆け足になってしまいました。「慈しむこころ」は人間としての優れた徳目であり、仏教では本来具有しているものと説かれているが、意識することから始まり、磨き上げ育てて行かねば成らないものであること。「慈しむこころ」は一人ひとりの人生を豊かにし、社会からいらぬ対立と悲劇をなくすことができるものであることを解説しました。
慈しむこころは仏教では「慈悲」と解説される中心テーマの一つです。慈悲とは「抜苦与楽」と訳され「苦を抜き楽を与える」ことと理解されます。すなわち『人を慈しみ人とこころを共にする、人が悲しんでいる時には悲しみを共にする気持ち』ということになります。大智度論には『大慈とは一切の衆生に楽を与え、大悲とは一切の衆生のために苦を抜く。大慈は喜楽の因縁を衆生に与え、大悲は悲苦の因縁を衆生に与う』と説かれていることを紹介しました。
自他の情執を克服して縁起の法理を実践する「慈しみのこころ」は、自己浄化をなすものであり、この精神が人々に理解され、社会に広がって行くことこそ仏さまと仏教徒の願いであることをお伝えして法話を結びました。平成28年度の日曜法話会も11月13日をもって終了となります。皆さまと一緒に仏教を学ぶ機会ですのでより多くの方々のご参加をお待ちしています。

相武山 山主

 

 

2016年11月04日

心からの安堵

この秋は台風や強風の報道に敏感になっていました。というのも境内南西側の雑木林の高木の伐採作業が進んでいなかったためです。川脇さんのご尽力で夏に一応の対策は講じることができましたが、台風などで強風が吹けば伸びた枝の抵抗もあって倒木などの危険も想定されました。

できる限りの対応を準備していた折に、遠隔地に住むある篤信のご信徒から『伐採について協力したい』という実に有り難いお申し出を頂きました。『知人が川崎市多摩区で造園業をしているので、倒木の心配のある樹木だけ伐採させてもらいます』というお申し出でした。縁の有る同信の方でしたが当山のご信徒ではありませんので少々遠慮はありましたが、信心からの自発的なお申し出であり喜んでお受けいたしました。

10月3日、バス通りからの道路を許可を得て通行止めとし、重機を据えて伐採作業を行いました。小雨の中での作業でしたが、親方は重機のゴンドラを手際よく操作しながら枝をどんどん伐採して行きます。切り落とした枝がみるみるうちに雑木林に積み上がって行きますが、3名の若い衆が太い幹を切り分け枝葉を整理していました。あいにくの天気でしたから予定どおりの作業とはいかなかったようですが、倒木の危険があった2本の樹と大きく葉を伸ばしていた樹木3本を整理することができ、危険を回避できたような気がしてほっとしました。

14日には二度目の伐採作業。境内墓苑の中に重機を入れて上からの伐採です。天気にも恵まれ朝から夕方までとなった作業では、前回よりもはるかに伐採が進み、うっそうとしていた雑木林はすっきりして、向かいの追分市民の森を見渡せるようになりました。重機の作業領域の関係で数本の高木は残りましたが、これでしばらくは倒木や道路の閉鎖などの心配から解放され心から安堵することができました。
雑木林に陽が差し込むようになり、墓苑も明るい景観が広がりましたから、これからさらに整備をして雑木林のスペースを活用したいと考えています。篤信(信仰心が篤い)の信徒のご支援で心配事が解消し、有縁無縁の人々の仏縁に資する環境が調えられることは有り難い限りで心より感謝をしています。

仏道を護り伝えてゆくのが「法華の道場」の務めです。主体的にその任にあたるのは僧侶の役目ですが、檀信徒の物心両面にわたる支えがなければ護持することは到底できません。釈尊の昔から仏法守護の檀那(だんな)が存在し、アジア仏教史の上でも各地に供養者(くようしゃ)が存在し、宗開両祖の御在世にも檀越(だんのつ)が存在しているゆえんです。当山も常日頃から『法華経と日蓮大聖人の仏法は大切でありお護りしなければならない』と信仰される檀信徒の皆さまの志によって護持されています。樹木の伐採を機縁にこれからも僧俗同心して仏法守護に努めてゆきたいと願っています


相武山 山主

2016年11月04日

思いの現れとして営む

10月15日(土)、秋らしいさわやかな青空が広がるなか、栗坂家の法事が当山で執り行われました。

17回忌を迎えるご両親が当山に所属されてからもう21年になります。お姉さんの久美子さんは毎月お参りになり、栗坂さんも折々によく参詣しておられますが、栗坂さんの三人の子どもさんにお会いするのは久しぶりでした。皆さん立派な社会人となり、ご長男はお嫁さんをお連れになってのお参りです。幼い頃を知っていますからここまで無事に成長されたことに感慨ひとしおでした。何があってもおかしくないのが人生、無事に過ぎるものはありませんから喜ばしい限りです。お祖父ちゃんお祖母ちゃんも仏さまの側で笑みを浮かべていることでしょう。
今回の法事は栗坂さんのご両親の17回忌とお祖父ちゃんの27回忌、お祖母ちゃんの7回忌を併せて行うものでした。仏教では「自らの生命の源であるご先祖を大切に」「恩を知り、恩に報いる心が大切」「両親の供養を怠ることなく」と教えていますから、いささかの信仰心があれば追善供養の法事を営むこととなります。年配の家族や親族がいればその意義と作法も教えてもらえますが、核家族化した現代では軽んじたり疎かになるのもやむを得ないのかも知れません。

宗教心や信仰心が薄く乏しくなるばかりの現代では「法事に何の意味があるの?」「お金と時間の無駄じゃない?」「家族が食事会をして法事にしようよ」という声さえ聞くことがあります。どのような考えを持つかは各自の自由ですし、信仰心がなければ法事など論外ということでしょう。そうであるからこそ、心を込めて営まれる法事が尊いと思えるのです。

法事といっても大それたことではありません。当然のこと規模を問うことなどはありませんから、一人で営む方もいれば、思いのある家族だけという法事、親族友人にも案内をして営む法事などがあります。どのような形であれいずれも故人精霊やご先祖への思いがなければできないことで、仏道の上では有り難いことです。供養の志を向けられた精霊もきっとその思いに感謝をされることでしょう。

生者が死者のために執り行われる法事ですが、そこには死者との深いいわれを思い、冥福を祈るという心の営みがあり、また、深いゆかりのある精霊は必ず縁者の幸せを祈っているのですから、法事では死者からの励ましの言葉が聞こえてくるかもしれません。仏さまの導きのもとに生者と死者の互いの思いが交わされるのが法事という意義深い行事です。

栗坂家の法事に参列された方々には法話としてこのような法事の意味と、「何が起きるかわからない人生を如何に生きるか」ということが仏教のテーマであることをお伝えしました。ふだん仏教にふれる機会の少ない若い方々にも何かが伝わっていくことを願っています。

相武山 山主

2016年11月04日

健やかな成長を祈ります

10月8日、彩葉ちゃんが七歳の御祝いのため、ご両親をはじめご家族と一緒に当山にお参りされました。

『ついこの間 三歳の御祝いだったのに・・・』子どもの成長は本当に早いな~と実感しました。子どもの成長はうれしく楽しいものですが、うっかりすると子どもの成長に比例して自分も歳を重ねていることを忘れそうになることには注意が必要です。子どもの成長と関係者の年齢は同時進行ですから、長く子どもの成長を見守るためには自らの健康に配慮しなければならないというこになります。

さて、子どもの健やかな成長を願うのは親としての素直な気持ちです。私たちは親や家族などの愛情に育まれて、何をしても楽しかった子ども時代からやがて自我の目覚めをおぼえて人生を歩みはじめます。すると誰もが「思うようにならない・・・」「願うようにならない・・・」「なぜこうなるの・・・」と人生の厳しさとおもしろさに気がつくことになります。さらに病気や事故や障害は突然にやってくるように思えますから、「どうして自分だけ・・・」と思い悩むことさえ起きてきます。そうです。与えられた人生を全うすることはけっして容易なことではないのです。
そこに気づいた人にとって、「人生を無事におくること」「病気や事故や障害に遭遇してもそれをバネにして生きること」「賜った人生を悔いなく歩むこと」を願うのは当然のことです。また、最愛の我が子や孫に対してもそのような幸せな人生を歩んでほしいと願うのが人情というものです。

七歳、五歳、三歳を迎えて、信ずる仏さまのもとに参詣し、今までの成長に感謝を申し上げ、幼子のこれからの人生、身心ともに健やかに成長できることを祈るのが七五三祝詣りです。我が国でこのような行事が永く広く行われているのは、前述のような願いがあることによりますが、現代日本のように、戦争や殺戮もなく栄養や医療環境に恵まれた時代では想像もできないほど、古から近代まで子どもを無事に育てることが難しかったことを意味しています。
とても可愛い彩葉ちゃん。お参りは少し窮屈そうでしたが、物心つく頃にはきっとご両親や祖父母など見守ってくださった方々に感謝することでしょう。おめでとうございました。健やかな成長お祈りしています。

相武山 山主

 

2016年11月04日