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相武山 妙法寺 ブログ

法華信仰への誓い

20日の土曜日、湘南台から平沢さん御一家が授戒のためにお参りされました。平沢さんの奥さん(光恵さん)は泉区の林さんの次女です。平沢さんの御一家が当山にお見えになったのは子どもさんが幼い頃でしたから、もうかなりの歳月がながれます。ご信心の篤い林さんに導かれて、家族でお正月やお彼岸やお盆などにお参りされてきました。

今までご一家は、法華経への信仰の誓いである授戒をうけることもなく、ご自宅に御本尊様をお祀りすることもなく、ご縁のままに気軽に当山にお参りされていました。数年前に林さんから「平沢家にも御本尊様を頂くことはできますか」と尋ねられた時には。「法華経への信仰をお誓い頂ければ御下附できます」とお応えしました。その後、間が空いてしまいましたが、ご夫婦で「お父さんのように、ご本尊様を迎えて信心をしてみようか」というお気持ちがあったようです。

そのような中、昨年の10月1日、林さんの奥さん(なみ子さん)が突然に逝去され、林家も平沢家も悲しみに包まれてしまいました。ご主人をはじめ、家族としての深い絆に思いを寄せる平沢さんたちは、林さんと一緒に真心を込めて葬儀を執り行い、七七日忌から納骨式、百ケ日忌まで丁寧に追善の供養をささげられました。悲しみの中で供養を執り行ううちに、ご夫婦が話し合われ、「きちんと法華経の信仰をして行こう、御本尊様を迎えてお祀りしよう」ということになったようです。正月明けには御本尊様を安置する仏壇を用意され、2月7日の興師会には家に在るお守りやお札を当山に納められました。

まじめで何ごとにも誠実に向き合われるご夫妻、そして礼儀正しい二人の息子さんもご一緒に授戒を受けられました。私からは事前に「子どもさんたちは自分の意思もあるでしょうから、授戒はご夫妻の後からでも良いですよ」とお伝えしましたが、ご家族一緒に仏法信仰への道を歩み始められました。法華経を読誦することやお題目を唱えることには違和感はないようで、皆さん気持ちよくご唱和頂きました。同道された林さんも穏やかに喜んでおられました。

信仰への誓いの後には、信仰の在り方や勤行の仕方などについてもお話をさせて頂きましたが、奥さんから「御経が難しいので自分たちにも内容がわかるような経本がありますか」と尋ねられました。たしかに音読でも信行的には十分ですが、意味が理解できればさらに信仰が深くなることでしょう。法華経の訓読や和訳も大切なことだと思いますので、これからは講中の皆さんと一緒に学んで行きたいと考えています。

平沢家の皆さん。この度は仏門への誓いを立てられ真におめでとうございました。海のように広く深い仏法の世界ですから、じっくりと学び信行を積まれて豊かな人生を歩んで頂くことを願っています。

相武山 山主

 

2016年02月29日

春一番に向かって

日蓮大聖人は貞応元年(1222年)2月16日、安房国(現在の千葉県)に誕生されました。その御生涯は仏道の本義を探究し、一切衆生の成道を願うものでした。

紀元前5世紀頃インドに誕生したゴータマシッタルタ(釈尊)は真実の法理を悟り仏陀(覚者)となりましたが、仏陀となった釈尊は悟りの内容を秘匿することなく、自らの解脱を人々の救済の道とするために仏教を開かれました。釈尊によって創唱された仏教は、やがてインドからアジアの各地に伝播して行きましたが、仏典の成立や教学の分派などにより、また、それぞれの国や地域の歴史や文化、伝統や習俗などと融合することによって、多様性を帯びることとなりました。釈尊の仏教は伝播の時代と流布の地域によって、さまざまに変化することを余儀なくされたというのが事実です。
我が国には中国や韓半島を経由して仏教が伝えられましたが、やがて、飛鳥・白鳳から天平にかけては南都六宗が、平安初期には天台・真言の両宗が国家や有力者の庇護を受けて隆盛を極めます。当初は鎮護国家や有力者のための仏教でしたが、平安時代も後期になりますと庶民もその救済の対象になってゆきます。聖の存在や修験道、浄土教や禅宗なども盛んになり仏教は身分の上下を越えて広く日本全国に信仰されるようになりました。

日蓮大聖人が生を受けた鎌倉時代は源頼朝によって武家政治が始められ、北条一門が執権として国を治める時代でした。当時の仏教界は、南都六宗、天台・真言、それに浄土教、禅宗などと、まさに百花繚乱の状態でした。宗祖はそのような仏教界の姿を観て、「釈尊の真意はどこにあるのか、仏教の根本真理とは何か」を探究されたのです。12歳で清澄山に上り仏道と正面から取り組まれて20年、懸命な修学と修行によって遂に釈尊仏教の根本を、「一切衆生の成仏を認め、本仏の常住と救済を説く『法華経』」に見出されました。

一切の仏教を南無妙法蓮華経のお題目に込められた宗祖の教えを人生の燈とする門弟にとって誕生会(たんじょうえ)は大切な日となります。当山では13日の午後1時から参詣の檀信徒と倶に御報恩を申し上げましたが、16日には自宅の御本尊様にお供物をそなえ、心からの感謝を申し上げた方も多かったことでしょう。

2月14日の横浜は午前中雨が降っていましたが、雨が上がると強い風が吹き、春一番ということでした。蕗のとうが顔を出していましたから、もう春だな~という実感です。この日は当山東側の擁壁内の土を移動する作業を予定していましたが。残念ながら降雨のためできませんでした。擁壁内の土は本堂・客殿などの建設時に地下に見立てるために積み上げられたものです。建設当時から駐車場側に土が流れてきたら困るなと思っていましたので、適正な位置まで土を掘って出すことにしたものです。その後は植樹をして駐車場からもお寺らしい景観に調えたいと思っています。

土は入れても出しても手間がかかるものでやっかいですが、時間をかければ経費をかけなくても対応が可能です。ただし、やろうという意思の発動がなければできません。幸い高津区の鈴木さんが軽トラックを提供できると申し出て下さったのでご協力頂きました。14日は作業できませんでしたが、16日と18日の両日鈴木さんにも参加頂き、興厳房と3人で3時間~4時間ほど土の移動作業をしました。掘った土は南東側の未整備の斜面に置きましたから、やがて未整備の斜面も格好がつくことでしょう。軽トラがなくても土嚢袋に入れれば移動も難しくないことがわかりましたから、梅雨に入る前には移動を完了したいと思っています。

私は境内の整備も仏法の荘厳に通じていると思っています。檀信徒の方々はもちろんのこと、ご縁のあるすべての方に気持ちよくお参り頂くことは、仏道への機縁になるものと信じているからです。力がありませんから思うようにはまいりませんが、「時間をかけてじっくりと取り組んで行こう、仏様と皆さんに喜んでもらおう」と、春一番に向かってのつぶやきでした。

相武山 山主

2016年02月29日

開創の志に導かれて

2月7日は富士日興門流の開祖日興上人の祥月命日忌。

門流では「興師会(こうしえ)」と称して御報恩の法要を執り行います。当山は昭和56年の興師会を開創の日としますから格別にゆかりの深さを覚えます。日興上人は日蓮大聖人が後事を託された「六老僧(ろくろうそう)」のお一人。末法の法華経の行者である日蓮大聖人には数多の弟子が居られましたが、入滅にあたって六名(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)の高弟を選抜されました。宗祖の教えを信行し伝持するという現在の日蓮法華宗系の寺院の淵源を尋ねれば、必ずこの六老僧の系譜に至るといっても過言ではありません(近世の新興宗教は除く)。当山も日蓮大聖人・日興上人の教えを求める日興門流の寺院です。しかし、阿部日顕師が相承を偽装し支配する現在の日蓮正宗や大石寺とは一線を画しています。

宗祖入滅後、その門下では「日蓮の教え」をめぐって論争が起こりました。その時に日興上人は『宗祖の教えは遺された御書に求めるべき。信行の対象であるご本尊は仏像を用いず、宗祖所顕の十界互具の妙法曼荼羅。末法思想に立脚すれば法華本門の教えが肝要。末法では法華経の行者を本仏とする』とのべ、今日に至る日興門流の礎を築かれました。近世、日興門流は日蓮正宗と理解されていますが、中世では「法華宗、日蓮法華宗、富士門流」と称していました。また、日蓮正宗(大石寺門流)だけが日興門流というわけではなく、現在「富士五山、興門八ケ本山」が存在しています。

興師会を迎えると当山は開創からの歴史をまた一つ刻むことになります。当山の興師会は今年で36回目となりました。『近代日蓮正宗(大石寺門流)の在り方に疑問を持ち、日興門流本来の法義と信仰を求めよう』という正信覚醒運動の展開が機縁となって誕生したのが当山の前身である正信寮でした。まさに徒手空拳でのスタートでしたが、宗祖大聖人の信仰に思いを寄せる方々、新たに仏道にご縁を結ばれる方々が集い、今日の相武山妙法院に至っています。

35年といえば幼子が壮年となるほどの時間です。ふりかえってみればあっという間のできごとでしたが、けっして短いものではなく、この間、「仏法の護持弘通」という妙法院の理念は不変ですが、さまざまな人間模様が展開されました。また、覚醒運動も長期化するに及び信仰への姿勢や意見の相違も見られることになり、関係僧俗の足並みが乱れたことも事実です。しかし、混乱や紛議もけっして一方的に否定されるべきものではなく、それらを通して本来の目的や意義が問い直され、怠惰と退廃への道を遮ることにもなることを知らねばなりません。そのような視点に立てば「艱難汝を玉と成す」という故事にも思いが至り、真実を求めて行く者にとって混乱も善知識となることが理解されることでしょう。

檀信徒の皆さんと同心して興師会を執り行い、御開山日興上人にご報恩謝徳申し上げながら、いろいろな思いが脳裏をよぎりましたが、35年の歳月を乗り越えてこられたのは、ひとえに「開創の志」を見失うことのない真摯な檀信徒のお陰であると、改めて御本尊様に感謝を申し上げました。法要後の法話は「日興上人の御生涯」。御書システムを引用して日興上人の御一生についてじっくりと解説いたしました。

相武山 山主

2016年02月25日

節分会と豆まき

年末から正月にかけてお寺は何かと忙しい日々が続きますが、忙しさに追われているうちに早2月も中旬を迎えてしまいました。忙しいのはお寺ばかりではありませんから同様の方も多いのではないでしょうか。忙しいとは心を亡くすともいわれますから、忙しすぎて心の在り方を見失わないように注意したいものです。

2月の3日は節分会でした。節分は「鬼は外、福は内」という豆まきが一般的なイメージですが、最近は恵方巻を食べることも節分のイメージの一つになってきているようです。習俗や風習は時代や地域によって異なりますが、関西の一部で行われていたという「節分には恵方巻を食べる」ということも、商業ベースに乗って全国に定着してきたようです。コンビニの影響も大きいかもしれませんが、その歴史はわずかに20年~30年といったところでしょうか。文化や伝統というと永く歴史を刻んで人々の生活に浸透したものと考えやすいものですが、恵方巻を例に出すまでもなく、文化や伝統ばかりでなく習俗や風習といわれているものにも意外に歴史の浅いものや、根拠の定かでないものが多いものです。少し例を上げれば、結婚式をキリスト教式で挙げるのは40年ほど前からのこと。天皇家の葬儀もかつては仏式。葬儀の喪服は昔は黒ではなく白であった。葬儀屋さんはここ半世紀ほどの商売。クリスマスの一般化は戦後から。等々、昔からのようにイメージしていたものがそうではないことに気がつきます。

物事のいわれや歴史を知ることは知識の基であり、自らの判断の基礎ともなりますから、ときにはいわれを訪ねることも大切なことだと思います。幸いにも現代は、パソコンやスマホで「検索」という便利極まりない機能が身近にあります。実に重宝な機能ですから活用したいものですが、提供される情報が本当に正しいものか否かは自身の判断によりますから注意も必要です。

さて節分ですが、元来,季節の移り変る時をさし,立春,立夏,立秋,立冬のそれぞれの前日を節分とよんでいました。立春は太陰太陽暦では年の初めとなりますから、その前日は大晦日と同様に大切な日とみなされ、江戸時代頃から節分は立春の前日をさすようになったようです。寒く厳しい冬を乗り越え暖かな春を迎える時期を一年の境と考え、新しい年を無事に過ごすことができるようにと仏神に祈りをささげたのでしょう。

古来、大晦日には中国から伝わった「追儺(ついな)」という厄払いの行事が行われていたようです。追儺は、俗に「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」、「厄払い」「厄おとし」「厄神送り」などと呼ばれ、疫病や災厄などをもたらす悪い鬼を追い払う行事のことです。
この追儺では、「鬼の姿を疫病や災害などの災いに見立て、豆を撒いて悪魔悪鬼を追い払う」と仕立てたので、ここに「豆うち」「豆まき」というかたちができたようです。この豆まきの風習は室町時代には庶民の間にも広がったといわれています。豆をまくということには、「鬼の目(魔の目=魔目(まめ)に、豆を投げつけて、鬼を退治(魔を滅=魔滅(まめ))する」という解釈があり、無病息災を祈るという意味をもっています。

節分会は仏教儀式というよりも世間的な習俗の一つとして当山でも執り行っています。今年も2月3日(水)13時から参詣の皆さんと共々にご本尊に読経・唱題申し上げ、参詣者からお申し出のあった厄払い御祈念と無病息災を祈念申し上げました。読経中には私が御宝前に豆をまき、興厳房が本堂の四隅と客殿、受付に「福は内、福は内」と豆をまきました。当山では鬼は外とはいわず、福は内といって豆をまきます。鬼をも救おうというのが仏教の慈悲の精神であり、法華経と宗祖の教えでは、自らに課せられたさまざまな問題は一方的に忌避すべきものではなく、それらを善知識と受けとめ、克服して行くことが自身の仏道を開くことになると考えます。変毒為薬(毒をもって薬となす)とは法華経の教えですが、あらゆる存在が仏道の因縁であるとする信仰では「福は内」となるのです。

寒中にお参りされた皆さまご苦労様でした。
相武山 山主

 

2016年02月11日