相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

面影を偲んで

晴天に恵まれた26日(土)は大掃除でした。歳末の忙しい時期にもかかわらず、辻本さん、竹越さん、奥田さん、久保さん、芦川さん夫妻、落合さん夫妻、中澤さん、森さん、熊木さん、新倉さんご兄弟にご協力を頂きました。本堂の回廊、玄関、三師塔、久遠廟、境内から参道、公道の雨水枡まで、1時間半ほどをかけてすっかり浄められました。これで気持ちよく新年を迎えることができます。皆さんありがとうございました。

仏道には修学と修行が求められますが、修行の一環ともいえる年中のさまざまな法会や行事への参詣・参加は、あくまでも本人の自主性に委ねられています。一部の宗教団体に見られるような、強制や脅迫まがいの言動は仏道の修行とよべるものではありません。当山の法要や諸行事についても案内とお勧めはしますが強制するようなものではなく、一人ひとりの信心に基づいて参加頂いています。ときに参加者の目処がつかずに混乱することはありますが、自主的判断であれば愚痴や不平や不満によって尊い信心が毀損することはありませんので、これからも当山の諸活動には自主的判断で参加頂きたいと思っています。

さて、葬儀や法事などの仏事は仏教寺院にとって大切な法務ですが、ときに理解のない方から「葬式仏教」といわれて、一方的に嘲笑されたり批判を蒙ることがあります。しかし、仏道では知恩・法恩を説き三世の営みを信じますから、葬儀や法事は人の道に通じるものであり、人徳を積むことになると教えられています。当山でも営む規模にこだわらず法事を大切にしています。今年もふり返ってみれば多くの方の法事をお勤めいたしました。檀信徒の方々とは信仰の時間を共有したこともあって、法要の砌りには供養される故人の人柄や面影が浮かんでまいります。ブログの都合もあってすべてを紹介することはできませんが、ゆかりのある方にはお伝えしたい人柄などを簡略に述べたいと思います。

去る11月15日には白濱不二枝さんの13回忌の法要が隆一郎さんを施主に営まれ、子どもさん、お孫さん、ひ孫さんまで集まりにぎやかに執り行われました。白濱さんが当山に所属されたのは平成7年のことですから生前約8年間のご交誼を頂きました。白濱さんは信仰心が篤く法華経や御書にもよく親しまれ、日蓮大聖人の教えをまじめに求められていました。3年ほど続いた「富士門流の信仰と化儀(興風談所・池田令道著)」をテキストとした勉強会には子どもさんと一緒に欠かさず参加され、熱心にメモを取られていたことを覚えています。子どもさんやその家族のことをとても気にかけておられ心の優しい方でしたが、人生の荒波を乗り越えてきた強さもお持ちでした。法要後の墓参では不二枝さんの穏やかな笑顔が浮かんできました。

11月22日には飯田一哉さんの7回忌法要が妹の直子さんを施主に営まれました。お母様は体調の都合で、弟さんは仕事の都合で残念ながらお参りはできませんでしたが、一哉さんの会社関係の方約10ほどが参列されました。一哉さんは平成7年にお母様が当山に所属されたことを機縁として一緒に信行に励むことになった方です。当時一哉さんはアメリカに出張しており、当初はあまり顔を合わせることはありませんでしたが、帰国されてからはよく当山の行事にご参加頂きました。諸行事では自ら率先して準備に協力され、会場や駐車場の整理にも尽力頂きました。30代半ばの若い一哉さんが信心深かったのはお母様の影響によるものです。お母様は深く大聖人様への信仰をお持ちでしたから、一哉さんもその意思を大切にしておられました。自身も信仰を大事にされ現在の新寺院の建設にも大いに貢献された方です。惜しいことに一哉さんは50歳という若さで霊山に旅立たれました。オートバイとサーフィンが好きで、まじめで温厚篤実なご性格でしたから、会社の同僚の方々にも愛されたのでしょう。普段からも一哉さんの墓前には同僚の方がお参りになり供物やお花、お香が供えられています。法要後の墓参では一哉さんの少しはにかんだ優しい笑顔が浮かんできました。

11月28日(土)には下條久雄さんの7回忌法要が奥様を施主に営まれました。下條さんの奥様は当山開創の頃からのご信徒で、ご一緒に信行に励んで約35年にもなります。はじめは覚醒運動に賛同された日本舞踊の先生の引き合わせでしたが、やがて川崎区の下條さんのお宅で「宅御講」を開催させて頂くことになり、芦川さんのお宅に移るまで長く会場をご提供頂きました。明るく屈託のない下條さんの人柄もあって、宅御講には数人のご信徒が参集。御書講義の後はいつも和やかな笑い声で包まれていました。ご主人は積極的に信仰されるわけではありませんでしたが、奥様の信仰を温かく理解されバックアップして頂きました。そのご主人とは毎年夏のお経参りの時にゆっくりとお話する機会を頂きました。私にとっては人生の先輩ですから、子どもの頃の話や戦争当時のこと、そして事業を起こして苦労されたことなど、興味深く示唆に富む話を穏やかに話してくださいました。また、息子さんの浩さんと娘さんの和子さんのことになると楽しそうに語られ、授かった子どもさんへの深い愛情が伝わってきたことを覚えています。会話の途中では時々奥様のちゃちゃが入りますが、それもスパイスの一つで私には楽しいお経参りの時間でした。法要後の墓参では下條さんの和やかで誠実な笑顔が浮かんできました。

人生はさまざまな出会い満ちており、出会いによって人生が決まるといっても過言ではありません。それぞれの出会いを取るか捨てるか、活かすかころすかは自身の判断です。法事の砌りにうかぶ皆さまの面影は私に出会いの尊さを教えているかのように思えます。

明後日はもう新年を迎えます。このブログも今年最後のものとなりました。気がつけばブログも通算200回のアップです。一年間お読み頂きありがとうございました。

相武山 山主

 

2015年12月30日

おさめ御講と懇親会

おさめ御講前のアクシデントに少々翻弄されながらも、13日(日)は午前11時よりおさめ御講を奉修。平成27年最後の宗祖ご報恩講には、信仰心篤い約50名ほどの檀信徒が参詣。はじめに仏祖三宝尊への献膳、法華経方便品・寿量品の読経、お題目をお唱えして御報恩のまことをお供え申し上げました。読経・唱題を申し上げながら私も今年一年の妙法院の有り様をふり返りましたが、参詣者もこの一年の自身の信行をふり返られたことでしょう。

法要後には「聖人知三世事」を拝読しての法話。この御書は建治元年(1275年)に日蓮大聖人が檀越の富木常忍に与えられたもので、真蹟五紙が中山法華経寺に蔵されています。蒙古の来襲を「立正安国論」に示した他国侵逼難の適中として、自身を三世を知る一閻浮提第一の聖人と位置づけられた御書です。当時の北条一門の施政から、仏教界が念仏・禅・真言の教義と信仰に翻弄されていることを解説、宗祖が仏教の根本の教えである法華経をもって人々の心と生活の救済あたるべきと説かれた意義をお伝えしました。

また、末文の『我が弟子等之れを存知せよ。日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽(ふきょう)の跡(あと)を紹継(しょうけい)するの故に。軽毀(きょうき)する人は頭七分に破れ、信ずる者は福を安明に積まん。 ー略ー 設ひ万祈(ばんき)を作(な)すとも日蓮を用ゐざれば、必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん。我が弟子仰ぎて之れを見よ。此れ偏(ひとえ)に日蓮が尊貴なるに非ず、法華経の御力の殊勝(しゅしょう)なるに依るなり。身を挙ぐれば慢ずと想ひ、身を下せば経を蔑(あなず)る。松高ければ藤長く、源深ければ流れ遠し。幸ひなるかな楽しきかな、穢土(えど)に於て喜楽(きらく)を受くるは但日蓮一人なるのみ』から、日蓮大聖人が不軽菩薩の跡を紹継され、法華経の行者としての自覚に立たれ、法難はもとより艱難辛苦のすべてを深い喜楽に転じて居られたことをのべました。さらに「仏道を歩むということは、仏さまの説かれた教えを実践し、その実践を悦びと感じてゆくこと」であるから、私たちも義務として身構えて信行に勤めるのではなく、一つ一つの信行を心から悦びと感じられるように、信心を深めて行くことの大切さを述べて今年最後の法話としました。

その後は場所を客殿に移し、歳末の懇親会を皆んなで愉しみました。改めてお伝えするまでもなく「お寺は仏さまとその教えを護り伝える存在」です。そのお寺は「菩提寺として認識する檀信徒によって護り維持」されます。仏教的にも世法的にもお寺は仏さまと檀信徒の所有といっても過言ではないでしょう。住職や僧侶はお寺を護り管理・運営する責任はありますが、檀信徒の存在は寺院の存在意義となるものです。もちろん仏法護持という使命がありますから、檀信徒がいなくても存在価値は認められますが。

鎮護国家の飛鳥の昔から聖徳太子の例を引くまでもなく寺院には外護者が不可欠でした。寺院が存在すればそこには護持する信仰者が存在していたのです。その外護者は国家であったり時の権力者や地域の権力者であったりさまざまです。そのような姿は我が国ばかりでなく、遡れば仏教を創唱された釈尊の時代でも多くの信仰者が外護者となって仏法僧を護持されたことが仏典に記され、アジア全域の仏教伝播の歴史を見ても明瞭な事実です。我が国では後に、徳川幕府の治世の方途として、「すべての国民が菩提寺を持つ」ように指示されました。ここに現代に続く「菩提寺と檀家意識」の源があります。本来の菩提寺とは「菩提を求めて修行修学する道場」のことであり、また、檀家は「仏教を信仰し布施をもって仏法僧の三宝を外護する檀徒の家」となります。しかし、徳川幕府の治世下では仏教と寺院が国民を支配する手段に用いられ、信仰が有ろうが無かろうが国民すべてに仏教が強制され、必ずどこかの寺院を菩提寺と定めなければ生活が出来ないようにされてしまったのです。当然菩提寺を変えたり宗旨を変えることなど至難のことでした。個人の信仰心の前に家の宗旨が問答無用で存在していたのです。菩提寺となって安定した立場を得た仏教寺院でしたが、やがてこのシステムが仏教の退廃と混乱の大きな原因となり現代に及んでいます。詳細については法話会などで解説しましたが、機会を得て再度お伝えしようと思います。

さて、懇親会のために2~3日前から興厳房が客殿での配置(座卓では会食しにくい方への用意)や食器等の準備をし、私も前日から飲み物や漬け物を用意したり、特性の豚汁を大鍋に二つ作らせてもらいました。おにぎりや唐揚げやシュウマイは当日朝の調達でしたから少々バタバタしましたが、老川さんが海苔巻きを三皿提供され、落合さんにも漬け物を頂き、おさめ御講が終る頃には会食の準備もすっかり調いました。懇親会は参加者から「1コイン(500円)」を頂きました。何をするにも経費は必ずかかりますので、皆んなで負担できればそれにこしたことはありません。皆さんが思い思いの席に着いたところで、新倉講頭が皆さんの信心で菩提寺妙法院をこの一年護れたことへの御礼の挨拶。続いて私が一年の感謝と講中の発展、檀信徒皆さんのご健勝を祈念して乾杯の発声。1時間半ほど皆んなで楽しい歓談の時を得て講中の今年のおさめとなりました。皆さん一年間ご苦労様でした。

相武山 山主

 

2015年12月29日

おさめ御講前のアクシデント

13日(日)今年最後の宗祖報恩講を執り行いました。12月の御講はその年の最後の報恩講ですから「おさめ御講」と呼ばれています。例年12月の第二日曜日に行うことが多いのですが、今年はご命日忌の13日でした。例月宗祖御講は13時からですがおさめ御講は11時からの奉修です。おさめ御講の後には引き続いて歳末懇親会を開きます。その用意は2~3日前から始まり、通常当日の朝は簡単な掃除も含めて私も興厳房も準備に追われています。今年も同様でしたが思わぬアクシデントで大わらわとなりました。

それは突然の「タロー」の逃走劇でした。私は(時には興厳房が)毎朝7時半頃から9時頃にかけて「リョーマ」と「タロー」の散歩を日課としています。この日は興厳房と二人で同時に散歩に出かけるつもりで、つないでいる紐からリードに代えるときの一舜、タローが逃げ出したのです。まだ預かって半月ほどでしたから、タローも飼い主のもとに行きたかったのかもしれません、大らかに育てられていたタローには環境が変わってストレスがたまり、思いっきり走りたかったのかも知れません。人間と同じように犬にも感情があるでしょうから聞いてみたいものです。
それはともかく、逃げ出したタローを二人が追いかけるのですが、私は走り出して間もなく、ハーハー、ゼイゼイで、からっきしダラシがありません。体力の衰えと日頃の運動不足を思い知らされました。興厳房が下川井インター方面まで追いかけて、行き止まりに追い込んでようやく捕まえました。タローもばつの悪い表情をしていました。リードを着けてお寺まで戻る途中、今度はタローが立ち止まって後ずさりすると首輪が突然はずれてしまいました。

また逃走です。「タロー」と大声で呼んでも知らん顔、境内の南西側に広がる田んぼに走り込んで森をめざしましたが、用水路に阻まれてやむなく南に向きを変えて走って行きます。清掃車両の駐車場に迷い込んだので、興厳房と二人で回り込んでつかまえようとしましたが、フットワークの良いタロー、きびすをかえし田んぼを西に向かって逃走。興厳房がギアを上げて全速力で追いかけますが、そう簡単には追いつけません。それでもようやく用水路の端に追い込むことができ、捕まえられるかと思ったところ、タローも最後のあがき、なんとか森へと思ったのでしょう、用水路に飛び込みました。しかし、向かい側に這い上がることができず、用水路の中で興厳房に逮捕されました。タローも興厳房もびっしょりになっていました。私は田んぼの中で見ているばかりです。

タローもつい昨日まで一緒に居た家族が恋しかったのでしょう。その家に帰りたかったのかもしれません。また、リードでつながれての散歩よりも思いっきり野原を走りたかったのかもしれません。捕まえてほっとしたものの複雑な思いがよぎりました。でも、森に入ってしまったらそう簡単には捕まえることはできませんから、信頼して預けて頂いた戸田にも申し訳ないことになります。御講前の時間のない時にと思うと、少しはいらっとしましたが本当にほっとしました。私も興厳房も走りっぱなしだったのですっかり足にきていましたが、気持ちを切り替えておさめ御講の準備となりました。

相武山 山主

2015年12月28日

深まる秋の鎌倉を散策

年間の行事予定でお知らせのとおり、12月5日(土)、古都鎌倉を訪ねてその歴史と風情を楽しみました。例年のように鎌倉の歴史や文化に造詣の深い酒井俊克さんのご案内です。12月ですから初冬というべき時季ですが今年は暖かさが続いています。この日は澄み渡る青空の下、暑くもなく寒くもない心地よい散策日和。庭先や里山の木々の紅葉を愛でながらの散策となりました。

今年のテーマは鎌倉時代から室町時代にかけての武家社会関連の歴史です。9時30分に鎌倉駅西口に集合。酒井さんから解説の文書を頂いて出発です。工事中の段葛を横切って鎌倉の旧跡に入りました。宇都宮辻子幕府跡(うつのみやずしばくふあと)~妙隆寺(鍋かむり日親ゆかりの寺)~大佛茶亭(おさらぎさてい)~若宮大路幕府跡(わかみやおおじばくふあと)~政所跡(まんどころあと、幕府の政務を司る機構)~三浦氏屋敷跡(みうらしやしきあと)~西御門(にしみかど、大蔵幕府の西門に面する地)~大蔵幕府旧跡(おおくらばくふきゅうせき、源頼朝の御所)~白旗神社(しらはたじんじゃ、頼朝の持仏堂・法華堂跡)~源頼朝墓(みなもとよりともはか)~北条義時・大江広元墓所~東御門(ひがしみかど、法華堂東の地域)~荏柄天神(えがらてんじん)~鎌倉宮(かまくらぐう、祭神は護良親王)約2時間ほど。見学地では酒井さん作成の参考文献を手がかりに、丁寧な解説で鎌倉の歴史を学びました。

鎌倉宮で少し休んでから再び散策を開始。鎌倉宮からは護良親王の墓所を通って永福寺跡(ようふくじあと)を訪ねました。この永福寺は源頼朝が奥州平定における戦没者の慰霊のために建立された寺院で、奥州平泉の中尊寺や毛越寺を模したといわれています。二階大堂を中心に伽藍が整備され頼朝の権勢を示すものでしたが、中世に消失してしまいました。現在は鎌倉市を中心に発掘作業を行い、復元整備が進められています。

永福寺跡から浄妙寺の裏手を回って足利公方邸旧跡(あしかがくぼうていきゅうせき)へ。鎌倉時代から室町時代にかけての足利一族の系譜と活躍、その盛衰について学びました。鎌足稲荷社(かまたりいなりしゃ)の説明を聞きながら鎌倉五山の一つ浄妙寺を見学。ここで歩き始めてから約4時間となったので散策を終了することにしました。

浄妙寺からは鎌倉方面と金沢方面に分かれて帰路につきました。金沢方面に帰られる方はバスに乗車。鎌倉方面の方は徒歩で鎌倉駅をめざします。鎌倉グループは浄妙寺から詫間谷(たくまがやつ)へ、ここで詫間上杉の話から関東管領であった上杉一門についての解説を受け、ゆったりと鎌倉駅へ。途中八幡宮を過ぎた辺りのそば屋で遅い昼食を頂き、散策経路をふり返り鎌倉の魅力について歓談の一時を持ちました。

今年も学びに満ちた古都の散策を楽しむことができました。ご案内頂いた酒井さんには厚く御礼を申し上げます。来年もまた初冬の鎌倉を楽しみたいと思っています。

相武山 山主

 

2015年12月17日

憎悪の連鎖を断つ

フランスのオランド大統領が「前例のない規模のテロ、フランスは戦争状態に入った」と声明を出し、フランス全土に非常事態を宣言した「フランス・パリの同時多発テロ」から1ヶ月が過ぎました。その後も欧米ではテロとされる事件が発生しテロリストへの捜索が間断なく続けられ、現代世相の混乱を浮き彫りにしています。

IS関連のテロについては各方面の識者をはじめ一市民に至るまで、さまざまな意見が表明されています。いずれもそれなりに意味のあるものですが、最愛の妻を失ったフランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリスさん(34歳)の言葉がフェイスブックに投稿され、インターネットを通じて全世界を駆け巡り感動をよんでいます。私も彼の発信した言葉にふれ、その見識に深い感動と共感を覚えた一人です。丁度「相武山だより」12月号の発送前でしたので、新聞で報道された全文をコピーして、たよりと一緒に檀信徒の皆さんにお届けしました。より多くの方に読んで頂き、彼の崇高な精神にふれてほしいと願ってのことです。彼の精神と言葉こそが憎悪の連鎖を断ち切るものと思えたからです。

仏教では「憎悪は憎悪によって消え去ることはなく、憎悪は慈悲によって解決される」と説かれています。原始仏典のダンマパタ(法句経)には、『「彼はわれを罵(ののし)った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨(うら)みはついに息(や)むことがない』と説き、『彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には、ついに怨(うら)みが息(や)む』と説かれています。さらには『実にこの世においては、怨みに報(むく)いるに怨みを以(も)てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。』と私たちを諭(さと)されています。

彼の述べた言葉はまさに仏教の精神そのものです。誰が語ろうが真理は真理であり、真理に目覚めることこそ幸いへの道となるのですから、彼の言葉を世界中の人々に共有してほしいと願わずにはいられません。彼の言葉と精神こそが「憎悪の連鎖を断つ」ものなのです。ここで今一度彼の言葉をご紹介します。

テロリストへ「憎しみという贈り物はあげない」

「君たちに私の憎しみはあげない」

『金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷になっているだろう。

だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレイヤーはまだここにいる。

今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。

私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。』

この精神はテロ事件ばかりでなく、私たちの人生すべてに通じており、真のやすらぎを得るキーワードのように思います。

相武山 山主

2015年12月15日