相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

うれしい電話

参道入り口の夏ツバキが咲き始めた先月末、練馬区の内堀さんから突然の電話を頂きました。『29日の午前中に主人とお参りしたいんですけど住職のご都合はいかがですか?』という問い合わせです。興厳房は勉強会で不在ですが私は居りますよとお答えすると、『実は安産のご祈念をしてほしい』ということでした。とてもうれしいお知らせでした。

お姉さんの重吉真美さんは二人のお子さんを授かって、現在お仕事をしながら子育ての真っ最中です。多忙の真美さんですから、お寺の行事などには参加できませんが、毎月一度自身の休日には子どもの手を引いて和光市からお参りになります。その信心には本当に感心します。ご主人と一緒に車で来られる時は心配しないのですが、幼子の手を引き、乳飲み子を抱えて汗を流しながら参詣されるときは、ハラハラ・ドキドキです。いつも尊敬とともに無事に帰られたかと案じています。

その真美さんの妹が内堀さん。信仰心の篤いご両親とのご縁から、私は幼い頃からの二人を知っていますが、高校生のころは二人ともサーフィンに夢中で真っ黒な顔をしていたのが印象的でした。その後、それぞれ人生の道を見定めてからはまさに一心不乱。意思の強さもあって、幸いなことに現在は二人とも目指した道の軌道に乗ることができました。さらに伴侶にも恵まれて現在は自分たちらしい家族作りをしているようです。真美さんに二人の子どもさんが授かったので、瑠美さんにもいつか・・・・・と思っていましたから、安産祈念の電話は私にとってもうれいしものでした。当日は交通事情が良かったようで、ご夫妻は約束の時間より早目にお出でになり、腹帯を御宝前にお供えしてご一緒に読経・唱題。子どもを授かったことに感謝を申し上げ、母子ともに健やかな生活であるように、安産であるようにと、ご加護を賜る祈念を申し上げました。

人生の節目にあたって、仏様に祈りを捧げるという神聖な儀式を行うことは、たいへんに意義深いことと思います。人生にはさまざまな儀式がありますが、ご承知のように儀式は思いや願いをかたちに顕し、認識と自覚をもたらせることに意味があります。華美に過ぎ虚飾に流れるような儀式では困りますが、仏道では己れの心の思いをかたちに明示する儀式を大切にしていますし、一つひとつの儀式や仏事を執り行うことは、信仰の功徳であり悦びであると教えています。

価値観の多様化がさけばれて久しい現代。人生観はもちろんのこと、一人で人生を楽しむのか、パートナーを求めて楽しむのか。夫婦だけの人生を望むのか、子どもとの生活を望むのか等々。家族観についても思いは多様です。もちろんほしいと願っても得られないこともあります。また、判断した結果がそのまま思い通りとならないのも人生。『禍福あざなえる縄の如し』ですから、与えられた人生の終焉に望まなければわからないことも多々あります。それでも立てた志や自らの真摯な思いに無駄などまったくありません。子どもを授かることにもきっと悦びと厳しさの両面があることでしょう。しかし、たった一度の人生ですから悔いの残らぬように前向きに歩んでほしいと願っています。

暑い夏をしのげばやがて涼しい秋がやって来ます。その頃にはご夫妻から悦びの声が届くのを楽しみにしています。

相武山 山主

 

2015年06月29日

法華講の総会

先月24日(日)福島県郡山市で開催された法華講全国大会には、講中の方々約20名が参加されました。その模様は緑区の秋山さんが相武山だよりに報告してくださったので割愛しますが、今月は14日に当山の法華講総会が開催されました。

信仰は極めて個人的な精神の営みですが、仏教では釈尊の昔からサンガ(僧団)が構成されてきました。仏さまの教えを信じ志を同じくする者が集い、互いに啓発し合って信行を深め、仏教を護り伝えてきたのです。今日、日本をはじめアジア全域に仏教教団が存在するゆえんです。

末法の衆生は南無妙法蓮華経によって救済されると説かれた日蓮大聖人も、弟子や檀信徒に異体同心(いたいどうしん)して信行に励むことを求められました。その組織は法華経を信仰する講中(グループ)であることから、「法華講(ほっけこう)」と称されるようになり今日に至っています。日蓮門下各寺院ではそれぞれ講中を結成し、手を携えて教えを学び信行に努め、菩提寺を護りながら寺院行事や法要を支えています。当山も開創から2年後の昭和58年に法華講を結成しましたから、14日の総会は32回目を迎えるものでした。
前日13日が宗祖の月例御講だったこともあり当日は約30名ほどの参集でした。日曜法話会に引き続いての総会では、開式にあたり皆んなでご本尊様に読経・唱題を申し上げ、仏祖三宝尊への御報恩と講員の信行増進を祈り、講中物故者諸霊の追善供養を申し上げました。

総会は熊木真治さんの司会で開式。はじめに講頭の新倉昇三さんが挨拶。『新寺院建設以来、住職の懸命な努力によって菩提寺は一年一年充実してきているが、私たち法華講も皆んなで声をかけあってしっかりと支えて行こう。また、法華講への意識があまり高くないためか総会への参加者も少ないので、開創35周年を迎える明年の総会にはより多くの講員に参加して頂けるようにしよう』と述べられました。

次に会計係の阿部純子さんが講費会計報告。平成26年度の講費収支について、納められた講費は「相武山だよりの制作費や妙風新聞・恵日の誌代。郵送費や事務費、お会式やお正月の供物、全国大会や東海連合会の分担金」などに支出されたことを説明、多くの方々の協力を得て単年度としての黒字を確保したと報告とされた。続いて会計監査係の老川文枝さんが会計監査報告。監査の結果会計が正当なものであったことを報告されました。

所感発表では、はじめに今年の春、お父様を霊山に送られた金沢区の新倉美津江さんが「父を霊山にお送りして」と題して発表。お父様の介護から葬儀に至るまでの経過について話をされ、お父様と家族とのきずな、事前準備の大切さ、わからないことが多くて度々住職に指導をうけたこと等々。葬儀を通していろいろなことを学ばせて頂いたとのべられました。「日蓮大聖人の教えに則り、心を込めて葬儀を執り行うことができたので、父も必ず霊山に居られることと信じている」と所感を発表されました。続いて緑区の秋山宣彦さんが「道を求めて」と題して所感発表。幼少の頃からの人生をざっくばらんにふり返り、「厳しい家庭環境に負けることなく、一所懸命に人生を歩んできたこと。日蓮大聖人の信仰に巡り会ったことが人生の宝であり、正しい信仰を求めて現在は妙法院で信行に励んでいること。これからも真っ直ぐに大聖人様の教えを求めて行きたい」との心境をのべました。

次に執事の興厳房が開創35周年を記念して発刊予定の記念文集について説明。すでに相武山だよりで案内している記念文集ですが、「妙法院に集い合った方々の言葉をその足跡として次の時代に伝えたい」という趣旨と要項について解説し、できるだけ多くの方々にご寄稿頂きたいと案内しました。

最後は私が「信心を深めよう」と題しての挨拶。はじめに行学二道の御聖訓を皆んなで拝読しました。その後、開創已来35年におよぶ妙法院の歩みにふれ、妙法院の存在意義は法華経と日蓮大聖人の教えを護り伝えることにあり、ご縁を結んで頂いた方々の依怙依託(えこえたく)としての役目を果たすことにあることを伝えました。また、その意義は尊いものですが、持続して行くことは容易いものではないことと、持続を可能にするためには法華講の充実をはかる必要性をのべました。一人でも多くの方が信仰者としての自覚、仏弟子の自覚に立たれ、日々仏道の功徳を積むことを願って挨拶としました。

一人ひとりの力は小さくても合力すれば大きな力となります。この理りは仏道においても変わりません。仏法を護持伝承するためには講中のはたらきが重要ですので、明年の総会までに少しでも充実をはかって行きたいと願っています。

相武山 山主

2015年06月27日

久遠の釈尊について

このところ何かと追われてブログをアップすることができませんでした。この間、谷戸の田んぼでは田植えが行われ、市民の森ではホタルが舞い、梅雨に入ってアジサイがその彩りを深めています。

そんな折りに日曜法話会に参加されている方から電話を頂き、「5月の日曜法話会には参加できなかったんですがどんな内容でしたか」というお尋ねがありました。仏教や信仰に関心をもって頂けるだけでも有り難いことですが、少しでも学ぼうという気持ちはさらにうれしいことです。
先月の法話会のテーマは「久遠の釈尊」でした。4月に「釈尊の道」と題して釈尊についてのお話をしましたが、その時には人間釈尊の一生を中心にした解説でした。インドで覚者となった釈尊から永遠の仏としての「久遠の釈尊」についてもお話をしたかったのですがタイムオーバーとなってしまいました。5月はその続きで「永遠の存在としての釈尊」についてのお話です。

テーマに入る前の「世相」では、作家の下重暁子さんのベストセラー「家族という病」について。新聞などでの見出しには「家族ほどしんどいものはない」「殺人事件で最も多いのは”家族間”である」「最後は一人」等々、そこには家族という一般的には肯定的なイメージに対して、批判的、懐疑的な言葉が並んでいます。すでにインターネット上ではさまざまな書評がアップされていましたが、私自身がまだ読んでいなかったこともあり、内容にふれることはなく、見出しや評論を紹介しながら次のような意見をのべました。筆者は「既成の価値観と向き合う姿勢をもって疑問を呈し、所感を述べているが極論を押しつけているわけではない」こと、「個々を尊重する姿勢と家族の在り方の問題をテーマとしている」ようであり、私たちは刺激的な言葉に振り回されることなく、「家族もふくめて何ごとにもプラスとマイナスがあることを理解し、さまざまな意見を参考に自らの見識を養う」ことが大切であるという所見を述べました。

テーマの「久遠の釈尊」について。
前回は人間釈尊の存在について、釈尊を知ることが仏教を知ることであり、その生涯を学ぶことは仏教徒として当然のこととお話しました。人間釈尊から覚りを得てブッダと成った釈尊は、やがて法華経などによって「釈尊は永遠(久遠)の命を持ち人々を救済する存在」であることが明かされます。「永遠のほとけ」ということになります。それは釈尊は法(真理)を体得したのであり、法こそが釈尊の実体であるということを示しています。しかし、愚かな凡夫には、永遠の救済者の存在とその法は、信じがたく理解しがたいものです。法華経の方便品にはそのことを「難信難解(なんしんなんげ)」と説かれていますので、訓読して難信難解についての説明をいたしました。続いて「生身の仏陀と法身の仏陀」「大乗仏教と仏身論」「法・報・応の三身(真理と智慧と慈悲のほとけ)」などについての解説。少し専門的な領域に入りましたが、ある程度のご理解は頂けたのではないでしょうか。

続いて釈尊の久遠を説く法華経如来寿量品。『我成仏してより已来(このかた)、甚(はなは)だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず。諸の善男子、我れ本(もと)、菩薩(ぼさつ)の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶(なお)未(いま)だ尽きず。復(また)上の数に倍せり。・・・・・』について説明。

さらに、この寿量品の自我偈『我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり  常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり  衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く  我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ』を訓読。 「はるか久遠の昔に真のさとりをえられた仏は、数え切れない永い間多くの衆生を導いてきた。時に涅槃のすがたを示すがそれは方便であり、真実には滅度することなく、常に妙法を説いて人々を救済している。しかし、仏はいつもこの世界におられるけれども、顛倒の衆生には見ることができない」という経意を解説。
永遠のほとけである「久遠の釈尊」存在について説明し、本仏の永遠性を信じ、その時空を超越した救済を尊ぶところに法華経の信仰があることをのべ法話としました。

相武山 山主

2015年06月16日