相武山 妙法院のブログ

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相武山 妙法寺 ブログ

瑞々しいそら豆

宗祖御講の前々日に讃岐の大西さんからたくさんのそら豆をお届け頂きました。早速ご本尊様にお供えしてご供養の志をご奉告を申し上げ、湯がいて頂きましたら、新鮮そのものでとても味の良いそら豆でした。大西さんのお心遣いに感謝した次第です。

大西さんは私が讃岐の本山本門寺大坊に執事として在勤していた時にご縁を頂きました。もう37年前になる昭和53年のことです。日蓮大聖人の教えを真摯に求めようという正信覚醒運動がその機縁でした。讃岐では大野原町での宅御講などでご一緒に宗祖の教えを学び合ったことを昨日のことのように思い起こします。その後、昭和56年2月に私が横浜に妙法院の前身である布教所正信寮を開くことになり、讃岐の地を離れることになりました。所属寺院は異なることになりましたが時折連絡は頂いておりました。しかし約十年ほど前、信仰上の関係からお尋ねを頂くようになり、ご本人の希望によって再び当山の檀徒として所属されることになり現在に至っています。

そのむかし、機関誌としていた「不染」で大西さんをご紹介したことがありますから、古くからのご信徒にはご記憶のある方も居られることでしょう。もう33年ほど前のことになります。その時も「そら豆」と題してのもので、今回のブログの題名に通じるものでした。大西さんはお会いした当時から、法華経と宗祖への信仰が微動だにされない方で、その一途さには驚くばかりです。誰もが「信仰は大切」といいますが、宗祖の御在世でも信仰を持続して貫くことの難しさが語られるように、この現代に仏法信仰への情熱と真剣さを不断に継続できる方は稀有な存在といっても過言ではないと思います。

当山にはそのような貴重な方々が多数集われています。毎月の月例法会に参詣される方々、寺院外護のご供養や護持会費、建設ご供養等に志を寄せられる方々、春秋の彼岸やお盆、お会式や年中行事に参詣される方々、草取りや境内整備に協力される方々、遠方からお手紙で激励されるかたがた、思いやかたちには違いがあるかもしれませんが、宗祖が仰せの「爪の上の土」でありたいと願う人々が集う相武山妙法院。

大西さんもまさに同志のお一人です。ご縁を結び直してから今日まで、仏法を護るためのご供養を讃岐からお届けになり、ご両親の命日忌には塔婆供養を願われ欠かすことがありません。農家をしておられることから、四季折々の新鮮な野菜も御本尊様にお供えになります。また、頂く手紙はチラシなどの白紙などを利用され、飾らない言葉と御供養への気負いのなさが伝わってきます。そこにはさっぱりとした性格とまっすぐにご本尊を見据えておられる信心がうかがえ、その信仰心に敬意を表するばかりです。二人のご子息も関東にお住まいで大西さんの導きで当山にご縁を結ばれています。丁度人生の一番忙しい年代にかかっていますから、参詣も思うようにならないようですが、いつの日かお母様の信仰を承け継ぎ、人生をより豊かなものにしてほしいと願っています。

相武山 山主

2015年05月22日

名越(なごえ)の切通し

当山から宗祖ゆかりの古都鎌倉までは車で約40分ほどの距離です。いつでも気軽に訪ねることができ、信仰的にはとても恵まれた環境といえます。そこで当山では春秋二回、鎌倉を歩く散策会を開いています。5月連休明けの頃、初心者向けに日蓮大聖人縁の地をゆったりと歩く「宗祖ゆかりの地を訪ねて」。11月下旬には鎌倉の歴史と文化に造詣深い酒井さんの案内で訪ねる「鎌倉歴史散策の会」です。

今年の宗祖ゆかりの地を訪ねる企画は、久しぶりに「名越(なごえ)の切通し」を歩くことにしました。鎌倉には古来から切通し(きりどおし)とよばれる道があります。鎌倉は眼前に相模湾を臨み三方を山に囲まれた地勢です。軍事的要素を損なうことなく、人々の往来や物資の運搬のために切り拓かれた道が切通しです。その主要な七つの道を「七口(ななくち)」とか「七切通し(ななきりどおし)」といいます。鎌倉時代の史書や江戸時代の史書などにその名称が出てきますが、一般的には「名越(なごえ)切通、朝比奈(あさひな)切通、巨福呂坂(こぶくろざか)切通、亀ヶ谷坂(かめがやつざか)切通、化粧坂(けわいざか)切通、大仏坂(だいぶつざか)切通、極楽寺坂(ごくらくじざか)切通」の七つといわれています。
鎌倉時代の公文書といわれる『吾妻鏡』には、「ケワイ坂(気和飛坂)」「六浦道」「名越坂」、そして「山内道路」の名称が出てきますが、そのうちの一つに、宗祖の松葉ケ谷法難伝説にかかわる「名越切通」があります。

 

鎌倉から三浦半島への道となるこの切通しは、古の風情を伝える趣きある道で、以前にも何度かご信徒の皆さんと散策しましたが、もう十年以上もご無沙汰でした。興厳房に伝える意味もあって訪ねることにしたのですが、1週間前に下見に行きましたら、非常に良い天気で軽快に気持ちよく散策ができ、良い写真もたくさん撮ることができました。(このブログで紹介する画像は5/2の撮影分も含まれています)
行事予定で案内していた5月9日(土)には、久保さんと芦川さん、卓才くんが参加してくれました。鎌倉散策はいつも10名~20名ほどの参加者で楽しんでいますが、今回は寺院での行事が続いていたり、ゴールデンウイーク明けであったため、私と興厳房を入れて5名での散策となりました。

JR逗子駅の西口に集合し、駅から久木の法性寺に向かいます。約20分ほど歩くと猿畠山法性寺の山門に至ります。ここは宗祖が松葉ケ谷の法難のおりに、白猿に導かれて難を逃れたという伝説をつたえる日朗門流のお寺です。山門から少し坂を上ると奥の院と日朗師の廟所、そして宗祖が法難を逃れたといわれる岩窟があります。あまり広くない空間ですが、宗祖が法難を逃れて隠れた縁有る処といわれると、なにかしら心に響くものがあります。その上には山王権現が祀られる高台が有り、逗子の町並みと相模湾が一望できます。高台からは名越え切通しの一つの名所である「大切り岸」も見ることができました。高台を下りて切通しに向かいますが、道は狭くあまり歩きやすいものではありません。立派な洋館の裏を進めば間もなく切通しに出ます。緑におおわれた切通しは古への風情が漂い、「国指定史跡名越切通」の標柱を見ると、ここが宗祖も通られた切通しだという感慨におそわれます。

そこから逗子方面に向かうと「まんだら堂やぐら群」があります。かなり前から発掘調査されていることは知っていましたが、通常は入場禁止区域となっています。調査が一段落したのでしょうか、期間限定でこの時期だけ公開されているということでした。平場には中世の火葬場跡があり、鎌倉特有のやぐら(鎌倉とその周辺部に見られる中世の墳墓。柔らかい岩盤を横穴で内部を切り抜き、その中に納骨施設や供養塔・石仏などを安置したもの)が整然と広がっていました。
まんだら堂を逗子方面に進むと、やがて馬が一頭しか通れないという名越切通しの特徴的な風景と出会います。事実はもう少し広い道であったようですが、「両岸が迫った狭い道」に出ます。その道を下れば切通しの終点です。この時季は新緑に薫風がわたり、とてもさわやかな風情で、多くの方々が歴史ハイキングを愉しんでいました。

私たちは来た道をもどって鎌倉の大町方面(松葉ケ谷旧跡伝説)に向かいました。今回は宗祖も歩まれたであろう「名越の切通し」をゆっくり歩くことが目的でしたから、ゆたかな自然と歴史の息遣いにふれることができ、十数年ぶりの探訪に感動を頂きました。帰路は旧東海道と伝える小径にある「日蓮乞水(井戸の伝説)」を見学し、大町の安国論寺から「ぼたもち寺妙栄寺」、「比企ケ谷妙本寺」、「東身延本覚寺」の門前を通って鎌倉駅へと向かいました。所要時間は約2時間半ほどでした。時間がお昼過ぎとなっていましたので、小町通りのお蕎麦屋さんで昼食を頂き満足のうちに散会しました。とても良い散策でしたので、明年のゴールデンウイーク明けにも同じコースを散策したいと思っています。関心のある方は今からご準備ください。

相武山 山主

2015年05月15日

田起こしとカエル

当山周辺のゴールデンウイークは今年も予想通りの「ズーラシア」渋滞でした。当山から東北に約3㎞にはよこはま動物園「ズーラシア」があります。ズーラシアは首都圏にある日本最大級の都市型動物園(53.3㏊)として有名で、関東一円から観客(年間約90万人ほど)が集まります。当山の近くには保土ヶ谷バイパスと中原街道が交差する下川井インターがあり、保土ヶ谷バイパスは東名横浜町田インターからの渋滞、反対側はズーラシアから下川井インター下り線につながっての渋滞となります。また、中原街道の上下線ともズーラシアを起点に渋滞しますから、身動きがとれない状況が朝から夕方3時頃まで続きます。
車のナンバープレートも広範囲で、地元になる横浜や川崎ナンバーはもちろん、品川・足立・練馬・多摩という東京ナンバー。千葉・袖ケ浦・柏、大宮・熊谷・所沢、そして高崎・前橋・宇都宮まで。静岡や関西ナンバーまで並んでいます。これでは渋滞するのも当然ということです。ズーラシアは子ども連れにとっては、とても良い学びと遊びの世界ですから、混雑するのはやむを得ないと思いますが、もう少し上手に渋滞が解消されないものかと工夫を望むばかりです。
そんなゴールデンウイークでしたが、当山南東側の櫻井さんの田んぼでは「田起こし」が行われていました。田起こしは、稲を植える前の乾いた田の土を掘り起こし、細かく砕く作業のことです。この作業によって土地の滋養が増し稲の収穫が豊かになります。田起こしが始まると、いつの間にかカエルが鳴き始めます。カエルは境内や墓苑で見かけることが多くなってきていますが、これからは秋までその姿を見ることになるでしょう。その鳴き声は里山の風情をいっそう深めてくれるもので、自然の側で暮らすことのできる果報かと思います。

私たち人間も自然の一部なのですが、近代化と都市化の波に洗われ、いつの間にかその在り方さえ見失いがちになります。さらに残念なことは見失いがちになっていることにさえ気がつかないことです。自然にふれることができれば、本能が呼び覚まされることもあるでしょうが、無機質な世界での生活が当たり前となっては、本能の覚醒も危うくなってしまいます。自然にふれることが大切だと叫ばれるゆえんでしょう。子どもたちにはお泊まり会などをして、是非自然のおもしろさと楽しさを知ってほしいと思います。

相武山 山主

2015年05月13日

風薫る好季に

風薫る好季を迎えた4月29日(水)午前11時から立宗会並びに御虫払会を執り行いました。法要に先立ち、はじめに「立宗会」の意義と御虫払会の次第について私より説明。日蓮大聖人は建長5年(1253)4月28日、得度の霊地房州清澄寺において立教開宗を宣言されました。その後は末法における法華経の行者としての生涯を歩まれ、衆生成仏の道をお示しになられました。弘通の一歩はこの日から踏み出されたのです。次に「御虫払会」は当山に護持する曼荼羅本尊10幅と宗開両祖の御影画を御宝前にご奉掲し、お風入れと虫払を申し上げる法会であることをあらかじめ説明しました。

法要は献膳・読経・焼香・唱題と執り行われ、唱題の裡(うち)に参詣者は一人ひとり内陣(ないじん)に進んでご本尊様を内拝しました。200年前から100年ほど前のご本尊様が多く、約35年ほど前に丁寧に再表具しましたが、すべての傷みを修復することはできませんでした。諸行は無常ですから傷みや劣化はやむを得ませんが、できるだけ心を込めてお護り申し上げることを念じた次第です。

法要後には重ねて立宗会についてその意義を解説。「清澄寺大衆中」には『此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房の持仏堂の南面にして、浄円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、其の後二十余年が間退転なく申す。或は所を追ひ出だされ、或は流罪等、昔は聞く不軽菩薩の杖木等を、今は見る日蓮が刀剣に当たる事を』と述べられていることを紹介。「末法の衆生は南無妙法蓮華経の教えによって救われると宣言すれば、法難が重なり日蓮の命にも及ぶであろうが、虚空蔵菩薩の御恩を報ずるために立教を宣言した。その後一度も退転することなく、南無妙法蓮華経の教えを弘通してきたのである。法華経には法華弘通に励むと住居を追われたり、流罪になると説かれている。不軽品には不軽菩薩が杖木の難を蒙ったと説かれているが、末法では日蓮が刀剣の難を蒙った」との意義について述べました。
さらに当山に護持申し上げているご本尊様については、「現代とはさまざまに異なる社会環境のなか、信ずる仏道を護り求めることさえ難儀であった時代に、日蓮大聖人の教えを真摯に求められた先師先達のご信心の賜である」ことをお伝えしました。この時代に仏縁を頂戴した私たちも、人生には限りがあることを理解し、悔いのないように信行に励んで行きたいものです。

私のあいさつで法要は小憩となり、午後の部に参加される方々は客殿やロビー、寂静庵などで自由に昼食を摂りました。午後0時45分、法要に供える意味もこめてチターの演奏会が開かれました。演奏は日本チター協会会長である内藤敏子先生です。新寺院落成の翌年に芦川さんのご紹介で内藤先生に演奏会を開いて頂き、昨年もお出で頂き、先生の演奏会は今年で3回目となります。
演奏会は芦川さんの開会の言葉に引き続いて、内藤先生が妙法院での演奏会は「新緑の瑞々しい好季に、清らかな相武山妙法院の法要にお参りでき、チターの演奏を皆さんとともに楽しむことができるのはとてもうれしい」と感慨をのべられました。先生ははじめにオリジナル曲の「しだれ桜」を弾かれ、「美しき青きドナウ」は芦川さんと連弾。エンガディーン古謡からは「心のよろこび」を演奏され、続いて団塊の世代には懐かしい映画音楽から「ひまわり・シェルブールの雨傘・第三の男」を演奏されました。映画音楽の3曲はそれぞれ戦争が背景となっていることも説明いただきました。

その後、スイス留学当時の愉しいお話を交えながら、乙女の祈り、川ベブの想いで、雪山のレントラーを演奏頂きました。皆んながよく知っている曲も弾いてみましょうと仰って、「津軽のふるさと」と「北の国から」も弾いて頂きました。結びは先生のチター演奏にあわせて皆んなで「富士の山」と「ふるさと」の合掌。子どもの頃から耳になじんでいる曲と、それぞれが故郷を思い、幼い頃を回想できる曲を口ずさみながら、演奏を聴くだけでなく自分も参加したという悦びを味わいながら演奏会は閉幕。閉会にあたっては私から、お忙しい中、遠路にもかかわらず、法要に花を添えて頂く演奏会を今年も開催して頂いた先生に厚く御礼を申し上げました。法要に引き続いて演奏会に参加された檀信徒の皆さんも愉しまれたのではないでしょうか。

その後、檀信徒の皆さんと法華経寿量品自我偈を読経、唱題のうちに御奉掲の曼荼羅ご本尊様を奉納申し上げました。初夏の風が新緑の境内をわたる好季に、大切な法要を無事厳かに執り行うことができ皆さんに感謝しています。

相武山 山主

2015年05月10日

磯崎師を偲んで

新緑に初夏の風がわたる4月26日、徳島県吉野川市の仙流院において、開山・初代住職磯崎文城師の一周忌法要が執り行われました。磯崎師より後事を託され、仙流院の住職に就任された神屋正明師(西宮市正蓮院住職)を導師として営まれた法要には、教区より川井泰円師をはじめ有縁の諸大徳が参列。私も遠路ではありましたがお参りをさせて頂きました。

仙流院は日蓮大聖人の教えを正しく信仰することを目的とした正信覚醒運動の永続性と隆昌を願い、磯崎師と仙流院講中が懸命な努力を重ねて平成16年10月に落成をみた法華の道場です。四国三郎として名高い吉野川を眼下に望み、四国の山並みが眺望できる風光明媚な勝地にあります。

磯崎師は香川県の本山本門寺、通称高瀬大坊の出身で、幼くして貞広日文上人を師範と仰ぎ出家得度。昭和45年10月、若くして徳島県脇町の広徳寺に初代住職として赴任。昨年5月1日に逝去されるまで約44年間ご奉公のまことを尽くされました。師はこの間の大半を正信覚醒運動の推進にささげられ、富士日興門流の法義と信仰を護り伝えるために四国の山野を縦横無尽に走られました。追憶談でもお話ししましたが、師はたった一人でも教えを求める人がいるならば、躊躇なく駆けつけて正信をうったえ、宗開三祖の教えに導かれていました。険しい山道も暗い夜道も師の志を妨げることはできず、温厚篤実なご性格ながら信仰には情熱的な方であった人柄が偲ばれます。

師は平成24年頃「間質性肺炎」と診断され、その後、治療に専念していました。翌年寿命を覚悟された師は、子息で弟子の一城君を身近かによび、意思を継いで僧道を歩むように指導され、さらに昨年春には教区内諸師を招いて、後事を西宮市正蓮院住職の神屋正明師に託されました。師は自身に与えられた一切の法務をみごとに差配し、その人生を締めくくられ霊山に旅立たれたのです。

私が師に交誼を頂くようになったのは、昭和53年春、私が本山本門寺大坊に執事として在勤したことによります。磯崎師のご実家は本門寺の檀徒であり、本門寺をふるさととする磯崎師はよく高瀬にお見えになりました。また、折しも正信覚醒運動のうねりが全国に広がる時でもあり、倶に運動に参画していた磯崎師と私は他の同志と一緒に四国を舞台に走り回ることになりました。

そんな中、昭和54年7月、日達上人が御遷化、阿部日顕師が法主を詐称してその地位を簒奪するにおよび、私たち正信会は阿部師を裁判にうったえることになりました。しかし阿部師は本門寺の住職を兼務していましたから、私はそこにいる術もなく、時局の趣くままに「布教所」の開設を決意しました。ときに昭和55年11月のことでした。

布教所というのはまさに布教のための道場という意味で、各宗派によって設置されることがありますが、近代富士日興門流(日蓮正宗)では馴染みのない存在でした。近代宗門では創価学会や法華講に依存しきっており、僧侶主導で布教所を開設するなど夢想だにできないことだったのです。当然手探りでの準備となりましたが、そのようなときに磯崎師には相談に乗って頂き、物心両面にわたってご支援を頂きました。35年前のことですが昨日のことのように思い起こされ、本当に有り難く今に感謝を忘れることはありません。
初めてのことや、未知の世界については多くの人が尻込みし、否定的な感情に流れがちなのが、我が国の風土であり国民性です。それは慎重さという良い面でもありますから、一概に否定できませんが、チャレンジする人間の志を信じて支援してくださった磯崎師の心意気には感謝の言葉もありません。師のような方々のお陰様で現在の相武山妙法院は存在しているのです。

一周忌では私が本門寺大坊に在勤していた当時からの友人である貞広さんにお会いすることができました。当時の貞広さんご夫妻は40歳前後でしたでしょうか。信仰にまじめなご夫妻とはよく語り合いました。懐かしいかぎりです。また、3年前まで当山で一緒に信行に励んでいた福井さんご夫妻ともお会いすることができ、親しくお話が出来た事は望外の悦びでした。ちなみに仙流院というのは磯崎師の御師範が仙流院と号して居られたことによります。また、仙流とは讃岐本山本門寺を開いた日仙上人の門流ということです。 ここに磯崎師のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

相武山 山主

2015年05月03日